古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

「中国政治」を聴く

2006-05-31 | 放送大学
 27日、朝7:53のJR快速”みえ”で津に向かいました。土・日二日間放送大学三重県学習センターでの集中講義です。会場の総合文化センターには9時半着。一階が県立図書館で放送大学は4階。開講の10時まで図書館を覗いていました。今まで5県6箇所の放送大学学習センターを訪れましたが、ここが建物は一番立派です。
今日の講習は、ある意味で、今もっともホットな話題、「中国の政治」。近代中国史を専門とするY教授が講師です。以下、講義の中から面白いと感じた話を紹介。

1.「歴史認識」が問題にされていますが、その「歴史認識」の「歴史」とは、どの辺りの歴史か?
 村山内閣の頃、日中両国の学者が「歴史認識」を話し合う研究会がもたれたが、
中国の学者は、過去100年(日清戦争以後の歴史)を主張した。それに対して
私は、150年前から今日までの歴史を対象とすることを主張した。つまり、阿片戦争以後です。欧米文明の侵食に直面して、これの対応に共に苦悩した歴史の時代もあったのです。
 実際、孫文の辛亥革命には、日本人の多く(宮崎滔天 が有名)が後援しました。

2.親鸞上人は、自分の息子を勘当しました。上人の説く「死ねば皆成仏(仏になれる)」を逆に解釈して「どんなことをしても死ねば成仏できるのだから、生きているうちは何をしても良い」と、言ったからです。
 小泉首相は、A級戦犯を合祀した靖国を参拝することについて、「日本人は、死ねば皆仏様だと考える」と弁明しましたが、「死ねば皆成仏」とは、生前の行為は総て許されるという意味ではなく、人間は、死後は生前の行為と切り離されて、仏として遇される、ということだそうです。
 先生によれば、A級戦犯の行為が死ねば許されるということではない。
 「小泉は私の後輩(慶応大学卒)ですが」・・『彼のような後輩が出たことを申し訳なく思っています』と、先生は首相がよほど気に入らないらしい。

3.反日デモ
中国の今後を考える時、政府がコントロール出来ない次の三つの問題があり、
反日運動はその一です。
①市場
②インターネット(*)
* 講義とは別ですが、文藝春秋6月号掲載の中国のインターネット事情が面白い。グーグルの検索で、法輪功や天安門事件は出てこないそうです。
③反日運動
 中国政府はデモが行なわれることは知っていたが、あれほどの騒ぎになるとは、
まさに想定外。
 日中戦争の賠償について、周恩来や毛沢東が「賠償は取らない」といった時、
日本の首相・外相はホイホイ乗ってしまったが、あれは失敗。その時の経済力で払える
金額を払うべきだった。今回は政府が押さえ込めたが、これからは分からない。
4.北京の水問題。
 北京の水不足は深刻です(この件は、畏友高見邦雄さんから度々聞いています)。
 北京から遷都という話だって、中国数千年の歴史からいえば、不思議でない。

桶狭間と有松

2006-05-30 | 旅行
 添付写真は、桶狭間古戦場公園です。前方は民家が公園の直ぐ傍に立っています。前方だけでなく,東西南北、いずれも民家が立てこんでいるのです。これが、永禄3年 今川義元が、風雨の中で信長軍の急襲を受け、首級をあげられた田楽狭間の今日の風景です。
 26日、住宅のOさんに声をかけられ、シニア・クラブのハイキングに付き合って、桶狭間と絞りで有名な有松の町並みを見てきました。
 ジイサン・バアサン13名が打ち揃い、栄のバス乗り場で10:35発の高速バス(名古屋都市高速を走るバス)に乗車、高速に乗るまで30分ぐらいかかるノロノロ運転でしたが、乗ってしまうとあっという間に目的地。バス停を下りると4~5分で、写真の公園に着きました。
 本当に小さな公園で、一目で見渡せる。一渡り見渡したあと、シートを広げて座り込み皆で持ってきたお弁当と、若干のお酒・ビールを頂く。
 松平アナウンサーなら、ここで「その時歴史が動きました」とやるところですが、我々は、ハーモニカの伴奏で「故郷」、「紅葉」、「牧場の朝」と、Oさんの用意してきた歌詞カードを見ながら唱歌の合唱。60年前に戻った気分でした。
 その後,10~15分歩いて、有松絞り(日本の絞りの90%を生産という)で有名な有松の古い町並みを散策。「有松絞り会館」に入って、有松絞りの制作工程を見学。中年の女性と一人はかなりのおばあさん。話し掛けると「もう91ですよ。80年以上 この仕事やってます。」
 「ふーん」と感心していたら、どっかで見たような顔立ちのTシャツ姿の男性が
入ってきた。
 万歩計をかざして隣の人と「もう1万何千歩です」とか言っている。
 あっ、そうか!今、NHKTVで放映中の「てくてく街道旅」主演の岩本さん(元サッカー選手)だ。
 この番組、ご覧の方もあるかと思いますが、お江戸日本橋から京都まで、昔の東海道53次を歩いて、毎日レポートするという番組です。今、「有松の宿」に着いたところのようです。
 やがて、カメラと照明担当が入ってきて撮影を始めた。TVに映るときまりが悪いと、脇に避けた。
(29日に再放送で、この場面を見ました。私は映っていませんでしたが、仲間の一人が映っていました。)
 帰りは、名鉄電車に乗ろうと有松駅まで歩きました。駅はすっかり綺麗な建物になり駅前は大きなスーパーが立っていました。考えてみると、名古屋に来てから50年余にもなるのですが、桶狭間を訪れたのは初めて。有松駅も(電車の窓からは何度も見たが)初めて。
 駅の周りをフェンスが立っているので、入口に入ろうとぐるっと回って、入口な
し。反対向きに回っていた!歩行者向けの標識がない!のはケシカラン。結局、スーパーからの歩道橋で駅へ。ここの都市計画は歩行者を相手にしていないらしい、と憤慨したのが、この日唯一の不快事でした。

韓国語

2006-05-29 | 放送大学
 放送大学の韓国語の面接授業(週一回5週)に出席しました。
 放送授業というものは,他の科目は良いのですが、外国語は学び難い。語学だけ
は、面接でないとなーと思って、今回、韓国語を受講することにしました。(今月は真面目に学生をやっています。)
 以下、「韓国語の何処が面白い?」と仰る方に。

 壁に掛ける。
 電話をかける。
 声をかける。
 お金を賭ける。
 催眠術をかける。
 会議にかける。
 裁判にかける。 
 命をかける。
 望みをかける。
 エンジンをかける。
 これらの日本語を韓国語に翻訳する場合,「かける」という動詞は、総て「コルダ」で済むのです。
 英語に堪能の方、上記の日本文を試みに英訳してみてください。
動詞は皆異なるのではないでしょうか?

 かくも日本語に似ている言語が存在するってことが、私には奇跡的と思える。こんなにそっくりな言語があるなら、その実体を知りたいと思うのは当然でしょう。
 学問的には、日本語との系統関係は証明されていないそうですが、元は同じ民族
が、太古に、半島に一部が残り、一部が日本に渡ってきたとしか思えないのです。
 「祖国とは国語」とは藤原正彦さんの言葉ですが、「言語は民族」ともいえるのでは?
 授業は、講師の原語で「『アリラン』を歌いましょう」で始まり、ハングルの読み方を習った後、最後に「もう一度『アリラン』を歌いましょう。今度は歌詞をハングルで読めましたか?」で終わりました。

 余談ですが、太古には同じ民族であった(と私は思う)のに、拉致問題とか靖国
問題とか、いがみ合っているのは、まことに残念な現実です。

 本稿は「ハングル入門の入門」(PHP新書)を参考にしました。

呉紀行

2006-05-18 | 旅行
 15日は10時、駅で編集長と待ち合わせ、呉線の電車に乗りました。
呉駅前の大和ミュージアムに11時頃。月曜の平日なのに大勢の客が詰め掛けているのに一驚。今,どうしてこんなに大和に人気があるの?
 入場すると直ぐ大和の10分の1の模型(26.3m)が鎮座している。これだけ見ても大きさが実感できません。10倍にして考えて見よ、と言われても、小生の想像力に限界があるらしくピンとこない。
 しかし、大きさよりも、全体を俯瞰した美しさに、「これは日本刀じゃない?」と思いました。日本刀は無論兵器ですが、実際に戦場でどの程度有効であったかは疑問(鉄砲が使われるようになってからは刀で戦う場面はなかった?鉄砲がない時代でも槍の方が有効だったのでは?)。
 しかし、美術品としての日本刀は、今日まで大事にされてきた。勿論、大和は、兵器として血税をつぎ込んで作られたが、実戦にはほとんど役に立たなかった。にも拘わらず、このような博物館が作られ大勢の人が詰めかけて往時を偲ぶのは、その美しさに、日本刀を見ると同様な心情を、人々が抱くのでは?と思った。

 ゼロ戦が展示されていましたが、こんな造りで、よく何百kmを飛んで空中戦を戦えたもの!と思う。じっと見ているうちに坂井三郎さんを思い出しました。ご存知の方も多いでしょう。太平洋戦争中「撃墜王」といわれたゼロ戦の名パイロット。生前、数十年前ですが、名古屋に来られて講演されました。「何十回もの出撃、空中戦を経験して生き残れたのは、運が良かったという以外ない!しかし、思うに、運とは運ぶもの。自分の運を運ぶために、何時も最善の努力をしたと思う」という言葉が印象に残っています。

 1時間半ほど見て、外に出ました。時分時だから腹ごしらえに蕎麦を!と、蕎麦屋を目指しました。
 駅前からバスに乗り、広という所の「とうてつ庵」(漢字が凄く難しいのでかなで表記)に出かけました。「守田さんから聞いて、インターネットで調べ、名古屋からのお客さんを連れてきました」と、編集長が主人に伝えたので、ご主人、気を良くしていろいろ説明してくれました。
 私は二八で山芋掛けを賞味しましたが、編集長は生粉(きこ)のざるを召し上がりました。生粉とは100%蕎麦粉の意味だそうです。蕎麦粉の含有量指定のメニューは、私は、この店で初めて見ました。
 ご主人、蕎麦の職人仕事が大好きのよう、趣味とご商売を両立させているようで
す。

 2時ごろ、蕎麦屋を出て、再度呉駅へ。駅の手前(四つ道路バス停)で下車して
「入船山記念館」というところへ行きました。旧呉鎮守府司令長官宿舎(平成10年国重要文化財指定)です。
 いや、この記念館。日本海軍の遺品を展示していて、期待以上の見ものでした。

 その後「自衛隊の呉地方総監部」(日曜だけ見学できるとのことだった)を経て
「歴史が見える丘」(戦艦大和の建艦ドックを眼下に見る)を歩いてから駅へ。
4時の電車に乗り広島に戻りました。5時10分の新幹線で帰宅しました。

100%仮説(つづき)

2006-05-17 | 放送大学
初日は6時前までの講義、二日目は10時から3時過ぎまでの講義でした。
 こんな話がありました。いわゆる「失われた10年」と言われる平成の不況について、「竹中大臣はその原因を、こう述べている
 日本システムの制度疲労
 グローバル化への対応不十分
 金融問題・・・」
 ここで、小生が質問しました。
「先生が竹中大臣の説に賛成という意味で、竹中説を紹介されているのか,賛成ではないが竹中説があることを紹介するということなのか分かりませんが、”グローバル化への対応不十分”という説には賛同しかねます。何故なら,私には、ホンダやトヨタ、ソニーが國際化の対応に遅れたとは思えませんから。これは竹中さんの仮説に過ぎないのでは?」
 すると先生は、「確かにソニーやホンダの対応が遅れたわけではありません。で
も、遅れた企業が沢山あったのでは?」
 率直に言ってびっくりしました。そんなことを言ったら、論議が正しいか正しくないのか、判定が出来ない。正しくないという事例が一つでも見つかれば、その論は正しくないというのが、科学ではないのか!(経済学は自然科学ではないが社会科学と言われるのに)経済学はサイエンスではないのか?
 冒頭に紹介した『99.9%は仮説』にこんな話がありました。
【科学の世界では、絶対に正しいと思われていた定説がひっくり返った例はゴマンとある。例えば、エガス・モニス(1874~1955)というポルトガル人の医者が1949年ノーベル医学賞を受賞しました。1935年、精神病を治療すると言うロボトミー手術を始めた業績に対して与えられたのです。「ロボ」とは前頭葉・側頭葉の葉で、「トミー」とは切断、切除の意味。つまり、脳の前頭葉を切る手術です。
『カッコウの巣の上で』という映画(1975)が昔ありましたが、このロボトミー手術の悲惨さを告発する映画でした。現在では、前頭葉には脳の司令センターがあり、ロボトミー手術でそこを切ってしまうと人格そのものが破壊されてしまう、ということは医学界の常識ですが、当時はこの手術の有効性が信じられ、アメリカだけでも一万件の手術が行われた。】
 日本の近年の経済運営が、誤った仮説に基づく”ロボトミー手術”でなければ良いのですが・・・

 最後に、レポート提出。「”さらば経済成長”という言葉について所感を記せ」というので
「経済成長が不必要とは言わないが、経済政策の目標は国民のくらしの向上にあるのに、近年、経済成長が国民のくらしの向上に結びついていないのでは?だから、経済成長率という指標で国の経済運営を考えることは意味がない。という意味で”さらば経済成長”に賛成です。例えば、正社員と非正規社員の比率などの直接的な数字を経済運営の指標とすべきと考えます。」
 それから、景気の定義について私論を追記しておきました。
「GDPの時間微分が経済成長率(GDPの速度)で、経済成長率をさらに時間微分した(GDPの加速度)が「景気」と考えますが、いかがでしょう」

100%仮説

2006-05-17 | 放送大学
 最近、ベストセラーになっている『99.9%は仮説』(竹内薫著、光文社新書)という本を買い込んで、13日朝7時前の新幹線に乗り込みました。放送大学広島学習センター(旧広大)の面接授業に出席するためです。授業のテーマは「日本経済を考える」。
 このところ、TVや新聞・雑誌で経済学者と言われる方々の論調を聞く度に、経済学って、「100%仮説じゃなかろうか?」と思うようになりました。そこで、講義の前に、この本を読んで見たかったのです。
 乗車してすぐ読み始め、広島駅に着くまでの2時間40分で読み終わりました。
 「自然科学の法則や定説は、すべて最初は仮説で、実験でその仮説が成立することが確認された後、定説になる」と私は思っていましたが、この本で『科学とは常に反証できるものだ』という科学の定義(カール・ポパー)を知りました。
 つまり、仮説を実験で確認する際、実験は当然有限回です。その有限回の実験で仮説が正しいとされたら、当分、仮説は定説として認められる。しかし、百万回実験して正しくても百万一回目に、その説が正しくない事例が見つかったら、その説は定説の地位を失う。即ち、一つの間違っているという事例(反証)が定理の誤りの証拠になるのが、科学であるというのです。

 定刻(9:34)に広島駅に着き「そうだ、弁当を仕入れて行こう。たいしたレストランは構内になさそうだと、駅弁を買う(何はなくとも食糧の手配だけは忘れません)。
タクシーの運ちゃんに「放送大学!」と言うと「あぁ元広大の・・」と、すぐ了解してくれました。開講の10時直前、ジャストインタイムで講義室に滑り込み。
 講師は広大教授のT先生、専攻は「労働経済」だそうですが、今回の講義は「戦後の日本経済の景気変動を振り返り、日本経済の今後を考えたい」という趣旨だと言う。
 早速、手を挙げて「その、景気とは何でしょうか?定義を教えて下さい」と質問。「これからの講義の中で説明します」とかわされた。
 戦後の景気変動の山は、終戦直後(信頼すべき統計が存在しない)を除くと13回あり、現在の小泉内閣での景気上昇をカウントすると、14回目になる。ならば
14回といえばよいのだが、「景気の山は数ヶ月後にならないと分からない」ので、一応、小泉内閣以前までの13回を説明する」と言う。そこで、諒解したのだが、先生の言う景気は経済統計に出た景気(内閣府、かつては経済企画庁が公表している景気動向指数(29の先行・一致・遅行の景気指標から合成)を意味しているようだ。
 しかし、景気動向指数は、景気の観測方法の一つであって、景気そのものの説明ではないのでは?
 授業は進んでいきます。(続く)


何万光年ってどう測る?

2006-05-07 | 放送大学
 マラソンの旅の後は「宇宙科学」のお勉強です。6日,7日は放送大学愛知学習センターでのスクーリングでした。講師のS先生は、国立天文台から、この4月、名大教授に転勤されてきた方です。ドクターを広島大で取得されたそうで、広大時代は、今はなくなったが、海辺の美しい町の研究所で3年を過ごされたそうです。
 たまには,何万光年という浮世離れした話を聞くのも良いものです。初日の講義、こんな話がありました。
 「小柴先生は、定年退職の1月前、大マゼラン星雲の超新星の爆発によるニュートリノを観測して、ノーベル賞を受賞した。大マゼラン星雲は南半球でしか見られない。つまり、カミオカンデに届いたニュートリノは地球を貫いてカミオカンデに到達したもの。しかも、大マゼラン星雲は地球から16万光年離れています。16万年前、小柴先生の退職前に到達すべくニュートリノは、地球に向けて出発したのです。もし、少し遅れて退職後に地球に着いたら、別の人がノーベル賞だったかもしれない。先生は、悪運が強かった?」
 まぁ、悪運かどうかは別として、人生の成功には「運」が必須と言うことでしょう。
勿論、「運」だけで、成功するわけではありません。
 
 ところで、16万光年とかいう星までの距離は、どうやって測量するのか?
 すぐ考えるのは、いわゆる三角測量です。ある星の年間視差(地球の公転により生ずる、ある星の方向(角度)の測定値の差の年間最大値)と地球から太陽までの距離の積で求めれば良い。
 しかし、最新の天文台でも、この角度の測定限度は、1秒角(1度の3600分の1)です。1秒角と太陽・地球間の距離の積を1pc(1パーセク)と天文学では言うそうですが、これは3.26光年です。つまり、3.26光年以上の距離の測定は三角測量では無理。宇宙の大きさを考えると、三角測量で測定できるのは地球の近くだけです。勿論、測定を繰り返すことで、もう少し視差角度の精度を上げることは出来ますが大勢に変わりはない。
 20世紀のはじめ、距離測定に二つの革命が起りました。
 一つは、リーヴィットという女性天文学者が、小マゼラン星雲の中にある多数の変光星(周期的に光度が変化する星)を研究しました。そこで、変光星の光度と変光周期とが関係することを見つけたのです。これは大発見でした。つまり、
「本当の明るさは変光周期で決定できる(明るい星はゆっくり変光する)。周期が同じなのに見かけの明るさが違うのは距離の違いである。」
 北極星も、実体は二連星で主星は、周期数日の変光星だそうです。

 もう一つは、ヴェスト・スライファーなる学者の「赤方偏移(遠ざかる星の光の波長が赤方に偏移する)の発見です。これは音のドプラー効果と同じ現象が光にも生ずる現象です。これを、ハップルの法則「天体の後退速度(地球から遠ざかる速度)は、地球からの距離に比例する」と、組み合わせると星までの距離が分かる。
 後退速度の測定と、変光星の周期測定が、20世紀の天文学の観測革命でした。

「小難しい話は面白くない」という方へ。ではこう言う話も講義にあったのですが・・・
 水星と金星、夜空の中天に昇らないのは何故か?
 「夜空の中天にあることは、地球から見て、太陽の反対側にあることを意味する。水星、金星は地球より太陽に近い。つまり、常に太陽側で反対側に来ることはない。」

 二日目は、S先生の研究課題「宇宙のマイクロ波背景放射からビッグバン後40万年の宇宙の大きさと宇宙空間の性質を明らかにする」。いわゆる宇宙の暗黒物質のお話でしたが、割愛します。

金沢マラソン記(2)

2006-05-06 | マラソン
 スタート地点に戻った10Kmは、1時間3分だった。スローニンにしては一寸早いが,まぁこんなペースか!今日は気温5~16度といっていたからマラソンには快適。2周目に入る。コース沿いにに渋谷工業、I・Oデータ機器などの地元企業の建物が見える。20Kmを2時間7分。3周目だ。この辺りから徐々に疲労が
蓄積してきた。30Kmは3時間15分ぐらいだったと思うが、記憶が定かでない。
4週目、途中で小島さんに追いついたので「頑張ってください」と声を掛けた。
下流で折り返し、また逢う。「頑張って!」と今度は彼が先に声を掛けてきた。
頭がぼうっとしてきた。とにかく走り続ける。下流の折り返し、略36Km地。
4本目の輪ゴムを嵌めてもらうと、「これが最後ですよ」と声を掛けてくれた。

 折り返してすぐ給水場がある。ここで一休みしてボランテイヤのおばさんと話す。
「やっぱり40Kmはきついよ!」、「そうだよねー。でも、みんな息が平気だから感心しちゃうわ」。そう!マラソンは、心臓がきついのではなく、脚の痛みと疲労から脚が上がらなくなって、きついのだ。給水場で貰ったオレンジがすごく美味しい。
 その後は、もう歩いたり走ったりの繰り返しで、とにかく粘った。40Kmを過ぎて
今度は上流の折り返し,5回目だ。右膝頭の裏が痛む。やっとの思いで、スタート地点に戻ると、およそ2百メートル先にフル専用の折り返し。そこまで来たら、また小島さんに逢った。この後、彼に伴走(伴歩?)しながら話した。
 「もう1周あるわ」と彼。「1年数ヶ月ぶりのフル完走!きついわ」と小生。
「もう小島さんは65かな?」、「64歳!」
「ゆっくり走っても、余計疲れるね」と彼。まったく同感。フルマラソンの疲労は、スピード如何にかかわらずかかった時間に比例するというのが、私の体験からの実感。伴歩してみると、彼の速度は私の早や歩きの速度(時速6Km強)だ。
これなら6時間は難しいが7時間を切ってフィニッシュできるだろう。
 「じゃ、頑張って!」と、後12.195Kmに歩を進める彼に手を振りゴールに駆け込んだ。待ち構えているボランテイヤのおばさんたちが「おめでとうございます」と、口々にねぎらってくれた。
 着番札(458)とトロフィーを手渡してくれる。この大会、完走者には全員トロ
フィーが授与される。「第25回マラソンに挑戦する会 42.195Km」の銘版が 嵌められていた。
 着番札(458)は、順位と違う。10Kmも20Kmも一緒の着番だから。
この札と受付時に貰った完走証を記入所に持っていくと記録簿と照合し、
4時間49分15秒と記入してくれた。
 この歳で5時間を切って完走できれば上等。ホテルまで歩いて戻り、荷物を受け取り、レストランで生ビールで乾杯、うどんで腹ごしらえ、その後市東郊の温泉に行き、屋外プールで日課の1000m泳。夜は、7時前からベッドにもぐり込み朝の7時前まで寝ていた。これだけぐっすり寝たことは、ここ数年なかった。よほど疲れていたらしい。
 名古屋には4日夕刻帰りました。

金沢マラソン紀(1)

2006-05-05 | マラソン
 以下,小生の29回目のフルマラソン挑戦記。ご笑覧ください。
 5月3日の金沢は素晴らしいお天気になった。朝7時、大きな荷物はフロントに預けて駅前のホテルをチェックアウト。会場の大豆田大橋(まめだおおはし)まで、徒歩15~16分。
 第25回「マラソンに挑戦する会」は、犀川沿いの自転車道路を、スタートの大豆田大橋下から上流1km、下流4Kmの5Km区間を往復するマラソンで、10Kmは区間1往復、20Kmは2往復、30Kmは3往復、フルは4往復と少しになる大会です(5Kmの部もある)。
 受付でゼッケン(4038)などを受け取り、着替え。開会式が7時40分。
大会会長、金沢中央走ろう会会長天野耕兵衛(てんのこうべえ)さんが大きな声で挨拶「健康マラソンです。頑張らないで完走してください」と言う。地元のジョギンググループの大御所らしい。
 特別賞の授与で、マラソン完走回数男子日本一の小島義一氏(1044回)と福岡から見えた女子日本一の迫田さん680回が表彰された。
 式の後、小島さんに歩みより「久しぶりですね」と声を掛け握手。
「年何回ぐらい走ってるの?」「30回ぐらい」。彼は毎年この大会に出場するのでゼッケン4001が彼のためにとってある。(因みにゼッケンは10kmが1000番台,20Kmが2000番台・・・)
 この大会は、会長挨拶のように、タイムを競わない、自分のペースを守り無理をしない、無理だと思ったらフルでも30Kmでやめて30Kmの完走証をもらえるという。往復だから何回もスタート地点を通るので、スタート地点脇のゴールに
飛び込めばよい。私は過去9回20Kmで出場、今回は10回目なので記念にフル
を走ることにしました。
 8時スタート、全員同時に上流に向かいスタート。エントリー・ランナー535名(フル198名)
 今日は絶対スローニン(slow人)で行こう、時間がかかっても完走してやるぞと心に決めていました。走り出すと、昨日の雨の所為でしょうか?道にみみずが沢山出てるんです。そのみみず、何故かみんな肥満、直径10mmぐらいある。
 みみずにしてみれば、「エサにありつけるわけもない」のに、走り回っている人間という生きものは理解を超えてることでしょう。たまに、踏み潰されたみみずがある。
「カワイソウニ!」でも、踏んだ方も「キモチワルカッタ」?
 上流1Kmで折り返し、下流4Kmの折り返しでは、スタッフが輪ゴムを広げて
待ち構え、ランナーの腕に嵌める。フルを走る人はこの輪ゴムを4本持ってフィニッシュする。最初の下流の折り返しから1~2Km戻った時、仰天した。
 小島さんとすれ違ったのです。彼が歩いている!腕は大きく振っているが競歩の
スタイル,最初から歩いている。ウオークマンをやっているのだ。
 13年前,徳島県のフルマラソンで宿舎が相部屋になってからの知り合いだが、こんな彼の姿を見るのは初めて。往年の3時間台で走っていた頃の面影はない。
 走りすぎで脚を痛めて走れないのだ。ならば歩いてでも42.195Kmに挑戦している。
 他人に絶対に真似されない世界記録の樹立のためだろうが、これは執念というより怨念である。(続く)