古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

とよね・みどり湖ハーフマラソン

2007-10-30 | マラソン
 翌朝は9時前、着替えして会場(民宿前)に行きました。インフォーメーシヨンで、お嬢さんに「給水ポイントは何キロにあります?」、「2kmと8kmで、行き帰り給水できます」、「コースに熊は出ませんか?」、「熊っ?」と一瞬絶句した後「それは運次第ですね」と、にこやかに微笑んだ。
予定より5分ほど遅れて9時35分スタート、ハーフが98名、10km、5kmあわせて400余名が一斉にスタート。お天気は絶好だ。大入川にそって走る。2~3kmでみどり湖が右手に見えてきた。名前の通り、湖水は緑色。3.5kmあたり、もう10kmのランナーが折り返してくる。「蒲郡高校陸上部」のユニフォームの若者たちが数人走ってきた。
 9km手前で、豊橋のお兄ちゃんが折り返して走ってきた。手を振るとにっこり笑って手を振る。日差しの当たる所を走ると、暑くて汗が噴出してくるが、日陰に入ると空気がひんやりする。標高490mだから、まぎれもなく晩秋の気温だ。道は左に山肌が迫り、右に湖面という景色が延々と続く。
 例年より暖かいためか、今年はまだ紅葉の時期には早い。
 新豊根ダムの水門が見えてくる。ここが中間点で折り返し、腕の時計を見ると1時間2分を指している。順調だ!コースはなだらかな上り下りがあるが、ほぼ平坦で、走りやすい。それに1km毎に距離表示がある。良いコースだ。こんな山中の県道まで舗装整備した日本の経済力は(道路行政に批判はあるものの)なかなかのもの。ダムの水の落ちる先の佐久間ダムは、合併で浜松市になり、西方の稲武町は合併で豊田市。いわば豊田市と浜松市の狭間にあるのが、この過疎の村だ。など、思いつつ走る。
 後8kmの表示。ここが給水場。紙コップ半分の水を飲み、また駆け出す。そこから6km、後2kmの表示。最後の給水をした。
 ゴール前50mで直角に曲がり、ゴールが見える。スタッフがテープを張って左右に立っている(人数が少ないので一人ずつテープを切らせる余裕があるのだ)。最後の力走、大きく手を広げてテープを切る。腕のストップウオッチは2時間5分44秒だった。平均時速10kmで21kmを駆け抜けたことになる。振り返って帽子を取り、コースに向かって一礼した。
 すぐ豊橋のお兄ちゃんが来て「どうでした?」、「2時間05分44秒だ」、「あれっ、良いタイムが出ましたね」
 お兄ちゃんは1時間30分を切って9位に入ったと掲示板で知る。サービスの豚汁を頂き、一旦、民宿に戻って着替えした後、会場に来て、名物の五平餅を頬張りながら、ゼッケン番号による抽選を見ていた。1時終了。

1時15分、民宿のご主人が飯田線の駅まで送ってくれて帰途につきました。
 

豊根村

2007-10-29 | マラソン
 28日は「第1回とよね・みどり湖ハーフマラソン」に出場することにしました。
 豊根村は、愛知県北設楽郡で、長野・静岡県との県境にあります。みどり湖とは、天竜川に流れ込む大入川という川に昭和48年作られた新豊根ダムの愛称です。このダムは、佐久間ダム湖との高低差約200mを利用して最大出力112.5万kWの発電をしています。夜間に佐久間ダムの水をポンプで汲み上げ、昼間に発電放流する、いわゆる揚水式発電所です。
 大会出場を決めたのは、北設楽郡で最初のハーフマラソン大会。同郡は小生の生まれ故郷なので、郷里の大会、これは出場せねばなるまいと、前日の27日、ジパングクラブの3割引の切符を購入し、雨の中、豊橋経由飯田線の東栄駅に降り立ちました。
 駅の近くに「東栄病院」という町営病院があります。長兄が9月以来体調を壊し入院していますので、見舞いに立ち寄りました。義姉が「豊根村、送ってあげるわ」と言うので好意に甘え車で30分あまり、2時前に豊根村役場前の民宿に着きました。
 「今日は何人予約が入っているの?」。ご主人に聞くと「7人です」。5時、入浴をすませてから夕食。ご主人と7人のマラソンランナーが揃って、お互い初めての顔あわせですが、話が弾みました。
 一番若いのが豊橋から来た25歳の青年です。彼と私がハーフ出場で、他は10kmと5kmの部に出場です。
「一番若いのと一番年寄りがハーフに出る訳ね」と小生。「一番若い人は入賞してよ。記録証をコピーして我が宿に掲示するから」とご主人。ご主人は多治見市(今夏日本最高気温を記録した)に住んでいたが、5~6年前脱サラして、奥さんの在所(この地)で民宿を始められた由。明日のコースを説明してくれた。
 「役場前。家の前、からスタートして川沿いに新豊根ダムの水門あたり迄走って折り返します。人家が少ないため、応援に出る人はほとんどいないでしょう。人は少ないが猿は多いから、黄色い声で応援してくれるかも。」
 「猿が出るのは構わないが、熊が出たら困る」と内心思いながら聞いていました。
「コースの大部分が、片側山で片側湖です。だから変化が少なくて、疲れやすいかもしれませんね。でも高低差は20~30mですから平坦です」
 「豊根村は先般、日本一の小さな村と言われた富山(とみやま)村を合併しましたが、それでも人口1500ぐらい、小泉内閣の構造改革で、”白タク特区”に指定されています。全国でも2~3箇所と思います。役場に登録しておくと自家用車でタクシーが出来ます。村内の茶臼山は愛知県の最高峰で1415m。この辺は標高500m弱です。病院はないが診療所があります。若い医師が交代で来ていて、この間、きれいな女性が来たというので、私も診察に行ったら、もう若い坊やの医者に代わってた」(つづく)

洋上給油

2007-10-20 | 経済と世相
 政府は、自衛隊によるインド洋海上給油の新法を国会に提出した。
 「テロとの戦い」と言っているが、インド洋でアメリカ有志連合の軍艦に給油することが、どうして「テロとの戦い」になるのか、私には理解できない。
 作家の高村薫さんも15日の中日夕刊で述べている。(【 】内が高村さんの文)
【自衛隊のインド洋派遣のどこが、どんな風に「国際貢献」なのだろうか。シーレーンの防衛というけれども、アフガニスタンのテロ組織が、洋上のタンカーを狙うという具体的な話があったのだろうか】
【アメリカは2001年の同時多発テロを「新しい戦争」と呼び、国連憲章に定められた自衛権を発動してアフガニスタンのタリバン政権を攻撃したのだった。国連安保理は、テロ非難決議を出してそれを追認したが、軍事行動はあくまで、集団的自衛権を発動した有志連合によって担われたに過ぎない。】
【日本は、アメリカのアフガン侵攻にもっとも早く賛同した国の一つで、01年のテロ特措法はそれを具体的な行動にするために大急ぎで成立が図られたものである】
 9.11テロで、”これは戦争だ”と逆上したブッシュさんに、日本は逆らうわけにいかない。かといってアフガニスタンに自衛隊を派遣するには憲法の制約がある。そこで、後方支援で洋上の油補給で協力しますとなった(と言っても洋上給油も憲法解釈では否定されている集団自衛権に抵触するのでは?)。つまり、アメリカへの気配りであって、テロ対策に役立とうと役立たなかろうが問題でなかった、というのが実態でなかったか。
 その証拠に6年間で210億円も金をかけて(油代のみ、自衛隊の出動費は別)その効果を全然調べていないし、提供した油が本当にアフガニスタンの作戦に使われたかどうかも調べていない。
【そして肝心のアフガニスタンの状況は、カルザイ政権に統治能力がなくて、タリバンが復活してテロが頻発していると聞く・・・6年前にアメリカが始めた武力によるテロとの戦いは、結果的に成功していないと言うほかはない。】
 では、福田さんは本当に洋上給油を継続すべしと思っているのか?私にはどうもそのように思えない。
 本当にそう思うのなら、11月1日の期限切れを避けるためには、もっと早く法案を提出すべきだし(早めるような指示も出していない)、何故洋上給油が必要か、もう少し説得力のある内容を法案に盛り込むはずである。
 国連の感謝決議があるなどと書かれているが、感謝決議を出してくれれば無料で給油してくれると言われたら、一銭もかからない感謝決議に賛成するのは当たり前である。
 「感謝決議に署名してくれたら無料のガソリンスタンドを営業します」といわれたら、このガソリン高のご時世、ほとんどのドライバーは署名すると思います。
 「日本の自衛隊がインド洋で洋上給油していること知ってますか?」と聞いて、知っているアメリカ人は100人に1人もいるでしょうか?
 では、福田さんのねらいはどうか?
 これは、黙って洋上給油を止めたらブッシュ様のご機嫌を損ねる。そこで、政府も一生懸命努力したんだけど、どうしても野党が反対してね、と見せかけるためにやってるだけだ。と、思うのですが?・・・

賤ヶ岳

2007-10-18 | 旅行
 16日は、賤ヶ岳に登ろうということになった。8時半過ぎホテルを出る。
「彦根インターから高速に乗ろうか」、「いや、湖岸道路を木の本まで走った方が、景色も良いし時間も30分と違わないよ」ということで、湖岸道路を北上する。通称”さざなみ街道”、「・・・さざなみの志賀の都よ いざさらば」と歌にある”さざなみ”です。
 この道路は、まことに車の流れがスムーズで、高速並みに走れます。彦根、米原を過ぎて長浜に入り、間もなく長浜城が見える。秀吉が最初の城主になった城で、山内一豊もここの城主になったことは大河ドラマでご存知と思います。徳川の世になって、彦根城が出来てこの城は廃城になりましたが、天守閣が湖岸道路に勇姿を見せています。長浜の町づくりをした秀吉の人気で、長浜市は天守の再建をしたようです。
 1時間ほどで木ノ本町大音(おおと)に着く。ここに山頂に上がるリフトがある。乗り場の駐車場に車を置いてリフトに乗ることにする。料金¥400でした。リフトを降りて少し急勾配の坂道を上がると山頂、標高421m(麓から330m)です。
 山頂からは南に琵琶湖、北に羽衣伝説の余呉湖の二つの湖が見えます。伊吹山、霊仙山、姉川、竹生島など360度の展望を楽しむことが出来ました。もちろん、古戦場ですから、解説の掲示板が設置されています。1583年春、羽柴秀吉勢5万と柴田勝家勢3万の決戦場。大垣で織田信孝と対峙していた秀吉は、佐久間盛政(柴田の武将)が動いたとの報に接し、賤ヶ岳に駆けつけます。50kmを5時間で駆けつけたと伝えられる。市民マラソン並みのスピードです。マラソンは荷物なしですが、甲冑に身を固めて走るのはたいへんだった?もっとも侍大将は馬ですが。
 「先日、NHKでやっていたばかりだネ」とHさん「前田利家が戦線離脱して、これが戦局を決めた」
 山崎の合戦も光秀の迎撃体制が整わないうちに備中(岡山県)から山崎まで駆けつけた!いわゆる中国大返し。大兵力を一挙に移動させるというのが、当時の秀吉の得意手だったらしい。
 賤ヶ岳古戦場の碑を横にして、ここまで来た記念写真を撮り、お茶にした後、下山コースにつきました。
森林浴を楽しみながら、小一時間かけてゆっくりリフトの乗り場に降りる。
 「帰りはどのコースにする?」、「湖岸道路を戻りながら、適当なレストランを見つけよう」ということになって、11時半ごろ賤ヶ岳を後にしました。
 ところが、この辺りは火曜休日の店が多い。結局、米原駅の近くに来てから、並みの食堂に入って、食事でした。
 1時、米原駅前でHさん、Sさんを降ろして再会を約しました。小牧駅までMさんの車で送ってもらい、3時前には帰宅できました。
 以上、秀吉、光秀、勝家の古戦場めぐりの旅を終えました。
 
追伸:賤ヶ岳山上からの眺めは次のサイトでご覧になれます。
http://www.ohmitetudo.co.jp/shizugatake/

近江八幡の宿

2007-10-17 | 旅行
 部屋に入って、夕食の前に車座になってデスカッションをする。Hさんが昨年12月に、戦中北海道の炭坑で働かされた90歳台の在日韓国人を故国に旅行させた体験を語ってくれました。
 論客が多くて、車の中でもそうでしたが、社会や経済について活発なデイスカッシヨンが続いた。
「トヨタ労連が期間工を組合員にするという方針を打ち出したが、賃金体系が全然違うのに同一の組合員には出来ない。期間工の賃金も同じにするつもり?」
「われわれの時代の期間工は、秋田や青森からの出稼ぎで、半年働いたら後の半年失業保険を貰うという人だった。それが今や年中勤務する期間工にしてしまった」
「期間工って外国の労働組合に説明してもわからないよネ」
「私鉄総連は、3年以上勤務したら、正社員にするよう要求すると言う。何を今更という気がしないでもないが、今からでも取り組まないよりは取り組んだほうがいい。」
「日本の労働分配率は低い?」
「人海戦術で人が寄って集って製品を作るような業種の分配率は高くなるし、設備ですべて作ってしまい作業者はごくわずかという会社は当然低くなるから、会社毎で分配率を論じてもあまり意味がない」
「国民経済的には分配率は意味がある。製造業現場に派遣を認めてから日本の労働分配率は低下した。要するに派遣や請負を使うことで労働コストを減らして、企業は利益をあげた。だから総人件費が減って利益が増えた。でもそれは、国全体でいうと、付加価値の中で企業の取り分を増やし、労働者の取り分を減らしただけ。それにも拘らず、景気の指標は企業利益に連動するため景気指標が良くなっている。だから景気が回復したという政府の説明はインチキだ」
 侃侃諤諤でした。

 大風呂に入浴後、6時半、夕食に食堂に行くと、部屋ごとに席は指定してあるが、バイキング方式である。朝食のバイキングは、最近どこのホテルでも行われているが、夕食のバイキングは初めての体験。
 でも、料理は美味しかったし、量は豊富(バイキングだから当然だが)。結局、旅館側はコストを下げようとすると、人件費をカットするのが一番で、夕食までバイキングになった。もっとも、一泊2食で税込み約¥9300だから、価格から言えば文句は言えない。平日の割りには、客が賑やかでした。
 さすがに皆65歳を越えて老人の域に達したことは否定出来ないようで、酒量は減った。生ビール各自一杯と冷酒をみんなで1本傾けたのみで部屋に引き上げました。
 
 10時過ぎには、皆さんすやすやとお休みで、私一人TVの米作りのNHK特集をみていました。(つづく)

天王山

2007-10-16 | 旅行
 15、16日と労組時代の仲間と琵琶湖周辺の旅に出かけました。15日小牧駅に8時40分、Mさんの車に同乗し、東名・名神経由米原ICで降りて米原駅に。東海道本線にトラブルがあったらしく列車が遅れ、待ち合わせ時間は7,8分遅れたが無事Sさん、Hさんと合流できた。
 今日は、お天気が良ければ天王山、秀吉と明智光秀の古戦場、に登ろうという話になっていた。絶好の天候です。早速、彦根から名神に上がる。
 「大山崎ICの傍だって言ってたね」、「地図みても東名に大山崎ICってないよ?」。
 Mさんが「米原駅で待ってた時タクシーの運ちゃんに聞いたら、京滋バイパスの方が近いと言っていたから、そちら行こうか」と言う。そうしようと、瀬田東からバイパスに入る。地図を覗き込んだHさん「巨椋池って何と読むの?、これを過ぎたあたりで高速を降りた方が良い」。
 「おぐらいけ」と読むのじゃない?と小生。まもなく巨椋ICに来る「OGURA}とローマ字表記がある。「当たってたね」。暫く行くと、「枚方方面」、「吹田方面」との分岐に来た。「どちらへ行く」、「吹田へ行ったらダメじゃない?」、「じゃ、枚方方向に行こうか」。
 後で分かったが、これが間違い。吹田方面とは、名神に合流して吹田方面に向かうの意味で、その合流地点が大山崎ICだった。つまり、名神をそのまま走れば良かったのだが、運ちゃんの言うのは「名神は混雑が多くて、バイパスの方が空いていることが多い」の意味だったのだ。
 なお、この大山崎ICが出来たのは2003年で、私たちの見ていた地図は2001年発行だった。
 次のICで出口へ。出口で「大山崎はどちら?」と聞くと「料金を頂いてから」。料金を受け取って、彼「あそこでUターンしてもう一度高速に入ってください」。
 Uターンして入り口に戻ると、高速の入り口の横に高架の下を走る道がある。「この道でも行けると違う?」とそちらを走る。間もなく大山崎町に出た。町役場に出たのでHさん「地図を貰って行こう」。車を止めた。Hさんが役場に入っている間に路傍の看板を見ると「乙訓の街・・・」とある。「これは何と読むのかな?」、小生「おとくにじゃない?」。歩行者に「これ、何と読むのですか?」、「おとくに」。正解でした。乙訓郡という地名です。
 JRの山崎駅の近くに天王山登山口があり、町営の駐車場がありました。ここで車を止め近くのコンビニでお握りお茶など調達して登りはじめました。1時頃です。
 山頂は標高270mという。たいした高さではないのだが、上り始めはかなり急勾配だ。宝積寺という寺が最初にあった。三重の塔が目を惹く。
 解説のパンフに「牛頭天王を祀ったところから天王山と呼ばれる」とある。「牛頭はなんと読むの?」Hさんは今日は読みにこだわる。「”ごず”です。」と小生。登って行くと、密集した竹林が多い。
 「旗立松展望台」に来た。山崎合戦で、秀吉の「馬印」を松の梢に掲げたと伝えられる。
 秀吉、光秀他諸将の陣立て配置の絵が掲げられ、眼下の風景と比較できる。明智勢が横に鶴翼の陣なのに対し、秀吉側は縦に幾層も陣を配置している。兵力の差でこうなったのだろう。 
 「秀吉軍3万数千、光秀軍1万5千余と敵の半分の兵数で戦う、光秀はそんなに戦が下手だった?」とHさん。小生「いや、もっと援軍が来ると思ってたんでしょう」。
 堺屋太一さん監修の合戦説明を焼き付けた陶板画の一枚が(登山道全部で6枚)設置されていたが、陶板のタイトルにも、「援軍来たらず」、堺屋さんも言っている。
 2時、山頂に着き、遅い昼食を取りました。小憩後、記念写真を撮り下山を始める。
 「17烈士の墓」というのが見えた。「17烈士って明智方?」とHさん。傍の説明文を見ると「禁門の変で・・・」、「いや幕末の話らしいよ」と小生。「真木和泉以下の勤皇の志士が自刃した場所らしい」。
 下山の後、3時半過ぎ帰途に着いて、帰りは大山崎ICから東名、竜王インターから8号線で近江八幡へ。国民休暇村の宿舎には5時前到着しました。(つづく)

福井マラソン紀行(2)

2007-10-10 | マラソン
 7日朝、6時にバイキングの朝食。その後、大浴場に行って朝風呂。「天然温泉」というのが、このホテルの”売り”になっているが、露天風呂に入ると青空が見えてきた。「今日は暑くなりそうだ」。
 7時半、散歩をかねて会場まで歩き、受付を済ませてからホテルに戻る。ランニングスタイルに着替えして、上に長袖のTシャツを引っ被ったスタイルでチェックアウト。8時半会場に行く。聞き覚えのあるキンキン声がマイクから流れている。千葉真子さんの声だ。本日のゲストランナー(5kmに出場)です。司会の女性アナを相手に”マラソンの心得”を話している。
 ゴールが別地点だから荷物を預ける。ゼッケンナンバーを記した荷札をリュックにつけてトラックに載せた。草地に腰を下ろしていたら白髪のランナーが隣に来たので声をかけた。「この大会前に走ったことあります?」、「私は25回目です」。「制限時間は割りとゆるやかですね(2時間25分)」
 「ハーフですか。私はもう2時間半でも走れないので5kmです。ハーフのコースは割りと平坦だから走り易いですよ。折り返しの手前30~40mゆるやかに上りますが、坂と言うほどの坂でない」と教えてくれた。バッグの中から縄状に巻いた鉢巻を取り出し、額に巻きながら「汗止めです」と言う。
 なるほど、暑い日は滴り落ちる汗が目に沁みて痛くなることが多い。
 開会式では30年連続出場(かなり居るという)の男性が選手宣誓をした。

 スタート時間が迫りスタート地点の大通りに並ぶ。ハーフ陸連登録選手が9:30、ハーフ一般は2分遅れでスタートです。1218名の参加。うち男子50歳以上は342名(選手名簿で確認したら70歳以上は小生含めて5名だった)。
 スターターは千葉真子さん。放送が「9時現在の気温22.1度、湿度65%、風速南南西2.5m」と伝える。9:32スタートの銃声で駆け出す。スタート線の絨毯を踏んだのが17秒。5kmに達した時、腕の時計を見ると32分。時速10kmで走る予定なので、少し遅れている。ゴールの福井運動公園を横目に見て北へ。ここからのコースは、道なりを直線とみなすと、運動公園を下端とするTの字型で、Tの横棒の左端が第一折り返し、右端が第二折り返しで、Tの字を往復する。
 10km通過は1時間4分。暑さの所為だろうが、遅い!一寸ピッチを上げないといけない。
 第一折り返しが11.7km地点、3km戻って第2折り返しが14.7km、3分の2は走った。
 「お父ちゃん頑張って!」道端から声援が飛ぶ。15kmで時計は1時間32分、遅れを取り返してきた。暑さがこたえてきたが、ここは我慢と粘りに粘る。腕を懸命にふることだけ考えた。
 ゴールした時、腕のストップウオッチは、2時間10分を24秒ぐらい過ぎていた。スタッフからスポーツドリンクを二缶貰い、草地に座り込んで1缶を一気に飲み干す。記録証を貰いに行く。
 部門(50歳以上男子)順位 244位、総合順位 721位
 公式記録 2時間10分23秒
 実測記録 2時間10分06秒
 目標記録 2時間10分 0秒
とある。公式記録はスタートロスを含むタイム、実測はスタートロスを含まないタイム、目標記録は参加申し込み時に申告したタイムである。目標時刻まで記入してくれる完走証は初めてだ。
 この暑さの中、21kmを走ったのだから、6秒ぐらいの差は止むを得ない。

 荷物を受け取り、着替えを済ませ、駅までのシャトルバスを待つ行列に並んで20分。バスで15分ぐらい。1時過ぎに福井駅についた。
 折角ここまで来たのだから、金沢で一日遊んで帰ろうと北陸本線の電車に乗ることにする。窓口で「次の特急は?」と聞くと「1時36分のサンダーバードです」と言う。
 サンダーバード?暫く考えたら、これは”雷鳥”だ。昔は”雷鳥”と言ったはずだ。”雷鳥”の方が風格があるんじゃない?サンダーバードでは、何か、アニメの名前のようだ。
 ホームで電車を待ちながら、昼飯時だなと思ったが、暑さでバテて食欲がない。こんなこともあろうかと、リュックの中に用意していたカステラを取り出して、ゴールで貰ったスポーツドリンクで喉に流し込んだ。乗車46分で金沢着。金沢の宿で、体重計に乗ったら56.5kg、通常より2kg減っている。フルだと2kg減るのは普通だが、ハーフで2kg減るのは珍しい。汗がいかにひどかったか分かる。

 翌日は雨。しかし連休で道路は渋滞。午後2時半の高速バスに乗ったが渋滞で1時間ほどの遅れ、帰宅したのは8時前でした。 

福井マラソン紀行(1)

2007-10-09 | マラソン
 6日、リュックサックを背負って、11時発の高速バス福井行きに乗りました。7日の第30回福井ハーフマラソンに出場するためです。途中、賤ヶ岳SAで休憩、敦賀、武生、鯖江で客を降ろし、2時福井着。バスを降りると、駅が見えない。「福井駅前まで切符買ったのに?」聞くと、「あちらに真っ直ぐ、突き当たりが駅です」。市バスの1区分ぐらい歩かされた。駅で何か工事をやってるみたいだった。
 売店のお姉さんに、中央公園(マラソンスタート地点)とAホテルの場所を聞くと、「駅前の市役所の北側が中央公園で西側にホテルがある」と言う。
 駅前に立つと、目の前に福井城址の石垣が迫る。中央公園の前に城跡を見ようと、お堀にかかる橋を渡ると、松平秀康の馬上姿の銅像があった。秀康は、家康の次男に生まれたが、秀吉の養子になった。福井の町割りの大方は、この秀康が定めたようで、その功を多として福井市民は銅像を立てている。
 お城は堀と石垣を残すのみで、堀の内側の本丸に福井県庁が威容を誇っている。お城の本丸に県庁舎が建っているのは、私の知る限り福井県のみだ。将来、城を再建しようとすると、県庁を退かせないと出来ないから、福井市民は城の再建など毛頭考えていないことになる。古城の風格は石垣に残る、と私は考えている。立派な石垣を見ることが出来れば、コンクリート造りの天守閣など不要と思うので、福井市民の判断に賛意を表したい。
 20年ほど前、やはりマラソンの旅で福井県を訪れたが、その折乗ったタクシーの運ちゃんの言を記憶している。「福井県の殿様は戦が下手で、負けた殿様ばかりだ」。確かに、朝倉氏は信長に滅ぼされ、柴田勝家は秀吉に敗れた。そして敦賀城主の大谷刑部は、朋輩の石田三成に義理立てして関が原に出陣し奮戦したが敗れた。いずれも武運がなかった。松平秀康は、戦に敗れたわけではないが、秀忠の兄に生まれながら、徳川将軍になれなかったのは、やはり武運がなかったのだろう。
 次に市役所(お堀の外)まで歩き北側へ回ると、中央公園があった。中央という名前の割りには小さな公園で、「なるほどこの広さでは、ゴールには無理だな」と納得。ゴールは運動公園という別の公園になっている。明日の大会の飾り付けをやっているお兄さんに聞いた。
 「片町って知ってる?」「アア飲み屋街だよ」と言う。飲み屋街の片町なら、金沢が有名だが福井にも片町があるようだ。「片町のAホテルに行くんだけど、どっち?」と、インターネットで予約したホテル名をいうと「あっち、歩いて5分ぐらい。大通りの向こう側」と答えた。
 大通りに出ると、ここはさっきバスで降りたところ。バスの運転手はホテルの近くに降ろしてくれたわけだ。片町という名の割りには人通りが少ない。景気が良くないのかも知れないが、金沢の片町には比すべくもない。
 ホテルは直ぐ分かった。ランナーが大勢予約しているらしく「歓迎 熊本走ろう会20名さま」などの札が出ている。チェックインの時聞くと、明日はランナーの便宜を図って、食堂は6時から営業すると言う。(続く)

左心室肥大

2007-10-04 | Weblog・人生・その他
 毎年誕生日の前後に健康診断を受けることにしている。4日朝、向かいのホームドクターの医院で受信しました。基本的な検診と胃のX線写真は70歳以上は無料です。
 余談ですが、小泉内閣以来、高齢者福祉は極力カット(というわけでもないのかも?)されて、65歳以上無料だった各種入場料は¥100に。プールの入場料が有料になったのは大きい。百円でも回数が多い。そこで定期券を買ったが年¥10600。「安いじゃない?」と言われるが、無料が¥10600だと、それだけ市民税が増えたような気がする。地下鉄も無料から年五千円に。国保の1割負担は3割に。所得税、市民税の控除廃止は言うまでもない。 その中で、唯一残っている無料が、70歳以上の検診無料です。
 例年通りの検査ですが、今年特に気が付いたことを述べてみます。
 最初に、バリウムを飲んでレントゲン撮影。このバリウムが苦手です。昔は、検診の後のトイレは、家のトイレを使わず1階まで降りて集会所のトイレを使った。つれあいが「掃除に苦労する」と苦情を言うからです。確かに、高層住宅でトイレが詰まると、ことです。
 それが数年前から、どのように改善されたのか分からないが、排泄されるバリウムが流れやすい。今年は飲む感じも変わって水っぽい。撮影がすむと、看護師が「直ぐ飲んでください」と3錠の下剤をくれた(昔は家に帰って飲んだと思う)。
 尿を採った後、体重測定。「59.2kgです」と言う。少し重くなっている。そうか!バリウムの分だけ重くなってるんだ。「身長は172センチです」59.2÷1.72÷1.72=20.0だからBMIは20、こんなものだな。
 その後、心電図。これが今年一番の変化です。ベッドに寝て、電極を貼り付け、測定を始めると、直ぐプリンターが動き出す。すると、直ぐ電極を取り外し「心電図終わりました」。未だプリンターが動いている。以前はプリンターが終わるまで寝ていたが、測定開始後直ぐ測定データがプリンターのメモリーに入るらしく、もう起きて良いというのだ。
 視力測定、血液試料採取、眼底検査は例年どおり。最後に大先生の血圧測定と面談。今日は大先生の出勤日(週一回)だった。(後5日は若先生の担当です。)
 「尿検査は異常なしです。心電図は、いつものように(と昨年の心電図と比較)左心室肥大がでていますが・・・マラソンをやっている所為かもしれませんね」。見て改めて感心したのは、昨年の心電図と今年の心電図が、(当たり前ですが)まるでコピーしたようにそっくりです。
 「左心室肥大」は心電図を撮るたびに言われます。最初に言われた時(20年も前)超音波エコーの写真を撮ることを勧められ撮影、「心臓の筋肉が厚くなっており、内容積は肥大してはいない」との診断でした。いわゆる”スポーツ心臓”です。
 以上、今年の検診が終わりました。

追伸:インターネットで「左心室肥大」を見ると、
【全身から送られてきた血液は右心房を経て、右心室から肺に送られ、酸素を受けとって左心房から左心室に流れ込み、全身へと送り出されます。血液を送る原動力は心臓の収縮力です。 血液を送り出す力を増すために、左心室の壁と心室中隔が肥大を起こす症状】
【スポーツ心臓とは
 スポーツ選手は昔から心臓が大きいことが知られています。ヘンシェン(Henshcen)が1899年にスキー選手の心臓陰影が大きいことを報告したのが最初と言われています。ある種のスポーツを長期間継続しているうちに、心臓の形態や機能が次第に変化してきたものをスポーツ心臓と呼びます。スポーツが長期間心臓に負荷を与えた結果、スポーツをおこなうのに適したように変化する適応現象と考えられています。スポーツ心臓の形態的な特徴は、肥大と拡張です。
 心臓肥大とは、心臓から血液を送り出すときに収縮する壁が厚くなることをいいます。普通は心臓から動脈血を送り出す部屋(左心室)の壁の厚さは12mm以下ですが、これを超えて厚くなるのをいいます。】
 【マラソンやスキーのクロスカントリーでは、全身を使う運動で、心臓は多くの血液を長期間にわたって送りださねばなりません。1回の心臓の収縮でたくさんの血液を送り出せるように、心臓が拡張して、心臓の容量(体積)が増加していきます。実際は肥大と拡張の両方の特徴をもったスポーツ心臓が多いようで、心臓の超音波検査でその特徴をとらえることができます。これらの心臓の形態の変化は、スポーツをやめると徐々に普通の人に近くなるので、スポーツに適応した結果と考えられています。】 

9月の私撰10大ニュース

2007-10-01 | 経済と世相
名古屋も鹿児島なみになったのかな?と暑い9月でしたが、やっと涼しくなりました。9月の私撰10大ニュースをお届けします。(順不動)

1. 安部首相辞任。

どうしてアメリカの艦船に給油できないと日本の首相が職を賭すの?

2. 福田内閣発足。

3代目で懲りて2代目を引っ張り出した?

3. 世界陸上女子マラソンで銅メダル。

大阪で開かれたのに日本がメダル一個とは!やはり日本は女性が元気。

4. 瀬島竜三死去。

  太平洋戦争の当事者がこれで居なくなりました。

5. 国連が日本に感謝決議!

  給油活動って、いくら日本の税金を使ってるのかな?

6.月探査衛星「かぐや」打上げ。

  現代の「かぐや姫」は、どんな物語りを教えてくれるのでしょう。

7.4半期GDP、マイナス成長に。

  株も景気も外需(外人)頼み。

8.ミャンマーでデモを武力鎮圧、日本人記者死亡。

  ミャンマーの最大援助国は日本。日本よ、どうする!

9.年収200万円未満の労働者が1000万人を越えた。

  これが参院選与党大敗の真因と思う。

10.イチロー7年連続200本安打 、松坂200インニング投球。

 すごい野球職人たちです。

追伸:「五嶋みどりさん国連平和大使に」、「フジモリ元大統領ペルーに送還」とか、時津風部屋など取り上げたいニュースがありましたが、他にニュースが多すぎました。