古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

寅さんとカラオケの思い出

2016-07-31 | 素晴らしき仲間たち
寅さんとカラオケの1思い出です。
昨夜9時からNHKTVで「渥美清 心の旅路」が放映されていました。渥美清さんが亡くなって(平成8年8月4日)から20年が経つそうです。あれからもう20年ですかねえ。
20年前、長年勤めたD社を定年退職することになり、同じ大学を卒業した先輩と後輩が送別会をやってくれました。後年D社の社長を務めることになるSさんが「二次会に行こう」とカラオケバーにつれていってくれました。着いて椅子に腰を下ろしたら、ママさんが「寅さんが亡くなったってTVが放送してた」と教えてくれました。平成8年8月7日の夜でした。
 ひばりの「みだれ髪」を歌った人がいました。
「赤い蹴出しが風にゆれ」なる一節があります。
「蹴出し(けだし)」って何と私が問題提起。
Sさんが「お越し(腰巻)じゃない。」と言いました。残念でした。でも、全く見当違いというわけではない。
蹴出し(けだし)とは、和服の下に着用する下着。「湯文字( 腰巻)」の上から重ねて着ける、足首までの長さの布をさすのですが、ひとしきり話題がにぎわいました。
当時D社の陶磁監査役をやっていたIさん。この方滅多に歌はうたわないのですが、「旅の終りに」を歌ってくれました。
https://www.youtube.com/watch?v=hHwcuTAjGgI
至らない小生のため皆さんが面倒をみてくれて定年までつとめられたんだと、胸が熱くなりました。
8月が来て、寅さんの特集をTVがやる度思い出すカラオケの会、あれからほんとに20年もたったのですね。

ポンペイの壁画展

2016-07-29 | 美術館と美術展
「ポンペイの壁画展」を27日、名古屋市博物kぁんで見てきました。
http://www.chunichi.co.jp/event/pompei/
2000年前火山の噴火で埋められた街の壁画を展示するという。日伊交流150年記念展で本邦初公開との惹き句に惹かれて出掛けました。
10時前に会場に着きましたが、もうすでに観客が大勢詰めかけていました。当時の邸宅や別荘をを彩った絵画、神話の登場人物と銘打っていますが、人間の裸体の美というものが、既に鑑賞の対象になっていたのですね。本邦初公開といわれる壁画は、18世紀に発掘された際は、ルネサンスの巨匠ラファエッロの作品に例えられましたとのこと。
写真を撮っている人がいたので、私も撮ってみようかと1枚カメラのシャッターを押してみたら、直ぐスタッフが来て「フラッシュは使わないで」という。
この薄暗い室内で、フラッシュなしではうまく映らない!それに、カメラは自動でフラッシュするようにせっていされているので、フラッシュ解除の設定方法をわすれてしまった。というわけで、カメラはあきらめました。
帰宅後ツイッターを見たら「うまく撮れた写真が少ないので、ツイート少なめです(壁画の素晴らしさを写し取るだけの腕も機材もなかった…)。 ぜひ現地でご覧ください。 名古屋の会期は2016年7月23日(土)~9月25日(日)です。 http://www.chunichi.co.jp/event/pompei http://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/special/past/tenji160723.html」
というのがありました。27日付でしたから、私と同様カメラを試みた人のようです。


通訳ブースから見た米原万里さんの「領土問題」

2016-07-28 | 読書
通訳ブースから見た、米原万里さんの「領土問題」です。
昨日読んだ「米原万里のベストエッセイ1」(角川文庫)からの紹介です。
 周囲を海水という天然の国境腺にぐるりと淵とられた日本という国に住む人々には、陸続きの隣国どうしが国境線をめぐってせめぎあう緊張や切実さが、頭では理解できても、感覚としてはなかなかついていけない。だからきっと、中国との尖閣諸島、韓国との竹島、ロソヤとの北方4島など領土をめぐる交渉も、そういう駆け引きには百戦錬磨の相手国には、到底かなわないのであろうなあという気がしてならない。ずっとそう思ってきた。
 これは、ロシヤ語の同時通訳を本業とするわたしが、この間20年以上にわたって、年間百以上の会議に関与してきた体験から、つくずく思い知らされてきたことでもある。
 というのは、日本とロシヤの代表が参加する二国間会議で北方領土について触れあれない会議は希であった。
 第二次大戦で敗北した日本は、連合国とのあいだで交わしたサンフランシスコ講和条約んいよって千島列島の領有権をなぜか放棄してしまった。その結果、なし崩し的に、終戦前後のドサクサにまぎれて千島列島を占拠したソ連の領土になってしまったかに見えた。ところがその後、日本は
「放棄した千島列島に歯舞、色丹、国後、択捉は含まれない」という解釈を持ち出して、四島の領有権を主張。これが一応建前の上では「侵略による領土拡大は一切しない」という大戦の苦い教訓を国是としたソ連の政策と相まって、領国は四島のうちの二島返還をうたった日ソ共同宣言にまでこぎつけた。スターリン死後のフルシチョウ第一書記の時代である。ところが、1960年の日米安保条約改定は、
「変換した二島に米軍基地がおかれ対ソ包囲網を強化されてはたまらない」という懸念をソ連側に呼び起こし、協同宣言はソ連の議会で批准されずに終わった。以後20年近くブレジネフ書記長時代のソビエトは一貫して
「日本との間に領土問題は存在しない」と言い続けた。
 取りつく島のなかったソ連側に変化の兆しが見えてきたのは、ゴルバチョフ」が登場してからである。数なくとも領土問題が存在することは認めるようになった。
もっとも日本側が、
「領土問題を解決してから経済協力を」
 と主張するのに対して、ソ連側は、
「いやいや、経済協力によって信頼関係を築いてから領土問題の解決を」
と応ずる堂々巡りがウンザリするほど続き、暫くすると、ゴルバチョフはどうやら本気で領土を返す気はなさそうだと誰もがおもうようになった。だから
「20世紀に日本とロシヤ領国刊に発声した問題は、20世紀のうちに解決しておかないといけないですね」というエリツインの言葉には多くの日本人が期待をもった。この発言の裏には、悪化する経済状況の中、何としてでも日本から金融支援を取り付けたいという打算が働いていたのは否めないにしてもである。ところが「カネで領土を売り渡す」という屈辱に、落ちぶれた大国のコンプレックスにさいなまれる国民が猛反発した。ソ連崩壊によって帝政時代に併合した国土がどんどん離脱していくなかで、ロシヤ国民の民族主義が高揚し、世論を恐れたエリツイン大統領は政治的決断を下すことなく、病に倒れた。
 今、プーチンはどう出るだろうかと、日本側交渉当事者は気をもんでいる。
ざっと領土をめぐる日ロ間のやり取りをふりかえったが、この間、日本側学識経験者やジャーナリストが異口同音に言い続けたことがある。
「世論調査をすると、日本人の圧倒的多数がロシヤは嫌いな国であると答えています。逆に、アメリカは常に好きな国の一つになっています。いいですか、日本とロシヤの関係が本当に良くなるためには領土を返すことです。アメリカは日本に沖縄は返してくれました。それまでは、日本人の反米感情はかなり強かったんです。沖縄返還によって実に劇的に変わったんですね」
なかなか説得力のある発言で、ロシヤ側もなるほどという顔をして何度も頷く。日本側は念を押すかのように、さらにアメリカをほめたたえる。
「大したものです。アメリカの気前の良さは。北方4島と違って琉球諸島を完全に放棄していたんですからねえ、それを返してくれた。さすが大国です」
 同時通訳ブースのなかで何度この言い回しを譯してきたことだろう。そしてそのたびに、心の中で問い返していた。
「ちょっと待てよ。アメリカは本当に沖縄を日本にかえしてくれたのかい」
 アメリカ統治下であった頃、沖縄は基地の島だった。朝鮮戦争の頃は、ここから北朝鮮にk向って、ベトナム戦争の頃は、インドシナ半島に向かってたえまなく爆撃機が飛び立つ前線基地だった。爆撃機は、そこに住む人々を殺しつくし、家屋や学校や工場や病院を破壊し尽し、田畑や森林を焼きつくすために飛び立っていった。
 1972年の沖縄返還後も沖縄は相変わらずアメリカ軍の基地の島である。
米軍最大規模の燃料・弾薬貯蔵施設は、湾岸戦争の際に、中東に展開した米軍を強力に支え、朝鮮戦争やベトナム戦争の時に勝るとも劣らない重要な役割を果たした。冷戦終結後は、戦略拠点としての位置づけが強まり、98年のイラク空爆には、嘉手納基地からF15戦闘機20機が攻撃に参加している。
 基地の中は、昔と変わらず日本の治外法権区域であるから、アメリカの軍人も市民もパスポート・ビザなしでいつでも出入りできる。要するにアメリカ領土なのだ。
 つまり、米軍は「変換」前と少しm歩変わらない便宜を沖縄から得ている。
それどころか在日米軍の地位に関する協定第24条では、日本における米軍の維持にともなう経費は日本に負担をかけず合衆国が担う、と明記されているにもかかわらず、日本政府は米軍の要求に屈し、1978年以降、財政支援を行うようになった。その思いやり予算のっ額は今年度2755億円に達している。(中略)
 最近次々と公開される秘密文書から、当時の佐藤首相はじめ日本政府首脳はさほどバカでなかったらしく、もともと分かってこの話に乗ったようだ。騙されたのは日本政府ではなく、日本国民。
 戦後55年間、米軍基地を沖縄に押し付けることで、日本人の圧倒的多数は、日本がアメリカの属領などではなくえ、世界有数の先進国であり、独立国であるという幻想を抱き続けられたのだろう。
 日本の外交交渉における救いようのないおめでたさ加減は、海水に囲まれているせいというよりも正確な自画像がもてていない報いではないかという気がしてきた。
(2000年8月「婦人公論」。2000年8月「ミセス」)


憲法1条と9条

2016-07-21 | 読書
 憲法1条と9条、無関係と思っていました。それが密接な関係があると教えられ、溟を開かれた思いです。。
『憲法の無意識』(柄谷行人著、16年4月岩波新書)を読んだのです。
戦後憲法の9条(戦争放棄)は1条(天皇象徴制)のために必要なものであり、2次的なものであった。当初(制定時)は1条の方が重要だったのが、現在に至って1条と9条の重要性が逆転した。何故逆転したのか。
 その理由は1条(象徴天皇制)が定着したからです。昭和天皇の時代には、それはまだ定着していなかった。戦前、天皇が立憲君主の制約を超えて政治にかかわったことは、はっきりしていますし、そもそも終戦の決断を天皇がしたことは確かです。さらに戦後の被占領下でも、彼は占領軍のいいなりになっていたわけではない。むしろ能動的にふるまった。天皇の関心は皇室の維持にあり、重要だったのは日本の安全保障でした。そのため米軍による安全保障をマッカーサーに求めた。
 新憲法発布後も、「象徴天皇」にとどまることなく、さまざまな政治的介入をしています。
 1947年9月、米側にメッセージを送り25年から50年あるいはそれ以上、沖縄を米国に貸し出すという方針を示した。これにより、沖縄では現在に至るまで在日米軍基地の74%が集中する「軍事植民地」状態が続いています。従って、憲法1条が真に定着したのは1989年、明仁天皇の即位後です。
 1989年は天皇が逝去しただけでなく、奇しくもソ連圏の崩壊が始まり、その後に湾岸戦争がはじまりました。 この時、日本の中東派兵をめぐって9条が問題になりました。

 連合国軍総司令官マッカーサーは、日本を占領統治するために、天皇制の維持をはかり、それに対する連合軍諸国の反対を説得するために9条を持ってきたのです。マッカーサーが独自に考え出したことというわけではない、誰かアドバイザーがいたのだと思います。彼が日本を統治するためには天皇制が必要だった。日本で政治権力を握った者は、藤原氏以来、必ず天皇の権威に基づき統治しようとした。マッカーサーもその故智に学んだのです。
マッカーサーは、天皇制を守るために、9条を作ったのに、今や天皇が9条の庇護者になっているのです。
 第二次世界大戦後、占領軍は天皇制ファッシズムの基礎となったものを徹底的に除去しようとした。陸海軍の否定、農地改革、財閥解体など。その一方で、マッカーサーは、天皇制を残そうとした。その時、」彼はかつての日本の権力者の知恵を受け継いだ。実際、日本史をふりかえると、戦後憲法におけるような天皇の在り方は、近代以前の天皇制の常態であった。
 明治憲法は、戦後憲法と違って、自主的に作られ、外から強制されていないといわれますが、事実ではありません。明治憲法をつくったのは、外に対して、日本が近代国家であることを示すためでした。それによって、幕末に締結された不平等条約を廃棄するためです。その意味では、明治憲法も外部への強い緊張に強いられて作られたのです。
 更にいうと、明治憲法を作ったのは、憲法にかかれていない存在、つまり元老たちです。おまけに彼らは一枚岩ではない。たとえば、伊藤博文と山形有朋の対立があります。それは条文そのものからは見えないが、条文における矛盾、あるは曖昧さに現れています。
 天皇に関しても、どうにでも読める。憲法の解釈として、天皇主権説も天皇機関説も成り立つのです。興味深い事実があります。天皇機関説の美濃部達吉は戦後、枢密顧問官として新憲法草案の審議に加わりましたが、国民主権に基づく新憲法作成に反対しました。理由は、明治憲法の下でも議会制民主主義は可能であり、明治憲法に基づく以上「国体」を変えるような新憲法はあり得ない。彼は審議に反対し、採決では棄権しました。

中東から世界が崩れる

2016-07-19 | 読書
 高橋和夫さんの新著『中東から世界が崩れる』(NHK新書、16年6月刊)を図書館の棚から見つけ借りてきました。高橋さんは、放送大学教授で、私は同大学で「第三世界の政治」という単位を取得したので、先生の講義ぶりを記憶していました。
 最近のテロ問題や難民の問題をどう解説してみえるかな、と手に取ったわけです。
 イギリスのEU残留問題・・・離脱を主張する人々にとって追い風となったのは、難民問題であり、テロである。EUに残れば、より多くの難民がイギリスに押し寄せるばかりか、イギリスでテロが起きる可能性も高くなるという議論である。
 仮にイギリスがEUから離脱することになれば、今度はイギリス分裂の可能性が視野に入ってくる。スコットランド独立派はEUへの残留を望んでいるので、再び住民投票を求めると思われる。
まずは、イスラムの基礎知識から。
 7世紀、ムハンマドという人が神の声を聴き、そのメッセージを教え始めた。これがイスラム教の始まりである。イスラム的発想では、神様は時々ムハンマドのような預言者を通じて、人間にメッセージを送ってくる。最初に送られてきたメッセージはユダヤ教、その次に、神様はイエスという人をメッセンジャーに指定し、ここからキリスト教が生まれた。ムハンマドはイエスの次に神様に選ばれた預言者だ。
 もちろん、これはイスラム教から見たキリスト教理解で、キリスト教徒の大半にとっては、イエスは人間つまり預言者でなく、神の子である。イスラム教の神は「アッラー」、アラビヤ語で「唯一神」という意味である。
 すなわち、イスラムの「アッラーの神」がいて、ユダヤ教の神がいて、キリスト教の神がいるという認識ではない。イスラム的発想では、同じ神様が人類の発展段階に合わせてユダヤ教、キリスト教、イスラム教を示したと考える。
 イスラム過激派が戦術とする自爆テロは、本来イスラム的では、なかった。イスラム教は自殺を禁じている。当然、自爆テロも認められない。つまり、自爆テロは昔からあったわけではない。初めて行われたのはわずか30年前だ。自爆テロは、きわめて現代的な現象である。
 イスラム教徒が過激化してきた背景は、19世紀以降のヨーロッパによる植民地支配です。いわば、イスラム版「尊王攘夷」が過激派の思想なのです。4
 伝統的な文化を持ち、それに従って生きてきたのに、突然、西洋文明がやってきた。戦争をしても勝ち目がない。幕末日本では、「尊王攘夷か、文明開化か」となったが、中東では「イスラム主義か、西洋化か」となった。日本でも攘夷派浪士が外国人を襲撃する事件が相次いだ。
 イスラム主義が過激化していったのは、第二次世界大戦後、とりわけ1960年代後半以降だ。
 西洋の衝撃に対するイスラム世界の対応は、明治維新期の日本と似る。「欧米やイスラエルに対抗するためには、まず西洋の真似をして力をつけなければならない」と考えた。多くの国が独立を果たし、一時は“文明開化”路線がうまくいくかに思われたが、次第に壁にぶち当たる。最大の事件は「アラブ民族主義」を掲げて社会主義的政策を推し進めたエジプトのナセルが1967年、第三次中東戦争でイスラエルに惨敗したことだった。イスラエルに対する敗北が、中東イスラム世界に絶望感をもたらした。そしてイスラム主義を先鋭化させていく。

さて本書が焦点を当てるのは、サウジアラビヤとイランだ。

イラン人は、自分たちは巨大なペルシャ帝国を作った人々の子孫だという強烈な意識を持っている。自分たちの歴史を誇らしく語る民族は世界に二つ、イランのペルシャ人ともう一つは「4000年の歴史」を誇る中国です。
 両国のメンタリテイはとてもよく似ている。中国は自分たちこそが文明(中華)であり、周辺は『異狄』と考えた。「中華思想」である。ペルシャ人も中東版中華思想を持つ。
さらに、中国もイランも、近代において欧米に蹂躙された歴史を持つ。その屈辱感を両国は抱え続けてきた。
1978年にイランが革命状況に入った時中国では董小平の指導下で経済改革と開放路線が採られた。毛沢東の革命路線から決別しようとした時期にイランは革命を始め、イラン革命が成就したのは翌年の1979年。そして中国が現在の路線の限界を感じ始めた時期にイランの指導層は、その中国から学び始めようとしている。一周遅れである。
さらに、イランとサウジアラビヤは本質的に異なる。中東には、”国“と”国もどき“が存在し、イランは国であるが、サウジは国もどき(国家の振りをして国旗を掲げた部族連合)である。

こういった分かり易い語り口で、中東を論じた本でした。

新しい幸福論

2016-07-12 | 読書
『新しい幸福論』(橘木俊詔著、岩波新書)を読みました。昨年、トマス・ピケテイの「21世紀の資本」が評判になりました。ピケテイの述べるような格差拡大が、日本で起きているかを検証した本とみて読むことにしました。
 日本は従来「一億総中流社会」と言われてきたが、最新のデータによると、それは幻想にすぎないと、第1章「深刻化する格差社会」で述べます。
 日本の貧困者についてみると、ここ30年の間に貧困率が12%から16.1%に増加し、この16%という数字は先進国の中でアメリカに次いで第2位です。ここでの貧困率は「相対的貧困率」で、国民」の中で中位の人の半分の所得に満たない所得の人の比率です。
 第2章「格差を是正することは可能か」
「国民が幸福である」と判断している人の比率をみよう。
2016年の国連報告では、第1位がデンマーク、第2位がスイス、第3位がアイスランド、第4位ノルウェイ、第5位がフィンランドです。ジニ係数で再配分後の所得格差をみると、アメリカ0.379、イギリス0.345、日本0.329フィンランド0.259、スウェーデン0.259、
ノルウェイ0.250、デンマーク0.248と北欧諸国の所得分配の平等度が高い。社会保障給付費のGDPに占める比率も高い。
内閣府の『平成30年度国民生活白書』では、1981年から2005年まで、国民の一人当たりGDPは増加しているのに、生活満足度は確実に低下している。
所得格差の是正策には、再配分前の所得の平等化と再配分後の所得の平等化がある。前者は市場競争主義の社会に入れば当然格差は広がる。後者について述べると、政府は税と社会保障による弱い再配分政策を保持してきた。日本の税・社会保障による所得再配分効果は非常に弱いが、中でも税の貢献分は非常に小さく、弱いながらもそれを支えているのは社会保障制度である。
 第3章は「経済学における成長と脱成長の葛藤」

 経済成長率は、技術進歩率、労働成長率、資本成長率の合計で示される。
第1に、日本は出生率が大きく低下している。第2に、現役世代は貯蓄をして、引退世代は貯蓄を取り崩す。前者の減少と後者の増加という人口の年齢構成の変化で、資本成長率も0%、技術進歩率が大きくならないと経済成長率は正にならない。
 この章で注目すべきは「格差拡大が経済成長にマイナス効果」と論ずる部分です。
格差の拡大は、富裕層と貧困層の人数が増大し、中間が減少する。
富裕層 消費性向が低いので人数が増加しても家計消費の増は少ない。
中間層 人数が減るので家計消費の減少量が大きい。
貧困層 人数が増えても家系消費の増加量は少ない。
三つの相層を総合すると、家計消費の総量は減少し、経済成長にとってマイナスになる。
次に、中間層の減少は、国の教育費減少の影響を受け子供の高い教育を受ける機会を減少させる。有能な労働者を減少させ、次世代の成長にマイナスになる。
 さらに、格差の拡大は非正規労働者の増加を伴っている。これは労働者全体で見た場合、生産性は低下するかもしれない。
過去(1985~2005)の格差の存在が、その後(1990~2010)の経済成長にどのように影響したかというOECDのデータがある。
格差の存在が成長率を引き上げたのは、3か国(アイルランド、フランス、スペイン)、逆に成長率を引き下げた国は16か国で。日本も含まれる。
日本は、格差を縮小させれば、成長率が高まるかもしれない。
これが、この本で著者が最も述べたかったことらしい。

すべての疲労は脳が原因

2016-07-08 | 読書
 ここの所、からだが疲れやすいのです。たとえば、プールで泳いだ後、家までの帰りがしんどい。歩くのも脚がもつれるような感じです。
3年前までは一日1000mぐらいは毎日泳いでも疲れというものは感じなかった。その原因が2年前の怪我によるものか?2年前の怪我以来疲れやすくなったのは事実ですが、怪我と同時に加齢現象が効いたのかもも知れない。
 先日、丸善で新刊を立ち読みしていたら、「すべての疲労は脳が原因」(集英社新書、16年4h月刊)という本を見つけ、GETしてきました。著者は梶本修身さん、大阪市大大学院疲労医学特任教授。1962年生まれと紹介されていた。前書きにこの本の要旨が記されています。
『「疲労」と聞くと「ガス欠」、すなわち車のガソリンがゼロになるようなエネルギー枯渇のイメージを持つ人が多い。また、「仕事や運動をすればエネルギーを消費するから疲れるのは当たり前」と思っている人が多い・。しかし疲れを感じるのはエネルギーが不足したからではない。
 日本は「疲労大国」で、日本人の60%は何らかの疲労を感じている。
過労死を意味する「KAROUSI」は英語に採用されている。
疲労について
運動でストレスを発散すると疲れもすっきりとれる。
ニンニク、ウナギ、焼肉、栄養ドリンクで疲れは軽減する。
温泉にゆっくりつかって疲れを取る。
楽しくお酒を飲めばリセットできる。
これらはすべて科学的裏付けはありません。
では、一般に見られ宇疲労は何が原因で起きるのか?
その答えは、「細胞のサビ」、「酸化ストレス」です。「酸化ストレス」とは、体内で活性酸素が過剰に発生することで生じます。
 もちろん、疲労の原因がすべて参加ストレスというわけではない。しかし大多数の健康な人の疲労には、細胞への酸化ストレスが大きくかかわっています。
 身体の中でどこがいちばん疲れやすいか?
 たとえば、長時間のジョギングや、暑い中のゴルフは「疲れた」と感じるでしょう。しkし、私たちの研究によると、4時間、身体に負荷を与える運動を続けても、実は筋肉や肝機能にはほとんど影響がない。
 では、疲れていないのになぜ「体が疲れた」と感ずるのか?
答えは「脳の自律神経の中枢」にありました。
 ヒトは、運動を始めると、数秒後には心拍数が上がり、呼吸が速く大きくなります。体温の上昇を防ぐべく発汗します。それを秒単位で制御しているのが「脳の自律神経中枢」で、運動が激しくなると、この「脳の自律神経中枢」での処理が増加します。その結果、脳の細胞で活性酸素が発生し細胞が酸化され、本来の自律神経の機能が果たせなくなる。この時脳に「疲労」が生じ、「疲労感」として自覚する。
 世界的に疲労の研究の歴史はまだ浅く、日本において国が研究をスタートさせたのは1990年代です。』
 第1章「疲労の原因は脳にあり」は、運転時の疲れについて、ドライバー必読と感じました。
活性酸素の発生が「疲労」の原因になりますが、活性酸素が直接脳に「疲労感」をもたらすわけではない。
疲労因子と呼ばれる一群のタンパク質が「疲労感」をもたらす。脳内の神経細胞などが、活性酸素で参加されると、細胞内から老廃物が排出され血液中の疲労因子が増加する。そして「活性酸素が細胞を攻撃して疲労因子が増えてきた」という情報が大脳に伝わって疲労感を表出する。
「疲労因子が疲労感をもたらしている」、「疲労とは、疲労因子が体内に多く留まっている状態」です。
疲労から回復するには、活性酸素により酸化され損傷した細胞を修復しなければならない。この役割をになうのが、疲労回復因子と呼ばれるたんぱく質群。年齢をかさねると、疲れがのこりやすいのは、加齢によって、疲労回復因子の反応性が低下するからです。
 第3章で呼吸と疲労の関係を解説します。
疲労回復因子によりダメージの回復が進むかどうかは「睡眠」が大きく影響する。
呼吸は、肋間筋の働きとともに、横隔膜を下げて、肺を陰圧(内部の圧力が外部より低い状態)にすることで、外界の空気を吸い込む動作と、横隔膜を戻して肺から空気を自然に送り出す動作で構成されています。横隔膜を下げて肺に空気を送り込むのはかなりの重労働で、人はそれを休みなく24時間死ぬまで繰り返します。1時間自転車を漕いでも消費するエネルギーは、300キロカロリー程度なのに、何一つ運動しなくても毎日生きてるだけで約1500キロカロリーのエネルギーを消費するのも、呼吸にかなりのエネルギーを要しているからです。
 呼吸は通常でもかなりの運動負荷になっていますが、いびきをかいている状態では、肺に空気を入れるにはさらにエネルギー負荷がかかります。そうなると、自律神経は心拍を早くし血圧をあげて酸素供給量を維持しようと頑張る。その結果、本来、もっとも休めなくてはいけない睡眠中に自律神経をさらに酷使します。
疲労回復にいびきは大敵ということ、
 第4章で、「科学が解明した脳疲労を改善する食事成分」について述べます。
結論だけいうと、イミダペプチドが最も効果的だと言います。
イミダペプチドは何に含まれるかというと鶏の胸肉です。
鶏の胸肉に抗疲労成分がなぜ含まれるかは、渡り鳥の行動を考えるとわかる。
渡り鳥は季節に応じて地上の広い範囲を飛び回る。1年の間に北極圏と南極圏を行き来して3万km以上飛ぶ鳥さえいます。常時疲れずに羽を動かす胸肉に抗疲労成分が大量に含まれるのは不思議でない。
海を回遊するマグロやカツオの尾びれに近い筋肉にも、イミダペプチドは豊富に含まれます。
第5章では、脳疲労を永現する環境について述べます。これも結論を言うと、「ゆらぎのある環境」だといっています。最終章は、疲労しにくい脳の鍛え方。それは「ワーキングメモリーを鍛えること」だそうです。


前立腺がんの再診

2016-07-06 | Weblog・人生・その他
7月6日は西部医療センターに前立腺がんの再診を予約していました。9時過ぎ自転車を転がして10分たらず、医療センターに着きました。
再診受付で保険証と診察カードを窓口に出します。毎月、保険証のチェックがあるので、窓口のお姉さんに提出します(チェックがなければ自分で受付機に診察券をインプットすればいいのだが、)。端末で保険証番号をチェックした後、当日の指示を印刷してくれます。
 ⑬窓口に行き、検体をとってくださいとある。⑬窓口の機会に診察券を入れると、採血の順番票と採尿のコップが自動で出てくる。いつも通りです。しかし、順番は111番になっている。採血室をのぞくと50番台が採血している。まだ60人くらい跡だ。まだ9時20分なのにもう100人以上来ている。今日も待たされそうだ。トイレに行き採尿し提出したのち、廊下の椅子に腰かけ読みかけの本「すべての疲労は脳が原因」を読み始めた。
『これまで
疲労の原因物質とされてきたのは「乳酸」でした。乳酸は、体内で糖質を代謝してエネルギー源として利用するときに生ずる物質ですが、長らくこの乳酸が疲労の原因だと医学界ではいわれてきました。が、現在では否定されています。
 乳酸=疲労物質説の源流になったのは、イギリスの著名な研究者アーチボルト・V・ヒル(1922年ノーベル生理学医学賞受賞)が1929年に行った実験の論文による。「カエルから取り出した筋肉に電気刺激を当たるとパフォーマンスが落ち、平行して乳酸値が上昇した」という報告です。
この説は近年、複数の実験で「反証」されました。ラットやマウス、ウマなどの実験で「乳酸を投与しても、なにごともなかったように運動し続ける」とう結果が次々に発表されたのです』
このあたりまで読んだとき順番が来て、採血してくれました。その後、泌尿器科窓口⑫に行くよう言われました。
「②診察室の前でお待ちください」と言われて待っていたが11時20分を過ぎても順番が来ない(予約は10時半~11時)。腹が減ったので「レストランで昼飯をとってきます」と断り4Fのレストランでランチを取りました。戻ってきて順番が来たのは12時15分ごろ。
再診室に入り名前を告げると先生が「PSAは0.021で、さらによくなっています」という。
「転移の画像診断をしますか?」、「いやこれだけPSAが低いと画像を見ても小さくてわからないでしょう。」
「ではどうしたらいいですか」、「薬あ効いているのですから今の治療を続けて結果を定期的にフォロウしましょう」ということに。
「転移を防ぐ注射はやるのですね、」、「そうです」
「その薬ですが、1月と4月に注射したところが、固くしこりになり皮膚の色もかわっているのですが・・・・」とお腹の皮下注射の痕を見せると、「駐車の痕に塗る薬を処方します。それと今回は注射を変えましょう。そこのベッドに寝てください」とその場で注射した。「一寸痛いですが、辛抱してください」。確かに痛かった。
 次回は8月17日とのこと。当分。投薬を続けるしかないようでした。
その薬!会計に行って請求書を受け取ったら、」1割負担なのに約7000円!
がんの薬って高いものですね。これではお腹の皮膚も痛いけど財布も痛い。
早く帰って、大リーグの前田の放送を見ようと急いで帰ってきたのですが、前田は4回0/3でノックアウトされたらしくマウンド上に見られませんでした。残念!

藤田嗣治展

2016-07-02 | 美術館と美術展
7月1日、藤田嗣治展を名古屋市美術館で見てきました。
http://www.leonard-foujita2016.com/
4月29日からやっていたのですが、つい時間が取れなくて皆既終了が7月3日に迫って、やっと見に行くことが出来ました。
生誕130年記念ということで、名古屋の後は、兵庫展(7月16日~9月22日、兵庫県立美術館)、府中展(10月1日~12月11日、府中市美術館)と続くようです。
 年代順に彼の作品を多数集めて展示していました。小生は、藤田の作品を見るのは初めてです。
「サイパン島同朋臣節を全うす」、「アッツ島玉砕」など名前は聞き知って今いたが、現物を見るのは始めです。戦争協力云々はありますが、絵画として素晴らしいものと思いました。インターネトの解説には、『東西の豊かな土壌の上に新たな芸術を花開かせた藤田その人は、一方で二つの文化に引き裂かれる苦しみを味わいます。毀誉褒貶。戦争画の問題を巡る過熱した責任論は、二つの世界に生きた藤田が背負わされて重い十字架でした。その心の苦しみを癒すかのように、最晩年の画家はランス礼拝堂の建設に残された生命を注ぎ込み、完成から1年半足らずでこの世を去ります。東西融合の喜びと苦しみを一身に引き受けた生涯でした。』とありました。
一見の価値ある展覧会です。

「株主総会」の季節

2016-07-01 | 経済と世相
今年も「株主総会」の季節です。6月29日、D社の株主総会に行きました。
今にも泣き出しそうな空模様ですが、出掛けることにしました。毎年出席しているので、今年行かないと「あいつ死んじゃった」と思われかねない。市バスで大津橋。バス停を降りて西へ。産業貿易館西館の西側に会場の名古屋銀行協会です。入り口前にD社の社員が数人。案内に立っていました。5Fホールに上がり受付で入場カードを貰う。34番です。10時まで20分ほどありましたので、ロビーで飲み物を貰い座って、開会を待ちました。
 例年ここに座っているとき、顔見知りが次々来るのですが、今年はいなかった。
お天気も悪いし、今年は決算が良かったから、あまり話題もないと出席が少ないかな?と思っていたら、前社長のSさんが、そして現取締役のIさんが来て会釈してくれた。
 10分前会場に入ると、後ろから声をかけられた。元専務のWさん。隣に座って「最近の体調はどうですか」と聞くと「ダメだ。もう81になるからな」。
 先に机に座っていた隣の方。「質問されるのにこちら側が良いでしょう」とマイクに近い外側の座席に代わってくれた。顔は覚えがあるんPだが名前が思い出せない。確か営業にいた方だ。
10時、会長が登壇し挨拶。「本日はご多忙中のところ、総会にご出席賜り…」と型通りの挨拶のあと、「報道されているように、英国のEU離脱の動きがあり、急きょ情報をあつめ対策に抜かりの無いよう対策会議を招集の予定です」と、例年にない冒頭の挨拶だった。
 定足数の確認後、最初に監査役の本日の報告書類に関する監査報告をした後、映像による事業報告、社長からの「対処すべき課題」として中期経営計画の進捗報告、会長から本日の上程議案の説明を終わり、質疑応答に入った。
「質問ある株主の方は挙手願います」で、一番先に手を挙げた。
「出席NO34のNOZUEです。」と、以下の質問。
1. コンパクトラインについて
「6月17日の日経に、当社のメキシコ投資についての解説がありました。「コンパクトラインの導入を進めるなどの工夫が貢献」と言うのですが、これについて詳しい説明をお願いします。
コンパクトラインの投資費用は、従来ラインに比べ1本当りでどのくらいの差か?
生産数量は従来ラインとくらべどうか?
設置面積はどうか?
メキシコ工場のコンパクトラインと従来ラインの本数は?
社長が答えた。
「技術的な詳細についてはお答えいたしかねる点もありますが、投資費用はあまり変わりません。設置面積はほぼ半分になります。省エネに配慮した設計です。メキシコのコンパクトラインについてはこれからです」・・・日経紙面より詳しいことは話したくないのかな?
別の株主が手を挙げて、「当社の海外戦略を説明してください」私も関連質問をした。
2.国内生産減少と為替変動への対応について
連結決算ハイライト(インターネット)によると、「国内は軸受け生産の海外拠点の移管に加え国内自動車生産の減少。海外は、現地通貨ベースでは増加したが、円高の影響で減収となった」。今年度においても事情、海外への生産拠点の移動、および為替変動リスクは同じと思うが、どう対策を考えるか?
財務担当の常務から、現地通貨での資金調達など為替変動対策を説明したが、生産拠点の海外移転については特に説明なく、世の趨勢ないし事業経営の与件とみているようだ。
次も小生が質問した。冒頭の会長挨拶に関連し、
3.英国がEU離脱した場合来季の業績にどう影響するか?
 当然、為替の変動はあるだろうが、為替の変動以外のものの動きによる影響をせつめいしてください。
会長が答えた。
「実際にどうなるかはこれから英国とECとの協議で決まってくるのだが、その協議も始まっていないので、分からないというのが実情。為替の変動以外と言われたが為替の変動が大問題です。これについては、TAKEIさん(社外取締役)が詳しいから補足説明をお願いしますと、日銀出身の社外取締役に質問を振った。
日本の取り締まり役は、事象の予測よりも事象が現実化した時如何に早くたいおうするかで勝負するのが得意rしい。
別の株主が手を挙げた。
4.佐賀工場の現況について
「佐賀工場について、何故地元を離れ九州に立地したのですか」
社長が答えた後、会長が補足説明した。
「海外戦略の一環で、海外工場に提供するバイメタルを効率よく生産する工場を志向した」
そこで、小生は関連の質問をした。
佐賀工場の現状での海外向け、国内向けの生産比率は?
社長「海外出荷はこれからです」
更に挙手して総会案内8pの
5.電気二重層キャパシター電極シートについて
あたらしい分野で売り上げが伸びているとのことだが、どのような製品で、どのような産業分野でも用いられるものですか?
社長「電車のコンデンサーのような④大きなコンデンサーではありませんが、部品に使うコンデンサーで好評をいただいています。」
更に質問。
6.取締役選任の方針について
従業員から取締役や上級執行役員への抜擢を増やしてもいいのではないか。将来の社長、会長の交代を考えると、その候補者として、取締役経験者を増やすべきでないか、取締役選任の方針をご説明ください。また役員と執行役員の関係についてご説明ください。(上級執行役員の経験を踏ませてから役員に選任する方針か?)
I常務が回答した。
上級執行役員の経験を踏ませてから役員に選任させる考えですが、事情によってはそれにこだわりません。
質問も1時間過ぎたので、小生は打ち切り、最後はWさんが発言した。
「プラスチック系軸受けのシェアは?」
会長「13%前後で当社は2位ですが、1位も3位も接近していますので、1位を奪取できるよう努力していきます」
最後は各議案の採決、シャンシャンで終わりました。年間配当6円の増配で年26円の配当になった。11時45分終了。増配の総会はこのようにしゃんしゃん総会になるが、総じて真面目な質問が多かった。
30日、送られてきた株主関係書類には、配当金の通知以外に、クオカード(プリぺイドカード)が同封されていた。1000株未満の株主に¥1000、1000株で¥1500、5000株以上¥2000だったが、個人株牛にこれだけ配慮する時代になったんですね。