古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

『知識社会』とは

2009-03-29 | 経済と世相
「日経ビジネスオンライン」を見ていて“「工業社会」から「知識社会」へ”という記事を見つけてアクセスしてみました。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20090325/190043/

以下、そのくだり。

【「スウェーデンの最大の外貨収入源となる産業は何だと思いますか?」

聖心女子大学で開催された講演の壇上から、モハメッド・チャイブ教授(ヨンショーピン大学教授/スウェーデン全国生涯学習センター所長)は聴衆に問いかけた。

 「重工業は国を代表するイメージが強いですが、企業が大きくなれば工場を低賃金で勝る海外に移さざるを得ません」(チャイブ教授)。転出した国で雇用、製造し納税するのだから一昔前とは“国産”の意味も“国益”の本質も変わってきている。グローバル化の中で、コンパクトに最大の外貨の獲得できるのは知的・文化的産業、というわけだ。

 「これからの時代を担う知的産業の基礎となるのが、人が生涯を通して必要に応じて学び続けることを推進する生涯学習社会なのです」(同)。

 大量生産・大量消費、工場設備や低賃金労働によって支えられてきた「工業社会」から、資源の持続可能性を基本とした生産・消費、知的労働よって支える「知識社会」へ向けて、スウェーデン、北欧、そしてEUは大きく舵を取っている。 】

ここまで読んで思い出したことがあります。先日の麻生首相主催の有識者会議。経団連の有識者氏は「製造業への派遣を廃止すると、企業は工場を海外に移転してしまうから、望ましくない」と述べたそうです。

 私が思うに、経済をグローバル化するということは、先進国では低賃金に支えられる工場は成り立たない。そういう工場には、海外に行ってもらうしかない。それがいかんというならグローバル化を止めるしかない。グローバル化する以上、賃金が高くても成立するビジネスモデルを探求するのが経営者の仕事。派遣によって低賃金を維持しようと言う人が何故有識者?

 もうひとつ思ったことは、堺屋太一さんが、数年前から『知識社会』という言葉をさかんに述べているですが、いまひとつ『知識社会』の意味がぴんと来なかったのですが、この文を読んで明確に分かりました。

『知識社会』とは、知識と技能によって高賃金を維持できる社会のことなのだと。

竜泉寺&小幡緑地公園

2009-03-28 | 旅行
27日、住宅のシニヤのハイキングで、竜泉寺を訪ねました。7名が地下鉄大曽根駅で、ゆとり-とライン(ガイドウェイバス)に乗替え13分、小幡緑地駅に降り立ちました。

 朝方、小雨がパラツキ、天気予報では小雪も?ということでしたが、青空が出てきた。しかし、気温は花冷えです。

 徒歩で10分ほど、昔は城があったというだけに急坂ですが、登ると尾張4観音の一、竜泉寺観音です。仁王門(重要文化財)を潜ると、境内。「思ったより小さな寺ですネ」

 本殿の裏手、昔、竜泉寺城があった。今は城を模した宝仏殿があるが、平日は入館できない。

 竜泉寺城は、信長の弟・信行が築城したそうだが、歴史に登場するのは、小牧長久手の秀吉VS家康の合戦。秀吉軍の武将・池田勝入斎が中抜けして三河を襲おうと動いた。これを家康側が追い討ちし長久手で勝利をおさめた。直後小幡城に引き上げたのを、小牧の秀吉軍が一挙に殲滅しようと、小牧からこの竜泉寺城に入った。

ところが夜陰に乗じ、家康は小幡城を脱して小牧陣に引き上げてしまった。

 小幡城は、ここから2kmほどの地にあったが、現在は駐車場になっていると言う。そして、竜泉寺城は、その地に宝仏殿を残すというわけです。

 この竜泉寺、伝説では、延暦年間に伝教大師が熱田神宮参籠中に龍神のお告げを受け、多々羅池畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀ったのが開基とされている。一方、弘法大師も、熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納したといわれ、これより龍泉寺は熱田の奥の院とされてきた。

 参詣後、急坂を降りてくると、桜が咲いている。開花宣言から1週間以上経っているが、花冷えの所為か、まだ満開とまでは行かないが、一番花の開いた樹をカメラに収める。

 ついで、駅の東側に広がる小幡緑地公園に行きました。ここは県立公園。園域が広大で、本園、東園、西園と別れて、ここは本園です。地図を見て、竜巻池と緑が池を一周しようと、歩き始めました。今日は少し寒いが、暖かい日なら、樹々の間の散歩道は絶好の散策コースです。緑が池に着いた所で、11時半。ベンチに腰を下ろし弁当を広げました。

 昼食後、せせらぎ広場なる浅い渓流脇を通り抜け、池の東側、北側を歩く。時折、走っているジョガーに出会う。

1時過ぎ、ガイドウェイバスの駅に戻ります。バスは10分間隔で運行していますので、すぐ来ました。



大曽根経由名城公園には2時前。まだ時間が早いから、おしゃべりしてから解散しようと、MR・ドーナッツ。

 「今は年金でなんとか暮らせるけれど、収入が全然増えないのに、税金や社会保険料が年々増加するので、生活がなんとなく不安だよね」と、言い出すと。

「そうなのよ。75歳過ぎると特に保険料が上がるのよ」と、一気にシニヤの意見が盛り上がった。「ダンナにそう言ったら、“コイズミに文句を言え”だって」

(小生もダンナ様にまったく同意見です。)

「75歳過ぎたら料金はタダにするのが本当ですね」と言ったら、

「昔はそうだったのに」

 内閣支持率が低くなるわけです。

 1時間ほどだべって3時解散としました。


「私の時評」

2009-03-21 | 経済と世相
 西松建設の政治献金が、話題になっています。企業献金は政党あるいは政治資金団体などにのみ認められ、政治家個人には認められていないのに、企業のダミーの組織を使って個人献金を装い、小沢氏他の政治家に献金したということのようです。

「この団体の献金が西松建設由来のものとは認識していなかった」というのが小沢さんの言い分です。これは、認識の問題ですから、第三者が「認識していた」と証明することは極めて難しい。だから、従来ですと、この種の案件は立件することが困難で、秘書の逮捕に至ることはなかったと思います(言い換えると、それだけ政治資金規正法はザル法であった)。にもかかわらず、今回、検察が逮捕に踏み切ったことに、小沢さんは「国策捜査」だ、と口走った。

「国策捜査」とは、私の解釈ではこうです。この種のごまかしは、やっていない政治家はほとんどいないのではないか?だから、そのすべてを立件しようとすると、ほとんどの政治家を捜査しなくてはならない。そんな時間は検察にない。そこで、検察の思想からすると、気に入らない政治家だけを捜査して立件する。これが検察による「国策捜査」です(今回の件が国策捜査であるかないかは、ここでは論じません)。

 最初に、企業による政治献金の是非について考えてみます。

 経営者は、利益をあげることを、株主から付託されて、企業経営をするのですから、利益をあげない案件に投資したら「背任」になります。当然、政治に金を投入する時も、利益を得るためです。ところが、これは贈賄行為になります。ですから本来、企業は政治献金してはならない存在なのです。

 結論を言うと、政治献金は、選挙権を有する個人が行うべきもので、選挙権のない企業は政治献金を行うべきでない。

 そうは言っても、日本人は個人で政治献金する人が、ほとんどいない。現実問題として、政治に金は必要なのだから、企業に献金を期待せざるを得ない、と言われます。

 そこで次に、企業献金でなく、個人献金をさかんにする方法について考えます。

 私は、民主主義政治のために個人献金は不可欠で、個人献金を推奨するシステムが必要なのだと考えます。

 そのシステムとは、「政治献金を税額控除する」ことです。現在でも、政党助成金が税金から支出されます。ですから、税金を払う人が直接、税金のうちこの金額は○○党に上げて下さい、と指定しても一向に差し支えない。

 この方式を採ることにより、企業献金を禁止し、政党助成金も止めたほうがいい。

 話がそれますが、本来税金というものは、払う人が使い方を決めるのが、理想的だと思います。その意味で、「ふるさと納税」は、良いシステムだと期待していたのですが、「5000円を越えるふるさとへの寄付を税額控除する」と言う方式にしてしまったので、(私の期待する意味では)意味のないものになってしまいました。これでは、「ふるさと納税」する人には5000円の罰金を課するというのと同じです。

 どうも、財務省は「税金の使い方は、財務省が決めるのが一番良くて、国民に直接使い方を決めさせるなどもっての外」と考えているようですが、これについては次の機会に述べてみたいと思います。

讃岐うどんの話

2009-03-19 | 読書
先日のマラソンに出かける時、新幹線の中で読もうかと「辺境・近況」(新潮文庫)という村上春樹の本を、ポケットに入れました。マラソンの旅には、作家にしてマラソンランナーの春樹の本がふさわしいだろうと、思ったのです。

 この本、彼の旅行記を纏めた本で、「ノモンハンの鉄の墓場」という旅行記が載っていたので、最近、本屋で衝動買いしたものです。

 でも、今日は「ノモンハン」でなく、讃岐うどんの話題をこの本から紹介します。

「讃岐・超デイープうどん紀行」という章が載っていました。

【香川県という土地には・・・・うどん屋さん以外に何もないんじゃないかという気がしてくるくらい見事にうどん屋さんが多いのだ。

 四国に着いて最初に入ったうどん屋では、店に入るとまずおろし金と長さ20センチくらいの大根がテーブルに運ばれてきた。なんだこれは、と思ってまわりを見ると、客がみんなまじめな顔をしてこしこしこしこしと大根をおろしているのである。・・大根をおろすというのは本質的に個人的な作業なんじゃないかとふと思った。孤高な作業というほどのものでもないけれど、かといってあまり団体で揃ってやるものではない。・・・

 大根と一緒にすだちが運ばれてくる。テーブルの上には七味と葱と生姜が置いてある・・・それから醤油とチューブ入りの練りわさびと味の素。・・・香川県の多くの人はうどんに味の素をかけて食べるのである。

 それからどうしてうどん屋に醤油が置いてあるのか疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれない。これは、うどんにかけて食べるのである。つまり冷たいうどんが運ばれてくると、客はそこにじゃばじゃばと醤油をかけてそのまま食べてしまうのである。これは「醤油うどん」と呼ばれる。・・・蕎麦でいうとちょうど「もり」の感覚である。・・・

 このうどん屋さんは「小懸家」という店で、かなり有名な店らしい。】

【次に行ったのが丸亀の近くにある「中村うどん」だが、ここは文句なしに凄かった。・・・ひどく交通不便な場所にあるうえに店の場所もわかりにくいので、一般旅行者にはまったくお勧めできないけれど・・・苦労していくだけの価値のあるうどん屋である。

 この店はほとんど田圃のまん中にある。看板も出ていない。入り口には一応「中村うどん」と書いてあるのだが、それもわざと(だと思うけれど)道路から見えないように書いてある。

 うどん屋というよりはむしろ建設現場の資材小屋みたいに見える。間に合わせみたいな小さなテーブルがいくつか並んでいるだけである。・・・ここの店では客が並べて置いてあるうどん玉を勝手にゆがいて、だし汁なり醤油をかけて食べ、勝手に金を置いて出てゆくのである。

 もう18年うどん屋をやっとるなぁ、と中村子は言う。その前は養鶏場やっとったんやけどなぁ、前に製材所ができてうるそうなってなぁ、鶏が卵うまんくなってしもうてなぁ、そいでうどん屋始めたんや、ということであった。養鶏場から突然うどん屋に商売変えするという発想も大胆だと思うのだが、香川県ではそれほど不自然なことではないのかもしれない。

 うどん屋の建物の裏は畑になっていて、そこには葱が植えてある。お客の証言によると、昔「おっちゃん、葱がないで」と文句を言ったら、「やかましい、裏の畑から勝手に取って来い」と中村父に叱られたそうである。

 「中村うどん」ではうどんを二本の足で踏んで捏ねる。捏ねる機械がないと保健所は営業許可をくれないから、開店のときにはいちおう中古の機械を入れて置くけれど、その検査がおわってしまうとあとは機械なんか使わないで、ずっと人間の足で踏んで作っている。】

 とまぁ、こういう話が次々出てくる紀行文です。ホンとかな?と思っていたのですが、17日朝のNHKの「生活ほっとモーニング」で、似たようなお店が紹介されていました。

追伸:知人から本稿に関し次のURLの紹介を頂きました。
http://www.flour-net.com/blog/prox.html

http://www.flour-net.com/blog/spre.html


桂川河畔を走る

2009-03-17 | マラソン
「第31回京都ロードレース」に出場しました。
15日朝、7時半に家を出て、8:22発のひかりに乗りましたが、このひかり、名古屋までがひかりで後は各駅停車。9時15分に京都に着きました。
 マラソン会場の松尾橋までは、前夜インターネットで調べたら、京都タワーと京都駅の間のバス停から28系統の市バスに乗れば良い、ということです。
 バスは9時35分に来た。四条通を通ります。「壬生寺道」というバス停がありました。
「壬生って新撰組の壬生?」、「壬生は、小説ではずいぶん田舎に思えたが、こんな街の中なの?」
京都三菱自動車の建物が見える。「この工場の部品は現役時代(と言っても40年以上前)に沢山作らせてもらった」が、工場を見るのは初めて。
 35分ぐらいで松尾橋。桂川にかかる橋です。昔、この上流の日吉ダムでマラソン走ったことあるな、と思い出しました。
対岸の川原に大勢人が集まっているのが見える。「あそこだ」橋を渡って、川原の広場に下りる。ここが、嵐山東公園らしい。受付で、ゼッケン、プログラム(選手名簿)、参加賞(靴下とTシャツ)を受け取る。「シニヤ賞(高齢者賞)ですよ」と包を呉れた。「中身は何でしょう?」、「京都のお漬物です」「ありがとう」。
 選手名簿で確認したら、ハーフ出場者の最高齢者は75歳、小生が2番目の高齢者でした。出場者(ハーフ)は、796名(男643、女153)だ。5kmと3kmあわせると1451名の参加です。遠くは北海道からも参加者がいる。
 コースは、桂川河畔のサイクリングロード3.5kmを3往復する。車の通る道でないから。これなら交通規制はしなくて済む(実際には一箇所、一般道と交差するところがあって、そこでは京都府警が交通整理をしていた)。
 これは、金沢の犀川のマラソン大会と同じやり方だな。

 お天気は雲ひとつない天候になった。11時に3kmの部、11時35分、5km男子(50歳未満)、12時15分、5km女子と男子(50歳以上)。と順次スタートする、場所が狭いから各レースが終わって次のレースという運営です。ハーフのスタートは、12時50分でした。午後スタートという大会は珍しい。その方が、交通機関の関係で参加しやすい人が多いのかも?

 スタートの号砲で駆け出したが、道幅が狭いので、ランナーが混雑、脚を踏みそうで、5分ぐらいはゆっくり行くしかない。1kmぐらいで間隔がばらけて来た。2kmも行かないうちに折り返し。ひたすら前のランナーに付いて行くと、松尾橋下が給水場になっている。なおも走り続けて5kmの標識を過ぎると、すぐ第二折り返しがある。桂川の流れを右に見て走る。8km地点近くで先導のオートバイに追い抜かれた。すぐ先頭ランナーが来る。8kmで追い抜かれたから、この時点で、先頭ランナーは15km走っていることになる。10km地点で時計をみると1時間3分。
 3周目。最後の第二折り返しを折り返す。「何とか無事に完走だナ」と思った。20km地点で時計は、2時間6分。前半の10kmと後半の10kmをイーブンで走ったから、スピードはないが、まずまずだと思う。ゴールは、自分の腕のストップウオッチで2時間12分54秒。

 着順札を貰う。496位だ。多分男子の順位だろう。この番号札に自分のゼッケンと氏名を記入して記録係のテーブルに出す。この札とゴールの記録係のタイム記録と照合し、ランナーの公式タイムとするわけだ。この辺も金沢の大会と同じだ。
 最近は、ランナーズチップを装着してコンピューターに記録させる方式がほとんどだが、こういう手入力の大会も残っているわけだ。

 完走証は、プログラムの裏表紙にあって、自分でタイムを書き込むことになっている。しかし、完走記録の掲示が時間がかかって遅くなったので、先に帰ることにする。
 タイムは、全員の記録を実費200円で郵送するというので、200円を払い、会場を後にした。
 帰りは71系統のバスに乗る。四条通を通ることは朝と同じだったが、駅の通りの手前で右折して9条通りまで回って、途中東寺の五重の塔を見る。乗車時間35分で京都駅八条口に着く。
 新幹線は、4時56分。帰りのひかりは、本当のひかりで、名古屋までノンストップで35分。京都で市バスに乗っていた時間と同じでした。
 新幹線の中の缶ビールは美味かった。6時丁度に帰宅できました。

第30回名古屋女子マラソン

2009-03-11 | マラソン
「名古屋女子マラソン」は、尾張名古屋に春を告げます。

 3月8日午後、まずTVにかじりつきました。今年は、新谷、藤永の若手・新人の前評判が高い。Qちゃんこと高橋尚子さんのラストランも話題です。春先に名古屋特有の強風もなく絶好の天候になりました。レースは、ケニヤの選手が飛び出して、序盤からバラける展開になりました。中国選手と、新谷・藤永が付いて4人が先頭グループを形成したところまで見て、TVは録画にして、1時、道路に下りました。

 歩道は、選手を待ち構える大勢の人々。スタッフが、選手名簿を載せた中日新聞を配布しています。新聞を貰い、21km手前の地点で、選手を待ちました。

 1時25分ごろ先頭グループ4人が来ました。デジカメで4人をばっちり写したと思いました(後刻、PCで画像を見たら「えっ二人しか写ってない?」。良く見たら、僅かに資生堂のピンクのユニフォームと新谷選手のブルーのユニフォームが外人選手の後ろに。シャッターを押した時は4人画面にいたが、その直後、日本人二人は外人選手の後ろに入った?)。(貼付写真)

 しばらくして、第二集団10数人が一団となってきた。それから、地元の大南が来る。大南は最初から遅れている。今回は体調が良くないみたいだ。

 ジンバブエの黒人選手が来てシモン選手が来る。この二人、道路の中央側を走っている。コースはこの後すぐ左折するから、どの選手も歩道側に寄って走る(だから写真を撮りやすい)のに、二人は歩道側でなく中央沿いに走っている。コースを良く知らないらしい。

 いつもは、トップグループが通過すると、皆、次の地点(25~26km地点)に移動するのだが、今年は違う。Qちゃんがまだ来ないからだ。

 やがて、遠くに小さく選手が見えてきた。「Qちゃんだ」の声が上がる。遠くから見ても(ゼッケンが判読できなくても)、独特の腕の振り方でQちゃんと分かる。

 笑顔のQちゃんだ!最初から最後まで42kmを笑顔で走るって大変なんだ。「顔の方が脚より疲れる」との瀬古さんの評も分かる。

 その後、26km地点に移動した。しばらく一般参加の選手の走り、ゼッケンを見ていた。新聞片手に、「おっ、東大陸上クラブ!東大にもフルを走る女子学生がいるのだ」、「広島陸連!広島の選手だ」、「熊本陸協!遠方からご苦労様」といった具合です。

 トップ集団が来ました。依然、4人です。大分離れて第二集団。しかし、大南が来ない。いつまで待っても来ない。滅多に棄権はしない選手だが、今日は棄権したらしい。

 Qちゃんが行く。

 30km過ぎの地点に移動して、折り返してくる選手を待つ。いつも大体30kmぐらいで飛び出す選手がいるのだ。今年は誰が飛び出すか?

 来た!青のユニフォームだ。新谷だ。2年前、東京マラソンを走った時、女子の優勝は新谷と聞いて、「にいや?」「そんな選手っていたの?」と思ったものだが、ここまで成長したか!今年は新谷で決まりだな。

 Qちゃんが走り去るのを確認した後、家に帰ろうと思ったが、次々と一般参加選手が来るので、道路を横断させてくれない。歩道橋も通行止め(見物客が歩道橋にあふれるのを避けるため)。2時半近くになってやっと歩道橋が渡れるようになって、帰宅。TVを見たら、40km過ぎ、先頭をピンクのユニフォームが走っている。

「あっ、藤永が逆転した!」

「もの凄い粘りですね」と言う瀬古さんの言葉が、今年の名古屋マラソンを、一言で評しています。実際、10kmぐらいから、藤永は先頭に離されては追いつき、離されては追いつきを繰り返していた。長崎諫早高校出身のスター選手が現れました。初マラソンでの快挙。2時間28分13秒は、名古屋マラソンの記録としては平凡だが、初マラソンとしては立派なものです。

 以上、第30回名古屋女子マラソンの観戦記です。

桑名リバーサイドマラソン

2009-03-02 | マラソン
「桑名リバーサイドマラソン」に行ってきました。以下、ご笑覧ください。

3月1日、目が覚めたら5時前でした。少し早いけど、また寝たら寝過ごすと、起きることにしました。8時のバス、長島温泉行きに乗るつもりでしたが、早く行こうと、近鉄にしました。バスでは、8時が始発(日曜朝の温泉行きに7時台から出発する人はいません)。6時過ぎ家を出たら、路面が濡れている。夜、雨が降ったらしい。

 6時51分の近鉄急行で20分、桑名駅に着きました。朝、インターネットで三重交通のバスを見てきました。長島温泉行きは7時半の筈と、バス乗り場に行くと、次から次へと、臨時バス。ランナーたちが黒山のようです。「インターネットに臨時バスまでは出ていなかった」が、バス会社は、この絶好の機会を逃すはずがない。7時45分、会場のナガシマスーパーランドに着きました。

 この大会は、以前は長島リバイサイドマラソン」だったが、4年前、市町村合併で桑名市になったことから「桑名リバーサイドマラソン」になった。5年前、最後の「長島マラソン」を、那須塩原のKさんと一緒に10kmを走った(日記をみると55‘29のタイムだった)が、すごく寒い日だった。今日は、雲がかかっているが昨夜の雨の所為か暖かい。半袖にするか、長袖にするか一寸悩んだが、周りをみると長袖派が多いので、長袖にした。

 二階の更衣室で着替えし、貴重品だけウェイストポーチに入れて、下に降りたらそこに貴重品預かり所があった。「腰に付けて走るより預けておこうか」とポーチをあずけてから、気が付いた。「シマッタ!ストップウオッチをポーチに入れたまま預けてしまった!」

「まあ良いか、腕時計でも分かる。9時半スタートで、制限時間は2時間半だから、12時までに戻ってくれば良いのだ!」

名簿で確認したら、ハーフ出場者は2148名。最高齢出場者は75歳。小生が2番目の高齢者でした。

9時半、ハーフがスタートした。スタート線を1分10秒で踏んだ。
最初、2km近くまでは、前の走者の足がぶつかりそうで、ゆっくり行くしかなかった。
伊勢湾河口に出て長良川河畔を上流へ。青空が広がり暑くなってきた。堤防の上を走ると、景色が良く絶好のジョグコースだ。3km地点で最初の折り返し。

スタートから手首で、腕時計が走る衝撃で踊っていて気になったが、汗ばんできてベルトが汗に濡れてきたら、腕に密着して踊らなくなった。

河口に戻り今度は木曽川河畔を上流へ走る。リバーサイドマラソンの名の由来です。

10km手前で、向こうから愚息の折り返してくる姿が見えた。すれ違いに左手を上げて合図したら、愚息も分かったらしく手を挙げて返礼。昨日「長島まで車に同乗させろ」と言ったら、「友達の車に同乗させてもらうんで、ゴメン」と言った。まだ、こちらは10km手前なのに、愚息は多分16kmぐらいだろう。大分差がついたが、こちらが1km6分で走っているのに、愚息は1km4分だから仕方がない。

10kmで腕時計を見たら、10時33分。このペースだと、2時間10分ぐらいかかりそうだ。13km近くで折り返す。今度は堤防下の道を走る。帰りは、堤防に遮られて景色はぱっとしない。20km手前で、また堤防上を走る。何とかゴールまで走れた。

完走証を見ると、

2時間12分28秒

424位/549人中(50歳以上男子)

スタートロスをひくとほぼ2時間11分で走っている。

タイムも順位も平凡だが、もうこの歳では、最後まで走り続けられれば立派だ、と思うことにする。

このマラソン大会は、「湯浴みの島」入場券を貰えるのが人気の一つです。

着替えをしてから隣接する大浴場、「湯浴みの島」へ。お天気が良いので、露天風呂で疲れをいやし、3階のレストラン街で昼食。食堂の大スクリーンは、TVの琵琶湖マラソンを放映していました。

その後、土産物屋で、貝新の貝の佃煮を買う。これで小額ながら長島町にお金も落としたから、地域おこしに貢献を済ませたと、帰途に着きました。2時の高速バス名古屋行きに乗車、3時過ぎの帰宅でした。

追伸:前回の長島マラソンの記録は

http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20040308