古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

豪雨とパソコンのトラブル

2008-08-30 | Weblog・人生・その他
 夜中に豪雨が降ったらしい。「らしい」と言うのは、当方、白川夜船でした。10kmのジョギングと1300mの泳ぎで疲れ果て、10時半以降起きていることは不可能でした。

 TVのニュースを見ると、0時前後、名古屋の時間雨量は83mm、降り始めてから10時までの降雨は193mmです。岡崎では1~2時で147mm、死者が出て、自衛隊が出動する騒ぎです。

 2000年9月の東海豪雨以来の集中豪雨ということですが、小生は、高層住宅の有難さで、窓から見て「あっ降ってるな!」と思うだけ。自分の住んでる地域の降雨状況が、テレビを見て初めて分かるというのも、変なものです。

 ともあれ、「豪雨お見舞い」ありがとうございます。


 ところで、今朝のことですが、PCが不調になりました。メールを見ようと、PCの電源を入れメールソフトをクリックすると、ソフトは立ち上がるが、エラーメッセージ「Portが見つからない・・・・」が出る。インターネットはどうか?とクリックすると、「ページに接続できません・・・」。

 古いPC(Win98)が、このPCと並列で、KDDIの中継器に接続してある。古いPCではどう?と、そちらを立ち上げてインターネットに接続すると、正常に動く。

 どうしたのかな?

 10時に、PCのコールセンターに電話する。お姉さんが、ネットの接続状況について、ここをチェックして下さい、あそこはどうなってます?と聞いた後、「中継器の電源をOFFして、しばらくしてから電源を入れなおしてください」と言って、電話が切れた。

 言われたように、電源OFF。PCも切って、4~5分してから電源ON、PCを立ち上げると、不思議なことに、インターネットは正常に動きました。 

 以下は、何が起きたか、私の推論です。

 インターネットに接続するとき、接続ポートに関するデータのファイルがあって、最初にそこからデータを読み込む。そのファイルが、何かの原因で壊れた。このファイルは、最初に中継器に接続した時、自動で作成される仕組みになっている。そこで、一旦、中継器の電源をOFFして、その後ONした時、自動でこのファイルが更新されたのだ。

 この推論が正しいかどうか、分かりませんが、スウィッチを入れな直すだけで正常になる、というケースもあるのですね。

ねむの木のこどもたちとまり子美術展

2008-08-28 | 美術館と美術展
24日朝、男子北京マラソンの日本勢惨敗を見て、「ご先祖さまがライオンと競争していた人種には勝てないなぁ」と、早々にTVを切って、知多の「かわら美術館」に出かけました。

今月中、「ねむの木のこどもたちとまり子美術展」をやっていると聞いたからです。

昨年も8月に、丸木夫妻の「原爆の図」展をやっていました。高浜市の「かわら美術館」は時々、良い企画展を開きます。

平成7年開設された美術館で、高浜市周辺が三河瓦の名産地であったことから、遺跡などから発掘された7~8世紀以来の瓦など日本の各時代の瓦を蒐集し、常設展示(3F)している。

三河湾沿いに走る名鉄の高浜港駅から徒歩10分、12時20分美術館に着いた。

『・・・展示の下見に来た時、「このあたり、海だったんですよ。」

「なんというの」

「衣浦湾(きぬうらわん)」

まよわず決まりました。

美しい海の水の中にキラキラ

光るお魚、つまり絵がいっぱい。

・ ・・

ねむの木学園の心を受けとってください。

どうぞよろしく    まり子』

という宮城まり子さんの言葉に迎えられて、展示室へ。



ねむの木学園は障害児の養護施設、したがって、絵の作者はすべて障害児なのに、素晴らしい美の世界に、「身体の障害は芸術には無関係」。もしかしたら身体に障害を持つ人の方が、美に敏感なのかも知れないと思う。



この美術展、世界各地で開かれている。昨年は、六本木の森ビルの美術館で開かれたそうだが、フランスや米国でも開催されたようで、その折のシラク大統領や、カーター大統領夫人が寄せた讃辞が紹介されていた。



それにしても、宮城まり子という人物は、素晴らしい。この世に生を受けて、何をなすべきかという、つまり、志(こころざし)を持っている。近年、志を持つ人物が少なくなった。

http://www.kawara-museum.takahama.aichi.jp/exhibition/current.htm



1時間余見てから、外に出て、近くに住む弟に電話した。迎えに来てくれた車の中で、弟が「宮城まり子は、いくつぐらいなの?」、「77ぐらいかな?」

(帰宅してから調べたら、1927年生まれというから、もう80歳を越えた。)

弟の家で、2時間ほど雑談して、3時半過ぎ辞去。今度は伊勢湾沿いの名鉄で、4時半帰宅しました。

分析・北京女子マラソン

2008-08-22 | マラソン
 北京女子マラソンの録画を見直してみました。

 20km前で、トメスクがスパートします。この時、トップグループは20人くらいの集団でした。ヌデレバはこの集団の最後尾だった。つまり、トメスクとヌデレバの間には20人近いランナーが入っていました。

 アナウンサーが言っていました。「ヌデレバからはトメスクのスパートは見えないかもしれません」。

 最後に、周選手と競り合い2位入賞したヌデレバに「アテネ銀のヌデレバは北京でも銀でした」とアナウンサー。解説の有森裕子さんが「ヌデレバはトメスクのスパートが見えなかったんですね」。

 でも、一つ不審に思えるのは、スパートした時に見えなくても、長い直線コースに出た時、遠くに先行するトメスクにヌデレバはなぜ気づかなかった?

 ヌデレバが第二グループの先頭に25kmあたりで出ますが、この時トメスクは250mぐらい、この集団を引き離していた。集団の中には、周もシモンもラドクルフも、優勝候補といわれるランナーが全ていたのです。そこで、ヌデレバは、これがトップ集団と錯覚し、さらに前方を確認しようとしなかった(人は見ようと思わないと見えないものですね)。トメスクは、まったくノーマークの選手でした。ノーマークであったので、彼女がスパートした時、スパート時期が早かったので「いずれ落ちてくる」と追いかけるランナーがいなかった。

 もし先行ランナーに気づいていれば、ヌデレバは追跡を開始していたでしょう。

 思えば、このマラソン、いくつかの偶然が勝負を左右しました。

 まず、気温。予想は猛暑だったのに、スタート時の気温は24度。それでも、きっと後半気温が上がると警戒した選手たちは超スローペースで走り始めた。ところが小雨が降り出しスタート後1時間で気温22.4度でした。

 初めにゆっくり走ればスタミナを残せるから、後半でスピードを上げていつもと同じタイムでゴール出来るかというと、それが出来ないのです。

 たとえば、東京、那覇、ホノルルなど何万人も出場者が参加する大会は、スタート時には前がつかえてゆっくりとしか走れません。後半スピードを上げてタイムを取り戻せるか?不可能です。

 この北京マラソンも優勝タイムは2時間26分台と、今の女子マラソンのレベルから言えば平凡なタイムでした。そこに、ノーマークの選手が優勝するチャンスが生まれました。

 この大会、いわば、前半はジョギング、後半ハーフマラソンといったレースでした。トメスクはハーフマラソンの得意な選手だそうです。

 野口選手が出場していたら面白い勝負になっていたでしょうね。野口も、アテネ優勝前には「ハーフの女王」と呼ばれていました。



さて、男子マラソンでは、どんな偶然が勝負を左右するのでしょうか。

追伸:以上は、知人からのメールへの返信です。
【先日の朝日新聞の報道では、ヌレデバ選手は41キロまでは自分がトップ争いをしているものと思い、先行するトメスク選手の存在が頭になかったそうですが、こんなことってあるのでしょうか?

屈曲のあるコースでリードが大きいと選手が視界から消えやすいのも要因ではとのことでしたが、百戦錬磨のヌレデバ、必死に金銀争いをする競技で不思議でなりません。】

マラソンのトレーニング

2008-08-18 | マラソン
17日朝は7時から1時間ほど名城周辺のいつものコースを走ってきました。

週3回程度、朝のなるべく涼しい時間に走るようにしていますが、それでも27度以上ありますから、1時間ほど走ってきますと、シャツからパンツまで汗で水浸しです。帰宅後はシャワーを浴びてから、冷蔵庫の中の冷たい茶をがぶ飲み。2L入りの「おおいお茶」が、二日で空になります。

いい年をして、そんなに無理して走ることないと言われそうですが、秋になって涼しくなると、「走るのはこんなに楽なことだった?」と思えるのが楽しみです。



ジョギングの後は、楽しみの女子マラソンをTV観戦。野口棄権とあって頼みの土佐選手も足の故障らしく19.5kmで後退、25kmで無念のリタイヤです。マラソンが2回目の中村選手は、その割りに健闘したものの13位の結果でした。結局、故障が日本選手にとって致命的でした。

野口みずき選手の脚の肉離れも、土佐選手の外反母趾の故障も練習のし過ぎと思います。



人の行うことには、常に不確実性が伴います。「絶対、金を取らねば」と思うと、つい、練習を積み重ねることで、その不確実性を克服しようとします。ところが、人間の身体は有限で、無限の練習に耐えられるようにはなっていない。

Qちゃんがアテネ、北京の出場権が取れなかったのも、練習のし過ぎが原因ではと思います。



こういう一流選手と比較は出来ないのですが、私は25年走っていて脚の故障はありません。自慢ではないが絶対的に練習量が少ないからです。大体一月に120kmぐらい走るだけです。野口選手やQちゃんは多いときには月に1200km練習するそうですから、練習量の桁が違う。



余談ですが、マラソン愛好家に時々聞かれることがあります。「そんなに少ない練習で、よくフルマラソンが走れますね」

水泳を日常的にやっていることが効果あるのだろうと、自分では思っています。マラソンを走るためには、脚の筋力と、心肺能力の高さが要求されます。

練習量が少なくても、心肺能力は水泳で鍛えることができます。

実際、ロシヤの女子マラソンの選手(名前は一寸忘れましたが)が、この意味で水泳を練習メニューに入れていたそうです。水の中で、どれだけ運動しても、脚を故障することはないと思います。というわけで、午後はプールに水泳の練習に出かけました。



北京で松田選手は200mバタフライの銅メダル。私もあやかって、来月の水泳大会では、この松田選手のタイムの3倍以内で、200mバタフライを泳ぎたいと思います。松田選手の年齢の3倍が私の年齢ですから、目標タイムも3倍ぐらいが適当かな、というわけ。

でも、タイムは別にしても、バタフライで200mは、完泳できるかが問題です。練習を積み重ねておかないと当日泳げません。で、最近はプールに行く度300mはバタで泳ぐようにしています。コースがシーズンで混雑して、連続では泳げませんので、25mずつ12本です。今日もプールは混雑していました。

追伸:優勝したルーマニヤのトメスク選手には驚きました。
TV画像から見る彼女の筋肉の凄さにです。
腕、腹筋、脚、まさに、贅肉のない身体の見本です。
やはり、優勝するだけのことはあります。
TVで見ていなかった方、インターネットの画像で見てください。少し画像が小さい恨みはありますが・・
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/sports/other/170576/slideshow/105705/

インターネットの記事によると、五輪女子マラソンの最高齢優勝とのこと。
【38歳での五輪制覇は、88年ソウル大会のモタ(ポルトガル=当時30歳)を大幅に上回る最年長記録。「年齢はわたしに多くのものを与えてくれた。年を取ってもやれることを証明した」と、1児の母は喜びを口にした。20キロからの5キロのスプリットタイムを16分台に上げると「誰も付いてこないので驚いた」。そのままゴールまでひた走った。「(20位に終わった)アテネ五輪は気温が40度もあってひどく暑かった。きょうは天候に後押しされた」と会心の笑みを浮かべた。】
予想された暑さの北京だったら、彼女の優勝はなかった?
人生に運はつきもの。五輪も同じ。
前回金だから今回も金、とプレッシャーをかけては、選手がかわいそうと思います。

マサに「継続は力」

2008-08-05 | Weblog・人生・その他
 8月5日は朝8時に近所の喫茶店へ。「中日、山本昌2百勝」の各紙を見比べるためです。

どの、新聞見たって、書いてあることはそう変わりないのですが、それでも色々読み比べてみたいというのが、どうしようもないフアン心理です。

中日の山本昌手記がいい。

【クビになりそうな危機を乗り越えて来られたのも、努力を継続することが得意だったから。】

【大切にしてきたのは・・・続けられる努力を継続すること】

マサに、『継続は力』です。



 喫茶店から戻って、今度は名古屋ドームへ、買い物しようとジャスコ入り口に行くと、黒山の行列。時計を見ると10時1分前、入り口左のドラゴンズショップの開店前の行列です。「何事ならん」と、看板を見ると、「山本昌投手2百勝記念Tシャツ売り出し」。フアンというものは有難いものです。



 200勝も立派だが、私が思うに、42歳11ヶ月での完投勝利が立派だ。2百勝達成者は24人出たわけだが、この最高齢完投記録は彼一人のものです。

 従来の記録は、阪神タイガースの昔のエース(と言っても、1936~53年の投手ですから、記憶している人は少ないでしょう)若林忠志投手の42歳8ヶ月。

 あの猛虎タイガースの大エースの記録を、山本昌が更新するとは!と喜んでいます(もっとも若林投手の記録は、大毎に移籍してからのものと思います)。



フアンでない人には、関心のないことをながながと綴ってしまいました。ごめんなさい!

寅さんの13回忌

2008-08-05 | 素晴らしき仲間たち
 8月4日は寅さんの命日です。渥美清さんは、12年前の今日、享年68歳で世を去りました。13回忌です。なぜか、死は暫く秘され、3日後の7日に報道されました。

 平成8年の8月7日、私の退職のための送別会を、大学の後輩がやってくれました。後輩だけでなく、先輩も二人来てくれて恐縮しました。

 会が終わった後、幹事のS君が「二次会に案内します」と言う。言葉に甘えてついて行き、カラオケバーに。

 バーのママさんが、「寅さん、亡くなったよ」と教えてくれて、渥美さんの死を知った次第です。

 ひばりの「みだれ髪」を先輩が歌うと、S君が「“赤いけだしが風に舞う”の“けだし”ってどういう意味?」と問題提起。バーの女性と、しばしの“けだし”論議をしました。

 あれから12年。S君は、今、D社の社長を務めています。あっという間に過ぎた12年ですが、12年という年月は、やはり長いのですね。

 今度、社長に会ったら「“けだし”って、どういう意味か知ってます?」と聞いてみたい。