古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

寅さんとカラオケの思い出

2016-07-31 | 素晴らしき仲間たち
寅さんとカラオケの1思い出です。
昨夜9時からNHKTVで「渥美清 心の旅路」が放映されていました。渥美清さんが亡くなって(平成8年8月4日)から20年が経つそうです。あれからもう20年ですかねえ。
20年前、長年勤めたD社を定年退職することになり、同じ大学を卒業した先輩と後輩が送別会をやってくれました。後年D社の社長を務めることになるSさんが「二次会に行こう」とカラオケバーにつれていってくれました。着いて椅子に腰を下ろしたら、ママさんが「寅さんが亡くなったってTVが放送してた」と教えてくれました。平成8年8月7日の夜でした。
 ひばりの「みだれ髪」を歌った人がいました。
「赤い蹴出しが風にゆれ」なる一節があります。
「蹴出し(けだし)」って何と私が問題提起。
Sさんが「お越し(腰巻)じゃない。」と言いました。残念でした。でも、全く見当違いというわけではない。
蹴出し(けだし)とは、和服の下に着用する下着。「湯文字( 腰巻)」の上から重ねて着ける、足首までの長さの布をさすのですが、ひとしきり話題がにぎわいました。
当時D社の陶磁監査役をやっていたIさん。この方滅多に歌はうたわないのですが、「旅の終りに」を歌ってくれました。
https://www.youtube.com/watch?v=hHwcuTAjGgI
至らない小生のため皆さんが面倒をみてくれて定年までつとめられたんだと、胸が熱くなりました。
8月が来て、寅さんの特集をTVがやる度思い出すカラオケの会、あれからほんとに20年もたったのですね。

白木蓮が咲きました

2016-03-12 | 素晴らしき仲間たち
 我が家近くの白木蓮が咲きました。近郊で毎年一番早く花開く樹です。
今年も春ですね。この花が終わると桜が咲きます。
さくらの開花予想は22日です。
この白木蓮となごやウィメンズ・マラソンで名古屋の春です。
ウィメンズ・マラソンは明日になりました。

古橋源六郎さん

2014-10-01 | 素晴らしき仲間たち

29日の安倍首相の施政方針演説に、古橋源六郎さんが出たので、びっくりしました。
以下、そのくだりをコピペしました。
「おわりに
 「天は、なぜ、自分を、すり鉢のような谷間に生まれさせたのだ?」
 三河の稲橋村(いなはしむら)に生まれた、明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃(てるのり)は、貧しい村に生まれた境遇を、こう嘆いていたと言います。しかし、ある時、峠の上から、周囲の山々や平野を見渡しながら、一つの確信に至りました。
 「天は、水郷には魚や塩、平野には穀物や野菜、山村にはたくさんの樹木を、それぞれ与えているのだ。」
 そう確信した彼は、植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村(いなはしむら)を豊かな村へと発展させることに成功しました。」

http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei108b.htm
古橋家は、奥三河の名家です。御当主は代々源六郎を名乗ります。
 私と古橋源六郎さんの関係は58年前に遡ります。名古屋の昭和区に、古橋家の設立した学生寮がありました。奥三河出身で名古屋の大学に通う学生が無料で利用できる寮でした。義真会館といいます。義真とは、初代源六郎さんの名前です。大学の教養部の時は瑞穂区で民間の下宿に入居していたのですが、学部に移って、校舎がある東山に近い義真会館にお世話になることにしたのです。20歳から22歳まで、2年半でしたが、当時、古橋源六郎さん(当代)は、大蔵省のお役人でしたが、愛知県に出向して愛知県庁ではたらいていましたので、義真会館の一室に住まわれていました。
 お元気ならもう80歳を過ぎている筈ですが、・・・・
 それにしても、安倍さんは誰から古橋源六郎のことを知ったのでしょうか。
いずれにしても、施政方針演説に、古橋玄六郎が登場したのは驚きで、つい60年近い昔を思い起こしました。


命日

2013-08-06 | 素晴らしき仲間たち

「命日」が気になるのは、自分の「命日」が近づいている?
そこで、「年齢別生存率」をキー・ワードに、グーグルで検索したら、
厚労省の平成17年のデータが出てきました。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/20th/sh01.html

10万人のうち77歳まで生きている人は、64187人、
87歳まで生きている人は、29956人。
77歳の平均余命は9.87年。(いずれも男子)

この話を同じ住宅に住むNさんにはなしたら、(彼は江田島の兵学校の最後の卒業生だそうですから、現在83~84歳)
「私の10年前は、あなたほどの体力はまったくなかった。だから、あなたは10年後はもちろん生きています。
先日、名古屋の某大学の学長先生の講演を聴いたのですが、医学の進歩で難病が克服されて、100歳も珍しくない時代がくるそうです。
あなたは、100歳生存の有力候補ですよ」
褒めたのかな?よくわかりませんが、いずれにせよ、10年後生きているかどうかを考える必要がある年齢になりました。

8月1日は、作詞家阿久 悠の命日だったと思いおこしました。
もう、逝ってから6年にもなるんだ。

ざんげの値打ちもない
http://www.youtube.com/watch?v=Hf4eX_SYDng


8月4日、寅さん、こと名優渥美清さん の命日です。
男はつらいよ
http://www.youtube.com/watch?v=9yKgQFRlzko
8月5日、マリリン・モンローの命日です。逝ってもう51年。
よろしければ、「帰らざる河」をお聴きください。
http://www.youtube.com/watch?v=HrvA7W8Q3Ss

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うなぎが高値です。

2012-07-25 | 素晴らしき仲間たち


今年も“ひつまぶし”を食べに行きました。

25日、住宅のシニアクラブの“お食事会”です。市バで2区の“しら河”という専門店。

昨年は順番待ちのお客が店内からあふれ出し、店の外に椅子を並べて座っていましたが、

今年は鰻の高値の所為か、それほどではないが店内は一杯でした。

われわれは、幹事のSさんが予約しておいてくれたので、直ちに個室に案内されました。一行10名です。

昨年は1890円でしたが、今年は鰻の高騰で2590円でした。これでもSさんの交渉の結果です。

鰻飯とお吸い物が運ばれてきました。

器に入ったご飯をしゃもじで5~6回かき混ぜてから茶碗によそいます。

「正式の食べ方があったね」と隣に坐ったHさん。

「一年に一回だから、忘れてしまった!」と小生。
1膳目 そのまま(つまり鰻丼風に)食べる。
2膳目 薬味(刻み海苔、ねぎなど)を添えて食べます。
3膳目 ワサビと薬味を添えお茶づけ(熱いお茶が土瓶で出ます)にして食べます。

 なんとはなしに、こういう食べ方をしましたが、これが標準の食べ方だったようです。

「名古屋に出てきたのは昭和30年だった」と私。

「ボクも同じだ」とIさん。

「伊勢湾台風のときは大変だった」

「もう53年になる!」等々 1時間ほどダベリながら、鰻のスタミナを貰い、会食を終えました。

暑い暑い名古屋の一日でした。



継続のみが人間を人間たらしめている

2012-03-21 | 素晴らしき仲間たち
 曽野綾子さんが、週刊ポストの3月23日号に老後の生き方について述べていた。
【私も骨折にかけては年相応の経歴を持つことになった。64歳と74歳の時に左右の、足首ばかり折ったのである。・・・
 64歳の怪我の時にも既に、よほどリハビリをちゃんとやって動けるようにしないと、杖をつくか車椅子になるか、寝たきりにはならないまでも頭がぼけるかもしれないし大変ですよ、という注意は受けた。幸いにもその時私は聖路加病院に運ばれていたので、日野原重明先生にお会いして、「手術後少しも体を労わらなくていいですよ」と言われた。・・・
 それから10年後、またもや足首を折った。怪我の直後両足のレントゲン写真が撮られたから、今度の怪我は前の時よりもう少し悪いですよ、と言われた。夫はその時、私がもうこれで立ち上がれないだろう、と思ったという。
 私はめちゃくちゃな性格だった。折れた部分は少し歩くとてきめんに腫れたが、私はその結果を気にしないことにした。とにかく人間の体というものは、使わないとだめになる。私は料理が好きなのだが、2週間外国を旅行していて台所に入らない生活を続けると、帰宅後カップラーメンの作り方の手順まで忘れている。継続のみが人間を人間たらしめている、と感じることが多い。
 家族や友人たちは、私が足の使い過ぎで、いつまでも痛みが取れず、腫れも続くのだと言った。そうかもしれないのだが、あの時「御身ご大切」な生き方をしていたら、私は今の程度にまでも歩けなかったろうと思う。】
もう一つ。
【厳密にいうと、今でも私の足は完全ではない。怪我の後、朝起きると私は体中が痛くてたまらない日ができた。しかし痛み止めをたった一粒飲めば、痛みは劇的に取れる。だから朝8時以後に私に会った人たちは「お元気ですね」と言ってくれる。その少々偽のお元気が、どうやら一日中続くのだから、私はすばらしい時代を生かしてもらっているのだ。】

『継続のみが人間を人間たらしめている』、我が意を得た思いです。

千種区のウオーキング

2011-10-01 | 素晴らしき仲間たち
千種区のウオーキングに行ってきました。9月30日、住宅のシニアクラブのウオーキング、今回は私が幹事担当でしたので、少し腰痛が気になりましたが、出かけました。

9時半、エレベータホールに集まると、なぜか今回は、女性ばかり5人。私がエスコート役で総勢6人です。

 地下鉄で車道駅へ。2番出口のすぐ前に物部神社があります。垂仁天皇の世に創建されたと伝えられる。

日本書紀の記述によれば、垂仁天皇は西暦0年ぐらいだが、日本書紀の年代記述は当てにならない。

しかし、古い神社であることは間違いない。

 参拝した後大通りを東に行くと、1kmほどで「すいどうみち緑道」、桜の街路樹が立ち並び、

「春に来れば綺麗だネ」と皆さんが言う。

 ナゴヤセントラルガーデンという高級レストランやショップが集う一郭を抜けて信号を渡ると、

蝮が池八幡宮です。池は現在ありませんが、その昔、陰陽師安倍晴明が池に住む蝮を退治したと伝えられる。

お賽銭をあげて、神社を出ると、今度は南へ。地下鉄池下駅。

さらに東に曲がり覚王山駅。参道を登って日泰寺。お釈迦様の遺骨が安置されたお寺です。

参詣した後、すぐ東の揚輝荘(旧伊藤家(松坂屋社長)別邸)の庭園を見に行きました。

北園は無料公開しています。

 「中で弁当をとてもいいですか?ゴミは持ち帰りますが・・」と聞くと、

「お食事はご遠慮願います」というので、園内一周し記念写真を撮った後、

も一度お寺に戻り境内のベンチで弁当を広げた。

 おしゃべりを楽しみながら食事を終え(ここまで4km歩いた)、「さぁ歩こうか」となったら

「もう草臥れたから地下鉄で帰る」と。結局6人が地下鉄帰宅組3人、歩行続行組3人に分かれた。

 私と健脚女性KさんYさんは、城山八幡宮を目指します。

ここは、織田信長の弟信行の居城(末森城あるいは末盛城)跡で、信行は跡目争いで、信長に殺された。

信行は父信秀とともに近くの桃巖寺(この後行く)に祀られている。

 境内を下りて大通りを東に行くと、本山の交差点。右に曲がったところに桃巖寺があった。

本殿の裏手に名古屋大仏がある。大仏の巨大な片掌が設置されているのはどういう意味かな?

 大通りを名大に向かう。千代保稲荷(おちょぼ稲荷)に立ち寄ろうと

、途中の交差点を左に折れてお稲荷さん。商売繁盛の神様だそうです。

 交差点に戻り信号を渡るともう名大キャンパスです。

「私の母校です」というとYさんが「お金持ちなんだネ」という。

「えっ、どうして?」

「あの頃は、お金持ちの家でないと、大学進学は出来なかった」という。

確かにあの頃、私の同級生でも、高校から大学進学者は10%いなかった。

でも、お金持ちではなかったが、説明すると長くなるので、反論はしなかった。

 名大では、ノーベル賞記念館を見学。

ノーベル賞のメダルのレプリカ(大きさ重さが実物と同じ直径6.6センチ、206g))が置かれていたので

、手に持って重量を確認しました。

表面にノーベルの肖像、裏面に女性二人(ニンフ?)の画像があった。

「どうしてオッパイが丸出しなの?」とKさんが聞くが、これには答えられませんでした。

ざっと7kmのウオーキングを終え、地下鉄で帰途につきました。
名古屋大仏(坐高10メートル(台座も含めると15メートル)の写真です。

ひつまぶし

2011-07-16 | 素晴らしき仲間たち
 住宅のシニアクラブに「お食事会」という近隣のグルメを味わう会がある。
「今月は“ひつまぶし”です。ご一緒しませせんか」と、幹事のSさんに誘われ、15日昼、出かけることにしました。
 “ひつまぶし”とは、要するに“鰻丼”だが、うなぎ丼は丼で供されるが、“ひつまぶし”は、うなぎ飯がおひつに入って供され、うなぎの切り身が鰻丼より細かく切られている。
“お櫃の鰻まぶしご飯”が、“ひつまぶし”の語源らしく、名古屋周辺の料理で、専門店が名古屋には3~4店ある。
しら河本店は、そうした専門店の一つで、我が家からは徒歩10分強ですが、灼熱の太陽が照り付けるので「バスで行きましょう」。Sさんの音頭で市バス2区の“しら河”に行きました。驚いたのは、順番待ちのお客が店内からあふれ出し、店の外に椅子を並べて座っている。
聞くと、観光バスが客を連れてくることもあるという。本店のほかにJr名古屋タカシマヤや、栄のガスビル等に支店が出店しています。
http://www.hitsumabushi.jp/jousin.htm
われわれは、Sさんが予約しておいてくれたので、直ちに個室に案内されました。一行12名です。
白状すると、名古屋に来てから50年以上ですが、正式に“ひつまぶし”を食べるのは初めてです。おひつの鰻飯とお吸い物が運ばれてきました。
「一色(愛知県の鰻産地)産ですか?」お店の人に聞くと、「いいえ、台湾です。国産品は手に這入り難くて・・・」とのことでした。
 “ひつまぶし”の正式な食べ方は、器に入ったまましゃもじで5~6回かき混ぜてから茶碗によそいます。
1膳目 そのまま(つまり鰻丼風に)食べる。
2膳目 薬味(刻み海苔、ねぎなど)を添えて食べます。
3膳目 ワサビと薬味を添えお茶づけ(熱いお茶が土瓶で出ます)にして食べます。
 これは標準の食べ方で、勿論、食べ方は自由ですから、お茶づけの好きな方は、3膳ともお茶漬けで食べても良いのです。

 1時間ほどダベリながら、鰻のスタミナを貰い、会食を終えました。
 外に出ると、まだ順番待ちのお客さんが、店外まであふれていました。
因みに、会費は¥1890でした。

長兄の葬儀

2009-01-17 | 素晴らしき仲間たち
兄が11日なくなりました。以下、13日に行われた葬儀です。

新城市鳳来の「JAやすらぎほーる」で行われました。

 農協がこういう葬祭事業に進出していることをはじめて知りました。立派な式場です。こんな大きな会場で、来場者が少なすぎて格好がつかないのでは、と心配しましたが、故人の子どもの勤め先から大勢の人が来てくれました。

 10時の開式前、ロビーに立っていたら、弔問客の一人が寄ってきて、話しかけられました。

「失礼ですが、Mさん(長兄)とどのようなご関係でしょうか?」
「弟です。Mは長男で私が三男です」
「そうなんですか!Mさんとお顔立ちがそっくりなので・・・」

葬儀は11時に終わり、車で30分、町の焼き場に。骨を拾った後、お寺で和尚さんの読経と説法を聞きました。

父と母の葬儀の時も導師をして頂いた和尚さんで、とても聞かせるお説法でした。

こんな具合です。

「通夜は、故人の良かったこと悪かったことを思い起こします。」

「誰でも人である以上、良い点もあれば悪い点もある。昨日もMさんの話を耳にしました。“制限速度40kmの道路を走ると、Mさんは絶対に40km以上は出さない。ついて行く時、ついイライラしてしまう”といっていました。あ、これは悪い点ではなかったですナ、たとえが悪かった!ある意味で融通が利かないけれど、曲がったことは絶対にしない。その意味で、町内の名士でしたネ。」

葬儀の最後に故人の長男が遺族を代表しての挨拶「不器用でしたが、人をだましたり他人の足を引っ張るということは絶対にしなかった78年間の父の生き方を誇りに思います」を思いだしました。(自分が死んだら、息子は私についてなんというだろうか?)

「49日は追善供養の期間です。故人のために善行を追加する。善行とは、それぞれの人が自分にできる善行を行えばいいのです。」
ここで、故人の孫を指差す。
「ボクは何年生かな?」
「中二です」
「中学二年生か、キミの得意な学科は何かな?」
「数学です」
「数学!それは良い。ご尊家の家系は、理数系に強い人が出るようですナ」と持ち上げておき、

「オジイサンはキミをかわいがってくれたナ」
孫はコックリ肯く。

「キミは49日間、数学の応用問題を一日一問余分に勉強する。それがキミにできる善行だ。そうすると、オジイサンは極楽にいくことができるのだよ」と諭す。

檀家の家族の一人一人を知っている和尚さんの説法でした。

「大府駅まで送りましょう」という次兄の息子の言葉に甘え、連れ合いと一緒に次兄一家の車に同乗して帰途につきました。

車の中で、次兄が「あと何年生きられるかなア」とポツリといいました。人は必ずいつかは死んで、骨を拾われる。人生の無常を思わせられる一日でした。

寅さんの13回忌

2008-08-05 | 素晴らしき仲間たち
 8月4日は寅さんの命日です。渥美清さんは、12年前の今日、享年68歳で世を去りました。13回忌です。なぜか、死は暫く秘され、3日後の7日に報道されました。

 平成8年の8月7日、私の退職のための送別会を、大学の後輩がやってくれました。後輩だけでなく、先輩も二人来てくれて恐縮しました。

 会が終わった後、幹事のS君が「二次会に案内します」と言う。言葉に甘えてついて行き、カラオケバーに。

 バーのママさんが、「寅さん、亡くなったよ」と教えてくれて、渥美さんの死を知った次第です。

 ひばりの「みだれ髪」を先輩が歌うと、S君が「“赤いけだしが風に舞う”の“けだし”ってどういう意味?」と問題提起。バーの女性と、しばしの“けだし”論議をしました。

 あれから12年。S君は、今、D社の社長を務めています。あっという間に過ぎた12年ですが、12年という年月は、やはり長いのですね。

 今度、社長に会ったら「“けだし”って、どういう意味か知ってます?」と聞いてみたい。