古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

高遠紀行(3)

2005-04-25 | 旅行
 帰宅後、夜桜の写真は紹介したいと、インターネットを検索すると、いろいろなサイトが見つかりました。

 夜桜の写真はこちらで
http://www.yamatabi.net/main/camper/data/list/12_list_msg.html

 竹内徹美術館 は
  http://www.ina.janis.or.jp/~tohru/ 

 ついでに、司馬遼太郎は、高遠について何か書いているかな?と
「高遠 司馬遼太郎」で検索したら
 こんなHPが出てきました。これが高遠の紹介としては、実によく出来たHPです。
 最初の文、司馬さんの文か?と思ったら、司馬調を真似した文で、笑ってしまいました。

http://www.h2.dion.ne.jp/~tipo029/takatoo.htm

【桜の名所「高遠」。「弘前城」「吉野」と共に桜の三大名所として挙げる人も多い。
3月頃から高遠へ行くことを計画していた。古城と桜は私の好きな風景の一つである。
古来からの日本人の、美的センスが集中しているといっていい。

                               ~司馬遼太郎「街道をゆく」の文体をパクッてみました~】

 もう一つ、東北に関する司馬さんの文章を集めたHPがありました。

http://www.kurikomanosato.jp/to-siba-sirakawa.htm

 高遠については、保科正之の関連での記述だけ見つけました。
【 会津藩
会津藩について書きたい
なにから書きはじめていいかわからないほどに、この藩についての思いが、私の中で濃い。

藩祖は、保科正之(1611~72)である。この人の思想と人柄が、のちのちまで会津藩を性格づけた。
かれは二代将軍秀忠の傍流の子だったが、幼いころ信州高遠藩の保科氏の養子にやられ、20をすぎて高遠藩主になった。前将軍

の子であり、現将軍家光の異母弟でありながら、わずか3万石の小身だった。べつに不足を抱いたふうはない。
26歳で最上(山形市)20万石の領主になり、33歳、寛永20(1643)年、会津23万石に封ぜられた。以後、会津藩は

保科松平氏ひとすじで二百数十年つづく。

正之の肖像は、思いつめたような顔をしている。
陽気な人柄ではなかったが、行政者である自分を天職のように心得て、私心がなかった。
藩政と民政、さらに藩風の基礎は、かれ一代で確立した。
教養とう点でも、同時代の大名たちからぬきん出ていた。深く朱子学を学び、さらにはこの時代の新学問ともいうべき神道に傾倒

したことで特徴的であった。江戸初期ではめずらしいほどの日本的な思想家だったといっていい。
法制家であり、商工業の育成者でもあった。
もっとも重視したのは、風儀だった。・・・】


高遠城については
http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kosin/takato.html

高遠紀行(2)

2005-04-24 | 旅行
 20日は朝から雨。美術館を回ろうと、9時過ぎホテルを出て、信州高遠美術館に
向かう。雨にけぶる四方の山を見て山に詳しいMさん、「お天気が良ければ仙丈ケ岳
(3033m、山梨・長野の県境にある)が見えるのに!」。小生「そう言えば昨夜飲ん
だ地酒”仙醸”って仙丈ケ岳に因んだ名かな?」。濁り酒と銘打ち白く濁った、外見
はどぶろくのような酒だが、味は清酒だった。
 美術館は、城址公園と絵島(大奥の女中頭でこの地に幽閉された)囲い屋敷の間に
ある。中に入ると、ロビーから見る桜がガラス面いっぱいに迫って、さすが桜の高遠
の美術館。高遠出身の画家原田政雄氏のコレクシヨンを中心に、平山郁夫、前田青邨
の絵もあった。
 一時間ほど見てから、今度は竹内徹美術館に行こうということになった。昨夜、ホ
テルに飾ってあった竹内画伯の絵が印象に残ったからである。車で5~6分美術館に
着いて、玄関前に立ったが,扉が閉まっている。インタフォンを押しても返事がな
い。「どうなってんの?」「休日の表示もないね」「電話かけてみようよ」「電話番
号は?」「先ほどの高遠美術館に電話すればわかるよ」「高遠美術館の電話番号は
?」「さっき買った入場券に書いてあるよ」ということで、Mさんがケイタイをかけ
た。
 電話が終って、了解したMさんが説明した。
 「館長が電話に出てね。”家内はいませんか?”って言うんだ。高遠美術館の館長
が竹内徹さん。ここは私設美術館で、通常は予約制なんだって。で、館長が、”車で
行くからしばらく待ってください”と言ってる。」
 しばらく待つと竹内さんが小さな車を飛ばして来た。「どうぞ、どうぞ」
 館内に展示されていた画伯の経歴によると、1936年生まれというから小生と同
年だが、髪が黒々していて若々しい。
 1,2階に50~60点の絵が展示されている。雪景色の絵が多い。「絵を書くの
も寒くてたいへんですね」、「いや、それは覚悟の上ですよ」。
 私が特に気に入ったのは日展の「木崎湖雪日」、「高遠春雪」、一水会展の「木崎
湖春雪」の三点。(後便で同美術館のHPアドレスを紹介しますので、ご覧くださ
い。)
 入館料は無料だというが、そうですか、と帰るわけにもいかないので10枚、画伯
の絵のハガキを買って¥1000置いて来ました。
 「画家が付いて説明してくれるって機会、滅多にないね」
 「高遠美術館よりこっちの方が良かった!」
 「そうだね。昨日の蕎麦屋も今日の美術館も飛び込みが良かった」
 12時を過ぎていたので、土産に高遠饅頭を饅頭屋で買って帰途につく。3時過ぎ
多治見駅に着いて解散。小生はプールに寄って一泳ぎ、5時過ぎ帰宅しました・・・(続く)

高遠紀行(1)

2005-04-23 | 旅行
 19日、12時前に中央線多治見駅前に集合した。Tさん、Mさん、Hさん、Sさ
んと小生(いずれも30数年来の友人)Mさんの車で、信州高遠に桜見物の旅に出かけました。
 インターから中央道に乗って、「さあ昼飯をどうしよう」。
「飯田のJR駅前に、見かけはたいした事ないけど、美味しい蕎麦屋があるから、そ
こへ行かない」とMさんが言う。そこで、飯田のインターで下りて駅前。駐車場に車
を入れてMさんが案内する小路に入っていったら、目的の店は「3月27日、駒ヶ根
市に転居しました」と張り紙がある。Mさんは手帳に転居先と電話をメモしたが、
「駒ヶ根まで追いかけるのはタイヘンだが、駒ヶ根方向に行けば途中で信州蕎麦を食
わせる店、あるでしょう」と再度車に乗る。
 10~20分ほど走って、「この辺にしよう」と、鄙びた蕎麦店の前で車を停め
た。
 座敷に上がって、ビールを傾け(運転手以外)手打ち蕎麦を頼んだ。
 出された蕎麦を頬張ると、これがいける。店のご亭主がやってきて蕎麦の薀蓄を教
えてくれた。「私んとこはゴーゴーの粉を使ってまして・・」と話し始める。通でな
い私は、ゴーゴー?あっそうか!蕎麦粉と饂飩粉が5:5なんだ。「打った時は真っ
白なんです。それが蕎麦は鉄分を持っていまして、時間が経つと空気で酸化され色が
付きます。」・・・などなど。
 飛込みで入ったにしては廉くて旨い店だった。2時ごろ店を出た。
 その後、153号線を東へ。駒ヶ根、伊那を通過。高遠町に入ったのは3時半。桜
は満開であった。この地の桜は「コヒガン桜」と称して花びらが小粒で色が濃いピン
ク色。Nホテルに投宿。タクシーを呼んで高遠城址公園に行った。入場料500だ
が、チケットは翌日も使える。城址公園は人,人,人。天気予報では明日が雨。だから
今日が最後の満開の桜を楽しむ人たちだ。1500本の桜は、話には聞いていたが壮
観です。
 この城、別名は兜山城、武田信玄が築いたが、明治のはじめ取り壊され、城址に桜
を植えたのが、高遠桜の初めとか。
「保科正之をNHK大河ドラマに!」という署名活動をやっていた。大河ドラマの舞
台に取り上げられた地が、観光キャンペーンをやるのは毎度のことだが、大河ドラマ
になる前に、大河ドラマにしてくれ!という話は初めて聞く。保科正之は将軍家光の
弟で、会津藩の初代藩祖、名君の呼び名が高いが、最初はこの高遠の藩主であったと
いう。 
 一時間ほど散策して、帰りは30分ほどホテルまで歩いた。
 夕食後、7時半ホテルのサービスで、夜桜見物のバスが出た。
 照明にはえる桜は、華麗の一言!特に池面に映る桜が素晴らしい。(続く)

小説を読まない上司は持ちたくない!

2005-04-21 | 読書
 週間朝日の4.22号に評論家の田原総一郎さんがこんな記事を載せていました。

【坂野潤治は私が信頼する日本近代史の学者である。
 その坂野に怒られた。私が自分だけの経験を敷衍して、いま再び戦前のような言論・思想の自由が奪われる危険性を主張したからである。
 私は1941年、太平洋戦争が起きた年に小学校に入り・・・教師から、「君らの寿命は20歳で終わりだ。天皇陛下のために、・・・死ね」と教えられた。・・・戦前・戦中には言論・思想の自由はなく、戦争に反対したり社会主義や共産主義を主張したりすると、・・・警察に捕まって厳しい拷問を受け、殺された人もいるという実態を知ったのは戦後になってからだった。・・】

 そこで【「子供のころのわずかな体験で歴史を語るなどとんでもない」と怒られたのである】
 つまり、田原さんが【戦前には言論・思想の自由がなかった】と言ったのだが、その部分が違うということだったらしい。
【民主主義は戦後、占領軍によって与えられたものではない。明治・大正・昭和の時代にも、この国にあった。その延長として戦後の民主主義があるというのが、坂野の説明であった。】
【また、自分のささやかな体験で歴史を語るのは、大いに危険であり、歴史は膨大な資料、書物の中にあるのだ、とも力説した。坂野の指摘には、ジャーナリストとしては、いささかならず抵抗があったが、民主主義は戦後の産物ではなく、明治時代から存在していたという指摘は、新鮮で説得力があった。】
 以下、その理由が述べられていましたが、割愛します。

 で、私が以上長々と引用したのは、これが私が本を読む理由だったからです。(読書の効用は、歴史がその中にあるかどうかは私には分かりませんが、ここにあると考えます。)
 体験は勿論重要ですが、時間も体力も限度があり、従って、体験できることには限りがあります。その限界を超えさせてくれるのは読書以外にないのでは、と思うのです。
 ついでながら、小説の効用について。
 特に、人の上に立つ人には、そういう人はお忙しくて時間がないのですが、年に1~2冊は小説を読んでほしい。部下を持つ人には、人間の多様性の理解、つまり、人間に対する感受性を磨いて欲しいからです。
 たとえ、それが「愛ルケ」であったとしても・・・小説を読まない上司は持ちたくないと、かつて、考えていました。

ICC問題

2005-04-12 | 経済と世相
 かねてから、何故日本はICC(国際刑事裁判所)の条約を批准しないか、疑問に
思っていたのですが,寺島実郎さんが、雑誌「世界」の5月号で論じていました。
 ICCと何か?ご存知ない方のために、寺島さんの文章を引用しますと、
【国境を越えた組織犯罪、人道に対する犯罪に対し、国際刑事訴訟の手続きを準備し
て恒常的機関によって公正に処断しようという構想は、人類社会の積年の夢でもあっ
た。
 1998年、160ヶ国の代表が参加してイタリヤのローマで「ローマ規定」が採
択されICCが具体的に動き始めた。2002年の6月末には60ヶ国が批准し、つ
いにICCの設立が現実のものとなり、2003年3月にオランダのハーグにICC
が設立された。現在139カ国が調印し、97ヶ国が批准して参加している。注目す
べきは、イラク戦争に米国と共同歩調をとった英国も参加していることであり、韓国
も批准して18人の判事のうち一人を送り込んでいる。】
 日本はどうか。
【・・・実は、日本はICCに対して極めて熱心であった。すべての予備会議に参加
してリーダーシップを発揮していた時期もあり、世界は日本こそ最も早く調印、批准
するのではないかとみていた。60ヶ国以上が批准してICCが本当に実現すること
になった2002年7月1日には「外相の歓迎談話」まで発表しているのだが、以来
3年近くが経過したが一向に批准する気配はない。・・・】
 米国は・・・【米国は、クリントン政権の時代にはICCに積極的デアリ、ローマ
規定にも調印していたが、ブッシュ政権になって不参加へと方針転換した。】
 米国の不参加の理由は、世界各地の基地に派遣している米兵が、事件を起こして、
ICCに提訴されたら格好悪いということらしい。
 米国がどんな理由で不参加であっても、それは米国の勝手ですが、日本が米国に遠
慮して参加しないと言うのは、あまりにも見識がない。
 北朝鮮による拉致の問題は、国際犯罪としてICCに提訴すべきですが、ICCの
管轄権は「犯罪が行われた国、もしくは被告人の国籍がある国のいずれかがICCに
参加していること」(12条)になっていて、北朝鮮も日本も参加していないので、提
訴が出来ない。
 寺島さんはこう言っています。
【9.11の同時テロの中で、ブッシュ大統領は「これは犯罪ではなく戦争だ」と叫
んだ。・・・
 しかし、その後の検証によって、9.11は、「19人のテロリストによる組織犯
罪であり、内15人サウジアラビヤのパスポートを持って入国した」ことまで明らか
になった。】
 犯罪を戦争として対処したために、米国は【本年3月初旬でイラクでの兵士の戦死
者が1500人を超えた。イラクの人々の死者は10万人以上ともいわれ,それだけ
の犠牲者の上に作られたものは、憎しみと暴力の連鎖であり、世界へのテロの拡散の
恐怖である。】
 新聞は、何故ICC問題を論じないのか。我々は、新聞に書いてあることだけでな
く,「何が書かれていないか」に注目する必要があります。
 

アイスマン展・ほか

2005-04-09 | 美術館と美術展
 9日の朝,一挙に満開の桜見物を兼ね、お城・公園周辺を10km強、一時間かけ
てジョギング。その後,放送大学。午前中は図書館で雑誌に目を通し、午後は3時
間、講義のビデオを視聴、4月はマジメな学生です。
 雑誌にこんな記事を見つけました。「官僚は試験の上手な人たちだ。試験の上手な
人は難しい問題は一番後にする。難しい問題に取り組んで解けなかったら零点にな
る。だから、やさしい問題で点数を稼ぎ、難しい問題は時間が余ったら考えようと先
送り。小泉さんは官僚にまかせているから、竹島問題も拉致問題も先送りで結果が出
ない」。同感!

 大学の帰途,地下鉄金山駅で下車して名古屋ボストン美術館に立ち寄りました。ア
イスマンの展示会が10日までやっていると聞いたからです。余談ですが,万博で一番
嬉しいのは交通網が整備されたこと、空港は私にはあまり関係ないのですが、地下鉄
が環状線になって、とても便利になり重宝しています。

 91年、アルプスで氷漬けのミイラが見つかった。放射性炭素14の分析の結果,B
C3250~3100に生存した人のミイラであると判定された。左肩甲骨に食い込んだ鏃
も発見され、弓で射られて出血多量が死因と判断されたが、なにせ5000年も前の
ことで、殺人事件の捜査本部は設置されなかったが、名付けてアイスマン。その展示
会です。
 
 愛・地球博記念と銘打ち「ボストン美術館の巨匠たち――愛しきひとびと」という
企画展が行われていて、”巨匠たちが極めた<ひとのすがた>”と、人物画、人物彫
像の特集。ゴッホの郵便夫、ルノアールのブージヴァルのダンス、歌麿の衝立の男
女、アフロデイーテの誕生(ギリシャ彫像)等々の名作が並んでいました。
 万博本体よりも、万博協賛で、各美術館や博物館が、それぞれユニークな企画展を
やってくれるのが楽しい。

 アイスマンは、この企画展の併設。といってもアイスマン本体は南チロルの考古学
博物館に冷凍保存されているので、展示はそのレプリカです。レプリカでも迫力充分
の5000年前のホモサピーエンスです。
 5000年間氷の中だったので、保存状態が極めて良かったそうで,胃の中のもの、腸
の中の寄生虫まで分析された。推定の身長、体重は160センチ,50kgだそうで
す。勿論発見された時は、ミイラですから体重は生存時の何分の1に、身長も縮んで
いましたが・・
 14年前にそんな考古学上の大発見があったなんて、不勉強でつい知りませんでし
た。多分これは教科書に載る大事件でしょう。
 

100円CDに思うこと

2005-04-08 | 経済と世相
 桜満開の尾張名古屋です。 今,机の上に二枚のCDがあります。
 一枚は、ブラームスの交響曲1番、ベルリンフィルハーモニー。もう一枚は、北島
三郎、ファンが選んだベスト16曲(2001・6月P)。
 前者は100ショップのダイソーで買いました。ラベルを見ると「Made in 
Korea」とあります。後者は、図書館で借りたものを、PCでコピーしたものです。
コピーに要した費用は、CD-Rのメデイア5枚を680で買いましたから1枚あた
り136。こんなに廉い価格でコピーされたらレコード会社はやっていけないので
は?実際、コピー防止機能をCDに入れたら、そのCDが全然売れなかったという。
 余談だが、PCでコピーされたCDは、昔(4~5年前)のCDプレーヤでは音が
出ない。最近のCDプレーヤは、CD-R,CD-RW対応と銘打ち、PCでコピーし
たCDが演奏可能になっている。(どこが違うのか電気屋、三店で説明を聞いたが、
三店の説明がそれぞれ違うのでよく分からない)。今や、CDはコピーされて聞かれ
るのが当然の時代になったらしい。以前はCDは普通3000ぐらいで買ったもの
だが、最近は、100円で手に入ると思うと買う気がしない。

 で、言いたいことは、CDに限らず、高い値段のつけにくい時代になったというこ
と。これがデフレということだろう。先般読んだ榊原英資さんの本に、「バブルが崩
壊したとき、土地の値段が暴落しても、いずれはまた上がり、元に戻るだろう、と私
も思った。しかし、20世紀のインフレの時代から,21世紀のデフレの時代への、
何百年に一度の大転換だった」という趣旨の記述があった。

 昔は、不景気の時には、金融を緩める。即ち,通貨量を増やせば物価が上がるの
で、物価が上がる前に買おうとする人が多くなって、景気が回復する。ところが、経
済がグローバル化されているということを前提に考えると、国内の物価が上がろうと
すると、海外から廉いものが流れ込んでくる。物価が上がらない。そこで、あふれた
通貨は、特殊な資産に集中される。その特殊な資産が、ある時は土地や株、或いは国
債、時には原油であったりする。これが、いわゆるバブル現象です。デフレ時の金融
緩和とバブルとは密接な関係がある。
 金融緩和しても物価が上がらない経済構造がデフレ構造であり(IT技術の向上も
価格を引き下げる働きをする),時代がデフレ構造になったことを、榊原さんのよう
な明敏な人も気付かなかった。80年代後半から90年代、政府・日銀が政策を誤っ
たのも当然かもしれない。
 
 100円CDを前にして、こんなふうに妄想?が飛躍しました。


使命・懸命・宿命

2005-04-06 | Weblog・人生・その他
 今日は一挙に桜が咲き誇り、名城公園は七分咲きになりました。

 5日の中日夕刊に、実に素晴らしいエッセイが掲載されました。とても良い言葉な
ので、紹介させてください。金城学院大学学長で精神科医の柏木哲夫先生が、卒業式
で学生に贈った言葉だそうです。

 『卒業式の学長式辞で、学生に使命・懸命・宿命という三つの言葉を贈った。
 まず「使命」。数年前にTVで放映された、クリチャン作家の三浦綾子さんが亡く
なる少し前の言葉。
「私は小説を書くことが私に使命だと思っています。使命という字は命を使うと書き
ます。私は小説を一冊書き終わると、くたくたに疲れます。そして命を使ったなあと
思います。
 どんなに疲れても書き続けることが私の使命だと思っていますので、これからも小
説を書き続けることに命を使いたいと思います」。「使命」というのは、命を使うこ
とである。自分の使命とは何か、自分は自分の命をどのように使っていくのか。それ
を考えながら旅立ってほしい・・・

 次に「懸命」。小さな島の診療所で長い間、医療の活動を続けてきた74歳の医師
の言葉。
 「私はこの診療所で、今まで懸命に生きてきました」。・・・「懸命」とは命を懸
けると書く。学生が新しく社会に出ていくにあたり、使命が見つかった時に、それに
命を懸けて、懸命にその道を歩んでほしいと願う。

 最後の「宿命」。この言葉はやや否定的な響きがあるかもしれない。しかし、先ほ
どの医師は「私は,ここで診療をし続けること、そしてここに骨を埋めることが、私
の宿命だと思っています」とも言った。この文脈の中で、私は「宿命」という言葉の
中に「命が宿る」という意味を感じとった。
 一人ひとりの学生が使命を持って、懸命に生き、これが私の宿命だと思えるような
人生を歩んでほしいと願う。』

 さて、自分は何に命を使ってきたか?と反省した次第。
 いや、100歳まで生きられれば、まだ30年余ある。これから命を使うテーマ
を見つけようや。と、自分に言い聞かせました。

この国のかたち 6

2005-04-01 | 読書
 「和を以って貴しと為す」だけではダメだと,以前メールで述べたことがありま
す。その意味は、生きていく上で、どうしても守らなくてはならない価値というもの
があると思う。その価値よりも,グループの和を優先してはならないということで
す。寺島実郎さんはこれについて何を語っているか、私の興味を持った点です・
【新渡戸稲造が『武士道』を英文で刊行したのが1900年であり、内村鑑三の『代
表的日本人』や岡倉天心の『東洋の理想』『茶の本』がやはり英文で発刊されたのも
その前後だった。・・・今日、世界中の書店で日本に関する本が置かれた棚を見つめ
て実感することは、一世紀も前の先人が書いた日本および日本的価値に関する本を超
えた本がないということである。】
 まず,日本人に共通の価値というものがあると思われるが,それについて明治の先
人の著書を超える書物がないことにふれます。
 そして、日本人の従来の価値観が猛烈な勢いで崩壊しつつある、といいます。
 不祥事に、会社の中から密告があることに触れ【今静かに、そして、ものすごい勢
いで崩壊しているのが、この会社主義であり、戦後型秩序を形成していたものの中核
である。・・・卑怯・卑劣な匿名の手段で帰属意識の問題を外部で糾弾する風潮がか
くも蔓延することは、何かが崩れている査証である。】
【戦後生まれ世代に共通の傾向を抽出すれば、根深い「私生活主義」と「拝金主義」
への埋没である。戦前の過剰な国家主義への反発もあって、全体を語ることを避け、
己の身辺だけを考える傾向を許容してきたのが、戦後日本であった。それは全体に対
して,個の価値を守り抜くという「個人主義」とも異なり,私生活さえ守られればよ
いという次元での生活保守主義の蔓延であった。】
 ここの処,しびれました。「個人主義」は守るべき個(価値)があって成り立ちま
す。次の世代に伝えねばならない価値を、私たちは確立しなければなりません。
【根本的には、戦後の日本が「私生活主義」を何よりも中心に置き、私生活を超えた
価値を完璧なまでに見失ってきたということなのであろう。】(おわり)
【無味乾燥な拝金ロボットではなく、人間として生きる価値がこの国にあることを、
大人の行き方と社会創造によって示さねばならない。】

 追伸:サイト「寺島実労の’発言’」はBookMarkに登録してあります。

この国のかたち 5

2005-04-01 | 読書
 『寺島実郎の発言』から「構造改革」に関連する戦略を抜書きしました。
【日本という国は不思議な国で、国民経済が二極分化している。競争条件が入り込ん
でいる領域については、価格体系が国際的に見ても妥当な水準に下がり始めている。
・・・しかし、競争条件が入り込まない公的規制領域においては、驚くほど高い価格
体系が固定化している。例えば、高速道路料金・・・】道路公団民営化が必要なわけ
ですね。
 また【産業の集中した都市で集まった税金を地方(農村)に配分するというシステ
ムが常態化した。その具体的回路の一つが「公共投資」の配分であった。】
 財源の地方への分与がないと地方分権は実を伴わないでしょう。寺島さんは【何を
価値基準に分配を行うか,未来社会の設計には不可欠の要素である。】と言います。

 価値基準の設計には、戦略が必要とされるのだが,近年の日本の戦略性の欠如につ
いて【無線電信についても明治の先人は卓抜な対応を示している。無線電信がマル
コーニによって発明されたのは、1895年であったが、その翌年には逓信省は早くも
研究に着手している。1900年のパリ万博の技術的目玉は無線電信であったが、当
時ロンドン駐在武官だった「日本海海戦の天才参謀・秋山真之」らの海軍軍人が注目
・・・わずか4年後の日露戦争時には、日本海軍はすでに主力艦から駆逐艦にまで無
線電信を装備しており、「将校37名,下士官150名が無線電信のために配属され
ていた」という。
 驚いたことに、日本の「行革」の結論は、郵政省を総務省のなかに入れ,この国の
情報通信戦略は「総務省」を中心として展開するというのである。】

 日本は直面する構造的変化を踏まえた戦略を持たねばならない。 
【例えば高齢化について、日本では65歳以上の人口の比率が10年以内に2割を超
す時代が到来することや、15歳から64歳までの生産人口に対する高齢者の比率が
三分の一を超すことが、日本社会の活力を失わせる暗い展望として語られることが多
い。しかし、それは正しくない。高齢者を「社会的負担」と考えるか「社会的資産」
と考えるかによって未来展望はまるで座標転換する。・・・例えば,定年退職した人
から、小・中学校の先生として教壇に立つ人をリクルートする仕組みをつくることが
できれば、次世代に先行世代の体験を伝達する回路としても意義がある・・ また、
「高齢者が高齢者を介護する」という発想で、福祉の現場に高齢者の参加を促す受け
皿としての非営利団体を多様に活用していけば、福祉の現場の活力は様変わりしてい
くであろう。】