古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

海王丸

2006-10-31 | 経済と世相
 29日は、午後名古屋港に出かけました。
練習帆船 海王丸が停泊していて一般公開しているということでしたので、
見学しようと思ったのです。
 ところが、埠頭に行ってみると、延々と行列が並び、「ここが行列の最後尾です」と言うスタッフに聞くと
「1~2時間は行列しないと入れません」。万博みたいだ!
 中を見学するのを諦めて写真だけ撮って帰ることにしました。
来月22日、この名古屋港のイタリヤ村で、愚息が結婚式を挙げる予定なので、その辺も散策しましたが、
日曜日の所為かにぎやかでした。

知多半島の旅

2006-10-30 | 旅行
 27,28日と南知多の旅に出かけました。D社OB会のバス旅行です。
 10時、集合場所の旧D社本社前に行くと、旧本社は住宅展示場に変身していた。
 「何時から開業したの?」、「今月からみたいよ」、「じゃ、開業したばかり」。 30年余通った本社も工場も跡を止めない。時代の変遷を今更ながら思った。

 出発して、一路セントレア(中部國際空港)を目ざす。途中一度休憩したが11時過ぎ空港につく。「トヨタ空港」とも陰口をいわれる空港だが、一昨年2月万博前の竣工で、私は、初めて。
 最近は空の旅はすっかりご無沙汰でした。展望する伊勢湾のかなたに志摩半島がかすむ。目に沁みるような青空だった。
 セントレアホテルで昼食。その後、半田の「ミッカン酢の里」という酢作りの博物館を見学。
 ミッカンとは、勿論有名な酢のメーカーだが、社章が丸の上の三本線(創業家の
家紋、丸に三本線の三本線を丸の外に出したもの)であることから「三ツ環」の意味だそう。創業203年、創業以来「7万4千余日」の表示がでていた。
 工場は今も昔の外観をとどめるように、電線などは外部から見えないようにしている。工場の外の運河は昔は酢の運び出しに使ったもので、「黒澤明が『姿三四郎』の撮影でロケしました」と案内嬢が言う。
 ロケした昔には、この案内嬢はまだ影も形もなかったろうにと思った。
 酢というものは、案内嬢の説明によると、酒粕を3年寝かせて、その後各種の工程を経て出来るのだが、それぞれの工程に、また寝かせる期間があるから完成まで3年半かかるそうだ。
 見学後、今度は「野間大坊」に向かう。
 この辺りは、数年前、町村合併で「南セントレア市」になる筈だったが、このカタカナ市名に反対が噴出、住民投票にかけたら、反対が多くて名前どころか合併もご破算になった。
 そもそも「南セントレア」は「セントレアの南部」の意味で「セントレアの南に隣接する」の意味はないから、日本語の使い方として間違っていた。
 「野間大坊」に着く。源平の昔、源義朝が入浴中を襲われこの地で死んだと言う。「我に一本の木太刀もあればむざむざ殺されまいに」と最期の言葉を残したとの言い伝えがあり、彼の廟所の前には、木太刀を模した木片が山のように積み重ねられている。
 また戦国時代、信長の三男織田信孝が、柴田勝家と連合して秀吉に抗したが、遂に破れここで自刃したと伝えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%96%93%E5%A4%A7%E5%9D%8A
 4時過ぎホテル。ホテルは野間大坊の近くだった。
 「夕陽」と「料理」が売りの宿。展望風呂から見た落日は圧巻だった。対岸の志摩半島の島影に、真っ赤な火の玉がかかったと思うと、見る見るうちに沈んでしまった。「秋の陽は釣瓶落し」を実感する。
 「地球の自転のスピードってすごく速さだ!」因みに計算したら、地球の円周は
4万Km、一日で一回転だから、周速は40000/24=1667Km(時速)だ。新幹線の8倍のスピードです。

 翌28日。バイキングの朝食の後、部屋にもどると、皆 薬を飲んでいる。
「クスリ、たべてるんじゃない!」。まァ相部屋の6人は70代が4人だからしゃあないか!
. 午前は「えびせんべいの里」、「魚太郎」、岩屋観音を見てホテルに戻り昼食。昨夜の夕食もこの昼食も豪勢だった。午後は「国盛」の「酒の文化館」を見る。 岩屋観音以外はまるきり買物ツアー、田舎者の買物に徹して、リュックいっぱいでは足りなくて、手に大きなビニール袋を抱えての帰宅になりました。


上田篤さん(2)

2006-10-24 | 読書
 さて、本論の「一万年の天皇」です。後書きで、筆者はこう語っています。
【わたしは、(阪神・淡路大)震災をいろいろしらべた結果、「地震で死んだ人は
800人なのに、その5,6時間あとに、火災で死んだ人は4200人という大惨事になった原因は、大阪ガスが元栓を締めずにガスを流し続け、関西電力が各所の切れた電線を応急処置して電気を流したためあちこちで電流がショートしてガスに引火し火災をおこしたからで、それをゆるした行政当局の誤判断」と書いた原稿が没のされた・・。
 そういうマスコミに絶望したわたしは、しかたなしに『雑家』という月刊の「個人的政治評論雑誌」をつくって「阪神・淡路大震災」にとどまらず、日本社会のいろいろの分野の問題についてしらべ、自分なりの主張を書きつづけた。・・・
 そういう勉強をかさねてきて、わたしは日本の国をわるくしたのははじめは「政治家と官僚とマスコミだ」とおもったが、だんだん「学者が問題だ」とおもうようになった。・・・
 たとえばアメリカは現在の日本にとってふかい関係がある国なのに、アメリカの
片々たる情報は新聞・雑誌にいろいろ書かれているがその総体の研究となると
ほとんど見あたらない。だから「アメリカとはいったいどういう国なのか」ということがじつは庶民にもよくわからないのである。
 日本の文化人類学は世界中の未開社会の文化などをよくしらべているが、
現代アメリカの文化人類学は皆無にちかい。
 ところがそのうちに、そういう学問の体質はかならずしも学者の問題ではなく
「日本の歴史の問題だ」とおもうようになった。つまりある時期から、日本という国がまったくおかしくなってしまったのである。
 それはいわゆる「戦後民主主義の時代」をのみさすのではない。
 じつは140年まえの明治維新に決定的問題があったのだ。
 とすると、現代日本のさまざまの問題を解決するためには、明治維新にまで
さかのぼってもういちどかんがえなおさなければならない。・・・
 本書もそのひとつである。】
 「後書き」のあと「はじめに」を見てみる。
【昭和の敗戦後に日本の経済は成長したかもしれないが、反面、社会のモラルも
日本人の誇りも失われて、かつての日本では考えられなかったような奇々怪々な
事件がつぎつぎにおきる無責任社会となっている・・・問題の本質はここにある、
とおもう。】
【つまり現在の日本人から日本文化が失われたことだ。皇位継承問題をめぐる「迷走論議」は、はしなくもそのような問題の一端を露呈したにすぎない。
 明治維新を形容してよくいわれる「和魂洋才」とは、じつは近代史学者のあいだ
では明治10年までの話であって、それ以後は「洋魂洋才」あるいは「無魂洋才」になった、といわれている。】



上田篤さん

2006-10-24 | 読書
 本屋をのぞいたら『一万年の天皇』(文春新書)という新刊がでていた。
著者は上田篤さんです。早速買い求めました。何故購入したのか、話は30年ほど昔に遡ります。

 昭和52年、トヨタ自動車が創立40周年記念事業として、車あるいは企業についての論文を一般公募しました。一席の論文には200万円の賞金を出すというのです。
 「よしっ!チャレンジしよう」と「私の企業論」を書き綴り応募しました。
 余談ですが、当時はPC等という便利な文房具はなくて、すべて手書きですから
手間はたいへんでした。
 何しろ200万円です。そんなに簡単にGET出来るほど世の中甘くない。一席にはなれませんでした。が、「佳作」に入選しました。
 さすがにトヨタさんです。「佳作」にも賞金が出ました。50万円(税込みでは¥555、555)でした。
 30年前の50万円は、私の感じでは、今日の百万円以上の使いでがあった。この年はボーナスを一回余分にもらった思いでした。
 で、その時一席に入選したのが、当時阪大助教授の上田篤さんです。この上田さんの入選論文を読んで「やはりプロは違う。上田さんだけあって、「私よりは一枚上だ」
と感服しました。(この入選論文は、その後、中公新書として刊行されました。『くるまは弱者のもの』)
 この時、「上田篤」という名前が、私の脳裡にインプットされたのです。
 上田さんは「建築学」を専門とする学者ですが、その後京都大学教授となり(現在は京都精華大学名誉教授)、総合雑誌にかずかずの論文を発表する日本の論客の一人になりました。発表論文の内容からすると「建築学」というより「文明論」の専門家のように、私には思われます。
 トヨタの論文以後、上田さんの新刊は出るたびにチェックすることにしているのです。

 以上が本を買った理由ですが、悠仁親王の誕生で棚上げになった観がある「天皇の男系・女系論」、尊敬する上田さんは、どう述べているか、期待して読み始めました。

 この本、「後書き」と「はじめに」が一番面白かった。(続く)


三波春夫さんと池内了さん

2006-10-23 | 経済と世相
 先日(18日)の党首討論では憲法改正論議がなされましたが、17日夜教育TVで、作家の森村誠一さんが三波春夫について語っていました。三波さんは森村さんと親交が深く、電話で長話する機会が多かったそうですが、そうした電話論議で、こんな話をしたそうです。
三波:「憲法で、国権の発動である戦争は・・」は、国家の独立権を否定している。改正すべきだ。
森村:「女性が美しく装う権利」は法律に書いてなくとも当然認められます。ところが、戦時中はパーマネントは不可とか、着物の袂はちょん切れとか、この権利が認めらない時代でした。戦争は女性の天敵です。政府に戦争の権利を認めるわけにはいかないという意味で、別に独立権を放棄したわけではないでしょう。
三波:「あァそうですネ。袂をちょん切ったことありましたネ。なるほど・・・」
と、納得してくれました。

 同じ日の中日朝刊に、天文学者の池内了さんが、「ピカソで日本を守る」と題して、以下の投稿をしていました。
【日本を戦争のできる国、常備軍を備えた国にしたいという声が喧びしい。・・・
しかし、本当に国を守るのは軍隊なのだろうか。
 第二次世界大戦の際、日本の多くの都市は空襲によって灰燼に帰し、多くの人命が失われた。それらの都市の多くには、軍事基地があり、軍需産業が操業し軍港があった。考えてみれば当然で、敵側からみれば相手の軍事力を殺ぐためにはそのような都市を壊滅させることが戦争に勝つ第一歩であるからだ。・・・さらに言えば、軍隊は国を守るという名目で、人々を見殺しにしたり、民間人を盾にして自分たちだけ延命を図ろうとするのが常である。中国東北部(満州)でも沖縄でもそうであったように、軍隊は人を守らないのだ。軍事力で日本を守ろうとするのは幻想なのだ。・・・
 日本に原爆を投下する際に京都も標的の候補になっていたが、時の陸軍長官スチムソンがそれを押し止めたと伝えられている。文化的伝統を保存してきた京都に原爆を落とせば世界中から非難を浴び、戦後世界の覇権がとれなくなると懸念したという。つまり、京都を原爆の惨禍から守ったのは文化の力だったのだ。
 その教訓を知っていた私は、バブル経済が膨れ上がった頃、日本が金にあかせて世界の名画を買い漁ったのを、実は好ましく見ていた。あぶく銭であっても文化が豊かになるために遣うなら、それも良かろうと考えたのだ。・・・(死んだら棺桶に入れてくれと遺言を残した企業家がいたのには失望した)。
 都市を文化の華、「ピカソ」で飾り続けること、それが憲法第9条が求めている真の平和の世界・・と信じている。】

 要するに憲法は、為政者が国民から統治権・徴税権を受託できるのは憲法を守るという条件下においてであり、そのための国民と為政者との間の契約書であって、
「美しい国」のあり方をのべるものではないと思います。
追伸:「美しい国」は良いのですが、韓国語では(そして中国語でも)「美国」はアメリカを指すのが気がかりです。



リュックを背負って、ジャスコに行こう!

2006-10-11 | 経済と世相
 去る8月25日のことです。なけなしのヘソクリ30万円を持って、大垣共立銀行に駆けつけました。「中日ドラゴンズ定期」なるものを求めるためです。

 この日取り扱いを始めたこの定期預金は、「ドラゴンズがセ・リーグ優勝の場合年利0.7%、日本シリーズ制覇で1.1%。10万円以上30万円までの半年定期預金」です。
 通常は0.15%ですから、セ優勝で0.55%も得になる!既にマジックは出ています。60年来のドラゴンズファンとしては、加入せざるべくんやと、駆けつけた次第です。

 さて、マジックは出たのですが、それからの2位阪神の粘りはすごかった。中日以外のチームとの試合では全然負けないんです。「若しかしたら落合に勝たせたくないんで、四球団はわざと阪神に負けてるんじゃない?」と疑うほどの勝ちっぷりでした。
 それが、やっと決まったのです。「落合は偉い!」。だって中日の優勝は、落合がくるまで10年に一回のペースでした。それが3年に2回ですから。

 と、喜んだのですが、どれだけ金利で儲けたかを計算したら・・・
 優勝しなかった場合・・・0.15%×300000×0.5(半年だから)=225円
 優勝で・・・      0.7%×300000×0.5=1050円
   1050-225=825、10%の税金を差し引くと742円の利益でした。
 日本シリーズで勝つと・・1.1%×300000×0.5=1550円
 (1550-225)×0.9=1192円の利益・・・
 たいした金額じゃなかった!
 
 それにしても、金利って安いんですね。メガバンクは決算で空前の利益を上げているのに!
 庶民は安売りを活用して生活防衛に努めなくっちゃ!

 今朝、中日新聞社は、契約してない家にまで、中日新聞と中日スポーツを投函して行きました。広告が一杯!今朝の新聞の折込は、祝優勝セール一色です。リュックを背負って、ジャスコに行こう!

 以上、優勝に沸く名古屋からです。

 


いい話

2006-10-02 | 放送大学
良い話を聞きましたので、紹介します。

放送大学の「卒業生と交流する会」というパーテイがあるというので、1日11時、愛知学習センターに出かけました。立食パ-テイで、頃合いを見計らって、今年の卒業生のスピーチです。

品の良いご老人がマイクを握りました。
『皆さん、3万という数字を聞いて、何を思われますか?』と話し始めた。
「年間の自殺者数?」と思ったら違っていた。
『私が生れてから今日までの日数は3万千を越えました。3万日で82歳と少し。3万日生きられずに亡くなる方が多いのです。一日一日を大事に生きましょう。
 私は、昭和20年9月、名古屋大学工学部を卒業しました(大先輩だな!)。終戦直後の混乱で、卒業式もなく卒業証は紙切れ一枚を事務官から貰っただけでした。今日、所長さんから卒業証を頂き、とても嬉しい日になりました。
私が、放送大学を志したのは、図書館でパンフを見つけたのがキッカケでした。私 の専攻は「応用化学」だったにも拘わらず、放送大学の「有機高分子学」の単位試験は4回失敗し、5回目にやっと単位が取れました。
私の若い頃と、学問の内容が全然違っているのです。「化学」だけではないでしょう。

 生涯学び続けないと、今の学問についていけず、今、世の中に進行していることにも理解が及ばないということになるのです。』

聞いていて、我が意を得た思いでした。40年前の大学で教えていた内容と今日の 大学で教える学問とは、内容がまったく違う。分かりやすい例を挙げると、例えば、DNAなどはまったく教えられなかった。DNAのらせん構造が発見されたのは、確か昭和28年頃だから、昭和30年に学校で教えるわけがない。だから、大学卒と言っても、4~50年前の大卒が、今日、大卒に相応しい知識を持っているわけではない。というのが、私が放送大学に参加しはじめた理由でした。
私と同じ考えの人は居るものですね、と感激し、話し終わった85歳の大先輩に歩 み寄り、挨拶をしてきました。