古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

2010第一四半期私撰10大ニュース

2010-03-31 | 経済と世相
2010第一四半期私撰10大ニュースです。

 年が明けてもう3ヶ月。この3ヶ月も色々な出来事が(順不同)。

こうして並べてみますと、本当に、いろんな出来事がありますね。



1. トヨタリコール問題。

2. 普天間基地問題。

3. 小沢vs.検察、結局不起訴。

4. インド洋給油撤退。

5. 日航、法的整理。

6. 藤井財務相辞任。管直人氏財務相に。

7. 朝青竜引退

8. 外務省、核・沖縄密約公表。財務省、米銀に無利子預金の密約。

9. 鳩山邦夫氏、自民を離党

10. 09年の企業物価マイナス5.3%、地価下落2年連続大幅。



番外:(今後の展開で次期の10大ニュース入り)

名古屋市、市長vs.市議会全面対決。議会「10%減税は平成22年度のみ」条例議決。

中国ぎょうざ事件の容疑者逮捕

小惑星(イトカワ)探査機はやぶさ(03年5月打ち上げ)地球帰還コースへ。

(6月地球着の予定とか)

http://www.isas.ac.jp/j/special/2008/hayabusa/index.shtml

ぐぐる話

2010-03-29 | 経済と世相
 週刊文春3月11日号に、福岡伸一さんが大略以下のエッセイを載せていました。
【ぐぐる。よく学生が使う言葉である。ネット情報をグーグル検索で調べるという意味・・・コンピューターを操作している学生を肩越しに覗いてみる。彼の使っているプラウザはグーグルクロームだった。最近では、インタネット・エクスプローラーの代わりに、クロームを使っている学生が多い。その方が、“さくさく動くから”と学生は言う。
福岡ハカセも使ってみると、確かにそのとおり。・・
じゃァさ、グーグルクロームのクロームってどういう意味か知ってる?
クロームってクロミウムのことですか。
英語のクロームはクローム合金やクロームメッキ。普通にクロームといえば、クロムメッキされた写真立てとか額縁のことを指す日常語。つまり「窓枠」ってこと。(マイクロソフトのウインドウズ(窓)に対抗したわけ。)
じゃ、先生クロームOS知ってます?
えっ、知らない、教えて。
グーグルが今年の後半に新しいOSを出すらしいんです。見かけはプラウザのクロームなんですが、その上でありとあらゆるソフトが動く。それは全部ネット上からくるんです。そしてファイルにしろ、メールにしろデータはすべてネット上に保管される。だからコンピューター自体には クロームOSだけが載っていればいいんです。そしてネットに接続さえすればいい。起動も瞬時だし、コンピューターには何もデータがないんで、壊れたり、なくしたりしても平気なんです。
そのOSはタダなの?
そうですよ。最初はエイサーのような軽量安価なネットブックに無料で載って供給されるということですが、OSの内容は公開なんで、そのうち個人も使えるようになります。
クラウドコンピューテイングってそういうことなんだね。】

先日の旅で泊まったホテルではパソコンの貸し出しをやっていました。パソコンを借りても、自分の使うソフトと、自分のデータを持っていないと仕事は出来ません。
しかし、近い将来、ソフトも自分のデータもネットから持ってこられる(クラウドコンピューテイング)ようになりそうです。そうなれば、デ-タ、ソフトを持参しなくとも、パソコンを借りれば仕事が出来るようになりそうです。IT技術の発達は驚嘆すべきですね。
追伸:クラウド・コンピューテイングについては2009年2月23日の本サイト。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20090223

デンパーク

2010-03-28 | 旅行
26日、住宅のシニア会のウオーキングでした。今回は私の幹事担当で、安城のデンパークを訪れることにしました。平成19年の秋に、一度行ったことがありますが、今度は春のデンパークに行こうと企画したのです。

「デンパーク」の名は、日本デンマークの「デン」、田園の「デン」、伝統の「デン」と公園の「パーク」を組み合わせた造語だそうです。

安城市はかつて全国の農業経営のモデルでした。稲作、畑作、果樹、畜産などの多角形農業をすすめた安城市は、世界の農業先進国であるデンマークにたとえられ、「日本のデンマーク」と呼ばれた。その歴史をもとに、自然と親しみ花のある暮らしを提案する公園として平成9年4月29日にオープンしたのがこの公園です。

いつもは、9時半集合ですが、バスの時刻の関係で、今日は9時に集ってもらいました。総勢9名(男3、女6)です。地下鉄で金山、東海道本線で安城駅へ。10時前に着きました。あんくるバスという市営の100円バスが出ていますが、1時間に1本ぐらいしかない。しかし、この時間は10:06と10:14の2本があることをインターネットで調べておいたのです。

10時半頃、デンパークに到着。帰りのバス時刻を確認し、「1時59分のバスにのりましょう。それまでは自由に中を見て、時間が来たらここに集まります」

バス停と入り口の間に「道の駅」。地域の農産物を安く販売しています。「1時過ぎに公園を出て、ここでお土産を調達すると丁度いいですね。」

入園券は、一般600円、65歳以上は480円。500円の買い物券つき入場券が1000円です。「買い物券つきは一般向けだけ」ということ。

入園して中の散策を始めました。公園の広さは13.1ha、園内1周約1.5kmだそうですから、結構歩きでがあります。

お天気は良いのですが、風があって肌寒い。寒いところに来てしまった!「皆にすまないなぁ」と思いましたが、(第4金曜と決まっていたので)どこへ行っても今日は寒い。今日は「勘弁してもらおう」。それにしても、この寒さは想定外でした。

デンパーク館(写真)という展示場で、押し花による絵画の作品が展示されていて、「繊細なわざ!」と感心しました。

http://blog.denpark.jp/?eid=812030

昼飯時、「ふるさと館」という和食のレストランに行きました。超満員で待ち時間がかなりありそう。「別のレストランにしよう」と洋食レストランへ。トンテキ(ポークのステーキ)1200円を注文しましたが、結構美味しかった。ご飯(雑穀炊き込みのご飯もありました)とサラダがセルフサービスのヴァイキングですが、いずれもグーでした。

道の駅で、野菜やジャムを買って帰途につく。3時半ごろ名城公園駅に。「みすど」でおしゃべりした後、お開きでした。

福山マラソンを走る

2010-03-23 | マラソン
 21日は5時に目覚める。「日本列島は大荒れ」と前夜の天気予報だったが、それほどではない。7時に食堂に行く。マラソンに行くらしい人も10人前後いる。セルフサービスで、パン、スープ、飲み物(珈琲、ジュース)、果物(バナナ、オレンジ)などが並んでいる。食事を済ませ、フロントの前を通ると「チェック・アウトは不要です。カードキーはチェック・アウト時刻を過ぎますと自動的に無効になります。よろしければお持ち帰りください。」と出ている。このホテル、チェックインしたとき以外は、泊り客には会っても、従業員にまったく会わなかった。ここまで省人化の徹底したホテルも珍しい。
「少し早いけど出かけるか」と、駅前に行く。トモテツ(トモは鞆の浦の鞆?)というバス会社がマラソン会場行きの臨時バスを出している。7:40に出て芦田川という川に沿って海岸方向に向かう。8時前に竹が端(たけがはな)運動公園に着く。ここの陸上競技場が今日の会場だ。
 受付に行こうと歩き出すと大行列が並んでいる。「何の行列?」聞くと「8時からバラの苗を貰えるのです」。福山はバラの産地らしい。
 受付けで選手名簿などを貰う。選手個人の欄には年齢は出ていないが、年代別出場者数の表があった。ハーフ男子出場者950、うち70代は5名、60代56名です。年齢を見るのは、「今日はドベ5番より前にいればいいんだ」と安心できるからです。
 お天気は曇りと言うのではないが、太陽が霞んでいる。「これは黄砂だ」。昨日のニュースで「明日は黄砂が多い」と報じていた。
 9:15開会式が始まりゲストランナーの千葉真子さんが「おはよーーございまーす」と、例のきんきん声で挨拶した。今日は10kmに出場するとのこと。
 ハーフは11時のスタートなので、更衣室で待っていて、10時40分ごろグランドに出た。風が強く、旗のはためきがすごい。風の所為で黄砂が吹き飛ばされ青空になった。「今日は風に悩まされそうだ」。
10時50分、車椅子マラソン10kmがスタートした。グランド一周して出て行くゴトゴトという車椅子の音は迫力がある。
11時スタートした。コースは、芦田川の河口に出て川沿いの道路を上流に向かう。橋がある。芦田川大橋です。この橋の袂の下を潜るトンネルを抜けて更に上流に行くと小水呑橋という橋がある。これを渡って対岸の川沿い道路を戻ってくる。河口に戻り右折して河口大橋を渡る。このコースを2周するのです。2周が終わって14kmぐらい。今度は左折して3kmほど東に向かって、折り返す。河口に戻り河口大橋を渡り、競技場に戻ってゴールです。
スタートして川沿いの道に出た。心配していたとおり風が強い!上流から河口に向かう風が強く、時には身体が押し戻されるように感ずる。ことに強いのは端を渡るときだ。帽子が吹き飛ばされそうになるので、橋を渡るときだけは帽子を取って手にもつ。橋の真ん中辺りが特に強風だ。昔、瀬戸大橋をウオーキングで渡った時、橋の上はすごい強風に悩んだことを思い起こした。「ここも海に近いから、海の上の橋と同じだ」。
周回を終えると1時間27分。東に向かう。日本化薬などの大工場が並んでいる。ここは埋立地なんだろうなァ。給水場があったので、水を取ると「後6kmだ。頑張れ!」と激励される。「えっまだ6kmもあるの!」。15km走っただけで、まだ6km!と思うことは滅多に無い。それだけ今日の風で体力を消耗しているのだ。17km地点が折り返し。疲れてはいたが「とにかく腕を振れ!」と、自らを叱咤しゴールに向かう。
なんとかフィニッシュ。直ぐ完走記録証を貰いに行く。
「天候晴れ、気温11℃、湿度57%。タイム2時間17分51秒。667位」とあった。
前回(熊本)より2分弱遅かったが、これは強風の所為だ。まだ後が200人以上いるから良しとしよう。
これで広島県では三大会を走ったことになります。能美島みかんマラソン、聖湖マラソン、今回の福山マラソンです。
2時10分の駅行き臨時バスに乗り、福山駅からは3時13分のひかりレールスター、新大阪でひかりに乗り換え5時36分名古屋駅に無事帰着しました。

福山紀行

2010-03-22 | マラソン
 20~21日の旅行の記録、福山紀行です。ご笑覧ください。
「新幹線の車窓から見えるお城の中では福山城が一番美しい。一度ゆっくり城内を散策したい」と、かねてから思っていました。そこで今回、第29回福山マラソンに参加することにしました。
 20日、9:11のひかり岡山行きに乗車しました。天気予報によると、「土曜から日曜、低気圧が来て全国的に大雨と突風が予想される」ということでしたが、窓外の風景は穏やかな春の日で、そんな気配はみられません。終点岡山で降りて後続のひかりレールスターに乗り換えましたが、何故か大混雑で、次の福山まで16分間タチンボでした。
 12時過ぎ福山到着。駅前の1-2-3(ワンツウスリー)というホテルをインターネットで探して予約していました。西日本で展開するビジネスホテルのチェーン店らしい。
 ホテルに荷物を預け、早速福山城に出かけました。

 福島正則が改易された後、元和5年、備後10万石に移封された水野勝茂(家康の従兄弟)が西国の抑えとして築城したという。その後、阿部氏が入城し、幕末の黒船来航時、筆頭老中として活躍した阿部正弘が有名です。
 桜の季節には素晴らしい景色だろうが、まだ桜には早い。坂道を上がって天守閣に至る。
200円で入場券を買うと、「美術館や博物館を割引で見られます」と近くの施設の入場割引券もくれた。建物は空襲で焼けたが昭和41年以降再建された。外観は昔の復元だが、中は鉄筋コンクリートの博物館で、鎧かぶとなどを展示している。階段を5層天守の最上階まで上がり、四囲の景色を眺めてから降りる。

 天守閣を降りて、美術館に行く。
「コレクターからの贈り物展」というのをやっていた。美術館は88年に出来たそうだが、それ以来篤志家が寄付してくれた作品の数々を展示していた。東郷青児「星座の女」や岸田劉生の絵や河合寛次郎の焼きものがあったが、やはり地元出身の作家の作品が多い。
 美術館を出て隣の歴史博物館に行く。料金を払おうとしたら、「65歳以上は無料なんです」と言う。お言葉に甘えて、無料入場。
「蘇る草戸千軒」という展示会をやっていた。「草戸千軒町遺跡の発掘調査にもとづいて、「草戸千軒」の一角を実物大で復元しました。(今からおよそ650年前(鎌倉末から南北朝時代)の初夏の夕暮れ時を再現)というのがパンフレットの説明です。

 3時、ホテルに戻りチェック・イン。部屋は二人部屋で、朝食付きの¥5000。ルームキーは厚紙に印刷したもの。室内に「パソコンのレンタル承ります。」との案内があった。メモリーにソフトとデータを持参すればインターネットを楽しめるということ。一晩千円らしい。

 5時ごろ夕食のため外出したが、駅周辺はやたらスクランブル交差点が多い。これは良いことだと思う。通常の交差点は、たとえば東西に車を通すときは南北を止める。南北に車を通すときは東西を止める(当たり前だが)の繰り返し。つまり、車主体で人は車のついでに通す。車が左折・右折するときは(歩行者優先であっても)人に危険がある。これに対しスクランブルでは、人が通るときは東西南北とも車を止める。即ち、人の存在を意識しているシステムです。(続く)

タカ派でなくバカ派

2010-03-16 | 経済と世相
『鷹派でなくバカ派』という話。
 13日の中日朝刊に、「在日米軍幹部にこっそり叙勲」という特集記事が載っていました。
 『在日米軍の幹部らに勲章が授与されているのをご存知だろうか。東京大空襲を発案指揮した米空軍のカーチス・ルメイ氏(故人:原爆投下命令者)』をはじめ、政府は戦後、述べ263人に勲章を授与。わが国との友好に貢献したというのが理由とされているが、毎年春秋の叙勲の「外国人枠」とは全く別で、公表されることもない。』
 一般の叙勲者は新聞発表されるが、米軍関係者の発表はないというのです。
 内閣府叙勲局によると、
 『過去5年で勲章を受けた在日米軍幹部は18人。内訳は旭日大綬章が二人。旭日重光章6人、旭日中授章10人。いずれも在日米陸海軍や横須賀、指せ補の基地司令官ら。

 ルメイ氏の叙勲(1964年、佐藤内閣)の背景には、戦時中に真珠湾攻撃などを指揮した元航空幕僚長の源田実参院議員や小泉首相の父で、当時防衛庁長官だった小泉純也氏の強力な推薦があったとされる。
以下、識者の見解だが、評論家の佐高信氏は、『彼ら政治家は、大空襲で命を失った庶民が眼に入っていない。タカ派どころか、バカ派の売国奴だ。国民を無視して勲章を出すのは日本も米国も同じ。もうこんな空虚なことはやめたらどうか』。

ベ平連を結成した小中陽太郎氏『在日米軍幹部への叙勲を公開しないのは、政府としても体裁が悪いからだろう。戦後、日本政府は米国と密約を交わして日米関係の真実を隠蔽してきた。それを象徴するのが、ルメイ氏への叙勲だ。米国に媚を売ったのだろうが、今からでも剥奪してほしい』。

『外交儀礼とはいえ、あまりに乱発しすぎている。これでは米国にすりよりひざまづく奴隷根性。そもそも日本に米軍基地はいらない。安保を含めた米軍依存の体制を考え直すべき』は、民族は団体一水会代表木村三浩氏。

元航空幕僚長の田母神俊雄氏『現役時代から、短期間しか日本にいない在日米国軍人が、自衛官よりもランクが上の勲章をもらうのは変だと思っていた』。

 公表されないと言う点で『密約』と同じか!わが国のお偉方は、都合の悪いことは公表しないらしい。いずれにしても、国民にとって愉快な話ではありません。

春を呼ぶ名古屋国際女子マラソン

2010-03-15 | マラソン
『春を呼ぶ名古屋国際女子マラソン』観戦記です。

14日は、朝方は放射冷却で2℃あたりまで下がりましたが、日中はぐんぐん気温が上がりました。12時15分のスタート時点で、瑞穂競技場は19度とか。暑さに耐えるレースになりそう。スタート直後、地元のゼッケン11大南選手が飛び出し先頭に立つ。15kmを過ぎて、桜通りに入ったのを確認して、TVは録画に切り替え、道路に下りました。南側の道路が20~21kmになります。スタッフが、選手名簿の入った号外を配っています。

道路脇に立って、選手の到来を待ちます。15分ぐらいで10数人のグループが先頭集団で来ました。大南が引っ張っています。所属する企業チームが解散するので、来月から東京に移るという大南、地元選手としては最後のレースになるので、気合が入っています。

あっという間に通り過ぎました。

後続するランナーには、特に一般ランナーには、かなり荒い呼吸が聞こえる人もいますが、さすが先頭グループは呼吸音も聞こえず通り過ぎました。

選手は名古屋城を一周し戻って来ますので、次は25km地点に移動しました。「三井住友」の半纏をはおった大集団がいました。「三井住友は、何ていう選手でした?」と聞くと「110番、山下郁代です」と、若い女性が答えてくれた。

次々と選手が来る。号外の名簿と見比べ、「鹿児島陸協だ」、「札幌市役所だ」、「東広島陸協だ」、全国から健脚自慢の大和なでしこです。

無名の一般ランナーであっても、足の筋肉で鍛え具合が分かります。

一周した先頭集団が来ました。集団がかなりバラケテいます。「大南、頑張ってる!」やはり先頭です。しかし、すぐ後にゼッケン12の加納選手。それに一般参加の105番がいる。

数分後、「いくよ!」、「いくよ!」、「いくよ!」の大合唱が湧き上がりました。110番が来たのです。この選手、来年は招待選手でくるだろう。

交差点で、選手が途切れたとき、お巡りさんが歩行者を通しています。折り返しての30km過ぎは、反対側の道路側が見易いと、反対側に渡り、30kmの給水場を過ぎた後の道路脇で、折り返してくる選手を待ちました。

待つこと10数分、先頭が来ました。「あっ、大南でない!」。先頭が12番、加納選手、その直ぐ後ろが105番の伊藤舞(大塚製薬)選手です。「大南は?」その後でした。4~5m離されています。肩が揺れている。30km過ぎに、それまでぴったり後ろにいた加納選手がスパートしたらしい。「大南は良く頑張ったが、ここまでかな?」

エチオピヤのツル選手やケニヤのニャンガチャ選手、中国の王佳麗選手ら見送り、そろそろ家に帰ってTVを見ようか、と思ったが、今度は次々選手が来るので、お巡りさんが通してくれない。歩道橋を渡ろうと、行ってみると、縄で入り口を閉ざして通行止めにしている。歩道橋は選手を妨げないから、通してもよさそうに思えるのだが、マラソンを妨害する阿呆がいるからと、使用禁止にしている。

結局、選手が全部通り過ぎてから通行許可になり、家に戻ったら、TVでは、加納選手は瑞穂競技場に一位で入ってくるところだった。次にツル選手。やはり、オリンピックの2大会で1万メートル金の実力の選手だ。3番手に大南。フィニッシュ後、双子の妹・敬美と抱きあって最初にっこりしたが、直ぐ荒い呼吸に泣き声が混じるのをマイクが捉えた。感動的なシーンでした。今日のレースは大南が作ったと言って良い。立派なレースができたと言う喜びに、それでも勝てなかった!という悔しさがあったのだろう。

4番手に伊藤舞選手が入った。初マラソンで2時間30分を切った、堂々のレース運びは文句なし。立派です。

以上、名古屋女子マラソンの報告です。


納得できない話

2010-03-13 | 経済と世相
まったく納得できない話が報道されました。
 財務省が12日発表した、沖縄返還に絡む日米間の密約の調査結果です。
1972年から99年までの27年間、米国ニューヨーク連邦準備銀行に、日本政府と日銀が合わせて1億300万ドル規模の資金を無利子で預金していたというのです。
 戦争で取られた沖縄を返してもらうのですから、大金を取られるのはある程度止むを得ない。だから密約の存在自体は止むを得ない面があると思いますが、財務省官僚の説明がまったく納得できないのです。
 彼らの言う「無利子預金にした理由」がまったくおかしい!
 返還に伴い、「日本政府が沖縄で流通していたドルを日銀券(お札)の増発コストだけで入手したため、これを日本が運用すれば(利子を得れば)“棚ボタ的利益”を得ることになるから」というのです。
 沖縄で流通していたドルは、米国が無償で配布したものではありません。沖縄の人たちが米軍のために働いて米軍から得たドルです。それを運用して何が悪い?
 日銀券は印刷費用だけで増発したといいますが、それを言うなら、米ドルだって印刷費用だけで増発しているのです。
 それに実は、お札は印刷費用だけで発行できるものではありません。発行したとき、日銀のバランスシートの負債項目に日銀券発行高は記載されるはずです。つまり、日銀の借金になるのです。
 更に納得できないことがある。
 この問題、実は米国の公文書公開で明らかになったのに、日本側にはそれに対応する書類が見つからないというのです。
 米国に存在する書類に対応する書類が存在しない筈はない。もし本当に存在しないのなら、財務省の官僚が廃棄したのです。日本でも、公文書は30年経過後、国民に公開することになっていますが、官僚は自分たちに都合の悪い文書は公開する前に廃棄してしまうらしい。
 この財務省の発表の前に、外務省が沖縄返還に関する密約があったと発表しました。
 これも、外務省の文書に、米国で公開された文書に対応する書類は見つからず、調査委員会が、総合的に判断して「密約があった」と判断したものです。
 日本では、公文書公開制度がまったく機能していません。
 私は、密約があることを悪いと言うのではありません。一定期間が経過した後、公開しないことに憤慨しているのです。
 この意味で、90年代以降の首相、外相は責任を問われるべきです。マスコミも、この問題を大々的に報道して、責任を問うて欲しい。
 鳩山首相の贈与税問題や小沢幹事長の金脈問題とは比較にならない重大問題だと思います。それにしても、自民党政権が続いていたら、この問題今も闇の中。政権交代の価値はこれだけでもあった!

厚生年金加入記録のお知らせ

2010-03-12 | 経済と世相
 11日の尾張名古屋は、雪こそ降りませんが、風が冷たく「春は名のみの風の寒さよ」を実感する季節です。道路サイドには「名古屋国際女子マラソン、3月14日13時**分から14時**分まで通行止め」の旗が立ち並んでいます。
日本年金機構から「厚生年金加入記録のお知らせ」という郵便がきました。「年金特別便」というのでしょうか、昨年、確か本人の誕生月までに郵送するという話を聞きましたが、昨年は全然音沙汰なく、政権交代で方針が変わったかな?と思っていましたが、今週になってやっと着信です。
加入した年金制度の一覧表と、「標準報酬月額と標準賞与額の月別状況」という一覧表が同封されており、「もし誤りがあれば、回答票に記入して返信用封筒(同封)でお知らせください」という内容です。
昭和34年4月から、平成8年10月まで、毎月の標準報酬月額が記入されています。
標準賞与額の方は記入されていません。賞与から年金が控除されるようになったのは、平成15年からだそうですから、記入されていないのだと思います。
特に間違っているデータは無いみたい、と昭和34年からのデータを見直してみました。
昭和34年標準報酬額が、14千円です。10年経って44年が60千円ですから、昔はずいぶん給料が安かった!
因みに、今の年金額と同じ報酬額となったのは、昭和53年(41歳)。入社して19年後のこと。それから19年で退職したわけですから、なんとなく勘定は合ってるみたいな気分です。

長崎は雨だった

2010-03-04 | マラソン
28日は、大師匠のマンシヨンのゲストルームに泊り、1日の朝8時過ぎ、出勤の大師匠の車で出発。彼の事務所に荷物を預け、私は長崎駅に向かう。駅のインフォーメーシヨンで、長崎市亀山社中記念館の場所を聞いて、行ってみようと思ったのです。
「竜馬の銅像も見ますか?」というので「見たいですね」というと、「歩道橋の向こうのバス停から風頭(かぜがしら)山行きのバスに乗り、25分で終点の山頂。降りてくると、風頭公園。そこに竜馬像、更に降りてくると亀山社中があります」と、地図を渡してくれた。
 バス停で待つと、次々色々な行き先のバスがくる。バスと市電が市内交通の主力らしい。10分ほどで風頭行きが来た。直ぐに坂道を登り始める。山の斜面にびっしりと家々が建ち並ぶ。こんな斜面によくもこんなに家を密集して建てたもの、とそのエネルギーに感嘆した。
 山頂(標高152m)でバスを降りて下ってくる。風頭公園です。ブーツを履いた竜馬が立っていました。
その後、坂道を降りてきたら、雲行きがおかしくなってきた。厚い雲が立ち込め、今にも降り出しそう。
 亀山社中記念館前まで来たとき、雷鳴が轟き大粒の雨が降り出した。昨日はあんなに良い天気だったのに。やはり「長崎は今日も雨だった」と歌があるけど、これはいただけない。入場料300円を払って館内に入った。
 亀山社中は、竜馬が作った日本最初の商社だそうです。展示してあったのは刀や書簡など。「人間、運があるが、自分は運が良くて勝海舟先生の門人になることが出来た」と姉に報告する有名な手紙を展示していた。
 昔の一軒家だから15分もあれば総て見られる。しかし、雨が降っているので、45分ほど中に留まってから「小雨になったかな」と、外に出た。
 石の階段を駆け下りて、広いとおりに出たら諏訪神社前という電停があった。3番系統の市電(料金120円)に乗ると、駅前まで10分もかからない。
 駅前の大師匠の事務所に戻りコーヒーを頂く。一緒に昼飯をたべましょうと、駅前の中華料理屋で昼飯を取って、今回の長崎訪問を終えました。
 12:46の“かもめ”で帰途に。博多でひかりレールスター、新大阪でこだまに乗り換え、7時前名古屋駅に着きました。新幹線を乗り繋いで6時間10分(960km)ですから、長崎は日本最西端。遠いですね。