古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

財政危機の深層』(2)

2015-02-25 | 経済と世相
『財政危機の深層』を読んで触発された思いを以下に述べます。
同署は、日本の財政の悪化は深刻であり、その主たる原因に年金問題があるという。
つまり日本の年金は、日本の国力に比し払いすぎだ、毎年、政府の粘菌負担は1兆円筒増加しており、そのため増える社会保障費を赤字国債、国債の増発で賄っている。つまり、日本の財政赤字は、我々高齢者が年金を貰いすぎているからだと言ってるみたいです。
一寸待ってほしい。「貰いすぎ」と言っても、我々は30数年、給料から毎月少なからぬ金額を年金保険料として控除されてきた。だから、退職後の今、年金を受給するのは当然の権利である。他人からとやかく言われることはない。
とはいっても、毎月の年金額を見れば、これが自分の積立金だけで賄われるとはとても思えない。
 ここである。我々は自分の年金を積立方式でまかなってきたつもりなのに、いつの間にやら、賦課方式で運営されていたということである。
制度の設計当時にきちんとした設計がなされず、国民に対してもその説明もなかったことが大問題である。本来なら、年金の受給額の通知に、この金額のうちどれだけが積立金で賄われどれだけが国庫から出されているか明治されていれば納得するのだが、、
所が数年前に大問題になった年金の納入の明細が記録されていないとから明らかになったように、それが明らかでないのである。
従って、制度を切り変え様としても、過去の納付額までさかのぼって、新制度に切り替えることによる差額を清算することが不可能である。
 そもそも制度の発足時点、国民に終世年金をはらうつもりで設計したのかもわからない。はらえなくなったら、税金で払うから細かい計算は要らないと考えた?とも疑われる。
 現在の「介護保険料」でも同じ問題が発生するかもしれない。。
発足時年額5万円前後だった保険料は昨今10万近くになっている。今後も年々上がるだろう。しかし、自分が介護保険を使わせてもらう時に、保険料が残っているかどうかは全くわからない。取られるだけで終わるリスクは充分考えられる。
 制度の発足時の設計がずさんであったことの責任をだれが採るのか、年金記録が行方不明なぞ、管理責任者は監獄に行ってもらわないといけないほどの大問題である。
しかし、官僚も政治家も責任は取らない。
年金制度の改革が困難なのは、高齢の有権者が増えて彼らが既得権を主張するからではない。多少はそれもあるが、制度の設計責任を明らかにしようとしないという当局の姿勢に原因があるように、私には思える。
 もう一つ、消費税引き上げでなく、法人税や所得税の累進課税の引き上げで賄うべきだという意見がある。財務省の思惑は、「年金の払い過ぎが増税を必要とする」主因であるから、年金受給世代から税を取るべきで、そのいみでは、消費税引き上げが妥当だと考えているように燃えます。
そう考えていることは、、年金の明細書をみるとわかる。税金も保険料も、控除額は年々増加し、手取りをすくなくしていることから読み取れます。
 とはいえ、社会保障費の増加が日本財政悪化の主因であることは否定できず、制度の改革が必要であることは間違いない。
抜本的改革とは、年金保険料を払う人と、年金を受け取る人の比率を改善することである。「マクロ経済スライド調整」などの姑息な方法でなく、例えば人口の一割が年金受給者になるよう、受給開始年齢を自動的に引き上げるなどが必要になると思います。
既に年金をもらうようになった世代の「既得権主張」と受け取られるかもしれないですね。でも、年金を既に受け取っている人は子供をたくさん育ててきた世代であり、これから受け取る世代は、子供を少なくしか育てtこなかった世代ですから、仕方ないのでは?

財政破たんの深層

2015-02-24 | 経済と世相
日本は1100兆円の借金(債務残高)を抱えている。消費税を上げないと、日本の財政は破たんするとよく言われる。しかし、本当にそうなのか、それを考えてみようと、『財政破たんの深層』(NHK新書)なる本を読んでみた。
著者は、小黒一正氏、京大理学部卒、一橋大経済学研究科博士課程修了、大蔵省入省、財務省財務総合政策研究所主任研究官を経て、現在法政大経済学部准教授
財務省出身だから、ちゃきちゃきの増税不可避論者だろう。その言い分をまず聴こうと思ったのです。
 著者の言いたいこと
1、 日本の財政は破綻寸前である。
国のバタンスシートを診てみよう。
 財務省は、2003年度から「国の財務諸表」を定期的に作成するようになった。2012年度版のバランスシートを見ると、国の総資産640.2兆で、正味資産は477兆円の赤字です。http://www.mof.go.jp/budget/report/public_finance_fact_sheet/
また内閣府も「経済財政白書」で発表している。これによれば、正味資産は地方政府が234.9兆円、中央政府は487.4兆円の赤字。である。
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je01/pdf/wp-je01-00302.pdf
ちなみに地方経済の正味資産が黒字というのは意外に思われるかもしれないが、この背景は自治体間の格差である。貧しい自治体は地方交付税を多くもらっても財政は改善しないが、豊かな自治体は資産も豊富で、合計では純資産がプラスになっている。
 しかし、これらのバランスシートには、全部あるいは一部しかカウントしていない項目がある。年金債務についてだ。年金債務には二つの考え方がある。一つは「現金主義」。「各年度の給付はその時点の収入で賄われるから会計上の負債としてカウントせず、実際に発生した現金収支にみによるというもの。
 もう一つは、「政府は将来の高齢者に年金給付を約束しているが、それに要する積立金も負債としてカウントする」という「発生主義」だ。
財務省の「国のバランスシート」では「現金主義」。将来の給付財源に充てるため保有している積立金のみ「負債(公的年金預り金)」として計上しているだけ。
内閣府の「政府のバランスシート」は、「発生主義」に基づくものの、全額でなくその一部、「公費負担分を計上しているだけです。
2、 財政悪化の最大の要因は、社会保障費の増大であり、年金負担が高齢化によって年々増大することにある。
ここで、社会保障費の対GDP比率を1995年と2044年を比較すると、
1995年には14.7%だったのが、2011年には25.4%になっている。つまり、高齢化のスピードのためである。租税収入の対GDP比は、17.5%(1995)から16.8%(2011)になっている。
3、  財政破たんを避けるべく年金システムの抜本的改革が必要だが極めて困難である。
高齢者にとって年金受給は既得権になっており、有権者の中で高齢者の比率あ年々増加しているからである。
歴史をふりかえれば「財政再建のための増税政策を掲げた政治家は、ことごとく辛酸をなめた。」
 たとえば1979年、初めて公選の焦点に消費税導入を掲げた大平首相率いる自民党は。同年の衆院選で過半数を割り込む大敗を喫した。
 近い所では、2012年6月に、社会保障・税一体改革法案を成立させた民主党野田政権、野田氏はこの法案を通して1997年以来の要否税導入を決めるため、民主党の分裂や政権の崩壊という代償を払った」
 外から眺めると、財務省こそが強大な権限を持つ組織に見えるかもしれないが、予算編成や政策立案の過程では政治の意向が強く働いている。
 海外でも、「財政当局が本当に強い権限を持っていれば、財政は今日ほど悪化しなかった」と指摘する研究もある。
現行の年金システムは、財政を悪化させるだけでなく、著しい世代間格差を生んでいると述べています。
「1億2300万円」という数字の意味をご存じですか。ざっくり言えば、いまの60歳以上と将来世代(1986年生まれ以降)の世代間格差の大きさで、世代ごとに生涯の受益と負担を推計するとこうなると言います。
 財政破たんはどういう形をとって現われるか。
国債の値下がりと国債金利の急上昇が始まり。歳出の抑制に取り組まざるを得ない。その時。最初にやり玉に挙がるのは、年金である。
 公共投資は歳出全体の3%に過ぎないのに、国債費と社会保障関係費で国の予算お4分の3を占めるのだ。
国家予算237.4兆円(14年度一般会計⁺特別会計)のうちいわゆる社会保障給付は110兆円に達する。高齢化によりこの額は今後さらに大きくなる。)

2013年度の社会保障給付費110兆円の財源の内訳は、保険料収入が約60兆円、資産運用収入が約10兆円、残りの約40兆円は公費で賄う。国の負担分、「社会保障関係費」は年伸び率が約1兆円である。
 日本の財政赤字の主たる要因は、社会保障費の急速な膨張にある。しかし、その抜本的改革には「民主主義の壁」がある。少子高齢化により高齢者世代の相対的に増すことだ。高齢世代にとって年金は一種の「既得権益」でその削減が相当な困難を伴うことだ。
2004年の年金改革で、「マクロ経済スライド調整」が導入された。しかし・・・
「マクロ経済スライド調整」とは、その時どきの社会情勢に合わせて年金の給付水準を自動的に調整するしくみです。導入前は、「物価スライド」という仕組みがあり、インフレ率等の物価変動に合わせて年金給付額を増額させていた。しかし、「マクロ経済スライド調整」ではインフレ率(今では賃金上層率)から定率(たとえば0.9%=年金保険者数の減少率(0.6%)+平均余命の伸び(0.3%))を差し引いて給付する。インフレ率が2%なら給付額は1.1%増に留める。その結果、年金受給者は気づかれない形で実質的に毎年約1%削減できる。
 現実には、これまでデフレが継続していたので2004年の導入以来一度も発令されていない。2015年は導入されるらしい。
以上の論理展開は明快で間違ってはいないのですが、すべて財務省の役人の立場からの論であると考えます。
 次回で、一年金受給者側からの議論を述べてみます。(続く)

大怪我をした日から1年

2015-02-23 | 水泳
 2月22日は、昨年頸の大怪我をした日から丁度1年です。
怪我した当日は、こんなに長引く大怪我だとはおもっていませんでしたが、もしかしたら私の人生観に影響するほどの怪我でした。
 日常生活には何の支障もありません。
 通っている整形外科医によると、「この年でこの怪我をして、車椅子暮らしになっても不思議でないのに、日常生活は支障ないのだからむしろ幸運だ」と言いましたが、納得できません。水泳が出来ないのです。
頭で覚えたことは忘れるが、「身体を使ってマスターしたことは、絶対に忘れない」と言われますが、実際、私もそれは信じていましたが、身体の動きを記憶する神経回路が壊れた場合、身体の動かし方を忘れてしまうのです。
以前は、クロールu、平泳ぎ、バック、バタフライ、いずれも100m、200mは泳げました。それが、25m泳ぐと息が上がる。それ以上になると、腰が下がって沈んでしまうのです。
脚の間にプルブイを挟んで泳ぐと浮力が稼げるので、長く泳げるのですが・・・最近は、プルブイの助けを借りないと一日1000m泳げません。
最初は持久力、すなわち心肺機能が落ちた?と疑い、昨年7月、名古屋市のスポーツ維持相談を受診しました。ところが心肺機能はむしろ良くなっている。「練習すればもとに戻る」と言われましたが、その後練習を重ねても泳げるようになりません。今年の1月名古屋市の「スポーツ障害診断」を受診しました。
「頸の怪我はなおっているのでは?」と言われました。「怪我が治るということは、怪我で壊れた細胞が再生して新しい細胞に入れ替わるということだが、入れ替わった細胞が元の細胞と同じ働きができるとか限らない」と、言います。
「では、練習さえすれば、元に戻る」と練習を工夫することにしました。
「足のキックが弱くなって、浮力不足で腰が沈む?」
東プールで時折出逢う飯田さん(55歳区分クロールの日本記録保持者)は「筋トレをやったら」と助言してくれた・そこで、今年から月に10回ほどジムに行き、太ももの筋トレをやることにした。
また泳ぎ方を基礎からチェックしようと、北スポーツセンタ-に通うことにしました。月曜11時からと土曜3時から先着順で5名、「水泳ワンポイントレッスン」をしてくれるのです。
臼田さんというコーチが。10分間泳ぎを診てアドバイスしてくれるのです。1月から教えてもらっているのですが、とても良くポイントをついたアドバイスを頂けます。
「クロールのキックは、左足がほとんど動いていません。右脚だけでキックしている。打つというよりは、脚をしならせるつもりで動かしてください」
「バタフライは、水中をうねるように進む泳ぎです。そのうねりができていません。うねり方を練習してください」等々。
さて、泳ぎが元に戻るかどうか、今日も北スポーツセンターに出掛けます。「今日行くところがある」、「今日用がある」、キョウヨウとキョウイクは、健康と長生きのコツだそうですね。

『新京都学派』

2015-02-17 | 読書
『新京都学派』(柴山哲也著、2014年1月刊、平凡社新書)という本を大学図書館の棚に見つけ、読んでみました。
「京都学派」というのは、戦前、京大哲学科の西田幾多郎や、和辻哲郎、田辺元らのもとに集まった一群の哲学者の学風を指していた。
 戦前から京大には、能力さえあれば、異質な人材を登用し学閥にとらわれない自由な文化があった。『善の研究』で一世を風靡した西田は京大哲学科専科出身(専科は聴講生)で、正規の帝大卒業でなかった。
 一方、戦後登場した「新京都学派」という呼び名は、桑原武夫に率いられた京大人文科学研究所の一連の学者グループたちを指している。
 今西錦司、貝塚茂樹、上山春平。梅棹忠夫、梅原猛、多田道太郎、鶴見俊輔、川喜田二郎、伊谷純一郎といった面々である。
個人的な希望を言えば、ここの加藤秀俊を入れておいてほしまった(加藤は一橋大出身であるため外されたのかもしれないが)、
 で、この本は、この「新京都学派銘々伝」といった趣の本です。
例えば梅棹忠夫についての記述・・・
『文明の生態史観』(中央公論1957年2月号に発表)とはどういう本か。
 梅棹はユーラシヤ大陸の地域を「第一地域」と「第二地域」にわける。日本と西欧は距離的には離れているが、類似の近代文明を持った。しかも西欧と日本が持った近代文明は、きちんとした歴史的な段階を踏んで出来上がり、それは植物の遷移と同様な共同体の生活様式の変化なのだという。日本の近代化は、文明の西欧化と言うべきものではない。遷移とはそれぞれ別の地域が、平行進化ともいえる発展の形態を示すことなのだ。近代文明に関して西欧と日本を「第一地域」に含める梅棹だが、北アフリカを含む地中海地域はいわゆる西欧とは異なるとして「第一地域」から外す。
 「第二地域」は「第一地域」とは共同体の生活様式が違い、社会構造が違う。いきなり革命による独裁体制に移行した地域が多い。「第二地域」の生態学的構造の特色は、ユーラシヤ大陸をななめに横断する砂漠地帯、ステップの存在だ。
 これを植物の遷移のアナロジーを用いて、それぞれの種が独自の生活様式を発展させながら環境に適応していく、という。
 公文俊平は、日本が崩土成長期に差し掛かっていたころに、「日本文明を西欧に比肩しうる一分肢体としてとらえた点で画期的な見方だった。それは当時の日本人を感奮興起させた」と梅棹の仕事を高く評価している。」

所で、ここに司馬遼太郎が登場する。
桑原が、大学紛争に関する人文研の見解をまとめて、京大記者クラブに出掛けた時(昭和27年前後)クラブに一人だけ居残っていたのが、当時産経新聞記者の司馬遼太郎だった。
 その後、司馬は記者よりも作家として桑原との会合を重ねることが多く、NHKや雑誌の企画で逢うようになり、中国旅行をともにする。
 周知のように、司馬は明治維新を近代革命とみなし「竜馬がゆく」などの維新小説によって、敗戦で意気消沈していた日本人大衆を鼓舞する作品群を書いた。「坂の上の雲」では日本の海軍技術がバルチック艦隊を撃破するシーンは、敗戦で意気消沈していた戦後の日本人の心を強くとらえた。
司馬の作品には日露戦争で買ったことで慢心し、昭和の軍国主義時代、近代合理主義を捨て竹やり部隊や特攻隊という非合理的かつ非科学的精神主義を生み出し日米戦争を勝とうとした軍部と日本政府指導部に対する大衆の“腹ふくるる思い”が反映されていた。
 私(著者)は記者時代連載小説「胡蝶の夢」を担当したが、司馬の胸中にはノモンハン事件を小説化したいという願望があることを直接本人から聞いていた。そのための取材にも何度か同行したことがある。しかし結局、ノモンハンを書くという司馬の思いは実現しなかった。
 司馬はあんな非合理な愚かな戦争をやった日本に腹を立て、「私は戦後の日本が好きだ」と日頃口癖のように語っていたが、そんな司馬の悲惨かつ悪夢のような戦争体験に先駆けたのが、ノモンハン事件だった。
 昭和14年、日本軍とソ連軍が満州国境で衝突したノモンハン事件は、太平洋戦争以上に悲惨な戦闘だったと言われる。
 太平洋戦争における軍部大本営と日本政府の失敗の原因は、先行する日ソ戦ですでに顕在化していた。しかし、軍部と日本政府はノモンハンの失敗を反省し矯正することなく敗北に対処する戦略もなく無謀な日米戦争に突入したのだった。
 司馬は陸上自衛隊に招かれて、『ノモンハン事件に見た日本陸軍の落日』というタイトルで講演した。「私はあまり兵隊に向かない人間ですが、時代が時代でしたから、陸軍の経験があります」と前置きして語っている。
 ノモンハンの日本軍の訴訟率は75%に達したという。それでも前線の兵は気力でよく戦っていたのだが、これだけの死傷率になると、「もう戦場に立ち向かう者がだれもいない感じですね」と司馬は語っている。
 ところが、ノモンハンにおける無残な日本軍の敗北は国民の目から徹底的に遠ざけられ隠ぺいされた。当時中学生だった司馬もノモンハン敗北のことをしらなかった。
実は、徴兵で司馬が配属された「洗車第一部隊」はノモンハンでひどくやられた部隊だった。そうしたいきさつもあって司馬はノモンハンを書き残しておきたいと思ったという。
ノモンハン事件を秘密にしておく国家機密的な根拠は見つからない。結局「日本の秘密と言うのは、日本の弱点をひみつにしているだけのことですね。・・・・こういうのが、日本軍の秘密であり、情報であるらしい。日本軍だけではなく、日本史を貫いてきた弥生式以来の、庄屋の感覚であるらしい。情けない思いになりますね」と司馬は自衛隊幹部の前でそう語っている。
 ノモンハンを小説に書くことを中止した理由を「あまりにばかばかしくて、こんなものを書いていると精神衛生上悪いと思って書きませんでした」とこの講演で明かしている。
 ノモンハン事件は現代日本を指導する大組織の在り方に対する教訓をいまだに発信している。福島第一原発の収束もないまま、事故の顕彰もおろそかにして、原発再稼働を前のめりで行おうとする日本の原子力システムが犯した失敗、事故後3年を迎えてもなお修正できない現代日本の危機の根源を、弱点を隠した過去のノモンハン事件の中に投影してみることが出来る。
 一連の小説を支える史観形成や、中国古典などに対する新聞記者の領分をはるかに超えた博識は、新聞記者として回っていた京大人文研や桑原グループとの接触によるところが多いといわれる。
 司馬史観は明治維新を近代革命と評価する点で、新京都学派の明治維新の見方と共通している。
 梅棹の「文明の生態史観」も司馬の一連の小説群も、敗戦で自信喪失した日本人を勇気づける著作であった。

司馬遼太郎と「坂の上の雲」

2015-02-14 | 読書
朝日文庫の新刊で『司馬遼太郎と「坂の上の雲」』という本が出ました。白眉は、司馬さんが1994年2月4日、東京の海上自衛隊幹部学校で行った講演です。
講演後の質疑応答が面白かった。(以下、同書より)。
―――司馬先生は、海軍について「文化遺産」といわれていますが、どのあたりが「文化遺産」なのでしょう。
先日亡くなった山村雄一さん(元大阪大学学長)も、海軍が大好きでした。軍医学校の卒業式のときに、訓示はただ一つで。
「海軍士官はスマートであれ」
だれかが質問したそうですね。
「スマートとはどういうことですか」
「スマートとはスマートのことだ。つまり酒を飲むなら一流の料理屋で飲めということだ」
 文化というものは不合理なものですが、文明は合理的なものです。簡単な約束さえ守れば、普遍的な世界に参加できるのが文明です。
私は陸軍に入って初年兵の生活を経験してですね、これは刑務所に行くのとどっちが楽だろうと思ったくらいです。陸軍は文化そのものであり、土俗の長州奇兵隊の名残みたいなところがありました。
―――司馬先生は、どういう基準で小説の主人公を選ぶのでしょうか。
歴史上の人物というものは、自分の運命をせいぜい半分ぐらいしか知らない。
そう考えないと、小説というものはかけません。
たとえばナポレオンですが、フランス革命を世界に輸出した。
「国民」という概念を作った人です。当時フランス人はいたが、フランス国民はいませんでした。権利と義務により、「国民」という概念が出来上がり、徴兵制も始まる。国家の軍隊は国民によって出来上がる。そういうことを世界が真似し始めた。
ナポレオンは、いまそんなに評判がいい人ではないのですが、ナポレオン好きは世界中にいる。そんな後世の評価をナポレオンは知りません。
私の小説に出てくる人物より、私の方が彼ら自身をわかっている。後世というものはそういうものです。
―――西郷隆盛はそんなに人を感動させるようなことを喋ってわけでもないのに人が集まってくる。人望とはなんでしょうか。
私たちは動物ですから、おなかが空けば食欲が出て食べる。欲望の塊です。
しかし、そこを頑張って。「私」のかたまりを2%ほどでいいから、圧縮する。バキュームというか、真空を作る。その2%の真空とは「無私」の部分ですね。そこに人が寄ってくる。西郷を西郷たらしめるのは、その2%の頑張りです。
―――第二次世界大戦についてのお考えは
 私は要するに日露戦争に勝つまでの日本人に対して贔屓なのです。勝ってからの日本人については、あまり贔屓でない。
第一次世界大戦のときに時代は変わりました。軍艦は石炭でなく、重油で動くようになった。陸軍も自動車や戦車が中心になった。しかし日本に石油はない。石油をアメリカその他から買っていた。そのときに陸軍も海軍も軍隊を持つのを止めればよかったというのは極論ですが、しかし、日露戦争で膨張した軍隊を思い切って縮めればよかった。太平洋戦争なんてとんでもないことでした。
国民に対して正直であればですよ。日本国は戦争なんかできませんと言えばよかった。海外に軍隊を派遣することなんかできないんだと。
ところが1931年に満州事変が起こります。やがて中国全土に戦火が広がった。
 そのうちアメリカは、日本は何をしている、やめろと言った。全部兵隊を引き上げ日本に引っ込んでいろといった。これが「ハル・ノート」
日本はどうしたか。ここまで膨れ上がって「ハル・ノート」は飲めない。では戦争するかとなった。
石油はないんです。ないから陸軍は考えた。ボルネオ・セレベスに行けばある。ボルネオ・セレベスを取ればいい。石油の問題をボルネオ・セレベスで解こうとした。そこにコンパスの芯を置き、円を書くとニューギニヤも入る。ニューギニヤにも兵隊を置かなくてはならない。フィリピンにも兵隊を持っていかなきゃならない。太平洋戦争になった。単純に石油がほしかっただけ。そこさえ取れば、戦争を続けられると考えた。
私は陸軍の大本営参謀だった人にいったことがあります。
「陸軍に入りますと『作戦要務令』を持たされます。そこには兵力の分散はいけないと書いてますが、要するに太平洋戦争で陸軍のやっていたことは、兵力を分散して、敵がやってくるのを待っていただけですね。」
元参謀は「ひどい、ひどい」と笑っていましたが、笑いごとでない。

「坂の上の雲」を書いたときに正木さんという元海軍大佐に家庭教師になってもらった。正木さんが「私に似た男をあつめます」と4人を集めてくださった。
おひとりが「太平洋戦争の話ではありませんが」と切り出された。
「昭和14年に海軍大学校に入りました。図上演習というのをやりました。教官が終わって講評します。赤く塗った軍艦と青く塗った軍艦が地図の上で戦い、赤が40%沈み、青が60%沈んだので赤の勝ち。ところがその設定がいつも日露戦争でした。アメリカ海軍がバルチック艦隊のごとく、フィリピンから北上する。対馬沖で待ち伏せして、海戦になる。誰かが聞いた。
「戦争は続くものです。その後はどうなるのでしょう。40%沈んで勝った後どうなるのですか」教官は言いました。「これでしまいだ」
日本海軍にはワンセットしかない。一回戦ったらもう終わりなんだということでした。
日本の海軍は大東亜戦争という滑稽な作戦のために、待ち伏せすることを想定し、かつ輸送船の護衛に回された。しまいに潜水艦は物資を積んで島々にお米を運ぶような、哀れなことになった。「坂の上の雲」の栄光はすべてなくなりました。

もう一つ、「前書き」から。司馬さんは、「坂の上の雲を書き終えて」というエッセイでかいている(1972年8月)
『世界史の中ですくなくとももう一例、帝政末期のロシヤとそっくりの愚鈍さを示した国家がある。太平洋戦争をやった日本である。国家機構というのは30数年であれほど老朽化するものだろうか』。
編集記者がこう書き添えています。
 『ある人の観察によれば、日本軍は敵地を占領するより、自国を占領することに熱心だった。そして統帥権を魔法の杖にして、事実上占領した。昭和10年、常識とされていた美濃部達吉博士の「天皇機関説」が封殺され、軍部の恫喝的支配が始まる。
 敗戦直後の解放感は、司馬さんによると、より軽い占領に代わったからだという。』(編集部和田宏)


日本のリアル

2015-02-13 | 読書
『日本のリアル』(養老孟司著、2012年8月刊、PHP新書)なる本を東区図書館のおすすめの本の棚に見つけ借りてきました。著者が4人の実務家と対談することで、日本の実情(リアル)を知ろうという本でしたが、意外に収穫の多い本でした。
 第4章“「林学がない国」の森林を救う“では、森と木の研究所代表の鋸谷茂(おがや・しげる)さんとの対談で「間伐」を語っています。
「間伐」については、長兄(故人)が一時材木工場で働いていたこともあって「割り箸」は間伐材を使うのだから、みんなもっと使うべきだ」と話していたのを聞き「そんなものかな」と思ったぐらいで、詳しいことは何にも知りませんでした。
Y「高知県は森林がとても多い県ですが、その8割はスギ・ヒノキの人工林になってしまっている。和歌山県や奈良県の山が人工林になっているのは理解できるんですよ。平安京や平城京に近い場所ですから、十津川村の辺りでは、平安時代にすでに植林が行われていたという記録もありますから」
O「そもそも都を平安京に移したのも、平城京周辺の樹を切りつくしたからです」
O「2011年から、間伐材を出さないと国の補助金がつかないという制度が始まったんです」
(しかし、間伐はただやればいいというものではない)と以下、かんばつについて語る。
O「現在日本の森林の4割は人工林になっており、約千万ヘクタール、スギやヒノキが終えられています。その多くでは、間伐が適切に行われておらず、木がヒョロヒョロと細く育ってしまっています。
間伐が遅れた森では、木と木の枝葉がぶつかりあってしまうため、それぞれの木の光合成両が少なくなるうえ、地中の養分の奪い合いが起き、木は太ることが出来ません。木の上部は枝葉で密閉され、林のなかは暗くなり、下草も生えません。その状態を「死の森」と表現することもあります。
雨が降るたびに森の表土が流出する。表土は、長い年月をかけて森林の植物や昆虫や動物や微生物が作り上げたもので木が成長するための養分として欠かせないものですが、下草や落ち葉のない場所では、雨が直接地面を叩くため、表土がどんどん流されていきます。
 養老先生が「健全な森林、健全な木はどのようなものですか」と質問されたとき、林学会には健全な森林や木に対する定説がなく、林学者の一人が「日本には林学がなかったと言わざるをえない」とおっしゃっていました。
O「生物学の根底には、西洋の思想が反映されています。その思想とは、個が先にあり、世界は個の集合である、という考え方です。けれども、本当の生態系はそうなっていない。先に生態系があってそれから部分としての生き物が存在している。
 健全な森とは、健全につながりあった生態系と言うことです。
 生命についての厳密な定義は難しいが、むしろ生態系こそ生命だと考えるべきでしょう。」
「たとえば、生物の細胞の中にあるミトコンドリヤは、外から細胞の中に入ってきて住み着いた別の生物です。葉緑体も外から細胞の中に入ってきた。人間も混成の生き物です。精子に鞭毛が生えている。あれはもともと別の生き物で、発疹チブスの病原体が一番近い。鞭毛の根元にはミトコンドリヤがついています。つまり精子は三位一体なんです」
O「人工林の間伐は、まさにその健全な生態系を保つために行うのです。
 枯れた木とか、枯れる寸前の木だけ倒して間伐したと言い、それに対して補助金が出たりする。労力とお金の無駄です。
 そうではなく、下草が生えてくるような間伐を行えば、木の合間合間から中層木や下層木となる広葉樹が生え、この広葉樹の落ち葉が腐植土になって上層木の養分になりまた上層木の伐採した後空間を補充します。
さらに植物が豊かになれば、昆虫も増えます。キツネやタヌキなども見られるようになる。天然の針葉樹林はまさにこうなっている。こうした生態系を確保してこそ健全な森で、私の目指す科学的な間伐法です。
 木の高さを太さで割った比率を形状比というのですが、この形状比が70以下の木は雪害の被害が少ない。
 人工林では、間伐を怠ると、四方の木がふれあい、木々の成長が阻まれます。森の木をすべて集めて胸の高さで断面積を合計した値を胸高断面積合計と言いますが、スギやヒノキの場合は、1ヘクタールあたり100平方mに近づくと木の成長は止まり不健全な森になっています。」
 このように、間伐を語りながら、日本の林業に留まらず、哲学を語っています。

あま市と大治町を歩く

2015-02-08 | 旅行
2月7日、名鉄のハイキングに出掛けました。朝は冷え込みましたが、青空が出て風もないようです。絶好のハイキング日和になりそうですので、一昨日新聞で見たあま市と大治町のハイキングに行くことにしました。海部郡は愛知県生まれですから、勿論名は知っていますが、電車で通り過ぎたことは度々ですが自分の足で地を踏んだことはありません。一度行ってみようと、寒い時期ですが参加することにしました。
 8時15分家を出て、名鉄須ケ口駅に9時10分、受付で地図を貰い歩き始めて、すぐ五条川にぶつかる。岩倉を流れている川だが、海に近いだけ川幅は岩倉辺りの倍はある。1kmほど歩いて最初は萱津神社です。萱津神社は、日本武尊が東征の途中に参拝したと伝えられる古社で、全国でも珍しい漬物の神様です。

 奥の方へ行くと、香の物殿というのがありました。
賽銭箱の後ろに漬物石があります。これを3回なでると漬物上手になれるそうな。
日本人は何でも神様にしてしまうらしく、漬物石まで神様にしてしまった。
次に目指すのは甚目寺観音です。3kmで来ました。

伝承によれば、推古天皇5年(597年)[1]、伊勢国[2]の漁師である甚目龍麿(甚目龍麻呂、はだめたつまろ)が漁をしていたところ、当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、その観音像を近くの砂浜に堂を建て安置したのが始まりという。この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋、中臣勝海の手によって海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にあるという。
近くに歴史民俗資料館があったので覗いてみた。
商工会館と同居で3Fが展示室になっている。やっこらしょと3Fまで上がり、展示物を見た。「あま市の戦国武将」というパンフが置いてあったので、手にとってみると、蜂須過小六、福島正則が載っている。小六や正則はこの辺りの出身らしい。

資料館を出て、今度は大治町まで歩く。町役場の近くの「明眼院」という眼の神様を目指す。金剛力士像が印象的でした。

かつて仁王門に安置されていた2躯の金剛力士像。13世紀末〜14世紀初頭の鎌倉時代の造立とされる。阿形・吽形ともに片腕の先が欠損しているがその造形から慶派の仏師によるものと考えられており、2011年(平成23年)に町指定文化財になっている。


 なお、仁王門は明治24年の濃尾地震で倒壊して撤去された。現在、仁王像は旧仁王門跡地に屋根付きの格子に被われた状態で置かれている。本堂にの前で参拝したら、中の女性が「眼の仏様です。拝んで行ってください」と言う。えっ、神様でなく、仏様なの。
明眼院を出てまた歩く。今度はまたあま市。旧七宝町だ。
あま市は、2010年(平成22年)3月22日に、海部郡七宝町、美和町、甚目寺町の3町が合併して誕生した(愛知県の平生の大合併最後の合併である)。歩いてみるとかなり広い。疲れたので途中、コンビニにより、珈琲を頂く。おにぎりを仕入れた。
 この時ミスをした。地図を落としてしまったのである。まぁ大勢歩いているからついていけば道はわかる。皆についていくと佐藤醸造に着いた。明治7年創業という老舗で、此処で豚汁をちそうになる。お握りを一緒に食べて昼食をとった。ここで味噌蔵を見学。

味噌蔵を出て歩くと、途中で七宝焼きの原産地と言う標識が建っていた。

今度は旧七宝町のアートヴィレッジに向かう。
アートヴィレッジ、入館料は団体料金で¥250.見事な展示作品を見学した。

アートの見学の後は、いよいよゴールの神明社だ。
11.5kmを無事に歩いてゴール受付。地図の番号で記念品を貰えるのだが、地図を紛失したので、完歩賞だけ貰う。「神明社」と言う割には神社らしい建物がない。でもここが最後だ。「七宝駅まで何キロある?」スタッフに聞くと「キロと言うほどありません」。安心して↡標識の矢印の方向に歩い始めたら神社があった。これが「神明社だった。「神社の由来」の碑があった。天照大神を祀る村の鎮守様のようです。

因みに、「神明社」と称する神社は全国に一万社以上あるという。
名鉄の七宝駅に着く。今日は12㎞歩いた。名古屋駅経由帰宅したのは午後2時。この後プールへトレーニングに行く予定だったが、疲れてしまったので止める。昔は12㎞ぐらい歩いても疲れるということはなかったが、年の所為か体力が衰えた、走っても泳でも歩いても、体力の衰えを感ずる。やむを得ないか。

知事選挙

2015-02-02 | 経済と世相
 
2月1日は愛知県知事選挙でした。結果は、与野党相乗り推薦の現職が、共産党推薦の対立候補に大差をつけての当選でしたが、問題は投票率です。
34.93%で史上2位の低投票率でした。投票にいかなくても結果は決まっていると思えば、
寒い風の吹き荒れる中、投票所に行く気が起こらないのは当然です。
 私自身も、選挙のことは忘れていたのですが、
プールから帰った夕方「そういえば知事選だった」と思いだし、投票所に出掛けましたが、閑散としていました。
 昨年末の衆院線もそうでしたが、著しい低投票率。
これは「選挙で何もかわらない」と、国民が思い込んだ所為ではないでしょうか。前回の民主党政権がそれを実証したのです。
政治家を変えても、何も変わらなかったのです。
 最近の経済政策について、政策当事者は三つの勘違いをしていると私は思います。
第一に、大企業が儲かるようにすれば、その収益がトリクルダウンして、景気が良くなる。
実際は企業の内部留保が増えただけです。
 第二に、円安にすれば、輸出が伸びて景気が良くなる。
数量的には円安になっても輸出は伸びていません。
 第三に、物価が上がれば、貨幣価値が下がると思い、貨幣価値の下がる前にお金を使おうとするだろう。
日銀の黒田さんはそう思っているらしい。しかし実際は、将来は実収入が減るからもっとお金は大事に使おうと消費が減っている。
 こういう勘違いに基づく政策を続けていても、世の中の景気は良くならない。
政府が誤った政策を取っているとき、
選挙があれば、対立政党に政権が渡り、政策は改められるのですが、そのようには選挙が機能しない。
 知事選の低投票率を見て、「困ったものだ」と、改めて思いました。