古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

稲沢市のウオーキング

2014-11-29 | 旅行
28日は、シニアクラブのウオーキングを予定していたが、8時半ごろ窓から外を見ると、まさかの雨がふっている。今日は中止かも?と9時半、エレベータホールに行くと、いつものメンバーが集まってくる。
「どうする」
「空が明るくなってきたから大丈夫じゃない」と出掛けることにした。総員9名(男4、女5)です。今日は、稲沢市の荻須美術館と、イチョウ寺である。
 名古屋駅から名鉄線で国府宮駅へ。10時20分駅につき階段を上がり橋上の出口を出て、まずは美術館と歩き始めた。名鉄の踏切に来て「なんか変だな」下見に来たとき踏切は通らなかった!
この辺りの地理に詳しいHさん「方向が反対じゃない」、Kさんも、「何か逆方向みたいよ」
どうもそうらしいと方向を変えた。下見の時は地下の出口から出たので、出口の風景が違って勘違いをした。雨がパラパラ降ってくる。まぁこれくらいなら我慢するか。
 みな傘をさす。私だけが傘を持ってこなかった。「これ使って」とSさんが白いビニール傘をくださる。途中のコンビニでゲットしたようだ、
 市役所へ行く大通り(県道春日井・稲沢戦)に出てしばらく歩くと美術館の「小磯良平展」の看板が見えた。11時前荻須高徳美術館に着く。

http://www.city.inazawa.aichi.jp/museum/
稲沢の生んだ洋画家荻須高徳の作品を集めた美術館で、常設展(荻須作品)の他、企画展「小磯良平展」をやっていた。小磯は美術学校で荻須と同級生だったらしい。
 「この美術館は何年にできたのですか?」と受付の女性に聞くと「昭和58年です」
 受付けの右が常設展、左が企画展。まっすぐ奥に入ると、荻須のパリのアトリエを移築して展示している。小学生が団体で来ていて、学芸員の説明を聞いていた。
 1時間ほど見学してから、外に出た。美術館の西側、市役所の間には稲沢公園が広がる。

12時近かったので、公園に行き、弁当にする。雨が上がり青空も見えてきた。
奥様方から漬物やお菓子の差し入れをいただく。1時、次に行こうか、と腰を上げ。市役所の前のバス停に行く。「稲沢市役所」の看板がたっているが、何か妙だ。バッグから、インターネットでダウンロードした稲沢市役所前バス停の写真を取り出す。写真の看板は「市役所」。バスの時刻表も比べると、インタネットでは13:34だが、バス停の掲示は14:10です。バス停に待っている人に写真を見せると、「この写真は市役所の裏です」。バス停が他にもあるのかな?「行ってみよう」と市役所南側に回ると、「このバス停は11月4日から移転しました」。
 市役所の中を通り抜け、さっきのバス停に行くと、「11月4日より時刻が変更になりました」との掲示がある。結局、インターネットは、変更が更新されていなかったわけ。「仕方ない!」と市役所のロビーで時間待ちして14:10のバスに乗る。
 やってきたバスは、マイクロバスというより普通車並みの大きさで20人も乗れば満席。我々9名が乗ったら、満員。次のバス停に着くと、運転手が待っていた人に「乗合タクシーを呼びますからそれにのってください」と電話をかけていた。何しろ一日に4本しかないバスを待っていたのに満員通過されたらやりきれないので、こういうシステムになっているらしい。
20分ほど走り「森上駅」に着く。駅でウオーキング案内の地図を貰い歩き始めた。
 歩きはじめてから「あっ」と気づいた。
折角頂いた傘をバスの中に置いてきてしまった。傘はそれほどほしいわけではないが、せっかくのご厚意を無にしたのが残念です。
 最初に駅近くの正淋寺。つづいて布智神社、シイノキの巨木が見られました。
ここで、記念撮影。
その後、神社を回り込んで日光川の森上橋から川沿いに北上する。
川岸の銀杏の風景は圧巻です。

 今は稲沢市になっていますが、旧祖父江町は銀杏の産地として有名です。愛知県の銀杏生産量は日本一、全国生産量の3割、中でも祖父江町の生産量は群を抜くとか。
1kmほど歩いて、山西橋のたもとで左折すると、直ぐに祐専寺、別名イチョウ寺です。

樹齢300年の巨木がありました。車と人で混雑していました。銀杏寺に参拝した後、4時前、名鉄山崎駅から電車に乗り、一宮経由名古屋駅。5時ごろ帰宅しました。


イグノーベル賞

2014-11-27 | サイエンス
中垣俊之著『粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う』(文春新書、2014年10月刊)を読みました。著者は、1963愛知県出身、北大電子科学研教授、2008年、010年の二度イグ・ノーベル賞受賞という。
2008年の受賞理由は、「単細胞生物の粘菌という生物が、迷路などのパズルを解くことを証明した」こと。そのしくみを運動方程式で説明したこと。
「単細胞生物の真正粘菌にパズルを解く能力があったことを発見したことに対して」
2010年の受賞は、交通計画賞、イグ・ノーベル賞でも初めての賞で、粘菌の力で関東圏の鉄道網を設計した(粘菌を使って鉄道網の最適な路線を設計できることを示したこと)に対して
関東圏の主要な都市30余りを選んで、その地理に合わせてエサを配置します。そこへ粘菌を放つ。粘菌は動き回ってエサを見つけると、餌場に残留部隊を残して、さらにエサ場を求めて広がっていきます。エサ場所を見つけるとは残留部隊を残して広がっていくことを続けいくつもの餌場にありつく。こうして粘菌の動いた跡には、太い管が出来て餌場が繋がれ、やがて餌場をつなぐ管ネットワークができます。こうしてできたエットワークはJRの関東の鉄道網にそっくりだというのです。
粘菌に魅了された最大の理由は、「粘菌には物質的なにおいがまだプンプンしている」ということです。森の木や石や実験室の寒天の上に広がった変形態は限りなくモノのような姿なのに、でもやっぱり生きていて、情報処理能力や問題解決能力をもっています。生き物と死んだもののちょうど境目のような存在だからこそ、その力をニユートンの運動方程式のような物質世界の法則性で理解できる可能性がある。
生物の知性というと、真っ先に思い浮かぶ「記憶」や「学習」の能力について粘菌にその芽生えがあります。
粘菌はどのようにして、問題を解決するのか。この本で書かれていることを私の解釈では、一つは分散処理、二つ目は第1近似で大局観を持つことのようです。
粘菌は、単細胞で、勿論脳はありません。だから、脳が中央で情報を解釈して各部分に命令するという情報の中央処理はできない。各部分の細胞がそれぞれで周辺から受け取る情報をもとに各個で行動を決める。これを分散処理といっているのですが、それでうまく環境に対処できている。
次に1次近似とは、行動を決める際に、情報を大まかに把握して「大体この方向」ということで。行動を決め、その行動の結果を見て、方向を調整するというやり方をすることです。これは大体こちらという大局観がある、言い換えれば情報の第一近似で行動を決めると言ってもよい、と筆者はのべています。これが粘菌というシステムなのだが、単細胞生物のおもしろさはなんといっても「単なる物質が集まることで、生きたシステムに化ける」ということです。そして
私たち人間もまた根本的には単なる物質からできていることを考えると、粘菌に関する研究の先には生物とは何か?人間とは何か?モノとココロの関係とは?といった深淵なテーマが広がっています。
「粘菌をのぞき窓にして、生き物全体の普遍的なからくりがどうなっているかを知る」こと。それが私のねらっていることです。と、著者は言う。
イグノーべル賞の面白さを認識させられる本でした。

アベノミクス解散

2014-11-23 | 経済と世相
 「アベノミクス解散」だそうですね。首相がそう言っている。
何故、今、解散する必要があるのか、「消費税の増税を1年半延期するから国民に信を問う」とか言っていましたが、増税の延期に野党が反対しているわけではないし、経済情勢によっては見合わせるということは既に法に謳われているのです。解散の必要はありません。
にも拘らず、解散を強行したのは何故か、
 個人的な見解ですが、今解散されても困るのです。安倍内閣の政策には賛同できないので、自民党には投票しない。かといって民主党にも投票できない。09年の総選挙で民主党は政権交代をしたが、選挙で約束したことは行わず、選挙で言わなかったとを実行した。こんな嘘つきの政党には絶対投票しないと3年前に決心しました。ですから、選挙だと言われても投票する政党がないのです。
 実はこれこそが安倍首相が選挙に踏み切った理由ではないのか。今なら、野党に投票する人は少ない。前回ほどでなくとも自民党が勝利を得られると踏んだのです。
 今のままでも、後2年は、絶対多数を持っていますから、政策運営のフリーハンドを安倍さんはもっているのですが、安倍さんが考えている政策を完璧に実施するには2年では足りない。そこで、今選挙して過半数を得られれば、過去2年とこれからの4年、自由に政策を運営できる。6年あれば、安倍さんの望み、憲法の改定や、集団的自衛権を行使できるようにできる。経済政策も世論に気を使うことなく自由にやれる、と考えたのではないでしょうか。
 そこで、安倍さんの野望は達成できるのか。
「アベノミクス解散」を打ち出したのは、株式市場が上っているので、アベノミクスが成功するのだと国民に信じさせれば、勝てると思ったのでしょう。
 阿部さんの思うようになるかどうかは、投票率次第と私は考えます。その理由はこうです。
 安倍内閣の登場以後、株価は東証7000円台から1万7000円まで上がっています。その間、誰が株をかっているのかを調べると日本人は売り越しです。外国人が大幅に買い越しているのです。ということは、つまりアベノミクスを評価しているのは、日本人でなく、外国人なのだと思います。日本人はしらけている。
だから、「アベノミクス解散」と、アベニミクスを謳っても有権者は投票しない。そこで、投票率が上がり、日本の有権者が多く投票すれば、安倍さんは負ける。しかし、野党のていたらくに失望して投票しないとなれば、従来通り過半数程度は自民党が握るだろうと思うのです。
 いずれにしても、選挙結果は、今後の日本の運命に大きく影響します。年末に、今年最大の重大ニュースが出そうです。


日本の経済力は日本国民を豊かにしているか

2014-11-15 | 経済と世相
『円・ドル同時終焉の足音』(グラフ社、2014年10月刊)と言う浜矩子さんの著書を読みました。1971年のニクソンショックから昨今のリーマンショックに至るまで、世界の金融と通貨の混乱についての歴史を振り返り、その時何が起こったかを浜さんの解釈で語った本です。
 私が一番面白く感じられたのは、アジヤ通貨危機(第7章)です。
浜さんは,アジヤ通貨危機の犯人は日本だという。
1997年7月、米ドルペッグ制から変動為替相場制への移行によるタイ・バーツ急落をきっかけに、インドネシヤや韓国などで連鎖的に通貨が暴落し、金融機関の破たんが相次ぐ経済混乱に陥った。この時、ヘッジファンドなど欧米の投機筋が一斉にアジヤ諸国から短期資金を引き揚げた。これがアジヤ通貨危機のあらすじだ。だが、そもそもの投機資金の出どころは実を言えば日本であった。
 当時のアジヤ諸国をバブル化に追いやったその主因は、日本発の円キャリー取引だった。その意味で、ヘッジファンドたちをアジヤ通貨危機を引き起こした悪玉呼ばわりするのは、少々違う。黒幕はジャパンマネーだったのである。
 そもそもなぜ東アジヤ各国にバブルが起きたのかということだ。端的に云えば、それは膨大なジャパンマネーが投入されたからだ。
時期的に言えば1980年代後半、プラザ合意以降のこと。プラザ合意以降の日本のバブル化と円高の進展の中で、競争力を失った日本企業は海外に生産拠点を求めた。有力候補に挙がったのが、低賃金で労働力の豊富な東アジヤだった。
 しかも日本にとって非常に都合のいいことが一つあった。それは東アジヤ諸国の大半が米ドルペッグ制の為替相場制を敷いていたことである。プラザ合意後の円高ドル安の状況下で、日本企業はきわめて割安に生産拠点を東アジヤに移していけた。
 つまり、日本からの東アジヤ投資は、この段階ではまだバブル型投資ではなかった。伸び盛りの若い経済に、日本という成熟経済が成長資金を供給する構図であり、これは、至って正常なカネの流れであった。
 日本から供給された成長資金をテコに、アジヤ新興諸国の経済成長快進撃が始まった。これを世界は東アジヤの奇跡と呼んだ。
 年率二けた近い経済成長を続ける中で、東アジヤの経済は次第に過熱していく。それに対応して東アジヤ諸国は相次いで金融引き締め策をとった。インフレ経済化にともなって、対ドル為替相場の切り下げ圧力が強まることを恐れてのことだった。このやむを得ざる対応が厄介な事態を招く。引き締めがもたらす高金利に誘われ、投機資金がどんどん東アジヤに流れ込み始めた。
 投機資金は工場や施設建設など実物経済のために使うのではなく、株や不動産、ゴルフ場を買うためだった。資産バブルが大きく膨らんだ。
90年代、バブルが崩壊した日本は一転、失われた10年に突入する。
日本企業のアジヤへの工場進出は頭打ちになったが、今度は円キャリートレードが始まり、日本は投機資金の恰好の調達場所になった。
 そこへ登場したのがジョージ・ソロスを筆頭にするヘッジファンド、膨大な額の円キャリートr-ドを行い投機資金を調達した。東アジヤは、日本企業による直接投資の時代からヘッジファンドによる投機的投資の時代へと移行していった。
カネ余りになった日本から円キャリー取引でどんどん高金利の東アジヤにカネが流れ込んでいく。バブル化圧力が一段と高まる。
 最終的に円キャリー取引で日本から出て行ったカネが日本に還流してくる場面を迎えた。日本で株が暴落し、不良債権問題で金融機関の経営が行き詰ってくると、その損失をカバーするためカネが必要になり円キャリー取引にカネを回していたプレーヤーたちが手仕舞いに入った。資金が日本に逆流することになった。
 東アジヤ諸国はカネが出ていくから資金不足になり金利は上がる。
 その結果、東アジヤ諸国の経済に強いデフレ圧力がかかる。この状態を見て、ヘッジファンドたちは本腰を入れて東アジヤから退却に向かった。通貨大暴落の始まりである。
 要するに、アジヤの通貨危機とは、ジャパンマネーに始まり、ジャパンマネーに終わった。
 アジヤ通貨危機を起こした本当の悪玉はしいて言えば日本でる。
 しかし、それは当然なのだ。日本が世界最大の債権国になった以上、その日本のカネがどう動くかで、これだけ天変地異的なことが起こるのはごくあたりまえの話である。
 以上が浜さんの意見です。サブプライムショックは日本から米国にカネが流れ込んだことが原因という話は聞いたことがありますが、アジヤ通貨危機も同じだったのですね。世界最大の債権国になった日本の経済動向は大きく世界の経済に影響するということです。そういえば、 日銀の先日の異次元金融緩和第二弾も、も米国の量的金融緩和の停止宣言を受けたものだといわれています。つまり、米国が量的緩和を止めると、ドルが米国に還流する。世界経済は流動性が減少する。そこへ日銀がカネを流せば、米国は世界経済の流動性不足を心配することなく、ドルを引き締めることが出来るというのです。
 世界経済を動かす日本の経済力が、日本国民を豊かにするために使われているのか、疑問に思う次第です。

新宮市内

2014-11-09 | 旅行
 「次に回ろう」と車に戻り、168号線を新宮へ。雨が降り出す。
「参詣するときだけ雨が止んでたね」
「いや、今日は海岸ちかくだけ雨降りなんだ。だから、海に近くなると降り出すんだ」。
昨日休館だった西村記念貨と佐藤春夫記念館を訪れよう。。
「その前に浄泉寺に行きたい」とHさんが言うので、新宮市内に戻ると、浄泉寺。12時前だった。
Hさんが案内を乞うと住職が出て見えたが、これからお葬式に行くのでご案内はできないがと袋入りの資料を4人分出してくれた。
 浄泉寺は、大逆事件に連座した高木顕明師が住職を務めたお寺で、門前に同師の顕彰碑があった。

 本堂に上がり、しばらく見学したのち辞去する。入り口に初代新宮藩主が創建した旨の碑が建っていた。

佐藤春夫記念館は昨日参詣した速玉神社の隣だ。我々が入館すると、受付の御嬢さんが、テープレコーダーを回してくれた
「サンマ苦いか、しょっぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせ」佐藤春夫の声がながれる。生前住んでいた東京の家を移築した建物です。
次に新宮駅北の西村記念館に行く。館長さんが説明してくれた。「西村は、大石誠之助の甥で誠之助の影響を受け育った。与謝野晶子らとともに神田駿河台に「文化学院」を創立した教育者であり、建築家であった。この家は重要文化財に指定されている。大正3年竣工した。全体は特徴的な外観の洋風住宅だが、構造は木造の在来工法。1Fに居間と食堂、台所、2Fに寝室と浴室を配置、間取りは米国の近代住宅にならった。
 特に1Fの中心部を占める居間と食堂はガラス戸を挟んで一体。家父長制の時代に家族本位のつくりは先進的です。
 誠之助の遺品が展示されていたが、海外旅行用の大きなトランクが目を惹きました。
「佐藤春夫や中上健次など作家も新宮は生んでいるのですね。新宮には文化的な伝統があったのですかね」
「海に開いた地勢でしたから、海外の文化がはいりやすかったとおもいますね。」

「大石誠之助は医師で、貧乏人からは治療費をもらわなかった。ドアを3回ノックして入ってきた患者からは治療費をもらわなかったとか」Jさんが昨日の勉強会で聞いたことを早速披露すると。館長さんは「そう伝えられています。良くご存じですね」
私が「文化学院の創始者が西村と言う人だとは聞いていましたが、新宮の人とは恥じえて尻真っした。」と言うと、艦長さんは、
「今まで見学者はたくさん見えたが、誠之助をこんなに勉強されて来た方は初めてです。」
「珈琲を入れますから、時間が許せば飲んでいってください。」
珈琲を御馳走になった。
話は次々と出たが、2時半辞去。「昼食は昨日の“おとと”でとりましょう」と小生が言うと「尾鷲まで1時間かかるけど、朝飯をしっかり食べてきたから、昼は遅くなってもいい」とみなさんが合意して、雨の中、尾鷲に向かいました。
 3時半、おととに入り昼食をとるが、時分をはずれているので「ご飯とみそ汁ぐらいしかありません」とおかみさんが言う。
寿司は何種類あったので、寿司とご飯とみそ汁の昼食。でも、「味噌汁はホテルの味噌汁よりうまい」とSさん。満足して頂けたようです。土産物を買い込んで、後は一路名古屋へ。名古屋近くは渋滞しているとの情報で、桑名で高速を降りることにする。6時過ぎ、近鉄桑名駅で解散することにする。鈍行に乗ったので名古屋着は7時前になりました。
 乗車時刻が少し遅くても急行に乗るべきでしたが、7時15分無事に帰宅できました。密度の濃い二日間の旅でした。

熊野三社

2014-11-08 | 旅行

5日は熊野三社を参詣しようと、朝8時にホテルを出ました。42号線を西へ40分ほど那智に。車から降りると「おやっ」。ぱらぱらしてきました。天気予報は4.5日友晴天の筈だった。朱の建物が見えて、その横に白い滝の流れが見える。カメラに収めたが、望遠レンズなら、並び立つ滝と塔がもっと鮮やかに写せただろう。「塔に上れば滝をまじかに寫せる?」と塔に入る。
 金網が一部破られている。「ここからカメラを少しでも多岐にちかづけようとした?」

那智大社を参拝し、次に熊野本宮へ回ろうと車に戻る。

42号線を戻り、168号線との分岐点を目指す。
雨が本格的に降り出した。
「本宮では歩くところが多い?」
三社の中で一番歩きがきついですよ」とJさん。「傘を準備せずに行くのは無謀ですよ」と言う。コンビニに寄り傘を買おうかと思った。しかし、168号線に入ると、山中を走りコンビニなど-ず目に着かない。瀞八丁に繋がる道だ。1時間ほど走り、熊野本宮の駐車場に来た。
雨は止んできた。
「一寸、聞いてみまう」とJさんは車を降りて近くにいる人(地元の人らしい)に聞く。Hさんが足が悪いので、車で上まで上がれないのか?を聞いたのだ。「そこの右の道を上ると、本宮の裏まで行けるそうです。早速、その道を上がる。本宮の裏手に出た。駐車場があり、車を降りると、すぐ本宮に出た。
「今まで何回か来たけど、車でここまで上がれる道があるとはとは、知らなかった。」とJさん。
「えっ、こういうところ!」と私は思った。

数社のお社が横に並んで、まるで神社の長屋みたいだ。お賽銭を上げて参拝。
http://www.hongutaisha.jp/
境内には、千年の古木がご神体になっている。
また、秩父宮妃殿下の歌碑がある。

八咫烏の黒いポストを見つけた。現在も郵便ポストとして現役です。(続く)




熊野へ

2014-11-07 | 旅行
 11月4日、自動車総連時代の旧友4人で恒例の旅行会でした。10時、名古屋駅の新幹線口に集合。岐阜のHさんから「着いた」とのケイタイを受けて駐車場に行く。ここの駐車場は20分未満は無料なので、名古屋駅集合の場合は、こうして集まる。Hさんが愛用のマツダデミオに乗ってきていた。互いに久闊を叙して4名が車に乗り込み白川から名古屋高速に乗り、名古屋西ICから東名阪道。伊勢道、紀勢自動車道を経る。途中安農SAで少休憩した。大内山インターを過ぎると、料金所があった。「3530円だ。」
「ここに料金所」があるということは、この後は別の道路会社?」。この後42号線に至るまで。まだできたばかり(2014年3月)で、無料試用中だった。
「紀伊長島IC以南は、高速道路会社によらない国と地方自治体の負担による新たな直轄事業である新直轄方式で計画されているため、通行料金は無料」とのこと。
 それにしても大内山から尾鷲北にいたるまで、トンネルまたトンネルで、80%は、トンネルを潜っているようだ。12時半尾鷲に着き、「ぼつぼつ昼飯にしよう」と、レストランを物色。「おとと」という店に入った。珍しい魚料理のカフテリヤ方式だったが、魚類の土産も販売しており、「また、帰りに寄るか!」
 トンネルを通り過ぎると、新宮市に入る。今回の旅のメインは、熊野三社の参詣だが、Hさんは、せっかく熊野まで行くのなら「大石誠之助の顕彰碑や邸宅跡を訪れたい」と言う。
 大石誠之助は、新宮出身の社会思想家・キリスト者、医師。(大逆事件)で処刑された12名の1人。
が、 新宮に着いたが、どこにその碑があるかわからないので「とりあえず市役所に行き、聞けばわかるだろう」と市役所に入った。

「聞いてきます」と、Jさん、Sさんが車を降りたが、なかなか戻ってこない。
待ちくたびれた頃、Jさんが戻り「そこの駐車場に車を入れましょう」。新宮市内散策図」というイラスト入り地図を貰ってきている。すぐ近くだから歩いていくと言う。顕彰碑は市役所の裏手にあった。「しやくしょの職員は勉強不足だ」とSさんはぼやく。聞いても直ぐはわからなかったみたい。
「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」の建立碑で、このえん罪事件で刑死した12名中6名が新宮市の出身、当時の新宮市にあって社会奉仕の功績顕著な人々であったことから、その氏名を記し碑が建てられている。文中「当記念館の主西村伊作は大石誠之助の甥で影響をうけた」とあるが、当記念館がわからない。そこで、Jさんがケイタイで、市役所の広報に電話した。新宮駅の北に西村記念館というのがあるという。行ってみた。休館日だった。「月曜定休だが、月曜が休日の場合良く火曜日が休館」とのこと。昨日は11月3日の休日だった、「明日また来ればいい」。その後市内の熊野速玉神社にお参りした。

境内に梛の古木があった。

平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられ、梛としては日本最大です。 ナギは熊野権現の御神木と言う。
 参拝の跡、今宵の宿「休暇村 南紀勝浦」を目座す。新宮から南西へ。海岸沿いに20分ほど走らせ4時過ぎ到着しました。
 入浴後、部屋で勉強会。Hさんが「大逆事件と大石誠之助」を講義した。
 Hさんが大石の関心を持つようになった所以は、大逆事件(天皇暗殺の試み)に連座して受難した人々の中に浄土真宗の坊さんおおかたためらしい。浄土真宗のお寺の住職を務めるHさんとしては、先輩が何故事件に巻き込まれたかは、気になるテーマだったらしい。抗議の跡の討議も活発だった。
「大逆事件は、冤罪事件と言われるが、何故当時の政府当局者は、冤罪事件をでっち上げないといけなかったのか?私見では、明治維新で、薩長政権が生まれたが、彼らは何故日本国民を統治する権限を持つか理論武装が必要であった。そのために天皇制をもちだした。天皇が日本を統治する権限を有し、その天皇の命により薩長の官僚が国民を統治するのだ。しかし、この理屈がでっちあげに過ぎないことは。彼ら自身が良く知っていて、だからこそ、その理論の弱い所を衝く社会主義思想は絶対に容認できなかった。」
「仏教関係者やクリスチャンに、大逆事件で逮捕された人が多かったのは、宗教の教義からして、人間平等主義であることから、社会主義思想に関心をもったのでは?」
 大逆事件の話の後、目下の経済事件にも論議が及ぶ。
「日銀総裁の異次元金融緩和はどう思う?」
「あれはやりすぎじゃない」
『円安は輸入品の価格を上げる。日本にはマイナス。輸出が増えて、そのマイナスをカバーできればよいが、輸出はデータを見る限り増えていない。だから、日本全体としては円安はマイナスになっている。一方、トヨタなどの輸出企業は利益を上げている。ということは、輸出企業以外の部門でマイナスがあるということです(全体でマイナスだから)。誰がそのマイナスを引き受けているか。いずれにしても、得する部門と損する部門が生ずるということは、国民の所得分配構図を変えることになる。日銀に、国民の所得分配構図を変える権限があるのか。この点について、日銀総裁は、何の説明もしていない』
喋りくたびれてまた夕食の酒に酔い、8時過ぎに寝てしまいました。年は争えない。

木曽三川をウオーキング

2014-11-01 | 旅行

31日は、住宅シニアクラブ(早く言えば老人会)の幹事というか、世話役でウオーキングに行きました。今にも降り出しそうな天候でしたが、総勢8名(男2女6)揃って地下鉄で名鉄名古屋駅に。今日の行先は、は木曽三川公園です。
 10:04の鈍行佐屋駅行に乗車できました。30分ほどで、佐屋駅、ここから5㎞ぐらいですが、バスがない。往復10㎞歩くのはきついので、往きはタクシー。帰りにウオーキングにしました。駅前に一台タクシーが待っていました。まず4人が乗り込み先発。ケイタイでもう1台を呼んだのですが、なかなか来ない。10分強待たされました。「田舎はこれだから。」、「名古屋なら直ぐなのに。」、「だから田舎では、車とケイタイは必需品になるね。」、都会人は気が短いのです。
やっと。来ました。乗り込んで「どこから飛んできた?」、「津島駅から。」
では時間がかかるわけです。
 木曽川にかかる立田大橋を渡る。(写真は、下見のときのもの)
この先に長良川大橋。長良川大橋より左が三重県(桑名市)、右が岐阜県(海津市)、長良川の手前が愛知県(愛西市)です。この辺りほとんど海抜ゼロメートル地帯です。
左折して川沿いに木曽川文庫まで行きました。タクシー代は¥2000.。木曽川文庫は、木曽川の治水工事の歴史に関する資料を公開しています。隣に公園があって、デ・レイケの銅像が立っていました。

ヨハネス・デ・レイケは、オランダの土木技師で、明治政府の招きで、明治6年来日し、36
年の帰国まで日本の河川の砂防工事を指導しました。
 木曽三川、庄内川、吉野川、多摩川などの河川改修、長崎港、博多港、宇品港、東京港、横浜港などの港湾計画の作成を行った。勲二等瑞宝章を授けられ、木曽三川治水の恩人ということで、この地に銅像がたてられています。
 先発組と合流し、散策していたら、公園の隣に閘門(船頭平閘門)があることを発見、「ここで記念写真を撮ろう」と橋の上で写真を撮っていたら、制服を着た職員が来て「シャッターおしましょう」。その後、親切に説明をしてくれた。

「閘門は水位の調節をするしかけです」、「前の運河(人口の川を運河といいます)は、長良川に通じます。後ろ側は、木曽川につながります。木曽川と長良川とは当然水位が異なります。長良川は河川堰があるのでいつも同じ水位ですが、木曽川は潮の満ち引きで上下します。船が通行するためには水位を同じにする必要があります、そこで、ことら側から来た船はそのヒモを引っ張り(と実際に引っ張ってみせる。カランカランとカネが鳴る)知らせます。職員が門を開け閉めし水位を同じにするのです。(1回に20分ぐらいかかるとのこと)
「一日に何回ぐらい?」、「年間を平均すれば一日3回ぐらいですが、多い時は19回やったことがあります」
「どれくらい水位が違うかと良く聞かれますが、潮の満ち引きで違うのですよ」
「潮の満ち引きは、太陽と月と地球が一直線に並んだ時に一番大きく(大潮)、位置がバラバラになると、一番小さい。一日は24時間としていますが、地球の自転時間は24時間50分あまり。そこで、満潮、干潮の時間は毎日、それだけずれていきます。」と、今度は天文学の説明。
「ここの仕組みはパナマ運河を真似したのだろうと言われますが、違います。なぜならこの閘門はパナマ運河より2年早くできていますから。」今度は歴史です。
じゃ、パナマがここ真似開いたんだ!
「ここは無料ですが、パナマ運河の通航料はトン当たり、1ドル39セントで、約140円とみると、5万トンの船は700万円です」
まことに丁寧な説明をしてくれた。木曽川文庫を覗いた後、公園でお弁当を広げた。
昼食後。、タクシーで来た道を戻る。歩道の幅が狭いうえ、車がブンブン飛ばしていくので歩きにくい。河川敷の中の砂利道を歩いたほうが良かったかな?立田大橋までくると、改めて大きな橋だと思う。1000m以上ある。橋下の河川敷は公園になっている。(写真は下見のとき)

橋の中央に花が供えられていた。事故があったらしい。
橋を渡って500mほど歩くと、「道の駅 立田」があった。30分、店内で土産物を物色した。農産物を出品者の名前付きで売っていた。名物のレンコンと柿などを1000円ほど購入しました。
その後佐屋駅まで3㎞歩き、2:41の吉良吉田行に乗車。須賀口で豊橋行きの急行に乗り換え名古屋駅。3時半ごろ名城公園につきましたが、地上に出たら雨が降り出しました。家までは少しぬれました。でも、なんとか無事に楽しくウオーキングを終えました。