古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

名古屋に平和公園あり

2009-11-28 | 旅行
 11月27日、住宅のシニアクラブのウオーキングでした。
 9時半集合、男3名、女6名の一行9人です。地下鉄で茶屋が坂駅へ。2番出口を出て茶屋が坂公園。公園の規模は小さいが紅葉がきれいです。続いて、だらだら坂を富士見台、希望が丘と、登って平和公園を目指します。
 この辺りは、名古屋東郊の高級住宅街で、市の住宅供給公社や、民間の住宅会社のマンシヨンも散在します(「茶屋が坂公園」でインターネット検索すると、マンシヨンの広告が続々でてきます)。
 やがて、平和公園の北側にアクアタワーが見えてきます。このタワ-は、水道の配水塔で、停電でモーターが動かない場合でも配水できるよう水を貯水する塔で、地上40m(標高120m)に展望室があるのですが、残念ながら入場(無料)は休日のみ。塔を回ってみたが周辺の木立で展望は見られません。
 続いて、南の「献体の塔」。遺体を解剖に提供された方々を顕彰する球体の塔です。
11時半になったので「お弁当にしない」と、近くの東屋でテーブルを囲んで昼食。

石段を降りて、街路を南に。道の左側はお墓の集団が並びます。ここ平和公園は、戦後の都市計画で、名古屋市内のお寺の墓を集団疎開して作った。今も市内のお寺が宗派ごとに名前を連ね、檀家の墓が並びます。「まだ大分余っているよ」,「入るの?」とYさんの声に、思わず笑い声。右手にユーカラの森が見えます。ユーカラをビニールハウスで栽培し、東山動物園のコアラの食料にしているようです。
この公園、88年、名古屋がオリンピックに立候補した時のオリンピック予定地でした。

間もなく猫が洞池です。ここは山崎川の水源地、昔は上池・下池と二つあったそうですが、今は上池のみ残ったとの解説碑が池畔に建っています。
池を過ぎると、メタセコイヤ広場、紅葉のメタセコイヤがカッコいい。
広場を過ぎると、平和公園南のバス停に出ました。バス通りを右に折れて猫が洞とおり1丁目で左手に。落葉樹の並木通りを辿ります。平和公園口で大通りにでます。左へ行けばゴールの星ヶ丘駅。ゴールの500m手前で、皆さん草臥れて、千種区スポーツセンター前の広場で休息。

 スポーツセンターは、休館日で入れなかった。市内のスポーツセンターは、月曜休館と金曜休館の二組ある。ここは金曜休館だった。
2時前、星ヶ丘駅着。全行程5.5km、おしゃべりしながら歩いていると、お祖母様方も歩けるものです。お天気に恵まれ、良いウオーキングでした。
平和公園は私の拙文より、以下のサイトがありました。
http://toppy.net/nagoya/chikusa3.html


「博士が愛した数式」

2009-11-20 | マラソン
「博士が愛した数式」、17日夜、衛星映画劇場で見ました。一頃TKNでも話題になりましたが、封切り時見ていませんでしたので、私は初めて見ましたが、面白い映画でした。

 少年【ルート】は成人後数学の教師になりますが、その教師役は、寅さん映画で、さくらさんの息子を演じていた俳優です。好感のもてる新人教師を演じていましたが、その講義ぶりが良い。自分の愛称ルートから始まり、虚数、自然対数の底e、さらに(eのiπ乗)+1=0(オイラーの等式)まで、生徒の興味を惹く話し振りが気にいりました。

 主人公の数学者(宇野重吉が演じているのかと、一瞬錯覚しました。父親に似た名優になりましたね)が交通事故で脳の記憶障害を起こして、80分だけの記憶しか出来ないというストーリーの設定が秀逸だと思いました。

 人間の脳は、体験を記憶する機能を持つことが生きていくための武器になりましたが、体験を記憶することは、『時間』を知ることになりました。もし、体験を記憶できなければ、現在しか分からない。つまり『時間』がわからない。

 その『時間』が80分しかない!その時、人間の心はどのように動くのか?

原作者の着想に脱帽です。



日本最新の天守閣と日本三名泉

2009-11-16 | 旅行
 伊賀上野と榊原温泉を旅しました。
 私が労組役員を退任したのは36年前、D社を退職してから13年も経っているのに、嬉しいことに、「一緒に旅行しましょう」と当時の仲間から声がかかりました。万障繰り合わせ参加することにした。13日、14日、行き先は榊原温泉です。
 朝早めに出て赤目四八滝もついでに訪れようと、
http://www.akame48taki.jp/takiannai/main.html
13日の9時前、jR春日井駅前に集合する。Oさんの車に5名が乗り込み、まずは東名阪御在所SAに。他地区から2台の車と合流。総勢11名でしたから、一人が他の車に乗り換え1台4名の旅でした。
 しかし、雨が降り出しました。天気予報どおりです。「赤目はやめて伊賀上野へ行こう」という話になりました。
 伊賀上野城公園駐車場についたのは12時前。上野城と忍者屋敷、それに芭蕉記念館があります。ここは、松尾芭蕉の生地でもあるのですね。曇り空だが、雨は降っていなかった。
http://www.kankomie.or.jp/db/result.php?id=3156
 坂を上って、藤堂高虎が縄張りした城ですが、天守閣の傍に立てられた案内によると、天守閣は昭和10年の建造、「日本で最後に建てられた天守閣」とありました。
 慶長年間、徳川家康の意を汲んで、対大阪最前線の城として、高虎が建造したが、天守閣は建造中に台風で倒壊、そのうちに大阪夏の陣で、大阪側が滅亡したので、結局天守閣は建てられずに終わった。
 昭和10年、篤志家が寄進して天守閣が建造されたので、日本最新の本格的(木造の意味)天守閣です。
 「昭和の天守閣」では、¥500払って入るまでもないと、城内の古い建て屋のうどん屋に入る。昼食後、周辺を歩いて石垣を見た。石垣は本物ですよ。高石垣の名にふさわしく、高く(27m)急勾配で、立派な要害になっている。「忍者の地のお城だけあって、切り立った石垣だ。」、「昔の石工の腕はたいしたもの。」おしゃべりしながら、一回りしたら、「旧小田小学校本館」という案内板が目についた。洋風建築のシンボルとしての太鼓楼が建物中央に屹立している。
「入ってみない?」。入館料¥100で、入って見ました。明治14年建造して、昭和40年まで使われた小学校でした。
 明治初期から昭和40年頃までの教科書など(戦後の墨塗りの教科書もありました)。
 街を一回りする。軒の低い古いたたずまいの家屋が並んで、往時の城下町をしのばせる。

 2時ごろ出発して榊原温泉(山の中だが、ここは津市だった)へ。旅館へは3時過ぎに着いたが、驚いたのは他の客が一組もいなかったこと。金曜日というのに!不景気もここまで極まったか。
ここは、日本3名泉の一とか。
【古くは万葉の時代、お伊勢さんの”湯ごりの湯”として利用されてきた榊原温泉。
平安時代には、清少納言が「枕草子」にて「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と謳っており、当時は「ななくりの湯」として呼ばれていました。】
つまり、有馬、玉造と並ぶ古くからの温泉らしい。私は、3名泉は二つ目。玉造は47年前新婚旅行でした。
 ナトリウム分が多い所為か、湯に入ると肌がぬるぬるする。
 6時からの懇親会は、カラオケつき。全員60歳以上だが、最高齢は76歳。(カラオケは76歳が一番元気だった。)酒量は、流石に、みな大分落ちていたようです。
 床につき雨の音を聞きながらやすみました。

 朝湯にゆっくり浸かり、朝食は8時。「雨だからやはり赤目は止めよう」と、持参したアルコール類を福引で分けました。下町のナポレオン(いいちこ)が当たりました。
10時のチェックアウトまでゆっくりして、帰途につきます。久居インターで高速に乗り、御在所SAで昼食をしてから、お別れ。最初の5人のメンバーになって相乗り、春日井駅を目指します。
 今日は土曜日だから、高速は千円で行こうと、伊勢湾岸道路に入って豊田南のジャンクシヨンから東名に入り春日井ICで下りようということになりました。
「距離は長くなりますが、時間はこちらの方が早い」とドライバーのOさんが言う。
 伊勢湾岸道路は片道3車線。東名より立派だ。「随分カネかけてるね」、「豊田を通る道だから、トヨタの税金で作ったんでしょう」、「でも、今年のトヨタは税金還付金を貰うんだ」。
ぐるっと豊田を回って、名古屋に向かう。「もう一寸名古屋の近くにもって来れば良いのに、大分東に寄っちゃった」、「環状線も東名も湾岸道路もみな豊田を回ってるよ」、「すべての道はトヨタに通ずだ」。車内の会話です。
「税金の磁力だ」、そのトヨタが税金を払わないというのだから、周辺の自治体はたいへんだろう。国でも上期の法人税収入は還付金で赤字だという。
 そういう中で90兆円もの予算を組もうとしてるのだから、民主党もたいへん。政権城を乗っ取ったら金庫が空になっていたわけです。
湾岸道が空き空きだったため、大回りしても御在所から春日井まで一時間でした。皮肉なことに天気は回復して青空になりました。
1時半、駅前で下ろしてもらい、家路に着きましたが、一寸早すぎるので、途中プールに立ち寄り1200m泳いでから、帰宅したのは3時半でした。

わが人生の歌語り

2009-11-12 | Weblog・人生・その他
 尾張名古屋のNOZUEです。

「わが人生の歌語り」、第1回から第5回までのアンコール放送が、8日の日曜日から今日まで毎朝4時から放送されました。これを聴くために、5日間、朝4時に起きました。

 今朝は、特に懐かしい歌が放送されました。

「湖畔の宿」

「蘇州夜曲」

「南の花嫁さん」

「誰か故郷を思わざる」

「新雪」です。

 昭和15~17年頃の歌ですが、戦時にこんな美しいメロデイの歌を生み出した日本人は、「捨てたものじゃないな」と思いました。

 放送では、「誰か故郷を思わざる」を、オリジナルの霧島昇でなく、冠二郎がうたっていたのが珍しい。語り手の五木寛之さんが、冠二郎に特にこだわりがあったのでしょう。

 戦時の歌と言えば、昨日は「麦と兵隊」(徐州々々と人馬は進む・・・)が放送されていましたが、日本の軍歌というのは、何か哀切なメロデイがあります。

 軍歌ではないのですが、「明日はお立ちか」も昨日の放送にありました。これは、オリジナルは勝太郎ですが、珍しや、天道よしみがうたっていました。

「明日はお立ちか お名残おしや・・」という歌です。

 この歌には個人的な思い出があるのです。

 昭和45年、愛知県の労働組合役員の中から3名(三重県から1名)の中の一名に選ばれて、米国国務省招待の米国見学に出掛けることになりました。

 当時のD社の社長(創業者)がとても喜んでくれて、お祝いに円頓寺(えんどうじ)の料亭につれていってくれました。

 宴なかば「おまえ、歌を歌え!」と言います。明治27年生まれの社長の知ってる歌でないと、と私が歌ったのが、この「明日はお立ちか」です。私が小さい頃、親父がよく口ずさんでいた歌でした。

 社長が、すっかり喜んで一緒に合唱してくれました。



 5日間で24曲の懐メロを聴きました。私は五木寛之さんとは4歳違いですが、ほぼ同世代といえるでしょう。すべて、私にはおなじみの歌ばかりでした。

 その中で、(上記の曲以外で)オリジナルと違う歌手がうたった曲を下記します。


影をしたいて  五木ひろし

花嫁人形    山崎ハコ

別れのブルース 青江三奈


 それぞれに、味のある歌い方でした。良い歌は、世代が変わっても歌い継がれます。

風邪を引きました

2009-11-09 | Weblog・人生・その他
先週は風邪を引きました。この前の日曜日、さむーい日でした。咽喉が痛くて鼻詰まりする。

 月曜日、「こじらせると厄介だ」と、医者に行くことにしました。向かいの病院に行くと若先生の当番でした。「健診の結果です」と、一月前に受診したメタボ健診のデータを渡してくれました。「特に異常なところはありません」。

 「風邪にやられました。咽喉が痛いのです。細菌が付いたと思いますから、抗生物質で叩く薬をお願いします」

 「咽喉を見せてください。あア赤くなってますね。熱はありますか?」、「熱はありません」。「咳は?」、「咳もないです」、4日分の薬を処方してくれました。

 火曜日、咽喉の痛みがなくなりましたので、午後は水泳クラブの練習会に行きました。

 水曜日、咽喉の痛みがないのに、咳が出てきました。「これぐらいはたいしたことない」と、午後、プールに出掛けました。泳いでいたら、咳が出て、その拍子にプ-ルの水をがぶりと飲んでしまいました。「もう若いとはいえない歳だから、自重しなくちゃ」と反省して、早々にプールを上がりました。

 木曜日、ジョグと水泳を休んで一日小説(村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」)を読みました。相変わらず咳が続く。

 金曜日、夜、薬も切れたので再度若先生に診てもらう。「咽喉は痛くないのですが、咳が出るようになりました」。「熱はありません?」。「熱の自覚はないのですが」、「一寸測らせてください」。やおら、懐中電灯を小型にしたしょうな機器を取り出し、私のオデコを照射する。「あァ36.2度ですね」。

 こんな体温計は初めてみました。これって、例の新型流感が海外で発生した時、税関で熱のある人を見つけて係留した、あの体温計らしい。町医者にも、この種の体温計が普及したようです。(余談ですが、流感に感染しても、発病するまでの潜伏期間があるのだから、こんな方法で感染者の入国を防止できるはずがない。「水際で防止する」なんて力んでいた大臣がいたが、「それは出来ません」と何故厚労省の役人は言わなかった?それとも厚労省のお役人も、防止できると思ってたの?)

 「咳止めの薬を処方してください」。聴診器で胸と背中側から呼吸音を聴いてから「音は正常ですネ。抗生物質の薬に加えて、咳止めを出しましょう。若し、熱が出たら知らせてください」とあくまで熱に拘る。愛知県は新型流感の患者が一番たくさん出ているそうですから、若先生が熱に拘るのも分かります。

 土曜日、咳もすくなくなりました。「これなら大丈夫!」と、午後はプールに出掛け泳いでみましたが、水を飲むことはありませんでした。

 以上、先週の風邪闘病記です。