古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

絶好のウオーキング日和

2016-11-27 | 旅行
絶好のウオ-キング日和でした。25日、住宅の老人会のウ0-キングです。残念ながら参加者が少なく、小生含めて4名のみ。男女各2名の参加です。このところ寒い日が続いたので、出歩くのを敬遠したみたいです。しかし、汗をかかないので歩き易い。風がないので、絶好のウオーキング日和になりました。
名古屋城から徳川園を十大曾根まで歩こうと計画しました。最初に地下鉄の市役所駅で降りて大津通りを大津橋へ。交差点を過ぎたところに愛知県の分庁舎に「愛知・名古屋の戦争資料館」に立ち寄りました。
10時開館で、4分ぐらい早く着いたので開館を待って入館しましたが、スタッフが親切に説明してくれました。戦争中に名古屋に投下された250k爆弾や焼夷弾のぬけがらが展示されていました。30分見学した後、大津通りを戻り、名古屋城東入り口。建設中の本丸御殿を見学しました。

11時頃になったので「次に行こう」と旧豊田佐助邸に向かいました。お城から東へ。41号線を南に、主税町の信号を東に入ったところにあります。
 佐助は、発明王豊田佐吉の実弟で、この邸宅は、名古屋市が所有者から無償で借用して一般公開しています。外観は白い瀟洒な洋館ですが、内部は和風の座敷が多い。大正時代の建築様式を今に伝える。入場無料。午前はボランテイアが解説してくれる。30分ぐらいで辞去。徳川園に向かうが、ついでだから「長久寺」に寄って行こうと北へ歩き白壁等3丁目の寺に寄った。由緒ある寺で、1610年(慶長15年)徳川義直が名古屋城へ入るとき現在地に移された。尾張徳川家の祈願所となるとともに、新義真言宗の学問所が設置されたという。門は清洲城から移築されたとのこと。
東へ1kmほど歩く徳川園に至る。徳川園と並ぶ徳川美術館では「国宝源氏物語絵巻」を展示していた。時々1~2点展示するのだが、所有する全点を公開するのは10年に一度くらい。それが今週いっぱいだという。今回見落とすと、10年後でないとみられない。10年経つと90歳だから、もう生きているかどうかわからないので、入場して拝顔した。入場料はシニア料金で1000円、徳川園の入場券と合せると1050円だった。小一時間見てから外に出て徳川園に行く。
紅葉が綺麗で、見物客でにぎわっていた。

 2時10分見学を終えて大曾根駅に向かう。北へ5~600m、広い通りを北へ3~400mで、地下鉄の入り口があった。
地下鉄に乗り込んで、「これで名古屋城から大曾根まで歩いたぞ!」。実際の歩いた距離は5~6kmだろうが、齢の所為ですごく長く歩いたような気がする。
3時には帰宅できた。


20日は駅ちかウオーキング

2016-11-20 | 旅行
20日は駅ちかウオーキングに出掛けることにしました。東海通りから金山駅南口までおよそ9kmの距離です。案内の地図を貰い10時10分駅の④出口を出て歩き始めました。9kmなら2時間半で歩けるから12時半にゴールしようと思ったのですが、とんだ見込み違いでした。以下、そのいきさつ・
北へ1km弱歩いて七番町から南郊公園に入っていきました。紅葉が綺麗です。

南郊公園は、運河を埋め立てた後,昭和58年に都市公園として開園した。広さは3.14haある。テニスコートが有名です。
「千年プロムナード」と称する散策路が作られている。1番腸1丁目を通る。白鳥端に出た。ここで、白鳥公園に立ち寄る。本日は無料公開だ。
白鳥庭園は名古屋デザイン博(1988),を記念し作られた。池泉回遊式庭園で中部地方の地形をモチーフに、築山を「御嶽山」、そこからの流れを「木曽川」、流れの水が注ぎ込む池を「伊勢湾」に見立て、源流から大海までの『水の物語』をテーマにした市内随一の規模を誇る日本庭園です。



紅葉を勧奨しながら、お弁当を広げた。その後、次へ行こうと北口から出たのだが、そこからおかしくなった。

北口を出てどちらに行くかわからなくなった。ウオーキングの標識が建っているはずだが、それが見えなくなった。
地図を見ると、北へ川沿いに行って橋を渡るらしい。そこで、熱田記念橋まで行って川の対岸に行ったのだが、一本手前の橋を渡るのが正解らしかった。2㎞ぐらい余分に歩いた。白鳥橋に戻って地図を見ると、宮の渡し公園まで南下しないといけない。その後熱田神宮に向かうようだ。くたびれてしまった、最近本当に脚力が弱くなった。結局、宮の渡しとその後の聖徳寺をカットして熱田神宮方面に向かった。途中で、歩いている女性に道を尋ねたら、スマホに地図を映し出して、英語で「今ここ」と見せてくれた。熱田神宮が近いので、外国人観光客が多いのだ。国際化は凄いスピードで進んでいるのだ。神宮近くの秋葉山圓通寺に寄った。

その後、熱田神宮の境内に入ると、宝物館があった。
確か、案内地図では、宝物館から神宮西駅に行く筈だったと、「西駅はどちら」と聞いて通りに出たら、「あった!」
ウオーキングの案内標識である。59番目の標識だった。これで、正規のルートに戻った。伏見通りを西高蔵に歩く。途中、セブン・イレブンの店があったので、珈琲をいただいて店内で一服した。「案内の地図を見せると、セブン・イレブンの店内で珈琲を割引すると地図に書いてあったから入店し椅子に腰を下ろし80円の珈琲を賞味した。
西高蔵の交差点を過ぎたところで、雲心寺が特別公開されていた。

本尊の阿弥陀如来像は名古屋3大仏の一つだそうである。参拝後、西高蔵交差点に戻り西へ。国際会議場北を通り、日比野駅前から北へ、八熊通りからは西へ。伏見通りに戻ってきて。北へ
。ゴールの金山駅南口広場に着いたら1時55分でした。昼食時間の30分を引くと、3時間15分歩き続けた。
「あぁくたびれた!」
10年前は42㎞走ることもできたのだが、10km前後歩いただけでくたびれてしまう。80歳という齢は争えない。



前立腺がんの診察の日

2016-11-17 | Weblog・人生・その他
今日は前立腺がんの診察の日だ。6週間ぶりに11月16日朝、西部医療センターに自転車を走らせました。いつものように受付、血液検査・尿検査の検体採取、泌尿器科受付を済ませ、待合室で本を読み始めました。
池内了著『科学者と戦争』、2016年6月刊の岩波新書です。11時過ぎに、まだ大分時間がかかりそう、とレストランに行き30分ほどで昼食を済ませました。名前を呼ばれたのは12時5分、ほぼ新書を読み終えた頃です。
「PSAは0.007です」。入室すると先生がまず言いました。「経過は良好ですね」。
「CTの画像診断ですが、肺のかげは依然としてありますが、面積はかなり小さくなっている。ちいさくなっているということは、薬が効いているということ。薬が効いているということは、このかげは前立腺がんが肺に跳んだものと判断されます。今の治療を続けましょう」。
「今日は注射の日でないから」。「えっ注射の日でない?」
「前回の注射が10月5日、次の注射は3か月後ですから、1月4日に来てください」。
来年か!今年は、前立腺がんに振り回された1年だった。
検査結果と薬の処方箋を貰って終わりました。来年も1年間薬を飲み続けないといけないようですが、これも自分の運命とあきらめなくてはいけないでしょう。

科学者と戦争

2016-11-16 | 読書
池内了さんの『科学者と戦争』を読みました。
 池内さんは、近年の産学共同の傾向を憂うる。
イノベーシヨンは、一朝一夕に実現するものではない。そこで何等かの種がほしいというわけで軍事化を目指す政治路線と歩調を合わせて「安全保障」に目をつける。つまり、軍事関連の技術開発に力を入れ、それによって生み出される製品(つまり軍需品)の輸出をテコにイノベーシヨンを計ろうという考えである。「安全保障あるいは「安全・安心のため」とあれば堂々と国費を投ずることができるし、軍需品を輸出すれば国家財政も助かるというという口実も使える。軍需品を輸出すると「死の商人」と言われるかもしれないが、どこの国でもやっている。とりあえずの作戦はODA(開発途上国援助)を武器(や原発)の輸出機会として利用するという、国家が前面に立った「武器輸出外交」だろう。
こうした近年の傾向のなかで、池内さんは以下の問題提起をします。
「科学がデュアル・ユースであるとは、もともと科学研究の成果が民生(平和)利用にも戦争の道具に利用されることを意味した。1本のナイフが。リンゴの皮を剥くのにも殺人にも使われるように、いかなる科学・技術の成果物も使い方次第で生活の助け(平和のため)にも殺人(戦争のため)にも使うことができる。・・・科学はデユアル・ユースだから悪用されてもそれを作り出した科学者には罪はなく、悪用した人間にのみ罪があると考えられてきた。科学者もそれに便乗して作った自分に責任はなく、使った人間が悪いということで済ませてきた。しかし、それでいいだろうか」
 積極的に軍事研究を行おうと考える研究者を除いて、一般の研究者は民生のための基礎研究を行っているという意識が強い。しかし、手を加えれば軍事利用できる研究は数多くあり、そこに境界線を入れることは事実上不可能である。そのため、「軍事利用の危険性がある」というだけで研究を禁止することができないのは確かである。
 この問題に対して池内さんは明快に断言する。
「問題となるのは軍から研究資金を供与される場合で、私はそのような研究は、いかに基礎研究に見えようと、将来必ず軍学協同に繋がるので行うべきではないと考えている。軍が興味を持つという意味ですでに軍事利用に一歩踏み出しているのだから、もはやデユアル・ユースではないことは明らかである。・・・ファンデイング機関からの資金で行う研究が民生研究、軍からの資金で行うのが軍事研究、という研究資金のソースの問題だとすれば簡単に割り切れる。戦争を前提としない研究に軍はカネを出さないからだ。
 軍事研究に足を踏み入れる科学者のもう一つの言い訳は、自分たちが行っている研究開発は自衛目的であって攻撃目的ではない、自衛のための武力は許されると主張することだ。しかし、いかなる戦争も、「祖国防衛のため。平和のため」として行われるのが常である。
 2014年度のノーベル物理学賞を授与された中村修二カリフォウニア大学教授は、アメリカの国籍を取得した理由について、「(アメリカの大学で)研究する上では、アメリカ国籍でないと、軍の予算が貰えないし、軍に関係する研究もできない、それで市民権を取得した」と語っている(日経2014年10月7日web版)。彼には軍事研究をタブー視する発想がない。これは中村氏だけでなく、多くの阿学者に共通する。
 科学者は、自分が発見した事柄が先々どのように使われるかを想像する力を持っている。その想像から得られる結果を直視しなければならないと、批判している。

これから世界はどうなるか

2016-11-11 | 読書
米国の大統領選挙意味するものは何か。今年6月の英国のEC離脱も世界を驚かせましたが、それ以上の衝撃を世界に与えているようです。米国は世界のリーダーの座を去ろうとしています。
トランプの発言を聞いていると、経済のグローバル化に賛同していない。英国のEC離脱もグローバル化への抵抗でした。
一体世界はどうなるか?考えてみようと、孫崎亨著『これから世界はどうなるか』(ちくま新書2013年4月)を大学図書館で借りてきて、読んでみました。
最初、目を惹いたのは以下の2012年7月の孫崎さんのツイッターです。
 『アフガニスタンを除いて今外国軍に一番駐留されている国はどこですか。日本です。米軍海外基地(財産価値で)の3分の1以上が日本にあります。
 外国軍に一番貢いでいる国はどこですか。日本です。米軍の全海外基地の接受国負担は日本が半分以上です。
 外国軍のために自国の首都上空を自由に使えない国はどこですか。日本です。
 外国軍の兵器配備について、何も言う筋合いはないというのは、どこの国の首相ですか。日本の野田首相です。』
なぜ、こういうことになるのか。
世界を統治するのはアメリカであり、従って米国についていきさえすれば道を誤ることはない。そこで日本の針路を自分の頭で考えることを止めてしまっているのではないでしょうか。孫彩さんはこうも言います。
『日本の財務省首脳や財界の首脳は、誰と一体感を持っているのでしょう。日本人として「国民と一体であり、共通の価値観を持っている」と意識しているでしょうか。それとも、米国を中心とした金融関係者と共通の価値観を持っている」と思っているでしょうか。彼らの言動を見ていると、後者だと思わざるを得ません。』
一番大事なことは、世界は今後いろいろ変わっていくだろうが、戦争に巻き込まれることは絶対に避けるべきである、ということ。
 ところが、アメリカほど戦争の好きな国はない。第二次世界大戦後、朝鮮、ベトナム、アフガニスタン、イラクと次々戦争を繰り返しています。
 本書の中で次の言葉も印象的です。
『戦争はどういう時に起こるか。歴史を見れば、ナンバー・ワンがナンバー・ツーに追い抜かれるときです』(ジョセフ・ナイ)
中国のGDPは、購買力平価で換算すれば、既に米国を抜いているそうです。今まさに米国はナンバー・ワンの座を失いつつある。
ですから、『何も考えずにアメリカについて行くのは、とても危険!』というのが本書の結論です。

小学校の同級会

2016-11-08 | 美術館と美術展
豊橋美術博物館に行ってきました。5日午前です。5日は蒲郡で、午後小学校の同級会。どうせ蒲郡までいくのなら、豊橋によって来よう。豊橋の美術館はいい美術館で10数回行っています。最近時間がとれなくて訪れていないのでこの機会に行ってみようと、朝8時に家を出て、名鉄で豊に向かいました。9:37豊橋着、市電で豊橋公園に行きました。実はこれ、小生にとって大事件です。美術館は駅から2㎞弱、豊橋公園の中にあるのですが、今までは駅から歩いていたので、市電で行ったのは初めて。最近脚力が弱って、2kmを歩くのが億劫で市電に乗ったのです。「80歳を過ぎたから仕方ないか。」
 公園前で下りて美術館まで歩きました。「NIHON画 新たな地平を求めて」という企画展をやっていました。
「本展では、戦後日本画史を語る上で欠くことのできない福田平八郎、神岡神泉、東山魁夷、高山辰夫、杉山寧、片山珠子、香山又造、平山郁夫、堂本印象、横山操といった画家たちが日本画壇に新風を吹き込むべくさまざまな表現に挑んだ1950~60年代を起点にバンリアル美術協会などの前衛グループや独自に活動を展開した画家たちの実験作。伝統素材を用いて「日本画」を超える新たな可能性を示した現代画家を取り上げます。」
 日本画とは何かを追求し、岩絵の具を用いた絵で抽象画の世界を追求した作品の展示と思われました。秋野不矩の「ガンジス川」が印象的でした。
1時間ほど見た後、また市電で駅前に戻りました。豊橋名物の「菜飯田楽」で昼食を採り、1時前の電車で蒲郡に1次10分ごろつきました。
幹事のNが、いました。「ケイタイ持ってない?」。「持ってない」。「公衆電話探したけど、たった一つ見つけた公衆電話が故障らしくてかからない!」
実際最近ハケイタイの普及で、公衆電話が少なくなり、探すのに苦労する。
「ホテルのバスが迎えにくるじゃない。それを待とう」。ホテルのバス専用の乗り場の前のベンチに腰を下ろし待っていると、S君がきたので、ケイタイを借りてNが電話した。
間もなく、もう一人の幹事「タミネエ」(本名民子)が車を転がしてやってくる。早速乗り込む。「ダンナは元気?」。「昨年12月になくなった」。もう皆そういう齢なのだ。
竹島ホテルについて、ロビーに座り込んでいたら、次々昔の同級生がきた。今日は男子8名、女子12名の20名だという。同級生は50数名いたが、80歳を超すと3割がなくなっているから生存者は40名程度、20名なら、出席率5割を超す。
「10名も集まるか?」と思って声をかけ始めたんだけど、20名もあつまってくれたから、うれしい」。幹事のNが言う。部屋に入り、着替えをして大風呂に行く。三河湾の景色が綺麗だ。目の前に竹島がある。
幹事の部屋に集まり、アルコール漬けが始まる。マサミ君が来た。何十年ぶりかな?奥さんを17年前に無くし、今はウオーキングに熱中しているとのこと。「シーボー」(本名静子)も来た。名前が思い出せないのも、男子2名、女子2名いた。
 夕食会後はカラオケが恒例だ。みんな乗りの良い歌を歌う。カラオケが歌えるということは、肺活量があり健康だということだ。
小生「世の中歩がなきゃなりたたぬ」の『歩』、「精進落としの酒を飲み,
別の生き方あったね」の『小樽運河』を披露したら、「歌、沢山知ってるんだねぇ」。賞賛なのか、冷やかしなのか。ともあれ8時過ぎまでカラオケで賑わった。
翌日9時でお開きにしてかえってきたが、中学の同級生Fの息子さんから年賀欠礼の挨拶状が来ていた。
「父が本年7月永眠しました。そういう齢、と再度思いました。

野間大坊 OB会の旅

2016-11-06 | 旅行
 野間大坊に行ってきました。絶好の秋日和の下、D社名古屋支部OB会のバス旅行です。10時、集合場所のD社元本社跡に集合、私が一番最後でしたが、14名がバスに乗り込むとすぐ出発しました。バスは、旅館の送迎バスで、「オテル・ド・マロニエ」なるハイカラな旅館名が車体に書かれれていました。人数が少なかったので、旅館のバスを使うことにしたようです。名古屋高速から知多自動車道に乗り継ぎ、一路南下常滑ICで下り最初の見学地は「かねふくメンタイパーク常滑」、ここで明太子を作る工場を見学しました。その後、うどんの専門店で昼食を済ませて13時、野間大坊に着きました。
源義朝のお墓のある寺です。義朝は、頼朝、義経の父ですが、ここ野間の地で暗殺されました。朝風呂に入っているところを襲われ「われに一本の木刀でもあれば、むざむざうたれまい」との言葉を残したという言い伝えで、お墓には沢山の木刀になぞらえた願い事を記された木片が捧げられている。頼朝が父の菩提を弔い大きな寺にしたようです。

義朝の他、信長の3男織田信孝の墓もある。秀吉に敗れこの地で切腹しました。
さらに、頼朝が殺されるのを助命した池禅尼を弔う碑もあった。

田舎寺ですが、歴史を彩る有名人のかかわりで知られた寺です。
参詣後、海浜に降りて海の香を嗅いで野間崎灯台を見る。

15時、内海温泉「ホテル・ド・マロニエ」に着きました。名前はハイカラですが、中身は日本式旅館、夕陽の綺麗な旅館です。

部屋に入り、杯を傾けながら、在職事時代の懐旧談。「あれっ、この人こんなこと考えてたの?」という内幕話もいろいろありました。
2日目は朝10時に出発、最初に師崎まで行き朝市で土産物を仕入れ、その後時間が余るからと岬の公園の展望台に150mほど登り、篠島や日間賀島の展望を楽しみました、
昼食は海鮮バーベキュー。バーベキューの炉を囲む席料500円、食材2000円で2500円の昼食でした。魚、貝、エビなど、食べきれないほどのvリュームがありました。食材は漁師から仕入れ、料理は客任せですからコストはかからない。うまい商売です。結構、客でにぎわっていました。
その後「えびせんべいの里」で、えびせんべいを作る工場を見学して3時20分ごろ、旧本社跡に到着しました。
「遅めの出発、早めの帰着をコンセプトに企画しました」と、幹事の説明がありましたが、その通りの旅行。まぁ年寄りが多くなりましたので、こういう旅行がいいのかも。
帰りのバス中で、参加できなかった人からの近況を記したハガきが回覧されました。。
「えっ、あの人がなくなったの?」というカードがありました。
4時前帰宅してポストを見ると、今年の「年賀欠礼」第1号が入っていました。
「本年4月 夫が永眠しました」・・・こうしてだんだん齢をとっていきます。

11月3日の駅ちかウオーキング

2016-11-05 | 旅行
 11月3日は、駅ちかウオーキングに行きました。スタートの堀田駅に10時。コースマップを貰って1番出口から堀田通りを直進。100mほどでブラザー記念病院と並んでブラザーコミュニケーシヨンスペースがありました。ブラザーは、前身の安井商会から数えると100年を越し、 展示は、“100年以上にわたって培ってきた「モノづくりのDNA」を製品展示を通して紹介“とありましたが、世界最初のミシンなど展示していました。ミシン、工作機械、プリンター、タイプライターなどの数々が展示され、ブラザーの歴史をビデオで紹介もしてもいました。小生50代、60台とマラソン大会で全国各地を回りましたがどこに行っても目抜き通りにブラザーの支店があったので、この店舗の土地だけでもたいへんな金額だと感服した記憶があります。
 もう一つブラザーについての記憶はカラケです。一時、不況で苦しんだとき、利益の大半を通信カラオケ事業で稼いだことがあります。ブラザーに勤めていた知人に「カラオケを開発した男は変わった男だった」と内輪話を聞いたことがあります。機械メーカーにいてカラオケで稼ぐという発想ができるのは相当変わった人でないとできないでしょう。
 ロボットの展示もありました。

ここで小一時間展示を見た後堀田通りを北に。7丁目で西へ曲がり新開橋東で右折して新堀田橋西から左折、神宮東公園に来ます。公園の池には水鳥が集っていました。
 ここで、「通過証」を渡されました。これを見せないとゴールで「完歩印」を押印できませんという。途中を中抜けしてゴールへ行って「完歩」というのは不可というわけ。
ここから杉原千畝スタンプラリーと言うのをやっていました。ここと、雁道商店街と瑞陵高校の3か所でスタンプを貰うと記念バッジが貰えるというのです。
第二次世界大戦、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して[2]、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる
「杉原千畝人道の道」を歩きましょうと言うのが、今日のウオーキングの惹き句になっています。「杉原千畝」は瑞陵高校の前身愛知五中の出身なので、彼が通った道を「杉原千畝人道の道」と名付けて整備するのだそうです。
 3km余歩いて日本ガイシの傍を通過して雁道の交差点、渡ると商店街です。62年前、大学入学時にこの近くで下宿していました。ここの近く旧制八高の校舎があり、当時大学の教養部が置かれていたのです。現在は名古屋市大になっています。
 歩いてみても62年前の面影は全くありません。
 間もなく瑞陵高校です。

五中―瑞陵80年記念碑がありました。中に入ると、杉原千畝に関連する展示の数々、スタッフに聞くと千畝は6期生(愛知五中)とのこと。
庭には千畝の出身地、岐阜県八百津の特産品を売るマルシェが開かれていました。
瑞陵高校を出て、東へ歩くと瑞穂通り。区役所の草店を左折しました。この辺りで5km。
かなり疲れてきました。昔は42kmのマラソンを完走したこともあるのに、5~6km歩くだけで疲れてしまうのだから、80歳をすぎたという齢は争えない。
名古屋市博物館に来ました。
「禅の心と形 総持寺の至宝」という企画展をやっていたので1000円のチケットを買って入場しました。
曹洞宗の本山は永平寺と思っていましたが、永平寺の他に総持寺がある、2本山制なのだと初めて知りました。それに、総持寺は神奈川県の鶴見にありますが、昔は石川県輪島にあったが明治年代火災で焼け失われ、鶴見に再建されたという話でした。
 展示を見た後、市大病院前を右折、歩きに歩いて東山荘。ここは以前来たことがありますが、都心にあるとは思えない庭園です。

ここまで7km、その後は山崎川畔の散策路を歩いてパロマの瑞穂スポーツパークがゴールでした。1時半ゴールの受付を済ませ、「やれやれ疲れた」と思ったのですが、その後、瑞穂運動場東駅まで、たった500mほどですが、疲れてしまい歩くのが疲労困憊でした。
帰りにナゴヤドーム前で下車し、日課の水泳をやったのですが、500mで足がつってしまい、そこで泳ぎを止めてしまいました。体力の低下は否定できません。帰宅は4時45分でした。


名古屋城を是非木造で再建したい

2016-11-01 | 旅行
「名古屋城を是非木造で再建したい」という河村市長の気持ちがわかりました。
10月30日、名古屋城に出掛けたのです。久しぶり(半年ぶりかな)駅ちかウオーキングに行きました。名城公園駅でスタ-ト受付(9:30~11:00)で名古屋城やぶんかの道、徳川園を通過して名古屋ド-ム前駅に2時半までにゴール、約9kmのコースです。
9時半名城公園駅で受付、コースマップを受けとり、最初に名古屋城です。大津通りを1kmほどでお城です。昔は毎日ジョギングで走っていたコースですが、最近は時たま自転車で通る道です。必ずしもお城にはいる必要はなくて、門前を通り過ぎてもいいのですが、暫く(1年以上)入っていないから見て行こうと入城しました。しばらく来ないうちにずいぶん変わった!という印象です。平成21年から始まった本丸御殿の復元工事が進んでいました。工事の進行に応じて公開してえいるのですが、第1期の「玄関」、「表書院」第2期の「対面所」、「下ご膳所」が公開されていました。
内堀を渡ってすぐ玄関。
檜の香も新しく離パな御殿です。入ると下駄箱とロッカーがあり、バッグ類はローッカーに入れるよう求められました。書院の障壁画が見事です。

手掘りの欄間もあった。

公費150億円、10年がかりでの復元工事は、さすがに見事なものです。
天守閣をコンクリートでなく、木造で作りたいという河村市長の言い分もこれを見れば翌理解できます。各地で再建された天守閣のほとんどがコンクリートづくりで、木造と言うのはあまり聞かない。木造で作れば名古屋名物になるでしょうね。
天守閣に登って見よう。
ここに来るたび天守最上階から我が家を写真に収めることにしています。
お天気が良く、天守閣からは我が家がすぐ近くに見られました

外に出てみたら売店も木造で作られていた。
ここでしか売らないお城グッヅや、愛知の名産、地酒なども売られていた。

 。
 本丸を出てみると、老舗の食べもの屋の屋台が並んでいました。「ここ壱番屋」のカレーまで並んでいましたから、老舗とはいえませんかも。
食欲を刺激され、五平餅を一つ求めベンチに腰を下ろし味わっていたら、もう11時です。お城で時間を使いすぎたと清正さんの銅像に別れを告げ、先を急ぐことに。

市役所前を通り、久屋橋西の交差点で赤信号。先をゆく列が左に行くのが見えたので、信号こちら側を左折して行っても大丈夫と左折しました。これが間違いのもと。信号を渡った右手に次の訪問先「愛知・名古屋戦争に関する資料館」があったのですが、ここをパスしてしまいました。ここは昨年開館され、館内では愛知県民の戦争体験および戦争に関する地域史を主軸とした展示があります。「眠りから覚めた空襲の爪痕」と題する展示をやっていたのです。列の後を付いていくと、市役所の裏の市政資料館に着きました。昭和54年まで名古屋地裁の庁舎でしたが、裁判所の移転後市政に関する資料館になっています。ここまで来て「戦争資料館」をパスしてしまったと気がつきました。
「こりゃまずい」と500mくらい戻ることにしました。「戦争資料館」の展示をみてから、またコースを辿りましたが、先行するウオーカーが一本前の信号で左折してそれについて言ったら、「市政資料館」でなく「県知事公邸」の方に出てしまいました。
 ここですっかりやる気がなくなり「これから先は既に歩いたことがある」と、ウオーキングを3km足らずで止めて市役所駅に戻り、地下鉄でゴールのナゴヤドーム前駅に行きました。ここでいつもの東区市営プールでトレイニング。1000mを泳いでから駅に戻ると、ウオーキングゴールの受付をやっていましたので、完歩済みのスタンプを貰いました。このスタンプを溜めると「駅ちかウオーキング」のバッジを貰えるのです。今日はインチキでした。