古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

経済学者 宇沢弘文さん

2014-10-29 | 読書
 9月18日世を去った。改めてどんな主張をされた方か、著書を読んでみたいと、図書館から、岩波新書『日本の教育を考える』(1998年刊)を借りて読みました。
 宇沢さんは、東大理学部数学科を1951年卒業されました。数学者を志しながら、途中で経済学に転向されたのです。
 第1部で数学を通じ、教育を語ります。
「教育の出発点は、言語の習得と数学の学習にある」と述べています。数学というのは、簡単に言ってしまうと、数、空間、時間について、その性質を論理的、数学的に考察するものです。
 数学を学ぶプロセスは、言葉を身に着けるのと同じです。母親は幼児に対して絶えず話かけます。幼児が言葉を理解できないのはもちろんわかっています。母親はそれでも、幼児が面白いと思い、興味をもてそうなテーマを選んで愛情をもって絶えず話しかけます。・・・数学を学ぶプロセスもまったく同じです。
 また山登りに例えます。子供たちのもっている先天的、後天的資質、能力は極めて多様であり、またその身体的、知的、感性的発展の形態、ペースも一人ひとりの子供について、特有で個性的です。とくに、数学を学ぶというのは、山登りと同じ性格をもっています。山登りに際して大事なことは、決して焦らず、ゆっくり自分のペースに合わせながら、一歩一歩確実に歩み続けることです。数学を学ぶプロセスも山登りと同じように、自分のペースをしっかり守って、一歩一歩確実に学び続けることが大事です。決して他の人と競争したり、記録を作るようなことを考えてはならないのです。
 こうした考え方で、宇沢さんは子供が数学を好きになる入門書『算数から数学へ』(岩波書店)を上梓(早速、北区図書館で借りて読みました)し、さらに『好きになる数学入門』全6巻(岩波)を著しました。同署は、
Ⅰ方程式を解く   第数
Ⅱ図形を考える   幾何
Ⅲ代数で幾何を解く 解析幾何
Ⅳ図形を変換する  線形代数
Ⅴ 関数を調べる  微分法
Ⅵ微分法を応用する 解析
からなっています。入門書とはいえかなり高度な内容までカバーしているようです。ダランベールの定理(複素数を使うと、どんな代数方程式も根を持つ)、ニュートンの定理(ケプラーの法則から万有引力の法則を導く)まで扱っています。
第Ⅲ部「大学生活50年を振り返って」は、宇沢さんの自伝。自らが受けてきた教育を材料にあるべき教育の姿を論じています。これが面白い!戦後の混乱の中で、数学から経済学への転向の経緯が述べられています。
 弥永先生の下で代数的整数論を学ぶ傍ら末綱恕一先生のところで数学基礎論を勉強していました。どちらの先生も、お前は自分の一番得意なことを止めて一番不得意なことに手を出そうとしていると言われて、なかなか許していただけませんでした。私はとうとう日本の社会がこれだけ経済的に混乱し、疲弊していて。国民の大部分が飢えと貧困に悩んでいるときに、数学と言うアリストクラテイックなことをこのままやりつづけるのは、人間として苦痛だだとまで言ってしまったのです。
1956年8月、ケネス・アロー教授に招かれスタンフォード大学に。当初1年の予定が、14年間を外国の大学で過ごすことになった。日本に帰るのはヴェトナム戦争が契機だった。1968年4月日本に帰ってきたが東大紛争が始まる。
 日本に帰り、経済統計から見た日本と現実の日本のあまりにも大きなかい離に大きな衝撃を受ける。はなやかな高度成長と裏腹に、日本社会の実態は混乱を極め、自然と人間の破壊がいたりところで行われていた。宇沢さんは、水俣問題に関わるようになり、「社会的共通資本」という概念を経済学に導入します。
 第Ⅳ部は「日本の学校教育制度を考える」です。
ここで、明治以来の日本の教育制度を振り返りながら、日本のあるべき教育制度を論じています。
「日本の教育を考える」本ですが、「宇沢弘文を考える」好著でした。

 

大織部展

2014-10-28 | 美術館と美術展


 26日は午後、岐阜県陶磁美術館に出掛けました。
http://www.cpm-gifu.jp/museum/01.top/index1.html
大織部展がこの日までやっていたが、見に行こうと思いつつ行けなくて最終日になりました。12時家を出て、地下鉄で大曾根駅、JR中央線の中津川行に乗り換え1時に多治見駅に着きました。南口のバス停に行くと、13時10分発のコミュニテイ・バス桔梗号に乗りました。美術館迄片道200円ですが、一日乗車券300円を買えば、帰りも使えるとのことで、300円券を買いました。「何故桔梗号かな?」と思っているうちにバスは、土岐川の川岸に出ました。「そうか、土岐は戦国武将の明智光秀の出身地、光秀の家紋は確か桔梗だった」。市街にでると、修道院というバス停がある。こんなところに修道院があるの?

25分で、「セラミックパークMINO」に着く。
「大織部展」のポスターが大きく掲示されている。

「セラミックパークMINO」は、随分立派な建物だ。

入り口から展示室まで豪奢なアプローチがある。

展示室の前に梶原前岐阜県知事の筆に成る定礎がある。


梶原さんは知事会の会長もやったから、政治力があり、国から補助金をたくさん獲得してこの美術館を作ったのだろう。
 800円のチケットを買い、中に入ると、学芸員の解説がはじまったところだったので、グループの後について、説明を聞きながら回った。
 古田織部は没後400年っという。大阪陣後、家康に謀反の疑いをかけられ切腹を命じられたという。
信長、秀吉、家康という一癖も二癖もある人物に仕えたのだから、人扱いはうまかったはずだが、どうして謀反の疑いをかけられるようなことをしたのだろう。この辺りは歴史小説家の題材で、小生などには思い及ばない事情だろう。
利休作の竹の花さしがあった。先日の太河ドラマ、官兵衛に出てきたものかな。利休の織部宛ての書状も展示されていた。もちろん展示の中心は、焼き物だが、形がすべて歪んでいて、円や直線を組み合わせた西洋の美術品には全く見られない美である。この、いわば、ゆがみの美を見出したのが織部だったのかもしれない。「ひょうげもの」と称された所以であろうと思った。1時間ぐらい駆け足で展示を見て2;35のバスに乗り、3:37大曾根駅に着く。プールにより夕方帰宅しました。












西浦温泉と豊橋

2014-10-27 | 旅行
「恒例の懇親会をやりましょう」。Oさんから手紙が届いたのは二月穂ど前だった。D社労働組合の執行委員OBの毎年一度の懇親会である。労組を離れてもう40年以上経ったのに、今でも声がかかるのはうれしい。
 10月24日、名鉄で西浦温泉に出掛けました。今年は人数が少なく、総勢8人でした。みな、年をとるから、年々少なくなるのはやむを得ない。
「Yさんはどうしたの?」と聞くと「脳梗塞をやったらしくて、医者の許可が得られなくて、今回は欠席です」と言う。
「Y・Aさんは?」。「転倒して、8針縫うという大怪我をして今日はこれない」と言う。
自分も2月に13針縫うという大怪我をしたから、年をとると、転倒にはご用心ということだ。
オフシーズンらしく、旅館は閑散としている。我々と同じようなグループ旅行が2~3組、後は4~5人の客だけだ。「宿泊料はバーゲンですよ」と、幹事のOさん。一泊2食で、1万2千円だという。旅館が大きいだけに、客が集まらないと経営は苦しいだろう。熱海と同じだ。西浦温泉は三河人にとっては、東京人の熱海温泉といったところだ。
安倍首相は、輸出企業が利益を上げると、従業員の賃金が上がり、従業員がお金を使うから、景気は良くなるというトリクルダウン説を唱えるが、こうした旅館には、まだトリクルダウンは来ていないだろう。
 3時過ぎ、旅館について、早速部屋に集まり、持ち込みのアルコールで、酒盛りを始めた。夕食は6時から。しかし、みな高齢化で飲む量はおとなしい。小生など8時前に夕食がお開きになったので、部屋に戻ると、すぐ横になって朝までぐっすりだった。
 実は、昨日からかぜぎみだったので、来る前、若先生の病院により、風邪薬を貰ってきた。「睡眠薬が入っていますから、運転などは気をつけてください」と薬剤師が言った。運転はしないから大丈夫だが、出発前に一服服用したら、もうれつに眠くなり、電車に乗ったらうとうとしていた。
 薬が効いたのか、朝になったら、風邪の症状は完全に消えていた。大浴場に行く。三河湾の景色は圧巻である。

 2日目は10時に西浦駅まで送ってもらい、電車で帰るが、小生は名古屋へ帰る皆と別れ、蒲郡経由豊橋に向かいました。折角ここまで来たから帰途、豊橋美術館に寄ろうと考えたのです。11時ごろ豊橋に着きました。美術館には何回か来ていますが、駅から歩いて20~30分ですからいつも歩いていましたが、今日は、市内電車に乗りました。やはり年ですね。市役所前で下車。美術館は市役所裏の公園内にあります。
 http://www.toyohashi-bihaku.jp/
開館35周年記念 ウッドワン美術館所蔵「近代日本の絵画名品展」という企画展をやっていました。
ウッドワンというのは、広島県廿日市市の美術館。何故豊橋まで出張してきたのかしりませんが、結構、有名な作品を展示していました。
 公園の北西に吉田城址があります。立ち寄ってみました。

https://www.google.co.jp/webhp?sourceid=chrome-instant&rlz=1C1EODB_enJP532JP542&ion=1&espv=2&ie=UTF-8#q=%E5%90%89%E7%94%B0%E5%9F%8E%E5%9D%80%20%E5%86%99%E7%9C%9F
隅櫓は近年作られたもののようですが、石垣は雅趣があります。

本丸内から豊川(とよがわ)を見下ろし写真を1枚。
帰りは駅まで歩き、途中ヤマサの本店で土産のちくわを買い求めました。駅前で「菜飯田楽」の昼食を取り名鉄で帰宅しました。」


GPIF

2014-10-15 | 経済と世相

丸八証券から「創立70周年の記念講演会を行います」と案内状が来たので、
14日午後、名古屋栄ビルの12F大会議室に行った。
講師は、フィナンシャルバンク.インスチチュート(株)CEOの山田明氏。
講演の主旨は、GPIFが株式の組み入れ比率を上げるから「株は買い」と言う話でした。
CPIFとは、年金積立金管理運用独立行政法人のこととか。
年金積立金は2001年から自主運用を始めたが、2012年まで平均利回りは2.2%。
GPIF設立後(206~2012)で1.5%である。利回りを改善しないと、2038~2040年に積立金は枯渇する。
そこで、株式での運用比率を増して利回りを上げようと、ポートフォリオの比率を変更する。
現在国内株の運用比率は12プラマイ6%、どこまで増やすか決まっていないが、
海外の年金ファンドの場合。国内株25%だから、かなり増やすだろう。
 更に、GPIFは、厚生年金と国民年金の積立金だが、共済年金との統合が実現すると運用資金は30兆円増加する。
だから、株価は必ず下支えされる、という趣旨だった。
さらに、かんぽ生命が来年上場される。
上場されれば、かんぽ生命の利益を上げる必要が生じ、結果、30兆円の資金が株式市場に投入されう。
 聞いていて疑問に思ったことがある。GPIFにしろ、かんぽ生保にしても、資産を現金でもっているわけではない。
その大部分を日本国債で持っているはずだ。その国債を売って現金にしない限り、日本株を買えないのだ。
そうすると、大量に株を買うということは、大量に国債を売るということになる。国債が値下がりする。
すると、今までのように政府が国債を発行できなくなる。
政府が資金ショートになっては困るので、かんぽにもGPIFにも大幅な国債値崩れを招くような売りにはブレーキを掛けるだろう。
日銀が政府が発行する国債をすべて引き受ければ、その心配はないが、
大量に保有する国債の値下がりは、日銀資産の劣化を意味する。それを覚悟の上で、国債を引き受けるだろうか。
もし、そんなことをしたら、制御できないインフレになってしまうのでは?
 というわけで、GPIFの買いが、株価を上昇させると、楽観的には思えないのですが、・・・


大腰筋をきたえましょう

2014-10-13 | 読書
 最近、体力が落ちてきたからトレーニングをやり直さねばと、思うようになりました。マラソンは走れないようになったし、水泳も頸の怪我の後、大会はすべてキャンセル。長い距離(50m以上)が泳げなくなったのです。
 そこで、トレーニングの基礎理論から勉強しようと、『大腰筋を鍛えなさい』(久野譜也著、2014年8月、飛鳥新社)を、丸善で見つけ買ってきました。
「大腰筋」とは、背骨と大腿骨をつないでいる筋肉です。
一読して、この本は正しいことを書いていると思いました。ジョギンフは31年、水泳は26年継続していますが、そこからの体験で、これは正しいと思うことが記されていたからです。著者は、筑波大学院人間総合科学研究科教授スポーツ医学を専門とします。
『1992年バルセロナオリンピック、陸上400m8位入賞、400m日本記録保持者の高野進さんの太ももの断層写真をMRIで撮影しました。ところが高野さんの太ももの筋肉は、筑波大学の陸上選手と比べて何の変哲もない。ところが、腹部断層写真を撮ると、背骨の左右に異様に太い筋肉があることを発見、大腰筋です』。筆者たちが、大腰筋に着目するきっかけでした。
高野さんには、数年前、壱岐新春ハーフマラソンで、ゲストランナーで見えていたのでお会いしことがあります。
以下、主な記述を紹介します。 
「誕生日を迎えるたびに筋肉は1%減っている」
20歳をピークにして、筋肉は年1%の割で減少します。80歳なら60%減る計算です。
「80代でも90代でも筋肉は増やせる」
「筋肉をつけていれば、いつまでもおいしいものをたくさん食べられる」
筋肉の多い人は、メタボを心配せずに食べられるという意味です。
「「筋肉さえあれば、何もしなくても痩せる!」
体のエネルギー消費は基礎代謝が7割です。基礎代謝とは、何もしなくても体が消費するエネルギーのこと。基礎代謝の多い人は太りにくい。そして、筋肉量の大きさと基礎代謝の高さは比例する、というのです。
「足の速さに太ももの筋肉は関係ない」
選手の走行タイムと大腰筋の太さの関係を調べたところ、「タイムの早い人は大腰筋が太い」。太ももの筋肉の太さとは関係はないのです。
「脳や心臓の動脈が柔らかくなる習慣」
 有酸素運動を続ける習慣をつけると、毛細血管が増えます。血流量や酸素供給量が増えると、脳や心臓などの動脈がやわらかくなる。
「有酸素運動で体の“エネルギー工場”が増える」
ミトコンドリヤは、細胞の中でエンエルギーを産出します。ミトコンドリヤは特に筋肉の細胞に多い。運動を習慣的におこなっていると、ミトコンドリヤが増えてくる。
「ミトコンドリヤの働かせ方」(筋トレのすすめ)
筋トレの効果。筋トレを行うと、ミトコンドリヤが毛細血管に寄っていく。毛細血管の近くで発達するようになります。
「筋肉が太くなると、ホルモンの分泌が促される」
 筋肉量の増減は、内分泌系に影響する。なかでも男性ホルモンと成長ホルモンに影響する。筋トレで筋肉が太くなると、ホルモン分泌が促されます。
筆者の推奨する筋トレメニューが紹介されていました。
① つかまりスウワット
両脚を肩幅に広げイスの背を持ちまっすぐ立つ。上体を立てたまま腰を沈め膝を水平にする。膝頭がつま先より前に出ないこと。元の姿勢に戻す。
② 座って膝伸ばし
イスに腰掛け背筋をまっすぐに伸ばし、両手はイスの座面をつかむ。片方の足を上げキックするように膝を伸ばす。
等々。ながらトレーニングできそうです。
結論は「寝たきりになりたくなければ大腰筋を鍛えなさい
人生はいかに筋肉を付けるかで決まる」
以前、年配の方と話していて、話を聞いている限りすごくお元気な方と思っていても、立ち上がって歩き始めた瞬間「お年だナ」と感ずる経験がたびたびありました。「年齢は脚に出る」のですが、日常の動作ではなくても、スポーツをするとき、「自分は「お年だな」とおもわれているのではないか。たとえば朝、』ジョギングをしていても、どんどん追い抜かれていく。追い抜くジョガーを見てもゆっくり走っているのだ。「あんなにゆっくりの人に追い抜かれるのだ」。そう思うのですが、追い抜くジョガーは「お年寄りがジョグしてる」と思っていることでしょう。
 水泳もそうです。脚が強く動かないので、浮力が不足して腰が沈む。勢い水の抵抗が増え、疲れてしまうのです。大腰筋から鍛え直さないと、と思った次第です。

何故原発輸出するのか

2014-10-07 | 経済と世相
 安倍首相は何故原爆輸出に熱心なのか。かねてから疑問に思っていました。原発を輸出して、もし輸出先でフクシマ並みの事故を起こしたらどうなるのか。当然、先方はその賠償を日本政府に要求してくるだろう。その場合は、日本の国民の税金で賠償に応ずることになる。原発を製造するメーカーは利益を上げられるだろうが、リスク負担は国民が負うことになる。そこまでして、輸出する必要があるのか。疑問に思っていました。
 先日大学図書館に行くと『日本は何故原発を輸出するのか』(鈴木真奈美著、平凡社新書、2014年8月)を見つけ、早速、読んでみました。
 結論を第6章「核エネルギー利用からの脱却」の要約で紹介します。
米国が原発輸出を始めたのは、60年前のアイゼンハワー大統領の国連での「アトムズ・フォア・ピース」演説に始まる。
 広島・長崎の原爆投下後、米国は核エネルギーに関する情報の一切を機密にし、独占しようとした。それを一転して原子力分野での協力を世界に向けて表明したのがこの演説である。
 しかし、この時の米国の真意は、核の平和利用の促進ではなく、米国が世界の核の管理を行える体制の確立であった。
 1949年、ソ連が原爆実験に成功した。1952年、英国が続いた。1952年11月、米国は水爆実験に成功するが、9か月後ソ連も成功した。これは強烈なショックだった。米国はソ連による核攻撃を恐れた。「核の一国優位」が崩れた米国にとって、さらなる核武装国の出現と自国への核攻撃と言う二つの脅威を防ぐための国際システムの確立が緊要となった。
 アイク演説の狙いは次の三つである。第一に米ソ間の核戦争忌避。第二に核兵器所有国を米・英・ソ3か国に限定する。第三に、核エネルギーによる商業発電利用を世界的にすすめ、米国がその主導権を握る。
 米国は1946年、「原子力法」を制定した。この法律を改正し、原子炉の輸出を解禁した、しかし、核兵器製造につながる技術を供与するのは、自国の安全保障にかかわる。そこで改正原子力法は、他国と原子力分野で協力するにあたっては、保障措置の受け入れなどを取り決めた二国間協定を相手国政府と締結するよう政府に対し義務付けた。保障措置とは、米国が供給した原子炉や核物質などが軍事利用されたり、第三国に移転されたりしていないことを確認できること。この二国間協定を通じて、「受領国」の原子力活動を米国の管理下に置くことが可能になる。
 米国は「輸出して管理する」という核拡散防止手法を編み出した。
「アトムズ・フォア・ピース」が提起したのは、核エネルギー技術を持つ国が、その利用を望む国に、軍事利用しないことを条件に機器や核燃料を供給し、その活動を二国間協定により監視下に置くシステムだった。というのも、ある国が「核」技術を獲得しようと思えば、その入手は時間の問題とみられていた。事実、米国は原爆投下後、国内法を制定し、核エエルギー利用の一切を機密にしたが、それでも技術は拡散していった。フランス(1960)と中国(1964)の核実験成功後、米・英・ソの主導で1970年、核拡散防止条約(NPT)を発効させた。この条約により世界は核エネルギーの軍事利用も認められる「核兵器国」と「平和利用」の権利だけを有する「非核兵器国」に二分された。
 一方、原子炉の輸出は大量の放射能放出を伴う巨大事故のリスクを包含する。そこで、米国や英国は、輸出に当たっては相手国に対し、事故被害からの免責を求めた。日本を例にとると、日米原子力協定(1955年11月発効)の細目協定で「濃縮ウラン燃料引き渡し後におきた事故について米政府は責任を負わない」という面積条項の挿入を求めた。この条項なしでは米国は濃縮ウランを貸与しえないとしたので、日本側はその要求を受け入れた。
 米国が原子力輸出を進めたのは、安全保障政策上の重要性からである。その意義は、核エネルギーの利用を欲する国に原子力協定の締結を条件に原子炉や核燃料を供給し、同協定を通じて相手国の原子力活動を管理・規制することにある。つまり米国にとって、原子力輸出はビジネスであると同時に“米国主導”の核拡散防止のツールなのである。
 しかし米国が原子炉供給に置いて世界で立ち勝っていたのは、1970年代までで過去に米国メーカーが供給したあるいはその下でライセンス生産された原子炉は、仮に運転期間を60年に延長したとしても、今世紀半ばまでにほぼ全て運転停止する。原子力輸出を通じて世界に及ぼしてきた影響力は今後大幅に減衰する。米国に代わる有力な「供給国」の出現を許すことになりかねない。
 そこで、目を付けたのが、日本の原子炉メーカーであり、原子力技術である。その日本が「原発ゼロ」を志向されると、米国の原発を通じた核のコントロールができなくなる。
以下の事実は、思い起こす価値がある。
 野田内閣は、原子力政策を含む新しいエネルギー政策の策定に取り掛かった。策定にあたって、「討論型世論調査」、無作為通出によって一般市民を集め、討論を含めて意見聴取を行うという世界でないまでの試みを行った。2012年7月から8月にかけ行われ、問われたのは、2030年の総発電量に占める原子力の割合について「0%」、「15%」m「20~15%」の三つの選択肢だった。結果は「0%」が最多であった。
この意見聴取を参考に、野田内閣は9月14日「2030年代原発ゼロを目指す」とする「エネネルギー戦略」を打ち出したが閣議決定にかけられる直前に野田内閣から米国政府に事情説明がなされた。米国側は「法律にしたり閣議決定により政策をしばり、見直せなくなることを懸念する」と述べ、閣議決定を見送るよう要求した(2012.9.22東京新聞)最終的に閣議決定されたのは、「原発ゼロ」ではなく、「(同戦略)は不断の検証と見直し行うという短文のみだった。

核エネルギー利用とは、地底からウラン鉱石を掘り出し、その中に含まれているウラン原子を人工的に核分裂させ、その際放出される核エネルギーを利用することである。
ウラン元素が核分裂すると、おびただしい種類の放射性元素が生み出される。
それらは核分裂生成物」とか、「死の灰」、「核のゴミ」とも呼ばれる。これら人間が作り出した元素はどれも不安定で、余分なエネルギーを放出して安定しようとする。この時放出されるエネルギーが放射線である。
 地球はもともと放射線を出すあまたの元素の塊だった。これら天然の放射性元素のほとんどは、長い時価を経てエネルギーを出し切り、非放射性の安定元素になった。ところがこの半世紀あまりの間に本来なら地球上に存在しなくなっていたはずの不安定性元素を一部の人間が核爆発や原子力発電を通じて大量に作り出してしまった
 故高木仁三郎が、核エネルギー利用から脱却しなければならないと確信するようになった理由の一つは、人口放射性物質の急激な増大に対する危惧であった。

駅ちかウオーキング

2014-10-05 | 旅行
10月4日、地下鉄主催の駅ちかウオーキングに出掛けました。黒川駅から大曾根駅まで9.3km、目玉はご用水跡街園、石山寺、東春酒造見学と試飲です。
黒川駅から東へ。30年も通勤した、D社の元本社・本社工場の裏側は、見事に樹々の立ち並ぶ散歩道ご用水跡街園として整備されていました。
志賀橋の下は、川沿いに散策できる散歩道ができていました。

ずいぶんきれいになったな。

まぁ、市民税たくさん払ったからこれぐらい綺麗にしてもらってもよいか。


街園の散歩道を2km歩くと矢田川に出る。三階橋を渡る。昭和40年~47年、春日井市に住んでいて、自転車でこの橋を毎日渡ったが、橋は様変わりに立派で、歩道・車道を分離するフェンスが出来ていた。橋を渡ると守山区である。
東に折れて、瀬古町に向かう。
瀬古町で「東春酒造」に立ち寄る。
http://search.rakuten.co.jp/search/mall/%E6%9D%B1%E6%98%A5%E9%85%92%E9%80%A0/-/?scid=s_kwa_2014sak_00&lsid=002057
吟醸酒「和やか」を試飲させてもらう。「新米で作った甘酒です。どうぞ」と甘酒も御馳走になる。
東へ歩き瀬古小学校の南に回り込んだところ、川の手前に天台宗の石山寺【尾張西国13番】があった。

本尊は十一面観音。寛元年間(1243から)道円の開山。延宝4年(1676)藩主光友が再建。明治24年濃尾地震で倒壊、翌年再建。昭和20年空襲で観音堂と山門を除いて灰塵に帰した。山門の西側の馬頭観音は昔の善光寺街道にあったものを明治時代に移したもので、この右におもかる地蔵が並んでいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%B0%B4%E8%B7%A1%E8%A1%97%E5%9C%92
お参りした後、境内を抜けて矢田川河畔に降りると、天神橋緑地。西へ歩いて天神橋を渡る。後は南に大曽根駅まで歩き、11時40分、ゴール。2時間15分で9.3kmを歩きました。


劣化ウラン弾

2014-10-03 | 経済と世相
「劣化ウラン弾」をご存じでしょうか。
私も知らなかったのですが、堤未果著「もう一つの核なき世界」(小学館文庫、214年8月)を読んで知りました。本の著者は参議院議員の川田龍平氏の夫人。著書に『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書)。
【劣化ウランとはウラン235の同位体存在比が天然のものより少ないものをいう。ウラン238を大量に含む、原発からの廃棄物だ。
放射性物質なので廃棄できず、原発所有国にとっては長い間悩みのタネだった。アメリカ政府はこの廃棄物をどうにかして利用できないかと研究に研究を重ねてきた。その結果生まれたのが、この劣化ウランを機関砲弾にするという方法だ。
劣化ウランからなるこの弾は、分厚い戦車の鋼板を貫通し、破片を出さずにガス化する際の高熱で、戦車に乗っている兵士を即死させ、放射性ガスを放出する。処理できずもてあまされていたこの<核のゴミ>の国内蓄積量は1940年代に原爆を開発した「マンハッタン計画」以来50万トンにのぼり、使いたければエネルギー省がタダ同然でいくらでも支給してくれる。こうして、<安い、固い、便利>と三拍子そろった小型破壊兵器「劣化ウラン騨」が誕生した。
 劣化ウラン弾が発する2酸化ウランや8酸化3ウランは、高度3000メートルの範囲で約2か月かけて微粒子をまき散らし風に乗って拡散される。ゆっくりと地上に舞い降り、土や水、食べ物を汚染していく。湾岸戦争では320トン、イラク戦争では2200トンの劣化ウラン弾が使用されたという。
 アメリカ武器弾薬化学兵器司令部は、1990年に作成した劣化ウランについての報告書の中で「体内に残留し被曝する場合、がんの要因になり、科学的毒性は腎臓に損傷を与える」と明記している。たとえ被曝量が少なくとも長期間繰り返し粉塵にさらされると、時間が経った後でがん化するという。】
第1章「アメリカの被爆者」で、劣化ウランの影響で悩む米国の帰還兵の実態を述べています。さらに、
イラク戦争のもたらした最大の被害は、「がん」と「障害児」だという。
「それも普通のがんではありません。普通のがんは一度に1か所から発病する。ところが今、イラクで急増しているのは、1人の体のあちこちから同時に種類の違うがんが発生する現象なのです。たとえば一人の患者が、肺がんと乳がんと血液がんを一度に発症する。そして、親のどちらかでもがんに侵された場合、生まれてくる子供は先天性の障害を持つケースが非常に多い。もはや、日本のみが唯一の被爆国だとはいえない。
第2章「戦勝国の歴史教育」
 歴史認識や歴史教育が、日中、日韓の外交問題で、しばしば話題になるが、日米の間にも歴史教育を考える。原爆投下の意思決定をめぐる問題です。
第3章は「核なき世界」vs「核ある世界」
オバマ大統領のプラハ演説を詳述しいています。
第4章は「日本が起こすチェンジ」
と記述していますが、この本の意義は、(元防衛庁官僚)柳沢協二氏の解説が明確に述べています。
 本書において著者が取り上げている劣化ウラン弾による被ばくも・・・
私自身、」イラクにおける劣化ウラン弾の健康被害についてはほとんど知識を持っていなかった。当時、官邸にいてイラクへの自衛隊派遣を統括してきた立場にいたが、米軍による劣化ウラン弾の使用について、政府として全く情報を持っていなかったし、米軍に問い合わせることもなかった。それは、米軍の戦争であり、自衛隊に犠牲者がいない以上、日本政府かかわるべきことではない、と認識されていた。
アメリカにとっての脅威は、他の国による核攻撃よりも、テロ組織による核使用だ。そのため」核の拡散を防止するために、「核なき世界」が望まれる事態になった。
「オバマ大統領のプラハ演説のもつ最大の意味は、世界最強の核保有国であるアメリカが、ソ連の崩壊とグローバル化の進展の中で、核の戦略的優位性よりも核を含む大量破壊兵器が拡散し、抑止が効かない非国家主体による使用の危険のほうがより大きな危険になると認識したことにある。それは、核の廃絶が、理想としてではなく、戦略目標として追及されるべき時代の到来を予感させるものだ。
「有事核持ち込み」の密約が問題になった。密約は確かに問題だが、より根本的な問題は、日本政府が、日本を拠点としたアメリカの核攻撃を是認するかどうか。
日本から出撃した米軍機が核攻撃を行った場合、今度は日本が当該敵国の核報復にもなりうるのである。日本の海岸沿いにある54基の原発は電源喪失させれば容易に原爆になることを3.11は証明した。
アメリカ任せでない、日本の核戦略(核認識)が求められる所以です。


古橋源六郎さん

2014-10-01 | 素晴らしき仲間たち

29日の安倍首相の施政方針演説に、古橋源六郎さんが出たので、びっくりしました。
以下、そのくだりをコピペしました。
「おわりに
 「天は、なぜ、自分を、すり鉢のような谷間に生まれさせたのだ?」
 三河の稲橋村(いなはしむら)に生まれた、明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃(てるのり)は、貧しい村に生まれた境遇を、こう嘆いていたと言います。しかし、ある時、峠の上から、周囲の山々や平野を見渡しながら、一つの確信に至りました。
 「天は、水郷には魚や塩、平野には穀物や野菜、山村にはたくさんの樹木を、それぞれ与えているのだ。」
 そう確信した彼は、植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村(いなはしむら)を豊かな村へと発展させることに成功しました。」

http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei108b.htm
古橋家は、奥三河の名家です。御当主は代々源六郎を名乗ります。
 私と古橋源六郎さんの関係は58年前に遡ります。名古屋の昭和区に、古橋家の設立した学生寮がありました。奥三河出身で名古屋の大学に通う学生が無料で利用できる寮でした。義真会館といいます。義真とは、初代源六郎さんの名前です。大学の教養部の時は瑞穂区で民間の下宿に入居していたのですが、学部に移って、校舎がある東山に近い義真会館にお世話になることにしたのです。20歳から22歳まで、2年半でしたが、当時、古橋源六郎さん(当代)は、大蔵省のお役人でしたが、愛知県に出向して愛知県庁ではたらいていましたので、義真会館の一室に住まわれていました。
 お元気ならもう80歳を過ぎている筈ですが、・・・・
 それにしても、安倍さんは誰から古橋源六郎のことを知ったのでしょうか。
いずれにしても、施政方針演説に、古橋玄六郎が登場したのは驚きで、つい60年近い昔を思い起こしました。