古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

2013レインボーカップ・マスターズ

2013-09-30 | 水泳
 2013レインボーカップマスターズ水泳大会第3日です。
29日、11時に家を出て、日本ガイシプールに向かいました。12時前到着、入り口で顔写真付きのエントリーカード(出場票)の提示を求められた。昨年までは、写真の提示など求められなかったが、4月のボストンマラソンのテロ以来、マスターズの大会でも写真の添付をエントリーカードに求められるようになった。写真がないと、その場で写真を撮られ¥500の写真代を請求される。
30分ほどサブプールで、アップを泳ぎ、その後観覧席に行く。女子100m自由形が始まっていた。この後、男子100m自由形、それからバタフライ100mになる。小生の出番は2時16分の予定。1時過ぎ、選手控室に向かうと名大カッパ会のNAWAさんに会う。「大丈夫ですか」と言う。第一日の200mバタフライでの事故のことだ。
27日の200mバタフライに出場したのだが、トラブルで途中退場、失格となった件。以下、その顛末。
飛び込んで50mターンの時、「変だな」と思った。泳ぎがいやに重かったが、そのまま泳いで150mターン、ここでそれまでの1掻き1呼吸から、2掻き1呼吸に変えた。180m辺りで突然、異変が起きた。手も足も動かなくなったのだ。脳は「頑張れ、頑張れ」と信号を送っているのだが、腕の筋肉も脚の筋肉も脳の指令に従ってくれない。全然動かないのだ。何が起こったか、自分でもわからない。水深が浅い所でも2mのプールだから、泳ぎをやめたら、沈むはずだが、顔は水面に浮いていた。脚の筋肉が勝手に立ち泳ぎをやっていたのかもしれない。監視員が飛んできて私の肩をつかみ(一番端のコースだったのでプールサイドから手が届いた)。プールサイドに引き上げられた。そこへ救護班が駆け付け、担架で医務室に運ばれるという騒ぎになった。
医師(診察してくれたから多分医師だろう)の診察は、4月にメニエール病を発症した時の若先生の診察と同じやり方だ。あの時、最初、脳の変調を疑われた。(なぜ脳をチェック?)異常はみつからなかった。咽喉の渇きがきついので、看護師(多分)に一杯の水を所望した。
お茶碗一杯の水を一気飲みして、「帰ります」と言ったら、「最低20分はここで安静にしてください」、「帰りに何か事故が起きたら医務室の責任になります。大丈夫だと確認するため20分は寝ていてください」と、医務室に監禁されてしまった。20分経って血圧を測る(168~100)、20分も経ってまだこれだけ高いのだから泳いでいる時は、200を完全に超えていた。「そうか!医師は血圧が上がりすぎて脳内出血が起きてないか心配したのだ!」


控室の入り口で、チームキャプテンのKさんに会う。ここでも、「大丈夫でしたか?」、「まぁ、無理せず泳いでください。2階から皆で応援しています」
時間が来て、招集所に行く。TAKESHITAさんがいた。同じ組の6コースを泳ぐようだ。「SEYAMAにまたお会いしたと報告します」と挨拶してくれた。
飛び込み台に立つ。正直言うと、今回は怖かった。「また200mの時と同じことが起きたらどうしよう。絶対ゆっくりだ。早く泳がないこと」。早く泳がないと決めて出るレースは初めてだが、早く泳がなくても、75歳以上の出場者は私だけだから、最後まで泳げば金メダルは確実です。
スタートの笛で飛びこみ、50mでターン、100mでフィニッシュすると、2階の観覧席から一世の拍手が聞こえた(プール仲間に心配させてしまった!)。先着の隣8コースを泳いだ選手も拍手で迎えてくれた。「みな後期高齢者には気をつかってくれる」。
プールから上がろうとすると、医師と看護婦が出迎えてくれていた。医師は、右手の人差し指と親指で丸を作り「バッチリ!」とねぎらってくれる。「ゆっくりダウンしてください」。看護婦は言葉はなかったが、満面の笑みだった。患者?は本当に大丈夫か心配で、私のレースを見に来てくれていたのだ。「先日はお世話になりました」と挨拶して別れた。
その後、サブプールで100m、ダウンの泳ぎを済ませ、帰ることにした。
メダル授与所に行き、金メダルをもらう。タイムは2分59秒17。まぁ、絶対ゆっくりと思って泳いだタイムだから、このタイムも仕方ない。

去年の100mバタフライは、レース直前、台風の襲来で中止になって、金メダルはもらい損ねた。昨年は200mで金メダル。今年は100mで金メダルの結果に終わった。
今年のメダルは丸型で愛知県の地図を刻んだカッコいいメダルだった。

単純な脳・複雑な私

2013-09-29 | 読書
『単純な脳・複雑な私』(池谷裕二著、13年9月)という本が講談社ブルーバックスから出ました。面白い本です。間違いなく「今年の私の10冊」に入ります。
 脳科学者の池谷裕二さんが、母校の藤枝東高校の生徒に講演した内容をまとめた本ですが、満載の面白い話題から一つ紹介します。

 「直感」と「ひらめきは」はことなるものだ。・・・「ひらめき」は思いついた後に理由がいえる。「これこうなって、ああなって、だからこうなんだ」というふうに理由が本人にわかるんです。
 一方、「直感」は自分でも理由がわからない。「ただなんとなくこう思うんだよね」という漠然とした感覚、それが直感です。そんなあいまいな感覚なのですが、直感は結構正しいんですよね。そこが直感の面白さです。
 脳の部位でいうと、理由がわかる「ひらめき」は、理屈や論理に基づく判断ですから、おそらく大脳皮質がメインで担当しているのでしょう。一方の「直観」は基底核です。
 脳の教科書を読むと、「基底核は手続き記憶の座である」と書かれています。
 「手続き記憶」とは簡単に言えば「方法」の記憶のことです。つまり、ものごとの「やり方」です。テニスラケットのスイングの仕方、ピアノの弾き方、自転車の乗り方、歩き方、コップのつかみ方――にかく何かの「やり方」の記憶のことです。基底核は、少なくとも「体」を動かすことに関連したプログラムを保存している脳部位なのです。
 方法記憶には重要な特徴が二つあります。
 一つ目のポイントは、無意識かつ自動的、そしてそれが正確だということ。
 二つ目の特徴は、1回やっただけでは覚えない、つまり、繰り返しの訓練によってようやく身につくということです。
 以上の二つの特徴・・・「直観も同じだ!」と気づいた
 まず直感は無意識ですね。「こうに違いない」と気づいても、その理由が本人にはわからない・・・無意識の脳が厳密に計算を行っていて、その結果として「こうだ」という最終的な答えだけがわかる状態なんです。
 直感は訓練によって身につく。

 この話のどこがおもしろいのか、というと。
 私たちは日常いろいろな決断に迫られます。その際、ほとんど直感で判断しているのではないか?上述の大脳皮質の論理に基づく判断をしているのでなく、基底核を使う直感に頼って意思決定をしている。私たちの日常生活における意思決定はそれで差支えないのですが、組織のリーダーが組織の問題を意思決定する場合も、もしかしたら大脳皮質の論理でなく、基底核の直感にたよっているのではないか?基底核の直感は、繰り返しの訓練によって鍛えられるのだが、リーダーはその訓練を経ているだろうか。組織にはあらゆる問題が起きえます。リーダーがあらゆる問題に訓練を重ねることは不可能です。リーダーという個人の能力(脳力?)には限界があります。
 したがって、時にリーダーの判断は誤ることがある。誤りがあっても小さな問題ならたいしたことでないのですが、組織全体に大きな影響を及ぼすことがある問題での誤りは困る。どうするか?権限を分割してあまりに大きい権限は個人に持たせない!権限が大きくなければ、リーダーに誤りがあっても、悪影響は少なくて済む。
 「リーダーは誤ることがある」ことを前提に、組織を考えないといけない。
 こんなことを思い起こさせた記述でした。

縄文人に学ぶ

2013-09-20 | 読書
 先日読んだ本「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」(ジャレド・ダイアモンド著)の訳者あとがきに「(著者は)縄文時代に関心を寄せられ、次作では日本人の起源を取り上げるとのこと、早くも楽しみである」とありました。
 ダイヤモンドさんが縄文時代に関心を持つというのは面白い。自分も縄文時代の勉強をしようか、と探してみたら、「縄文人に学ぶ」(上田篤著、新潮新書、13年6月刊)という本が出ていました。
 あとがきによると、『いまから45年前のことである。
わたしは大阪万国博のお祭り広場の設計のために、京都からたびたび東京の建築家丹下健三さんの事務所を訪れた。ある日、そこで画家の岡本太郎さんにお会いした。そのとき、傍らになにやらおどろおどろしい模型があったので「これは何ですか」とお尋ねしたら、岡本さんは言下に「縄文だ!」といって黙ってしまわれた。その剣幕に驚いて、わたしはそのあと何も質問できなかった。
 これがわたしと太陽の塔、つまり縄文との出会いである。』
さらに前書きには、こうあった。
(『おもろそうし』という沖縄の歌集がある。)
『16世紀ごろに首里の王府が沖縄各地にあった「思い(うむい)」と呼ばれる民間の古歌などを集大成したものである。しかもその多くは、沖縄に稲作が入る13世紀以前に成立したものだった。
「稲作以前」ときいて私は絶句した。考えてみると、それは「沖縄の縄文時代」のことではないか?本土は早くに稲作を取り入れて弥生時代になったけれど、沖縄はなかなか稲作を取り入れず、したがってその「縄文時代」は13世紀頃まで続いた、といえるのである。』
『「沖縄にはいまなお母系制社会の遺制がある」という衝撃的な結論を考えているうちに、わたしの想像力はますます羽ばたいていった。「ひょっとすると沖縄のみならず、縄文時代と別れて2千年以上もたった現代日本も、いまなお多くの縄文文化を引きずっているのではないか?」と。』

 最終章「縄文日本の未来」に、以下の記述がありました。
 『わたしは「記紀」が好きで昔から親しんできたが、熱中するようになったのは最近である。というのは「記紀」に、母系制社会の男女の愛の形である妻問いの話がいっぱいでてくるからだ。とりわけ神話編には、イザナギ、イザナミに始まり、その子スサノオとクシナダヒメ、その子孫ヤチホコとスナカワヒメ、オオナムジトヤガミヒメ、オオクニヌシとスセリヒメ、その子ヤマサチヒコとトヨタマヒメなどオンパレードである。
 もちろんこれらは神話だからいつの時代のことかわからない。しかし、竪穴住居とおぼしき室屋や鵜の羽を葺いた産屋などが登場するところを見ると、縄文時代と考えられるものも多いのである。』
 『縄文社会以後、世はだんだん「男権社会」になり、今日、父系制社会となったが、それでも母性原理は今日の日本の母たちの胎内に残り「母系制社会」ではなくなったものの、いまなお日本を「母性社会」としている。」
 『いままでの日本人論の多くがたんなる現代日本社会の現象学的考察であったり、話がたとえ歴史に及んでもそのルーツが中近世の農耕社会であったり、古代の仏教文化であったり、神代の神道世界であったり、さらには日本列島の風土を論じたりしたものだが、「わたしの日本人論」はそのすべてを縄文時代に帰納させた。』
 『比喩的にいうと、いままでの日本人論がバラバラの箸だったとすれば、私の縄文社会論はそれらの箸を集めてその根元に「縄文」という一本の木を当て、それらを糸で束ね、さらに漆で塗り固めたものである。するとここに一個の櫛が現れた。・・「縄文櫛」である。
 そういう縄文櫛を、私は「母系制社会」だとおもっている。』

 ダイヤモンドさんが書きたいのは、「縄文」の母系制社会の原理を残した日本社会の興隆であろうか?

清州城までウオーキング

2013-09-08 | 旅行
7日午前、名鉄のハイキングに参加しました。犬山線の下小田井駅から西枇杷島、美濃路を経て、清洲城までの8㎞です。美濃路は、東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ東海道の脇街道でした。
 以下、美濃路の風景と終点の清洲城です。
瑞正寺 http://www5.ocn.ne.jp/~kiyosu_k/zuisyouji.html


刑場近くに建てられた宝塔が有名です。




長谷院の山門
安土桃山時代の創建とか。





正覚寺 今川塚が有名です。家康の四男忠吉が母の菩提を弔って開山。



清洲城

現在の天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内にRC造によって建設された模擬天守。外観や規模は、実在した当時を想像して建てられた。なお、2010年1月に清須市の「清須越四百年事業」のPR役としてフィギュアスケート選手の織田信成が清洲城の名誉城主に就任している(任期は1年間)とのこと。[
 昔の清洲城天守は、名古屋城に移築され西北櫓、清洲櫓、重要文化財)になっていて、私のジョグコースです(左、参考までに)。

清洲公園で、お弁当を使い新清洲駅(名鉄本線)で11時の電車に乗り帰宅しました。