古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

火の進化論

2013-03-28 | Weblog・人生・その他
『火の進化論』という面白い記事を見つけました。
26日の中日夕刊「編集委員室」です。以下、ご紹介します。
【二足歩行が猿から人間への進化をもたらしたと思っていた私にとって、目白大学の林俊郎教授の「火の進化論」は、これまでの疑問を氷解させる説得力ある新説だった。
 脳が利用するエネエルギーはブドウ糖。だから低血糖になると昏睡となる。一方、果実や肉から摂取できるブドウ糖は少なく、人類は長い間ブドウ糖不足だった。穀物やイモ、豆などからはブドウ糖がたくさん摂れるが、これらの「生のデンプン」は消化できない。
 ところが、生でんぷんは火を通すことで、結晶構造が崩れて消化・吸収できるようになる。このことは日常、だれもが体験している事実だ。
 約200万年前、人類は火で調理することを知った。そして、脳の栄養分であるブドウ糖の大量摂取が可能になり脳が大きくなった、というのが火の進化論だ。
 猿人は大きな盲腸を持っていたと考えられる。猿人は盲腸で生のでんぷんを大量の腸内細菌で発酵させ、腸内細菌から栄養を摂っていた。火で調理することで大きな盲腸も不要となり、ずんどうの猿人がスマートな原人になったという。
 とても魅力的な新説だが、日本の進化論学者の間では話題になっていないようだ。林教授が「腸内細菌」という異分野の研究者だからかもしれない。最近、欧米から似たような新説が提唱されているという。火の進化論が見直されるかもしれない。

自然史博物館

2013-03-25 | 旅行
24日、豊橋に行きました。思い立って自然史博物館を見に行ったのです。(週刊文春昨年12月13日号に福岡伸一博士が紹介していました)
自然史博物館は、二川町の動物植物公園内にあります。朝8時に家を出て、東海道本線の二川駅(豊橋の東隣)には9時40分ごろ。この駅に降りたのは10代のころ以来ですから、60年ぶりくらい。当然ながら、すっかり駅周辺の様子は違う。

 南口に出ると、駅前には花に飾られた恐竜像が出迎えてくれます。公園まで6~7分の距離ですが、道案内がわりに、かわいい動物の石像が並んでいます。動植物公園が、二川のセールスポイントになっているのですね。

 (もう一つ駅の北側には、二川宿本陣資料館があります。)
 公園に着き入場料¥600を払い、中に入る。家族連れが多い公園です。自然史博物館は、奥の方にありました。受付の前に大画面の映写室があり、アニメの上映をしていました。この映写室の入場料だけは公園の入場料とは別でした。
 最初の展示室に入ると、オーストラリヤ西部のシャーク湾の写真。遠浅の海岸一面に黒い球形の物体が無数に並んでいる。ストロマトライト(層状構造の石)と名付けられた石です。
 これを作り出したのは、藍藻。今から20億年以上前、原始の海に光合成能力を持った微生物が生まれた。もっとも初期に発生した植物が藍藻です。太陽の光エネルギーを使って二酸化炭素から有機物を作る。藍藻は光を求めて浅瀬を好む。自ら泳ぐことのできない藍藻は潮で流されないよう、粘液を分泌し、水底の岩や砂に定着した。昼間は光合成、夜間は代謝で粘液を出す。細胞分裂して増殖し、粘液と堆積物は年々積み重なりドーム状に成長、これがストロマトライトです。
 この辺りの化石の展示物は「さわってみてください」と触れるようになっています。
 恐竜の骨格を展示した部屋に入る。

エドモントサウルスの実物化石、この博物館の目玉が中央にありました。米国サウスダコタ州の“恐竜の”恐竜の谷“で発掘された1983年に購入したそうだが、価格は当時のレートで、約7000万円とか。バブル時代でないと買えなかったろうが、バブルの時代のカネの使い方としては賢明だった。この購入が、博物館設立の契機となり、幾多の少年少女に対して絶大な教育効果を発揮しているのですから。
 家族連れが多いと記しましたが、孫を連れてきて一日がかりで遊ぶには良い施設です。もっとも、孫に教えるためには、自分が地質年代などについてよく勉強していないとダメですね。
 そういえば、「中央構造線」の図示と説明があり、興味深いものでした。

 午前中、公園内をみてから二川駅に戻りました。豊橋駅までは20分おきぐらいで電車がでています。豊橋駅で、B級グルメの菜飯田楽を味わい、午後は、駅から徒歩20分、豊橋公園内の美術館に遊びました。豊橋公園の桜は満開になっていました。

政府はこうして国民を騙す(2)

2013-03-24 | 読書
 次は、小沢裁判に関して。
 陸山会事件に対する調査報告書がでっち上げだった事実は、インターネットに流出した石川の隠し録音記録によってあきらかになっている。
2012年6月19日参院法務委員会で小川前法相が稲田法務省刑事局長に次の追求をした。
小川「(この報告書は)何日かにわたる取り調べについて、やりとりは検事と石川の問答形式で記載されている。それが3項です。ところが4項がある。ここの部分は問答式になっていない。文章式になっている。
 こういうことは、誰かが書いた文章に他人が手をいれるとがよく起こる。・・今日朝日新聞で、副部長が特捜部長にあてた捜査報告書が実は特捜部長が書いたものだという記事があった。この記事の真実性はどうか」
稲田「現在、調査しているところです」
 小川質問にある朝日新聞の記事は2010年5月19日付の斉藤副部長が佐久間特捜部長にあてた「再調査の結果を踏まえた証拠の調査等について」と題される別の報告書が、実は佐久間特捜部長がかいたものだった。副部長の特捜部長あての報告書を特捜部長自身がかくぐらいなら、平検事の報告書にも特捜部長が手を加えても不思議はない、というのが質問の意味です。
(小川前法相は、この件で指揮権発動を考え5月11日、野田総理に意見具申したが、6月5日の内閣改造で更迭されている。)
 つまり(検察審査会に提出された)デタラメな捜査報告書を作成したのは、東京地検の田代検事とされてきたが、小川の指摘は、実は佐久間特捜部長が手をいれたのではないか、というのだ。法務省は田代を停職、佐久間につては監督責任から戒告の処分が報じられているが、そんな甘いことでいいのかというのが筆者の主張ですが、私も同感です。
 といっても、私は、小沢さんが政治家として有能であったとか、小沢さんが首相になっていれば、日本はよくなったとかいうのではありません。実際、小沢さんの主導した小選挙区制が、日本にどんな現実をもたらしたか、民主党の公約違反が非難され、小沢さん自身も野田内閣の公約違反を論難しているけれど、民主党の最初の公約違反が、小沢さんが行ったガソリンの暫定税率の廃止中止であったことを考えると、彼が首相になったとしても、案外、凡庸な首相になっただけと思います。しかしそういうことと問題は別で、捏造した容疑で最大野党の党首を失脚させるというのは、まさに(検察の)犯罪ではないか。付言すると、そんな犯罪行為まがいの捏造までして失脚させなくてはならないほどの大物では、小沢さんはなかった。検察の大きな見立て違いだったと思うのです。

 消費税問題についての著者の指摘から一つ。
 民主党は2009年のマニュフェストで年金の一元化を掲げていた。税と社会保障の共通番号制導入や社会保険庁と国税庁を一体化して歳入庁の創設を掲げていた。国会議員の定数削減。国家公務員の総人件費の2割削減も約束していた。こうした公約を全部先送り・後回しにしたうえで「4年間は上げない」と約束していた消費税を先に引き上げるという・・・・政治の革新は政策展開の順番である。
 民主党の政治家もそれくらいはわかっている。できなかったのは・・官僚に手足をからめ捕られてしまったからだ。その中心にいるのが財務省で・・・国税庁を財務省から切り離す歳入庁創設など絶対に認めない。
「消費税は手順を間違えた」と言うのです。
 本書の第1章(そして第3章)でも述べていますが、大新聞などのマスコミが、官僚機構の伝えたいと考えていることのみ報道して、国民が本当に知るべきことをつたえていないのではないか、という疑念を持ちます。
 たとえば、今話題のTPPについても、貿易の自由化のルールづくりに日本は率先して参加の必要がある、だから、参加すべきで、交渉の中で日本に不利になる点は受け入れなければいい、などと報道している。
 でも、TPPではなく、WTOという自由貿易を推進してきた組織がすでに存在し、日本はその中でそれなりの実績を残しているのに、新たにTPP(中国もインドも加入していない)をなぜ発足しないといけないのか。米国の狙いがあると思うのですが、これについて報道していないのです。


政府はこうして国民を騙す(1)

2013-03-23 | 読書
『政府はこうして国民を騙す』という穏やかならざる書名の本を読みました。著者は、長谷川幸洋氏、東京・中日新聞の論説副主幹、講談社2013年1月の刊行、著者が「現代ビジネス」(講談社ウェブサイト)に2010年から12年にかけて掲載したコラムを編集したもの。
 時期が、民主党政権の継続した時期とほぼ重なるため、テーマは、原発事故、消費税引き上げ、小沢裁判と検察疑惑等、民主党に厳しい内容になっています。
 ほとんど全て、既に承知していたことばかりですが、この時期、民主党政権下の政治がどんなものだったかをコンパクトに要約した内容になっています。
 「騙す」と言っても、当時の政権の言説があまりにも拙劣、嘘つきが明々白々で「騙された」国民はいなかった?と私には思われます。その証拠が先回の衆院選挙で、民主党は議席を4分の1に激減させてしまった。こんなやり方で、選挙が戦えると思っていたらしい野田さんは、基本的に政治家としての資質に欠けていたというのが、私の読後感です。
 以下は本書を読んでの私の所感。まず、原発問題です。事故の政治責任は、原発を推進してきた自民党の方にあるでしょう。しかし、事故発生後の対応が不適切であったために、民主党が責任を問われることになった。
 「ただちには健康に影響はない」という全く意味のない説明を繰り返した。発表すべきだったのは、原子炉がメルトダウンして放射能がどの程度どの範囲に飛散したかというデータであるのに、メルトダウンを隠してしまった。敗戦を国民に隠した大本営発表と同じです。
 続いて東電の処理。事故の補償と除染、廃炉の費用は、東電がいかに優良企業であったとしても、とても一企業の負担できる範囲になかった。事故を起こした時点で、実質的に東電は負債超過、つまり破産状態になった。東電が負担できない費用をだれが負担するのか。常識的に考えると、東電の資産をすべて処分し、それでも払えない費用は、国が負担するしかない。したがって、ただちに東電は破産処理をすべきだった。ところが、民主党政権は形の上でだけ、東電が継続する措置を採った。そうしたのは何故か?東電が破産すれば、東電に貸し付けをしている金融機関は、膨大な貸し倒れ損失を出す。東電株の保有株主(これも金融機関が多いが)の資産価値はゼロになる。ところが形の上だけでも東電が存続すれば、これらの損失を免れる。「原子力損害賠償支援機構法」(政府が国債で資金を調達して東電に貸し付け、東電が年々の収益から返済する)なる法律は、国民の負担を最小にする仕組みではなく、金融機関の損失を最小にすることを狙った?
 実際、この法律の枠組みが報道された当初、東電の支払額は年1000億円程度とか。ところが、返済総額がいくらになるかその時点では10兆なのか100兆なのかわからないから、利息は別としても、返済年数は1000年になるかもしれない。
 「東電をつぶしたら被災者に補償することができない」と官僚は言うが、嘘である。国が支払うという法律を作ればいいだけの話で、そういう法案の立案こそ官僚(と政治家)の仕事である。
 なぜ、そうまでして東電を存続させたかったのか?長年の電力業界の政治資金の威力か、電力労連の組織力のせいか?あるいは、ここで東電を破綻させると、一旦事故を起こせば、原発企業は存続できないことを証明することになり、民間企業が原発事業から撤退するということになることを恐れたのか?(続く)

こんなビジネスモデル

2013-03-14 | 旅行

北陸の温泉を楽しみました。11日朝、9時前に名古屋駅新幹線口に行くと、もう10名の顔なじみが揃っていました。握手して元気な再会を祝しました。
「旅行に行きませんか」と、昔勤めていた会社の仲間から電話があったのは、先日のことです。退職してからもう16年半が経っているのに、お誘いがかかるのはうれしい限り。
9時、バスが来た。「湯快リゾート」なる会社名がフロントガラスに貼ってある。バスはほぼ満員だった。予定表では、北陸道を走り、片山津と粟津の温泉宿に直行することになっている。このバスは、旅館組合が、チャーターして名古屋から北陸に客を運ぶバスかな?と思った。しかし、逆だった。「湯快リゾート」は、北陸を中心に各地の温泉旅館を経営し、名古屋や大阪などから、自社の経営する旅館に客を運ぶのである。
どこの旅館も365日、一泊二食付で¥7800の均一料金です。「こんなビジネスモデルがあったの!」と驚きました。バスの料金も名古屋往復で¥3000だそうですから、旅費を含めて¥10800で一泊の温泉旅行を楽しむことができる、だから名古屋市内の旅館の一泊懇親会より安くなる、と言う。
バス料金にしても、ほぼ同じ距離を走る名鉄の金沢-名古屋が往復¥6000だから半額である。まぁ、路線バスの場合空いている場合が多いが、満員にすれば¥3000でも採算はとれるのかな?でも、宿泊で¥7800はやれるのかなぁ、と思った。
宿泊してみて分かったのだが、徹底的に省人化している。朝食はもちろん、夕食もバイキング方式だ。チェックイン(2時ごろ)して、部屋に入ったら、もう布団が3組敷いてある。つまり、従業員の手隙の時間に部屋の布団敷きを済ませるしくみだ。
どうも、旅館もデフレ不況。経営不振の旅館を買収したのでは?これは私の推察だが、粟津、片山津、山中、山代など北陸だけでなく湯村(兵庫県)、恵那(岐阜県)にも系列の旅館がある。
ロビーにはパソコンが5~6台並んで、系列の旅館の予約ができるようになっていた。
http://yukai-r.jp/placetop/hokuriku.html
以上は旅を終えて分かったことです。バスは名古屋高速、名神を通って、1時間ほどで北陸道に入る。神田長浜のSAで休憩した後、一路加賀温泉郷へ。加賀ICで降りて、昼食。旅館毎に客を降ろして、最後が予約した粟津グランドホテル。我々は別館である。
6時半の夕食まで時間がたっぷりある。風呂に入り、部屋で持ち込みのアルコールを傾けて、久しぶりの再会だから、話が弾むこと、弾むこと!
「窓から見ても、此処は旅館以外何もなさそうだ。明日の午前中、行くとこあるかな?」と明日の予定を心配する者もいる。帰りも旅館のバスなので、14:25とバスの時間が決まっている。それまではこの地に居なくてはならない。
夕食は、バイキング料理の他に、カニの食べ放題が出た。しかし、カニというのは、からをとって身を取り出すのが厄介で、ハサミが付いてきた。バリバリからを切ってむしゃぶること1時間余。これだけカニを食べたのは初めて。
夕食後はカラオケルームでカラオケを楽しむ。私の知っている今までのカラオケは、曲目の載った分厚い本があって、曲目の番号を調べて、その番号をリモコンに入力するのだが、今回は、リモコンに曲目をカナで入力し検索して予約する方式だった。カラオケも日々進化するのかな?

翌12日は6時半起床。入浴後、バイキングの朝食。「今日はどこへ行く?」鳩首協議、フロントの薦める「ゆのくにの森」へ10時、タクシーで行く。
各地の古民家を集めて展示館、九谷焼とか友禅などの伝統工芸、を作った施設です。「温泉以外何もない」と仲間が心配していたことは、当然、地元の人も考えているわけで、こうした施設を作ったようです。
http://yunokuni.jp/mori/
昼食は北陸の蕎麦を味わう。お土産を一杯抱えてホテルに戻り、14:25「湯快リゾート」のバスに。名古屋駅には、18時20分ごろ帰着しました。ゆのくにの森、雰囲気を紹介する写真を1枚添付します。


芭蕉の句碑

2013-03-11 | 旅行
芭蕉の句碑を訪ねました。
3月9日、“駅ちかウオーキング”で緑区に出掛けました。今年は緑区誕生50年とか。地下鉄桜通線の相生山駅から、緑区内を歩き野並駅まで8.2㎞のコースでした。お天気は素晴らしく良かったのですが、空はカスミがかかっているみたい、今年初の黄沙が観測されたみたいでした。
螺貝公園、滝の水公園、新海海池(にいのみいけ)公園と公園を巡った(写真は割愛)後、最初に、成海(なるみ)神社。686年創建の古い社。「初秋や海も青田の一みどり」の句碑があるのですが、文字がかすれてほとんど読めません。ここには遊心亭という茶室がありました。
次に訪れたのは、天神(あまつかみ)社で、ここに三つの句碑がありました。
解説人(ボランテイヤ)によると、芭蕉はこの地を障害に4回訪れたそうです。
杜若われに発句の
おもいあり




京までは まだ半空や 雪の雲


よき家や 雀喜ぶ背戸の栗


天神社は、桶狭間合戦の舞台になった鳴海城址に作られた社らしく、その旨の碑もありました。
天神社を出て、南に行くと円道寺というお寺があります。昔は尼寺で、猿道寺と言ったらしく、屋根の上に「見ざる、言わざる、聞かざる」の3猿の像があります。

寺を出て本町の交差点に行くと「鳴海宿高札場」が復元されていました。
北へ1㎞ほど、急な坂道を上ると、千鳥塚・千句公園。
もう一つ、芭蕉句碑「星崎の闇をみよとや なく千鳥」の千鳥句碑がありました。
その後、北へ。杜若交差点・古鳴海交差点へ。古鳴海八幡社には神木のくすのきがありました。
ゴールの野並駅には12時半。2時間半のウオーキングでした。

日米同盟と原発

2013-03-08 | 経済と世相
 『日米同盟と原発』と題する2月26日の中日朝刊は読みごたえがありました。
若泉敬氏が内閣調査室に提出した報告書「中共の核実験と日本の安全保障」(1964年12月)が載っていたのです。
1964年に中国が核実験に成功した直後、その対応策として核兵器に転用可能な原子力技術を高めるべきだとする報告書を
若林敬氏が首相直属の内閣調査室に提言していた。
 若泉敬氏、ご存知の方が多いと思いますが、沖縄返還に際し、佐藤首相(当時)の密使として対米交渉を担当し、
94年に「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を著して核密約の存在を暴露した。96年自死した人物です。
以下、その提言要旨の抜粋。
【わが国はあくまでも自ら核武装はしないという国是を貫くべきであると考えるが、
しかしもしもそれを強いられてどうしてもやらざるをえない場合にはいつでもやれるのだという潜在的な能力、
つまりそれに必要な科学・技術水準および工業力基盤等の総合国力は
つねに中共よりも高いレベルに引き上げておく努力を真剣になすべきである。
そしてわが国の偉大なポテンシヤルを日本国民ならびに中共を含む諸外国にはっきりと認識させ、
日本は充分その能力はあるが自らの信念に従ってやらないだけなのだということを明示するためにも、
原子力の平和利用(例えば商業用原子力発電や原子力商船の建造から制御核融合研究等に至るまで)に
大いに力をそそぐと共に、他方では日本が国産のロケットによって日本の人工衛星を打ち上げる計画を
優先的に検討するよう提案したい。】
 この記事を読んで、日本が原発を国策とした背景には、
冷戦や、潜在的核大国たらんとする政治家の思惑があったことは否定できないのではないかと、
あらためて参考文献を探してみました。見つけたのが、
『8.15と3.11』(笠井潔著、2012年12月刊、NHK出版新書)でした。
先日の旅行の際、新幹線の中で熟読しました。 要旨は下記のブログに。ご興味あれば、ご笑覧ください。

http://d.hatena.ne.jp/snozue/20130307


最後のマラソン大会

2013-03-07 | マラソン
 ホテルで目覚めたのは6時、6時半朝食。7時20分、マラソンの着替えなど必要なものだけ小さなバッグで携帯し、他はフロントに預けてチェックアウト。駅前には、選手送迎バスの並ぶ選手たちの長蛇の列。錦帯橋横の会場に8時過ぎつきました。河川敷にテントが並び受付をやっています。受付でプログラム(選手名簿)をもらい、雲一つない青空(写真)の下、河原で着替えをしました。時間があったので、少し川沿いに歩くと、岩国出身の有名人の言葉の碑が並んでいた、広中平祐、河上肇などみられる。山上には岩国城も見えます。

 9:20、2300人余のハーフマラソンランナーが一斉にスタートしました。1分、スタートラインを踏む。コースは、おおむね錦川沿いです。
 13㎞地点に近づきました。私の5~6m前を走っている一人のランナーが、突然、大会スタッフにかこまれました。「何だろう」、私が近づくと、私にも「タイムオーバーです。ランナーズチップを回収させてください」。「制限時間の95分を超えました」
「エエッ」。腕のストップウオッチを見たら1時間36分。1分オーバーです。そこが13㎞の関門だった。
 13㎞の第一関門は、まったく意識にありませんでした。傍にランナー収容バスが停まっています。「終わった」、水を一杯頂いてからバスに乗り込みました。
1分の遅れですから、1㎞前あたりに「13㎞関門(95分)に後1㎞」の表示があれば多分ピッチを上げて関門通過できたでしょうが、まったく突然でした(プログラムにはその表記がありましたが、見おとしていた)。
 まぁ、突然であろうがあるまいが13㎞だったら1時間半では通過していなくてはならない。95分で止められたのに文句は言えない。
 13㎞しか走っていないので、疲れは全くありません。「まだ1時間は走れたんだが・・」独り言を言ったら、スタッフが「走りたければ走ってもかまいませんよ」という。
「(ランナーズチップなしでは)完走証をもらえないのに走っても意味ないから・・」とご好意は辞退。コースも後は帰りだけで、前半で景色はすべて見ていたから、止められたら走る意欲はありません。
なぜか「いのちに終わりがある。恋にも終わりがくる」というはやり歌(粋な別れ)を思い起こしました。「マラソンにも終わりがある」、それが人生というものです。
 もう2年前から、スピードの衰えは明らかで、「制限時間で走れなくなったらマラソン大会出場は引退しよう」と考えていました。その時期が来たのです。
 50代で47都道府県の大会を走り、60代で、も一度47都道府県を走る。更に70代で19都府県のマラソンを走り、20(都府)県目でした。
 ここ景勝の襟帯橋で13㎞だけとはいえ、ファイナルランを走れたのは幸せです。

 余談になりますが、なぜ加齢でスピードが上がらなくなるのか?
前にメールしたことがありますが、身体の細胞の時間がゆっくりになるからだ、と思っています。学問的に証明された話ではないが、私の近年の体験は、そう考えるとすべてうまく説明できるのです。
 本川達雄先生によると、体重・時間あたりのエネルギー消費量の多い動物ほど、時間が早く流れて寿命が早く終わる。そして人間にあっては、加齢すると、この時間あたり消費エネルギーが小さくなる(だから食べる量を減らさないとメタボになる)。この時間あたり消費エネルギーが小さくなると時間がゆっくり流れる。つまり、時計の時間が1時間たっても、体の細胞の時計では50分しか経過しないというような現象が起きる。逆にいうと、身体の細胞の時間が1時間の時、世間では1時間以上が経過している。だから、スポーツのタイムは加齢により低下する。加齢で時間がゆっくり流れるのは、残された寿命を少しでも長く使おうとするからかも?
 11時45分、バスでスタート地点に戻り、預けた荷物を受け取り帰り支度、襟帯橋(写真)にお別れすることに。

12時15分の選手送迎バスで岩国駅に戻り、ホテルで預けた手荷物をもらって、13:09の山陽本線に乗車。乗車の時、面白かったのは並んでいて列車が着いたのに、扉が開かない。最前列の人が開くのを待っていたら、後ろの人が前に出てきて、扉脇の「開ボタン」を押した。山陽本線の車両は開閉のボタンがある。省エネのためかな?都市地域では見慣れないものです。
広島までは50分(岩国と広島は近いのですね)でした。新幹線「さくら」で新大阪へ、「こだま」に乗り換え17時、名古屋駅に着き、三日間の旅を終えました。

萩城址

2013-03-06 | 旅行
 2日、6時半に目覚め、7時朝食。すぐにホテルをチェックアウトして7時半ごろの電車に乗りました。博多には8時15分ごろ着きましたが、新幹線の新山口に停まる電車が1時間後の9:12までない。これは誤算、「ホテルでもっとゆっくりしてくれば良かった」。立派な待合室に行き、本を読みながら時間を待ちました。
新山口で降りたかったのは、 萩城址は是非見たいと思ったからです。ご存知のように毛利家37万石の城下町だが、城郭はない。明治6年に公布された城郭破去法に率先して応じ、萩城の建築物はすべて競売に付され、以後再建されることなく、現在に至っているという。明治維新の立役者として、率先、維新政府に協力したらしい。もっとも城の機能は、文久3年(1863)すでに山口に移転して解体されていた。徳川幕府に遠慮させられて萩に蟄居していたのが、幕末になってその必要はないと長門の国の中央に移転したようだ。
 新山口駅からは10:30のバスに乗り12時ごろ東萩駅前に着いた。駅構内のロッカーに荷物を預け、インフォーメーシヨンで「レンタル自転車の店ないですか」と聞くと「駅前のホテルの1階にレンタルサイクル店があります。荷物も預かってくれます」という。
「しまった!コインロッカー代¥300損した」と思った。
 自転車を借り地図をもらい走り出す。晴れてはいるが、風が冷たく寒い日だ。
 橋本川という川に出て川沿いに走ると、「萩八景遊覧船乗り場」という所に出た。遊覧船を楽しむには寒すぎる。
 城の入り口の本丸門、毛利輝元の銅像があります。¥210を払い、自転車のまま場内に入った。突き当りに志都岐山(しづきさん)神社という毛利家代々の藩主を祀る神社があった。お城が指月山という山(143m)の麓に建てられたからの神社名だろう。城内も指月公園という公園になっている。
お参りした後、本丸跡に行ってみる。天守閣跡に上って、内堀を見下ろしてみると、石垣は立派です。


 城内には萩焼の窯元や資料館があった。公園を自転車で散策した後、本丸門を出ると、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋という国指定重要文化財があったので、入ってみた。お城の入場券の半券で入れます。
 厚狭毛利家というのは、毛利元就の5男を始祖とする、厚狭(山陽小野田市)を知行地としていた毛利一門という。そういえば、厚狭という新幹線の駅があった。
 重要文化財ということだが、建物の造りは質素なものだった。
ぼつぼつ戻ろうか、と東萩駅方向に走ると「周布家長屋門」があったので寄ってみた。周布政之助は幕末の歴史小説でよく聞く名前だが、毛利家の重臣にしては、これまた質素な建屋です。
 街の風景をみながら東萩駅に戻ってくると2時10分、2時間の市内散策、自転車を返すと料金は¥400でした。新山口駅行のバスは2時半発というので、それに乗ることにした。寒くて体が冷えてしまったので、売店で熱い珈琲を買ってバスに乗り込みました。4時過ぎに新山口に着き、4:20の山陽本線に乗ることができました。「岩国は何時に着く?」と車掌に聞くと「18:12です」。時間を調べてなかったので、「新山口から岩国までそんなにあったの?」と思いました。もちろん萩も山口県ですから、山口県も意外と広い、と感じた次第です。
 岩国では駅前のビジネスホテルに泊まりました。朝食込みで料金は¥4200ですから、岩国は物価がは安いのかな?

水泳談義

2013-03-05 | 水泳
3月1日、今日から3日間の旅。7:32名古屋始発広島行のひかりに乗車しました。乗車早々車内放送が「岡山までは各駅停車です」。ひかりと言っても、こだま並み。「まぁいいか」。でも2時間で岡山駅に着いたからひかり並と言ってよい。広島駅では雨が降り出していた。30分ぐらいの待ち時間があって、さくらに乗り換え。博多駅に12時4分着。地下鉄で姪浜、ここから筑肥線で筑前前原駅には1時ごろだった。とりあえず予約したホテルに荷物を預けようと、小雨の中を歩き始めたら、声がかかる。大師匠’知人の愛称)が、駐車場に出迎えていてくれた。
久闊を叙して、車に乗り込む。「まずプールに行きましょう」と大師匠。彼と一緒に泳ぐのは20年ぶりくらいかな。彼の行きつけのプールへ案内してもらいました。
着替えをしてプールに入る。泳ぎ始めたら、「泳ぎ仲間を紹介します」と数人の友人を紹介してくれました。
KOJIMAさんという平泳ぎの達人がいました。私も平泳ぎを教えてもらおうと、「50m泳ぎますから泳ぎをチェックしてもらえませんか」と泳いでみせると、3点のワンポイント指導をしてくれました。「小指と薬指をくっつけて泳ぐことを意識してください。指の間が開いているので掻く水がもれていて勿体ない。小指と薬指をくっつけると、指は全部くっつきます」、「体重の中心を思いきって前に動かすと力強いプルになります」、「泳ぎは8割方完成した泳ぎですが、ターンがまずい。ターンはもっと深く潜水して水中で折り返した方が空気抵抗のない分、早くできます」と、的確にコメントしてくれた。
「この人は指導がうまい」と思ったので、「バタフライも50m泳ぎますから、チェックしてください」と50泳いでみせた。
「腕のプルが開いていますね。」という。「さすが!」。実は肩の痛みが完治していないので、肩の負担が少なくなるよう、腕の回転をなるべく体の前で回す、つまり肩を開いて回していたのです。「見破られた!」
ターンについても、平泳ぎと同じことを言われた。
4時前、プールを上がり、大師匠にホテルまで送ってもらいました。5時半ごろ再度、今度はタクシーで迎えに来てくれ夕食会場へ。途中、大師匠の水泳仲間のHAYASHIさんを拾います。KOJIMAさんも、BMWの真っ赤なスポーツカーで現れました。水泳が縁の4人での夕食会。ビールと焼酎を傾け、話は弾みました。
HAYASHIさんは、82歳ながら、今でも一日2㎞~3㎞泳ぐという。2011年の100m、200m背泳の全国ランキング80歳区分で1位という強者です。
「昔から背泳専門ですか?」と聞くと、「いや、若いころはクロールだった」とのこと、学生時代は明治大学の水泳部で活躍したという。
「その頃だったら、中京高校から早稲田へ進んだASANOさん、ご存じでしょう」と聞くと、「ASANO MITURUさん、知ってますよ。彼は私より2歳若かったが、大会で一緒に泳いだ」。
ASANOさん(ヘルシンキオリンピック日本代表)は、現在愛知県体育館で水泳を教えている。私も週一回、泳ぎを見てもらっている方です。
「ゆったり泳げるのは、足のキックがうまい人です」とkOJIMAさん。
「東京の水泳教室で、キックが完璧になるまで腕の掻きをおしえなかった所があった」とHAYASHIさん。「今年は名古屋でジャパン・マスターがあります(7月)から名古屋に行きます」。

大師匠は、KOJMAさんにしてもHAYASHIさんにしても、ここ1年くらいの間に、食事を共にする友人関係になったという。一芸に秀でた人とすぐ親しくなるというのは、彼の特技らしい。
相撲の話になった。大師匠は言う。
「僕、千代の富士の幕下時代のサイン色紙を持ってます。家宝です」。
幕下のころに、将来の大横綱の素質を見出していた?これはすごい!
 延々と話が盛り上がり、打ち上げてホテルに帰ったのは9時でした。