古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

狂牛病(2)

2016-04-30 | サイエンス
  さて狂牛病である。
狂牛病の発生原因は、肉骨粉だと特定され、その使用が禁止された。
 ヨーロッパでは、従来から牛、豚、羊など家畜から食用肉を取り去った残りやくず肉をあつめて、加熱・脱脂し、これを乾燥させ粉末としたものを家畜飼料として”リサイクル“することが行われていた。これが肉骨粉である。草食動物の牛を肉食動物にする行為だった。このことは、草が牛の体内に入り、牛のタンパク質となる元素の流れを人為的に変える行為だった。
狂牛病の発生を見て、1988年7月、イギリス政府は肉骨粉を飼料として使用することを禁じたが、国内だけで輸出は禁止しなかった。
日本に狂牛病の発生が確認されたのは、2011年秋以降で、今日までに14例である。
狂牛病の原因の探求はどうであったか。
 スタンリー・プルシナーは狂牛病の病原体として「プリオン説」を提起し、1997年、ノーベル医学生理学賞を受賞した。「プリオン説」とは、狂牛病の犯人はタンパク質だという説です。病原体は細菌にせよウィルスにせよ、遺伝子を持っていた。ところがプリオンは遺伝子を持たない。遺伝子を持たないタンパク質がどうして感染や増殖が出来るのか。
プルシナーは、狂牛病にかかった動物の脳を正常な動物の脳と比べ、病気の脳に蓄積している特有のたんぱく質があることを見出し、これこそが病原体と直感し、プリオンタンパク質と命名した。プリオンタンパク質には正常型と異常型があり、異常型の方に感染性がある。正常型はヒトを含む健康な動物ならみな体内に持っている。外部から異常型が侵入すると、体内の正常型を次々異常型に変え、脳内に異常型が増えて臨界値を越すと発病するというのだ。
 一般に、病気の原因として病原体の存在を立証するためには、
1) 病気にかかった個体にその病原体が必ず検出され
2) その病原体が分離・精製され
3) それを他の個体に摂取したとき同じ病気が起こること
プリオン説は1の条件は満たしている。
2について、プルシナーは、1982年、病原体の精製に成功したと発表した。ところが科学雑誌「セル」に掲載されたその論文には、重要な一文が挿入されていた。「最終的に精製したプリオンタンパク質には感染性はなかった」
状況証拠は「プリオン説」に有利であった。
いくら探しても細菌もウィルスも見つからない。通常の細菌やウィルスを死滅させる処理でも感染能力は消えない。プリオンタンパク質を持たない(ノックアウト)宿主は発病しない、など。しかし
ノーベル賞の後光に守護されているとはいえ、プリオン仮説は不完全な仮説である。
 福岡ハカセは、本の最後にこう述べている。ハカセの一連の著書が一貫して述べていることでもある。
シェーンハイマーが数十年前見出し、そして今、ふたたび、狂牛病禍が我々に問いかけているもの、それは全く同じである。「分子は流れ、私たちを通り抜け、とどまることはない」。
繰り返して云おう。炭素でも窒素でも地球上に存在する各元素の和は大まかに言って一定であり、それが一定の速度で流れゆく中で作る緩い“結び目”がそれぞれの生命体である。流れは巡り巡ってまた私たちにもどってくる。
 できるだけ人為的な組み換えや加速を最小限にとどめ、この平衡と流れを乱さないことが、私たち自身の生命、あるいは環境を大切にすることである。

 このような認識の旅を続けていけるならば、それは長い時間を要するだろうが、やがて狂牛病を世界の果てのごく限られた場所の風土病に還り、人々の記憶から消えていくことになろう。


狂牛病(1)

2016-04-29 | サイエンス
「著者は処女作に向かって完結する」という言葉を昔聞いた記憶があります。最近、福岡ハカセの著作を読み続け感服しているものですから、ハカセの処女作を読んでみようと思い立ちました。たしか、ハカセの処女作は「もう牛を食べても安心か」(文春新書、平成16年)だったと東区図書館で借りてきました。狂牛病が話題になった頃の本です。
ハカセの一貫した主張は「動的平衡」です。
 この本は、狂牛病を「動的平衡」の観点から解説しているのです。
ものを食べることの意味、特になぜタンパク質を食べ続けなくてはならないか。
食べることの本質的な意味に、いつ誰が気付いたのか。人間の認識の歴史には、そのようなエポックを明確に示せる一瞬がある。ルドルフ・シェーンハイマーによって1937年、その事実は発見された。
 実験用のネズミに、たんぱく質は含まないが、カロリー的には充分なエサを与え続けると、暫くは生きるものの数十日ももたず衰弱して死ぬ。
 だから、私たちは、獣を狩り家畜を屠り肉を食らう。
 なぜ、私たちは他の生命を奪ってまでタンパク質を取り続けねばならないのか。それを知るためには、食べたタンパク質の旅程を知る必要がある。
 肉や植物に含まれるたんぱく質は咀嚼され消化管に送り込まれる。消化酵素により分解され、たんぱく質はその構成要素である20種のアミノ酸に分解される。ここまでは、正確にいえば、まだ体の「外側」の出来事である。消化管は皮膚が体の内部に折りたたまれたいわば内なる外だ。消化管からアミノ酸が血液中に取り込まれた時、初めて「体内」に取り込まれたことになる。
 体内に入ったアミノ酸はどこに行ってどうなるか。成長期にある生物なら、身体を構成するタンパク質の材料として使われるだろう。しかし成熟した生物はエネルギーの供給さえあれば活動できるだろう。事実、アミノ酸もまた、燃やされれば、エネルギーになり、二酸化炭素と水ができる。しかし、アミノ酸には一つだけ違う元素が入っている。窒素Nだ。アミノ酸を構成する元素のうち、C,H,Oは、最終的には二酸化炭素と水になる。では、Nは?
 呼気や汗に窒素は含まれない。Nは尿素という物質になって尿中に排泄される。もう一つ、尿の中にクレアチニンがある。そこにNが含まれる。尿中に含まれるクレアチニンは食べたタンパク質量とは無関係に毎日一定量が排出される。筋肉や臓器や組織はタンパク質から作られ少しずつ摩耗する。摩耗によって生ずるのがクレアチニンである。いずれにしても、食物はエネルギー源として燃やされると考えられていた。ところが違っていた。
 食物は瞬く間に、分子のレベルまで分解される。一方、生物体も驚くべき速度で常に分子レベルで解体され、食物中の分子と生体中の分子は渾然一体となって入れ替わり続ける。つまり分子のレベル、原子のレベルでは私たちの身体は数日間の間に入れ替わっており、「実体」と呼べるものは何もない。そこにあるのは流れだけである。
シェーンハイマーが明らかにしたことは、生命は流れの中にある。流れこそがいきているということである。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(鴨長明、方丈記)なのです。
シェーンハイマーの派遣は、鴨長明が持っていた生命観に欧米社会が気付いた瞬間だった。彼の仕事の最も重要な意義は、身体と環境が動的な平衡状態にあり、私たちが食べ続けないと生命が流れないことを、分子レベルで明らかにしたことである。(続く)

名古屋市で一番高い山をご存じですか

2016-04-23 | 旅行
名古屋市で一番高い山をご存じですか。東谷山(とうごくさん)198.3mです。この山に登る計画を立てました。22日の住宅シニアクラブのウオーキングです。集合時刻の9時半、東エレベータホールに行くと、予想以上に大勢でした。男性4名、女性8名の12人でした。お天気がよかったせいでしょう。登山する人がそんなに多いわけではないと思いますが、麓のフルーツパークで郊外の雰囲気を味わおうと参加した方が多いのでしょう。地下鉄で大曽根駅に10時前に着き、ユトリートラインの10時10分発高蔵寺行に乗車しました。ユトリートラインの説明をWEBから借用すると、
『名古屋市北東部に位置する守山区は、縦に細長い地域であり、その最も北にある志段味地区は、竜泉寺街道を軸に北側を庄内川、南側を小幡緑地や森林公園などの丘陵地に囲まれ、大変自然に恵まれた地域となっています。しかしその反面、道路交通は、その地形的な制約もあって、都心方面への交通混雑の激しい地区のひとつとなっていました。
この志段味地区においては、土地区画整理による良好な宅地開発を進め、人間性豊かな活気と魅力に満ちた新しいまちづくりが「志段味ヒューマン・サイエンス・タウン」構想として、着々と整備されてきています。
この開発により新たに発生する交通需要に対応し、都心方面への道路交通の混雑を緩和するためにも、新たな交通システムを整備することが課題となっていました。そして、平成4年1月の運輸政策審議会答申第12号において、志段味線が中量軌道系の交通システムとして平成20年までに整備することが適当である路線として位置づけられました。
これらの課題に対応できる新しい交通システムとして、世界ではドイツやオーストラリアで実用化されておりますが、日本では初めてとなる「ガイドウェイバスシステム」を、志段味線に導入することとなりました。』平成13年の開業です。
 龍泉寺口までは高架で走ります。ここで一般道に降りて普通のバスと同じです。乗車時間40分で高蔵寺手前の東谷橋で下車。徒歩15分で東谷山フルーツパークに着きました。
園内には、ナシやリンゴなど15種類の「果樹園」や、約100種類の熱帯・亜熱帯地方のめずらしい果樹を観察することができる「世界の熱帯果樹温室」,果物に関するさまざまな知識を紹介する「くだもの館」や、「売店」「レストラン」「つり池」などの施設があり、果物をテーマにしたユニークな農業公園として親しまれています。

11時頃に着き最初に熱帯果樹温室を見学(シニア入場料100円)を見た後、温室外の休憩所でお弁当を広げました。
昼食後、登山組と園内散策組に分かれました。
やはり登山組は女性のKさん、男性のHさん、それに案内役の小生の3名だけです。
「1時45分にここに集合しましょう」
12時15分出発、第一駐車場前の登山口から登り始めました。山頂までの標準時間は30分とのことですが、勾配が割と急で、階段も100段以上ですから息がはずむ。途中、中間点辺りにベンチがあったので小休憩。30分くらいで頂上の尾張戸神社につきましたが、息はハーハー。年寄には、もっとゆっくり上がらないとキツイ。Kさんの健脚には感心しました。
「階段は端の丸太は踏まずに土の部分をかがとで踏んで上がった方が楽」と教えてくれました。

10分ほど休憩し登山の証拠写真を撮った後、1時下山することに。25分かけてゆっくりフルーツパークに戻りました。
 1時45分集合し、帰途につきました。2時13分のバスに乗ろうと歩き始めましたが、脚の悪いSさんが、遅れて心配しました。この時間帯,バスは1時間に1本ですから。ぎりぎりで間に合いほっとしました。住宅には3時過ぎ帰宅できました。登山は3人だけでしたが、12名も参加頂けたので、起案者としてはうれしいウオーキングでした。


阿川佐和子さんと福岡ハカセの対談

2016-04-22 | サイエンス
聴く力の阿川佐和子さんと分子生物学の福岡ハカセの対談を本にした『センス・オブ・ワンダーを探して』(大和書房、2011年11月刊)を読みました。
 センス・オブ・ワンダーとは、すべての子供が生まれながらに持っている神秘さや不思議さに目を見張る感性とのことです。最終章が面白い。
福岡 そろそろ私も人生のしまい方を考えないといけないと思っているのです。
阿川 今おいくつですか。
福岡 51歳。
阿川 まだまだ、人生の3分の2くらいまでしか来てないじゃないですか。
福岡 いや、あと何年書けるかなって考えるとそんなにないですよ。あと10年かな。20年は絶対に書けない。分子生物学者になっていくつかの遺伝子を発見したけれど、生命の探求をしていたはずがいつの間にか死の生物学をやっていた。だから、そろそろしまい方を考えないと、私はこのまま死の生物学を続けて終ってしまう。
阿川 死の生物学者で終わらないために何から手をつけようと思ってらっしゃる?
福岡 生命の探求をしているのに実験のためにネズミを殺すのはおかしいから、それをやめようと・・・そのためにまず福岡研究室を閉じました。新しい実験や研究をするのをやめたんです。実験を通した科学研究で私は、大発見はできなかったけれども小発見は幾つかしました。いくつかの遺伝子を見つけて、「Nature」に論文も掲載されました。もういいんじゃないか、これからは死を詮索しすぎたのをちょっと回復する。つなぎ直す仕事をしなくてはと思ってます。
阿川 つなぎ直す仕事の道筋はたっているのですか。
福岡 ネズミを殺すのを止めて、私は生命に何を見つけようとしてきたのかを語っていくことに限られた時間とエネルギーを賭けるべきだと思っているんです。だから、書くことですね、それに専念したい。結局、生物学者としての私の問いは、「生命とは何か」を言い表す言葉を探すということに尽きる。生命をモノとしてみれば部品の集合体にすぎませんが、生命を現象として捉えるとそれは動的な平衡となる。その前後で部品の増減はない。いったい何がかわるかのか。動的平衡がこと切れる、ということ。私はそこを問い続けたい。
阿川 医学にしても細分化された専門家は沢山いる。でも、私がほしいのは、全体医
福岡 病院に行くと臓器ごとに科が分かれていて、全体医はいない。
阿川 つなぎ合わせるために何が必要?
福岡 まずは身辺整理して不必要なことはやめて体制を整え直さないといけない。そのために、今まで理工学部というところに所属していたんだけど、そこから「文転」して別の学部に映らしてもらった。
阿川 何学部に移られたんですか。
福岡 本当は文学部哲学科に行きたかったが、それは出来なかったので、総合文化政策学部という場所に移ったのです。<スラッシュfont>

生物と無生物のあいだ

2016-04-18 | サイエンス
『『生物と無生物のあいだ』は面白い本です。前半のさわりは、DNAのらせん構造解明の裏話、後半のさわりは、動的平衡論の説明です。
 1962年、ジェームス・ワトソンとフランシス・クリック、およびモーリズ・ウィルキンスはDNAらせん構造の解明で、ノーベル医学生理学賞を受けました。
しかし、DNA結晶らせん構造の撮影に最初に成功して、最も重要な貢献をしたロザリンド・フランクリンは、彼女のデータがかれらの発見に決定的な役割を果たしたことも気づかずこの4年前の1958年4月、がんに侵され37歳で世を去っていました。ノーベル賞は生存者でないと受賞できません。こういった裏話です。
ルドルフ・シェーンハイマーという科学者がいました。1930年代、ナチズムの靴音から逃れてアメリカにわたってきたユダヤ人科学者で、彼は、安定同位体を使って代謝研究を行うという画期的なアイデアを得た。
タンパク質を構成するアミノ酸にはすべて窒素が含まれる。食べ物をひとたび食べてしまうと、その食物の中のアミノ酸は体内のアミノ酸に紛れて行く行方はわからない。しかし、食べ物の中のアミノ酸の窒素を重窒素にしておけば、重窒素を含むアミノ酸がどこに行ったかわかるというアイデアです。
即ち、安定同位体を使うと、食物が体内でどのように代謝されるかを自在に追跡することが出来るのだ。
普通のエサで育てられた実験ネズミにある一定の短い時間、重窒素で標識されたロイシンというアミノ酸を含むエサが与えられた。この後、ネズミは、すべての臓器と組織について重窒素の行方が調べられ、ネズミの排泄物もすべて回収され、収支が算出された。ここで使用されたネズミは成熟したおとなのネズミだった。もし若いネズミなら、摂取したアミノ酸は当然体の一部になる。しかし成熟ネズミなら、それ以上大きくなる必要がない。事実、ネズミの体重はほとんど変化がなかった。だから摂取した重窒素アミノ酸はすぐに燃やされるだろう。従って重窒素はすべて尿中に出現すると考えたのだ。
実験結果は完璧に予想を裏切った。
重窒素で標識されたアミノ酸は三日間与えられた。この間、尿中に排泄されたのは投与量の27.4%。ふん中のそれは2.2%。ほとんどのアミノ酸はネズミの体内のどこかにとどまったことになる。いったいどこへ行ったか。答えはタンパク質だった。与えられた重窒素の56.5%が体を構成するタンパク質の中に取り込まれていた。しかも、その取り込まれ場所を探ると身体のありとあらゆる部位に分散されていた。特に、取り込み率の高いのは、腸壁、腎臓、脾臓、肝臓などの臓器と血清であった。当初、最も消耗しやすいと考えられていた筋肉タンパク質への重窒素取り込み率ははるかに低い。実験期間中ネズミの体重は変化なかった。これは何を意味するか。
重窒素アミノ酸を与えると瞬く間にそれを含むたんぱく質がネズミのあらゆる組織に現れるということは、恐ろしく速い速度で、多数のアミノ酸が一から紡ぎ合わされて新たなタンパク質が組み上げられているということ。
さらに重要なことは、体重が増加してないということは、新たに作り出されたタンパク質と同じ量のタンパク質が恐ろしく早い速度で、バラバラのアミノ酸に分解され、体外に捨てられている。ネズミを構成していた身体のタンパク質は、たった三日間のうちに、食事由来のアミノ酸により約半数が置き換えられたのだ。
さらにシェーンハイマーは、投与された重窒素アミノ酸が体のタンパク質の中の同じアミノ酸と入れ替わったのかを確認した。
ネズミの組織のタンパク質を回収し加水分解しバラバラのアミノ酸にする。そして各アミノ酸について重窒素が含まれているかどうか解析した。確かにロイシンに重窒素があった。しかし、ロイシンだけでなく、他のアミノ酸にもすべて含まれていた。
体内に取り込まれたアミノ酸は更に細かく分断され、各アミノ酸は再構成され、それがタンパク質にくみ上げられていた。つまり、絶え間なく分解され入れ替わっているのはアミノ酸よりもさらに下位の分子レベルである。
外から来た重窒素アミノ酸は分解されつつ再構成され、ネズミの体内を通り過ぎていた。
通り過ぎるということは、生命は「流れ」の中にあることを意味する。。
生体を構成している分子はすべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。だから私たちの身体は分子的な実態としては、数か月前の自分とは全く別物になっている。環境は私たちの身体を常に通り抜けている。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ辛うじて一定の状態を保っている。これは脳細胞といえども例外ではない。これを彼は“動的平衡”と呼んだ。1941年、彼は研究の最盛期に謎の死を遂げた。シェーンハイマーの提出した生命像、すなわち、生きるとは動的な平衡状態であるという視点は、環境と人間の問題にも重要な示唆をもたらしていると、福岡ハカセは言う。
「士は三日あわざれば括目してみるべし」という言葉があるが、我々の身体は、三日たてば、窒素も炭素も水素も入れ替わっているということ。

ナマコ博士の人生論(2)

2016-04-16 | サイエンス
高齢化と少子化。この問題を「生物の時間」という観点から考えてみます。平均寿命80歳について。
ゾウもネズミも心臓が15億回打つと寿命が終わります。人間は心臓が15億回打ってもまだ41歳です。しかし40歳で人生半ばというのは、ごく最近のこと。
縄文人の寿命は31歳、室町時代は30歳代前半。江戸時代で40歳代。昭和22年に至って50歳。縄文時代に60歳より長生きした人は百人に一人、室町時代にも10人に一人程度だった。ヒトの寿命は本来は40歳程度。40歳代で老いの兆候が表れます。老眼になる。髪が薄くなる。閉経が起きる。
 自然界では老いた動物は、原則として存在しません。野生生活だったら、ちょっとでも脚力が衰えたり、目がかすんだりしたりすれば、たちまち野獣の餌食になります。体力が衰えれば細菌の餌食にもなりやすい。
 老いた動物は、野生では生き残りにくいのですが、実は老いたものが生きていると、都合が悪いのです。老いたとは、生殖活動に参加できなくなったということです。野生においては、食物をはじめとする資源が限られているから、生殖活動に参加できなくなった者が生き残ると、自分の子供と資源を奪い合うことになる。生物学的にいうと、生殖活動が終わった者は、速やかに消え去るのが正しい生き方です。ただし、年寄りが生きていていい場合もないわけではない。生殖活動に直接参加できなくても、豊富な人生経験をもとに子育てのアドバイスをする。おかげで子や孫の生存率があがるなら、老いた世代が生きている意味はある。
 長い老いの時間は、医療をはじめとする技術が作り出したもの。還暦を過ぎた人間は、技術の作り出した「人工生命体」です。人生の前半は生物としての正規の部分、後半は人工生命体と言う、二部構成でできているのが、今の人生です。
 生物は進化の過程で自然淘汰を受けてきました。淘汰を受けて生き残っているということは、ちゃんと働けると、「自然が品質保証してくれていることを意味します。人生の前半は品質保証のある期間。でも老いの期間は、そもそも昔はなかったものですから、自然淘汰をうけてこなかった部分、つまり保証期間の切れた部分です。私たちの、この体は、もともとそんなに長生きすることなど想定されずに作られたのですから、保証期間が過ぎればガタが来て当然です。そういうがたガタが来た体を、だまし玉し使っていくのが老後です。
 老いの期間が若い時と違うのは、ガタがくるということだけではない。時間も違う。
 動物においては、時間の速度と体重当りエネルギー量が比例します。体重当り消費エネルギーは、赤ん坊は非常に大きく、20歳を過ぎてからはゆるやかに減る。これは、子供の時代は時間は早く、漏示の時間はゆっくりだということ。老人のエネルギー消費量は、子供の2.5分の1ですから、老人の時間は子供の時間の2.5倍ゆっくりです。
まてよ、と思われるかもしれません。年をとってきたら、一日も一年も早く経つ。時間が早くなるのじゃない、とおっしゃりたいでしょう。私もこの年になると、時間が早くなるのが実感できます。
 なぜ、実感は逆になるのか。たとえば、孫と一緒に一月夏休みを過ごすと、同じ一月でも、その間、子供は2.5倍エネルギーを使っていっぱいいろいろなことをやる。あとから振り返ると出来事がぎっしりつまっているから夏休みは長かったと感ずる。老人はあまりエネルギーを使わず少しのことしか行いません。休みは短かったと感ずる。―――つまり、時間はその中に入っているときと、あとから振り返るときとでは、感覚が逆になります。
このように、若い時と年とってからは時間まで変わるのですから、若い時の価値観や生き方をそのまま引きずっていることは賢いことではない。
 老いの命は技術が生み出した人工生命体といいましたが、技術で寿命を延ばせる生物など人間の他にいません。この人工生命体は技術のたまもの、人類の英知の結晶、誇りに思うべきです。叡智が服を着ているのが我々老人です。
 老後は「おまけ」です。昔はなかった。「一身にして二生を経る」は福沢諭吉の言葉ですが、われわれは二つの違った生を楽しめるようになった。
「一度で二度おいしい」おまけ人生をたのしみたいものです。

ナマコ博士の人生論(1)

2016-04-15 | サイエンス
生物学のユニークな本を2冊図書館で見つけ借りてきました。
「生物学的文明論」(本川達雄著、新潮新書2011年6月)
「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著、講談社現代新書、2007年5月)
今日は、「生物学的文明論」のさわりを2回に分けて紹介します。著者は“なまこ”の研究者です。因みにナマコを専門とする生物学者は、世界で10人くらい。
ナマコは何を食べているか。「砂です」、まさに「砂をかむ人生」です。砂は石の粒子ですから、栄養にはなりません。砂と一緒に飲み込んだ海藻の切れっぱしや有機物の粒子などを食べ、砂の表面についたバクテリヤも栄養となります。砂はそのまま排泄します。でも、いくら有機物の粒子があるといっても砂は砂、栄養などそれほどない。そんなものだけ食べてどうして生きていけるのか。
 体の姿勢を保つのに、われわれは筋肉を使う。腕を上げるとすると、上げている間じゅう、腕の筋肉は縮みっぱなしです。筋肉が収縮すればエネルギーが消費され、疲れて長くは手を挙げていられません。手を挙げた時、もし腕の皮が固くなれば、皮が突っ張るから筋肉を緩めても手はあがったまま。手を下ろしたらまた皮を柔らかくすればいい。これがナマコのやり方。
硬さの変わる皮を使うと、筋肉を使う時の100分の1のエネルギーで姿勢を維持できる。
ナマコの体全体に占める筋肉量と結合組織を計ったら、結合組織が体の約6割、筋肉はその10分の1。.哺乳類は筋肉が体の半分、結合組織は襟度1~2割。我々は筋肉ムキムキ、ナマコは皮ばかり。筋肉は休んでいるときも皮より6倍もエネルギーを使う。ナマコはエネルギー消費量がきわめて少ない。エネルギーを使わないとそれほど栄養を摂る必要が無いのです。
ナマコが皮の硬さを変えるのは別の意味もあります。
日没後、岩の間に入って隠れる。海が荒れた日は昼間でも岩の間に隠れる。岩の間に隠れる時、狭い入口を体を細く、大変形させて通り過ぎる。身体が固いままならとてもできない。入り口を過ぎて中に入ったら身体の形も硬さも元に戻す。
 
 こんな究極の技もできます。ナマコは魚に噛みつかれると、そこの部分の皮を柔らかくして皮を溶かして穴をあけそこから腸を吐き出す。魚がそれを食べている間に逃げていく。腸は一月も経てば再生します。
 ナマコは砂を食べている。砂を食べられるというのは、すごいことなんです。ナマコは、砂の上に住んでいるから、住処は食べ物の上です。食べる心配がないというのはこれは天国の生活です。ナマコは、皮などの結合組織を超省エネに進化させ、省エネに徹っすることで、この世を天国にした。頭いいなぁ!でもナマコには脳がありません。(続く)

男女の身体の不思議

2016-04-13 | サイエンス
13日、プールで泳ぎを終えてから更衣室で姿見をみました。「あれっ」。胸の異常に気付きました。胸が膨らんでいるのです。かかりつけの薬剤師が内緒話で言ったことを思いだしました。薬の副作用です。確かに、目立つほど膨らんでいる。
「まぁいいか」、「別に命にかかわるわけじゃない。」と思ったのですが、男女の身体の不思議が気になって、先日読んだ福岡ハカゼの本(出来損ないの男たち)を3Fの図書館でもう一度借りて読み直してみました。
 この本は、男と女の身体の違いを、ヒトの個体発生、つまり受精卵がヒトになるプロセス、を通じて解説した本です。
 受精卵が細胞部分裂を繰り返し成長する過程で、Y染色体の中のある遺伝子(SRY)が機能し始めると男性になるが、この遺伝子が機能しないと女性になるのです。つまり、受精卵は女になるべく、成長し始めるのだが、途中でY染色体が働いて進路を変えさせると男になるという。
「第7章 ミューラー博士とウオルフ博士」が面白い
男と女、どちらが高等か。
生物の高等・下等は何で決まるか。女性側から次のような発言が出た。それは分化の程度である。分化、すなわち目的に応じてより専門化が進んでいること。その視点で見ると答えは明らかである。女性は、尿の排泄のための管と生殖のための管が明確に分かれている。しかるに男性は、尿の排泄のための管と生殖のための管はいっしょくたである。つまり女性の方がより分化の程度が進んでいる。
半ば冗談として語られた話だろう。しかし、あらためて考えてみると、排泄物である尿と子孫の維持に不可欠な精子が同じ管を通って出てくるのは奇妙なことである。
なぜそのようなことになっているか。むろんそれはわからない。しかし、いかにしてそうなっているかは言葉にすることはできる。生物学は、WHYには答えられない。がしかし、HOWを語ることはできるのだ。
中略―――ここの詳細知りたい方はは原本に直接あたってください。)
 男性は、生命の基本仕様である女性を作り変えて出来上がったものである。だから、ところどころに急場しのぎの、不細工な仕上がり具合になっているところがある。
 実際、女性の身体にはすべてのものが備わっており、男性の身体はそれを取捨選択し、かつ改変したものにすぎない。基本仕様として備わっていたミューラー管とウオルフ管。
女性は、ミューラー管がそのまま育ち生殖器官となる
男性はそのミューラー管をあえて殺し(出口をふさいだ跡がありの門渡り)、ウオルフ管を促成して生殖器官とした。それに付随して様々な小細工をした。かくして尿の通り道は、精液の通り道を借用することになった。ついでに精子を送り込むための発射台が、排尿のための棹にも使われるようになった。
 女性は何も無理なことはしない。ミューラー管がそのまま育ち生殖器官となる。女性は何も殺すことはしない。今でもウオルフ管の痕跡が残っている(輸尿管)
 もともと女性の身体になるべく細胞分裂を繰り返していたのを途中でやめたのだから、女性ホルモンが少しふえてくれば、胸が膨らんできても不思議なない。




なぜ、ノモンハン戦の執筆を断念したか

2016-04-08 | 政治とヤクザ
『司馬遼太郎に日本人を学ぶ』(森史郎著、文春新書2016年2月)を読みました。著者は元文藝春秋編集長。入門書として司馬作品を解説していますが、私にとっては、第9章「なぜ、ノモンハン戦の執筆を断念したか」が実に興味深かった。
 「当時の参謀本部作戦課長でのちに中将になった人にもあった」―――6時間、陽気にほとんど隙間なく語られたが、小石ほどの実のあることも言わなかった。私は40年来、こんな不思議な人物に逢ったことがない。私はメモ帳に一行もかかなかった。書くべき事実を相手は一切喋らなかったのである・・・。名前は明かされていないが、当時の作戦課長は稲田正純中佐である。
 こんな陸軍エリートたち10数名の取材をかさねながら、司馬さんは失意の中で一筋の光明を見出した。それが、
「信州の盆地の温泉宿の主人」
であった。
 その人物とは、ノモンハンの戦場で生き残り、その後軍の忌避にあって免職させられた歩兵部隊連隊長である。
当時の兵器については、司馬さんと同意見で、
「われわれが持たされた装備は元亀天正のころと同じ」
つまりは、戦国時代の火縄銃や大筒のようなものと、痛罵しているのである。そして作戦を命じながら何の責任も取らされず、取りもしない参謀たちにに対して、この元連隊長は、
「悪魔!」
と切り捨てた。
 司馬さんは、のちにこの人物を対談やエッセイで取り上げ、名前を明らかにしているが、その連隊長の名は須見新一郎大佐である。
 須見大佐はノモンハン戦を回顧して、こんな証言を残している。
「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく当時の小松原中将およびそのあとにきた荻須立平中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果に終わったことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりした」
司馬さんは、事変後の処理について、
「その責任は生き残った何人かの部隊長にかぶせられ、自殺させられた人もあった。そのころの日本陸軍の暗黙の作法として、責任を取らせたい相手の卓上に拳銃をおいておくのだが、右の元大佐はこのばかばかしさに抵抗した。このため、退職させられた」
と書いている。元大佐とは、いうまでもなく須見新一郎である。
司馬さんが信州通いをはじめていたころ、どことなく確信にみちた表情でノモンハン事変を語っていたのは、この須見新一郎という第一線部隊の連隊長の存在を知り、小説の主人公候補としてふさわしいという気持ちに駆られたのであろう。
ある日、司馬さん周辺の聞き込みによると、「信州の温泉宿の主人」がはげしく怒り、司馬さんあてに絶縁状がおくられてきたという。
その理由とは、月刊「文芸春秋」誌昭和49年1月号に掲載された「昭和国家と太平洋戦争」と題された司馬対談で、相手は元大本営参謀、伊藤忠商事瀬島龍三副社長。
「あんな不埒なヤツにニコニコと対談し、反論せずにすませる作家は信用できん」
対談は失敗に終わった。稲田元作戦課長が失望させたように、瀬島元中佐も“小石ほどの実のあることも言わず”、責任も感じず、責任もとらなかった“典型的な陸軍エリート参謀”のままであった。―---かくて、ノモンハン戦の取材は侵攻停止状態となった。
この執筆中止を耳にして、司馬さんの知人である青木彰元筑波大学教授は、
「司馬さんの歴史小説家としての活動、日本・日本人を描こうという意欲は、ノモンハン、太平洋戦争と言う愚劣な日本人の戦争を描いて初めて完結したのではないか」と言う。

前立腺がんはどうなったかな

2016-04-07 | Weblog・人生・その他
「前立腺がんはどうなったかな」思いつつ、4月6日自転車で9時家を出て、9時10分西部医療センターに着きました。
 前回の診察は3月1日、一月以上経っているので、自分の病気を忘れているくらいです。
受付で、診察券を受付機に通すと「13番、採血・採尿室にお越しください」と指示票がプリントアウトされる。⑬に行き、ここでも診察券を受付機に通すと、氏名の記載された紙カップと採血の順番票がプリントされ出てきた。採血室が混雑していて、順番票は92とプリントされているが、採血中の番号は、30番台です。30分ほど順番待ち。
 指示票には次に「⑫の泌尿器科受付へ」とある。⑫の窓口で指示票と診察券を示すと、「検査結果が出ると再診しますので再診②の窓口近くでお待ちください」という。バッグから文庫本を取り出して読みながら1時間待った。順番がきて、診察室に入り氏名を告げる。
 医師がなにやらパソコンを操作すると、「検査詳細情報」なる文書がプリントされます。
PSA値は0.061です。前回よりもさらに少ない。
「PSA値は良いのですが、前回CT検査で肺にみられた白い影が気に名ります。影の大きさが小さくなっているのが、薬の効果であるとすれば、それは転移されたがんということになり、前立腺の治療だけしていればいいということにならない。放射線治療しても意味がない。従って再度CTスキャンする必要がありますので、次回の再診日5月25日に再度CT検査をします。」という。
「えっ、5月ですか?」、「機械の予定が混んでいて5月になります」。
いくら機械の予定が混んでいても、転移が疑われるのなら、検査を早める筈だ。5月でよいと医師が考えているのなら、その確率が低いのだと勝手に解釈しました。
「PSAが下がっていますから、現在の治療を続けましょう。今までと同じ薬を処方します。⑬で今日は注射をしていってください」で、診察が終りました。
⑬で診察券を機械に通すと、注射の順番票がでてきます。順番がきて、処置室にはいると、看護師が氏名を確認してから「今回は左にしましょう」と左のおなかにリューブリンという注射をしました。チクリとした。「腕にすると、「痛い!」と言う人がいますからお腹にします」と、前回いっていたが、小生、おなかに脂肪がないからどちらでも同じだろう。後は「指示票に従い「⑥会計へ」。
領収書を見て驚いた。7千7百円の請求のうち注射代が6709円。1割負担でですよ。チクリとやっただけで6万7千円の注射です。これではお腹がいたむのではなく、懐が痛む。
12時帰宅。向かいのかかりつけの薬局に行きました。
かかりつけ薬剤師に薬を頼み、「高い注射をやってきた!」。彼女が言った。
「でもね、注射で転移を防ぐのです。これで命が伸びるなら高くてもいいんじゃない」。それはそうだが、その後私の耳元でささやいた。
「胸に異常を感じないですか。」、「別に」、「薬の所為ですから、異常を感じても心配ないですよ」。
男性の胸が膨らんできたとしても、別に内緒話にするほどのことではない。
薬代は2300円。49錠が1割負担で2300円は高いなぁ