古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

銅メダルを取った!

2005-05-26 | 水泳
 12時が過ぎていたので弁当を広げてお握りを頬張る。個人メドレーを終えたT女
史が上がって来て「今日はメダルなし!」と残念そう。いつもバタフライを泳ぐのだ
が、今回は個人メドレーに挑戦したのが裏目になった?H女史も来た。小生の次の種
目は100m平泳ぎ,3時ぐらいの予定。フリーリレイはその後3時半頃だ。
 速報掲示を見に行ったMさんが、「貰えた!」と、銅メダルを手に戻ってきた。2
5m平泳ぎを21秒で泳いで65~69歳で堂々3位。拍手!
 3時ごろ100m平泳ぎ1組8コースで泳いだが、2分12秒と平凡なタイム、今
日は水温が高いので記録は出ないと思った。そのまま、召集所の近くに台に腰を下ろ
して坐っていたら、「召集だ」とMさんに呼ばれた。召集時刻が迫るのに、私のいる
場所がわからなくて探したらしい。召集所の近くにいれば直ぐ分かってくれると思っ
ていたのだが、あまりにも混雑していて分からなかったようだ。
 今度は、8コースでスタート側にMさんと。先頭はダイナミックな泳ぎのMさん、
次は華麗なフォームで泳ぐH女史,飛び込み台からタッチを確認して私が飛び込ん
だ。今度もノーブレで手を回す。大歓声が水中の耳にもがんがん響いてくる。タッチ
!T女史が飛び込んだ!
 でも、リレーは一寸他チームとレベルが違いすぎた。先行の泳者に15秒離された
1分25秒で最下位、残念!
 控え室に戻っていると、100m背泳に出たH女史、なんと金メダルを手に戻って
きた。2分8秒で70~74歳でトップだった。大金星!
 女性組はレースが終ったが、Mさんの50m平は5時ごろ,私の50mバタは5時
半になる。プログラムを見ていたT女史が、「NOZUEさん、3人だから銅は確定
よ。うまく行けば銀かも?一人は申告タイムが45秒だから、この人が金。もう一人
が58秒だから、頑張れば銀かも」と言う。私の申告タイムは61秒。何たる幸運!
日本マスターズでメダルを取れるとは夢にも思ってなかった。
「もう帰る!」と後片付けを始めたT女史,「どうぞどうぞ」とメダリストの余裕
で、H女史とMさんはニコニコしている。「NOZUEさん、頑張りゃーよ!水温が
高いなんて言わずに」の言葉を残して帰っていった。
 さて、50mバタフライ。ほぼ予定の5時半頃だった。59秒44でフィニッシュ
した。やはり銅だった。2位が53秒で泳いでいたからいくら頑張っても銀は無理
だった。結果が出で、メダルを手にするまで、MさんもH女史も待っていてくれた。
メダルは「2005JAPAN MASTERS SWIMMING 
shortcourse」の文字がすっきりしたデザインで入っていた。
 帰りはMさんが、「車できているから送りましょう」と言う。H女史と小生、お言
葉に甘えて同乗させてもらった。Mさんもメダルを貰えてご機嫌だ。リレーは惨敗し
たが、チーム全体で、金1、銅2なら立派な成績! かくて、日本マスターズ水泳短
水路大会愛知会場を終了しました。
 

日本マスターズ

2005-05-26 | 水泳
 22日は小雨模様。10時、地下鉄亀島駅の改札口を出ようとすると,リュックを
背負った小太りの中年女性が駅員に声をかけていた。「ノリタケの森はどちら方向
?」、ああこの人も水泳大会、日本マスターズ短水路水泳大会は、ノリタケの森の
東、愛知女子商業のプールで、9時から始まっているはずだ。
 「水泳大会の方ですか?」と、私は声をかけた。
 「ええ、でも私、出番が遅いから、先にノリタケの森を見て来ようと思って」、は
じけるような笑顔を見せる。一緒に並んで歩き始める。
 「今朝,東京から新幹線できました。一泊して万博みて帰るつもりです。」
 「何を泳がれます?」、「バタフライ」
 「私もバッタの50m泳ぎます」。「私、50mも泳ぐ。」と言う。すぐ、ノリタ
ケの森の正門前に来た。「じゃ,後で」と別れた。
 会場の愛女商プールは超満員だった。プールサイドは勿論、控え室も更衣室も人,
人人。
 アップの練習をするプールもないので、「いきなり本番で飛び込むことになる」よ
うだ。リレーの仲間はどこにいるかな?「受付に30分前に集まろう。」と約束した
が、来てみると、2階の「チーム受付」と入口の「受付」がある。とりあえず、2階
に上がっていようと、二階受け付けに向かうと声をかけられた。バックのスペッシャ
リストのOさんだ。今日は200m自由形に挑戦。「もう終った!」と言う。「何分
で入った?」と聞くと「3分2秒」、さーすが!その後,着替えしてからもう一度2
階受け付けに上って待っていたら、朝の中年女性が来た。「もうノリタケ見てきたの
!」、立ち話「前島さんという名前を覚えた。平泳ぎ25mの始まるアナウンスが聞
こえたので、仲間のMさんが出るはずと地下のプールに下りた。
 泳ぎ終わったMさんが直ぐ上がってきた。話をしていると、T,Hの女性組もやっ
てきた。揃って召集所へ行き、確認を受けた。それにしても混雑がひどい。一寸油断
すると、人が間に入ってきて、チームの相棒を見失なっちゃう。「アッチアッチ、M
さんの後ついてって!」とT女史が背中を押す。スタートだ。Mさんと4コースの南
側へ回る。
 混合メドレー(260~279歳)スタートはバックのH女史、2番手は平のMさ
んがスタート台で待ち構える。飛び込んだ。今度は自分と台に上がる。バタフライの
T女史が腕を大きく回して近づく。タッチを目視確認し飛び込んだ。呼吸時間も省こ
うとノー・ブレッシングで腕を回す。フィニッシュ!タッチ板を叩いたら、ピーと次
の組の飛び込み台に乗る合図の笛。「ドベだったか!」。大混雑で予定が遅れている
ので,最終泳者のタッチを待ちかねるように、直ぐ次の組の笛を鳴らすのだ。(タイ
ムは1分38秒だった。)
 プールから上がって腕を見て「あれれ!」。腕時計がある!大混雑にオタオタして
いて時計をはずすのを忘れて泳いじゃった。審判も見落としたらしく何の注意もな
かった。「これだけ次から次では、審判が見落としても仕方ないか!」。時計は安物
に見えて(実際に安物だが)50m水圧に耐えるものだから壊われることはない!
 Mさんに案内してもらって二階のチームの控え室へ行く。T女史が朝早く良い場所
を確保してくれた。
 「昨日、東京に行っててね。帰りが夜の12時だったから、朝のアップに間に合わ
なかった」と言うと、Mさん「早く来ても一緒!僕は駐車場が開くのを待って入った
の。でも、プールは芋を洗うみたいでとても泳げなかった!」
「折角、全国から来てくれるのにどうしてもっと広いプールでやらんのだろう?レイ
ンボーの25mプール使えばいいのに!」と言ったらHさんも肯く。(続く)

リトルワールドへ、そして旅立ち

2005-05-26 | 素晴らしき仲間たち
リトルワールドへ

 「ジョンに外国の衣装を着せたら面白い」とリトルワールドへ行ってきました。

最初に中国です。身長は190cmのジョンの凛々しい事。娘も嫁も一緒に変装しました。
その後はイタリア。まるでスタッフの様に ピッタリです。笑顔が素晴らしいでしょう。

彼も上機嫌になり 孫とホークダンスを演じたり 歌を唄うしぐさをしたり 愉快でした。

それにしても嫁の英語はたいしたものでした。親切なガイドさんのようでした。
夕方には嫁達は東京へ帰りました。しばらくすると婿が仕事は早目に切りがついたので 参じてくれた。最後の夕食はブロンコビリーヘ行きステーキとした。「日本に来て何度目のステーキですか」の問いには・・・「初めてです」予算の関係上 朝はバナナ1本。昼はバナナ2本。夜はバナナ3本と言う日が何日もあった暮らしをしていて いつもハングリィ。 とてもステーキなど食べる余裕はなかったと喜んでくれました。

そして最終日には 家内の用事で名古屋へ行く予定があったので ジョンも一緒に行き 用事先の近くに住む病床の私の兄の家に突然寄りました。

彼のこれまでの人生で外人と直接話し合った事は 多分なかろうと思ったのです。またこの楽しさを少しお裾分けしようと思ったのです。ジョンがヒッチハイクした東北地方の話になり 東北には何度も行った事がある兄と意気投合して話し合いました。彼は英語・兄貴は日本語 それでも共通した話題だから結構通じました。兄貴とっては考えられない珍しい死に土産になった事でしょう。

ジョンの良さ

ジョンの父親は昨年がんで亡くなられたが 生前はケンブリッチ大学教授で 数年前京都に来た時 京都大学教授に大変お世話になった。数年後娘さんがイギリス留学された時 ジョンがなにかと面倒を見た。その縁で 京都を足がかりにして 昨年12月日本に来た。その時の日本は東京・大阪・広島など都会を見物した。今回はローカルの見物とした。


彼は詳しく説明してくれたが イギリスの学業のシステムを知らない私達には どうしても理解出来なかったが 簡単に言えば飛び級に合格して 1年早く高校を卒業して エンジョイしている。頭がとても柔らかくて 会話に包容力があり こちらの身になって聞いてくれて 会話をひろげてくれるのです。

こんなことがありました。私は69才である事は 伝えてあります。

私の自慢の水泳で 2年前65~69才の部で 800m自由型で 全日本2位になったと話すと すぐに「70才になる今年は チャンピオンだ。頑張れ」と持ち上げてくれる。
そんな風で 会話が楽しくて 皆と絶えず話し合った。

婿と嫁は 思う通り話せた事と思うが 意外にも娘も盛んに口出しをしていた。そのため家内と私は 隅に置かれてしまった。

家内の一番気にしたのは食事です。「何が好き」と問うと 「私は絶えず空腹だったので何でもOK」そして孫の顔を見て「ワタシハ ウメボシト ナットハ キライデス」と言ったのには 下呂の時を思い出し大笑いしました。

確かに何でも食べました。しかしどうしても口に合わないのだろう パクパク食べる事はなかった。その中で 玉ねぎだけは「美味しい」と。家内はサラダに炒め物に味噌汁に玉ねぎを多目に入れた。食後の果物に「バナナは如何」と問うと。「オーノー。もう食べ飽きた。見たくもない」と。リンゴはパクパクと食べました。結局彼の口にあったのは玉ねぎとリンゴだけでした。私の40日間アメリカ・ドイツへ行きましたが 口に合ったのはハンバーカーとリンゴだけでした。誰しも同じ様です。

犬山城に行った時 休憩しながらトコロ天を食べた。

私達は久し振りでしたので 美味しく食べましたが 酢を調味料としては使っているが 直接飲むことはない彼は進みません。

数年前テキサツからアメリカの姪の旦那が来た事がありました。彼は好きなものは好き。嫌いなものは一度も口もせず嫌いと はっきりしていたが ジョンは先の梅干・納豆でもトライした。 トコロ天も最後まで食べようようとするので 家内は「ストップOK」と声を掛けました。そのような姿勢が 女性にはたまらなく可愛く映った事でしょう。

夕食でイカと野菜の煮付けをしました。イカの胴の部分は問題がなかったが 足は見るだけでゴメンと言った。これだけは一口も食べなかった。

ジョンの旅行予算

ジョンの旅行予算はどれ程と尋ねた。(私が40日間のアメリカ旅行の時は百万でした)
すると驚く回答があった。たったの10万円と言うではありませんか。

ならば1日平均3千5百円弱。宿泊はユースホテル(2~3千円くらい)が主体であるが いつどこに着くか計画できない旅だから ユースホテルのある所に必ず着く訳ではない。また突然行っても空室がある訳でもない。時には通常の安ホテルに泊まる事もあったそうです。毎日の予算は殆ど宿泊料となりやむを得ず 朝はバナナ1本。昼はバナナ2本。夜はバナナ3本の生活を強要された。

小田原ではスーパー銭湯のオールナイトを1200円で泊まったと嬉しげに語っていました。

私は彼の行程は北海道が主体であって 最終には入国地の関空からロシアへ向かうと思っていたら出国地は新潟でした。北海道でゆっくりするつもりが まだ残雪があり 寒かったので早目に引き上げた。仙台から東京へ そして新潟へ向うには余裕があり過ぎ わざわざ我が家に 寄ってくれたと思います。3日間滞在して再び東京方面へ行き 新潟へ向うとの事。ヒッチハイクですので 東に行くのも 西へ行くのも 同じ感覚だったのです。

尚彼は5月1日新潟から飛行機でウラジオストクへ渡り 横断列車でサンクトベテブルグまで乗り放しだと8日間掛かりますが 途中3箇所に降り 1か月掛けてサンクトベテブルグへ行き 当地で英語の教師のアルバイトを2か月やって 8月にイギリスに戻るとの事です。

若さゆえ出来る事で 彼の話を眩しく聴きました。

4月1日に下呂で会った時 日本語はほんの僅かでしたが 今度会った時は「生ムギ生ゴメ生タマゴ」の早口が上手に言えるほかに 1月から12月までや 1から20まで 日曜日から土曜日までなど 上手に日本語が言えるように成長していました。漢字も読めるようになっていたのには 驚きでした。ただ 縦書きなのか 横書きなのか。横書きの場合 左から読むか 右から読むかその区別は出来なかったようです。

では最後に彼のクイズです。彼がおみくじを引いた時の事です。
おみくじを読んでから言いました「ヨシダイって何?」(終)

ジョンがやってきた

2005-05-26 | 素晴らしき仲間たち
                     
ヒッチハイク

彼を語るには これまでのヒッチハイクの状態から始めます

最初は京都の友人の家に寄り 2日目からヒッチハイクがスタートしました。名古屋に宿泊後 私達に下呂へ行く途中に会ったのです。その後は聞いた通り宿泊地を書き綴ります。

高山・富山・新潟・村上・秋田・青森・函館・札幌・小樽・ニセコ・函館・青森・弘前・仙台・白河・横浜・箱根・小田原そして可児にやって来たのです。

青函だけはJRを使いましたが あとは総てヒッチハイク。それだけ聞いた時「凄い」と驚きました。

新潟県の村上から山形県を通り秋田までと 小田原から可児間は 1台の車で移動しましたが それ以外は1日に5・6回乗り継ぎ 転々と進みました。

車を拾うには平均して15分程度でしたが 私の車の時は2時間半もかかった由。
箱根でも拾えなくて 湯本まで下り道を 重いリックを背負って4時間も歩いたと。
箱根では富士山が とても綺麗に見えたと喜んでいました。

車種はトラックが多かったようですが 村上→秋田間は幸運にも金色のオープンカーに乗りあわせました。英語を全く話せない人の時もあった。小田原→可児間の運転手は英語を話せないが 面白い人で1日中 日本語を色々教わり「生ムギ 生ゴメ 生タマゴ」を完全にマスターして 私達にきれいな日本語の早口で披露して爆笑させました。

日本語を随分話せるようになりました。字もよく覚えました。頭がすごくよい青年です。

女性のドライバーには 5回に1回くらいは巡り合えたようです。

時には若い女性2人とプリクラを撮って楽しんだようです。在る時には 女性の家で夕食も頂いた。民家に泊まったのは 我が家だけだそうですが 40歳くらいの女性から家に泊まったらと声を掛けられたが 丁重にお礼を言って辞退したそうです。

犬山城へ                             

婿は今万博関係で忙しくて休みが取れないが ぜひジョン君に会いたい。しかし夜10時頃しか帰えられない。そのため 着いた日は娘の家に泊まってもらった。私と家内は夕食後に家に帰ったが ジョンは昨日夜行便で可児へ来たので 眠いと言っていたが 婿の帰りを待った。英会話が出来る彼とは深夜2時まで話し合ったようです。

2日目の土曜日の昼頃には嫁と孫娘が わざわざ東京からやってきてくれました。家の嫁は一口で言うと「お祭り騒ぎが大好き」タイプですので 嫁がいると終日笑いに溢れます。勿論主の目的は家事の手伝いではありますが。それに彼女も英会話ができますので 大助かりです。

二人が着いて一服してから 犬山城へ案内しました。

犬山城は最古の木造城で 急な階段や 低い天井に興味持ちながら見物した。その後有楽苑を訪れました。当苑には国宝茶室がありますが 彼が最も興味を示したのは その茶室や美しい庭ではなく竹でした。

家内が東京育ちの孫娘は知らないであろうと 至るところで頭を出している竹の子を 説明をしていたら 彼が乗ってきました。イギリスには竹はない 生まれて初めて竹を見たと言うのです。

「この小さな竹の子が 聳え並ぶこの竹に瞬く間になる事は信じられない」と言うのです。
また この竹の根元から「かぐや姫が生まれた」・・・この話は全然信じられませんでした。


日本旅館のジョン

2005-05-26 | 素晴らしき仲間たち
彼は18才なので 酒を勧めてよいのか迷ったが コップにビールと もう一つのコップに日本酒を半分くらい入れて渡しました。すると私に「あなたはどちらが 好きですか」と尋ねられたので「酒」と言うと 彼も酒をビールのように一気に呑みました。美味しそうな顔をせずに「グー」と言ったので 皆で大笑いしました。

すぐに彼の頬は紅色になって来て娘は「可愛い」と言いました。
部屋の戻ると 部屋一杯にふとんの海には さすが彼もビックリ。 フトンに彼は飛び込みました。大の字になった背に 2人の孫は子供のように 馬乗りなってキャキャ言いながら戯れました。

そのあと トランプで遊びました。 大声で何度も笑い合い お蔭で楽しい一夜となりました。

私は6時に目が覚めた。昨夕の時 ジョンは「朝も入浴出来るか」と問うた。「イエス」と答えると「ナイス」と言ったので起きるのを待ったが ぐっすり眠り起きそうにないので 私ひとりで風呂に行く。

部屋は10畳2間なので 私達は静かに隣室で待った。8時ころにやっと起きた。私はもう行かないので「1人で風呂へどうぞ」と言うと嬉しそうに出て行った。日本の風呂には躊躇することなく 楽しんだようだ。

朝食もバイキングですが 時間が遅くなったので食堂は空いていた。

パンにサラダ等を彼は持って来た。上の子は梅干が大好きなので 皿に5・6粒のっていた。彼はそれは何かと問うと 一粒彼の皿に移し「とても美味しいよ」と日本語で言った。

その意味がわかったのであろう 半信半疑で口に入れて 一瞬おいて それこそ目から火が出る顔つきをした。私達は腹を抱えて笑った。

それではと 次に私は納豆を持ってきて彼に渡した。臭いを嗅いて「これはだめだ」とでも言ったと思ったから 私は取り戻し かき回して食べようとすると 「トライしてみます」と真剣な顔つきで申し出た。

そして皆が注目していると 一口食べたがやはり「ノー」と首を振ったが思いなおして 全部食べ終えて「ネバー」。私達の席は笑いに満ちた。

孫達は日本語を教えた「ワタシワ ウメボシト ナットウハ キライデス」と。

彼は真剣に2・3度復唱していました。「そう そう」と2人は満足そうでした。


朝には大事な仕事が残っています。それは高山へ乗せて行ってくれる人を探さなければなりません。食後早めに着替えて玄関へ行き 彼に「高山」のプレート持たせ出口に立たせました。私はフロントに近くに居たら 私の前を通る4人家族がいたので 「高山へ行かれますか」と聞くと「行く」と言う。訳を話したら 快くOKしてくれた。

早速彼に知らせると「サンキュー。ラッキー」と満面の笑顔だった。

その家族は夫婦と男女の子供。中学生と高校生と思う。何度も窓から手を振る彼の車を見送ってから私達は家路に就いた。あの家族の方が英語は上手に思えたし 車中では私達と同じような質問攻めに合い 楽しく話しながら行った事と思う。そして多分一緒に高山見物もするであろう。

私の住所もメールアドレスも知らせたが これより北海道へ行き ロシアを横断するので いつになるか知れないが いつか あるであろう便りを気長に楽しみに待つ事にします。 

さして面白くなかろうと思った旅行がジョンのお蔭で思いがけない楽しい旅行となりました。逆にジョンに感謝しています。最後は私がI’d like to see you again. 彼は Me too.でサヨナラしました。


爽やかだったジョン

数日たって思う事は 外人と会話が出来た事。その雰囲気になれば僅かな単語と日本語を織り交ぜても会話は出来た。自分が思った事が 気持ちよく通じた快感。通じると会話全体が 英語で話したように思えるのです。



英語は赤色ジョンです。 日本語は青色です。孫でも会話は出来ました。
「それ 何?」「ジスイズ うめぼし。一つどうぞ」
「これ う・め・ぼ・し?」「そうよ 美味しいよ」
「なんだか 変んな予感がする」「食べてみて」

「思い切って食べてみょう」「どうぞ」「わあ!」

中学1年と 小学5年の孫娘には またとない経験であったと思う。
それにしても私は 英語がすっかり錆付いてしまった。家内も私も朝食(ブレックファスト)の単語がどうしても 思い出せなかった。 またこんな機会があるかもしれないので翌日から早速 テレビの英会話を見 ラジオの英語レッスンを聴くようになりました。

彼は18才 さすが頭は柔らかい。すぐに覚えてしまう。そして日本の物にすごく好奇心を持っていた。テレビで巨人の野球をやっていた。バッターが高橋の時 「高橋」と字幕が出た。彼は高山と同じ「高」だから「タ・カ」と読んだ。私は次の字は「ハシ」と読むと説明すると 橋のハシか それとも箸のハシかと聞く。橋は車中で 箸は夕食の時に教えた。

梅干も納豆も日本酒も 何事も経験とばかり挑戦してくれて 笑いを私達にくれた。

礼儀もなかなか正しかった。宿泊料を取ってくれと なんども申し出があった。何度も言うので千円もらうかと 家内と決めたが娘はノーと言ったので家内が「プレゼント」と言うと日本式に頭を下げて「ありがとう」と。

(宿泊料1人9000円)

彼の住むところはイギリスの湖水地区に近いそうです。家内は「湖水地区に とても魅力を感じている」と言うと「ぜひ 来年おいでください。私が案内します。当地は寒いので夏季に来てください」と。これは一種の社交辞令とは思いますが 湖水地区が俄然身近に感じられます。一夜楽しかった事だけではなく 彼は夢まで与えてくれました。それよりも忘れかけていた英語を もう一度勉強したくなった再起心を与えてくれたのが 大きな収穫でした。



そして10日以上過ぎました。
「もう 北海道に着いているだろうか」
「道中 親切な人に会えただろうか」と
テレビに写る外人の青年を見るたびに
ジョンに思えて そんな会話をしていたら
「そちらへ行ってもよいか」とメールが入った。私達は即座に「おいで」と答えたが
ヒッチハイクのため 予定は立ちません。

次報へ

ヒッチハイク青年、ジョン

2005-05-25 | 素晴らしき仲間たち
 以下は水泳仲間のOさんからいただいたメール。ヒッチハイクの英国青年の物語です。

思いがけない旅行でした

 「春休みだから温泉でも行くか」と娘家族と 4月1日下呂温泉アルメリアホテルヘ行きましたが 中2と小6の孫娘は 多くの人と一緒の温泉には入らないと云う。 私にしても婿が仕事で参加出来なかったので男は私1人。 酒相手がなく家内と娘の顔色を伺いながら呑む酒は 満足が行くものではなく そして食後は何もすることもなくすぐ眠る。 

楽しさを期待出来ないもの足りなさを感ずる旅行ではあると言っても 久し振りの5人の家族旅行ですので「嬉しいな 嬉しいな」と合唱はしながら出発した。

車が走り出すと直ちに 娘は家内と小さな声で話し始めたが 孫と私達は早々と沈黙の世界となった。この先を思いやられる感じだった。



下呂温泉への中間点の白川町を走行中 「高山」と書いたプレートを示した外人のヒッチハイカーを私は見付けた。行き過ぎてから「乗せると面白い」と私が言うと 家内と娘は反対すると思うや「乗せよう」となりUターンした。

「途中の下呂まででもよいか」と日本的英語で問えば「プリーズ」答えた。
乗るやいなや 色々彼の身上調査が始まった。

名はジョン。イギリスの18才の青年。関西空港に着いて 初日は京都の友人の家に 昨日は名古屋に泊まり今日は3日目。関空からはすべてヒッチハイク。今日は名古屋を出発して小牧・可児で乗継ぎ白川町で約1時間立っていたと。

高校を卒業して1年間は旅などをして来年大学に入る由。

日本には1か月間滞在して 主な目的地の北海道へ行くため 京都・名古屋・高山・富山・新潟を経て北海道まで総てをヒッチで行く。そして関空の戻り ロシアのウラジオストクへ行き約1か月間で シベリア鉄道を途中下車しながらサントベテルブルグへ行くとの事。

書けば簡単ですが これだけ聞き出すまでには 全く日本語が通じない彼と 片言英語の家内と私の車中の会話は ものすごく苦労をしました。



私は英会話をやめて約2年 頭の中は錆び付いたレコード盤の様に なかなか動き出さない。知っている数少ない単語を必死に思い出していた。

家内も英会話を退会して約9か月 私達の会話は間違っても順調と言えるものではありませんでした。 二人で苦労に苦労を重ねた会話でした。ある程度すむとジョンが 「日本語を教えて下さい」と言ったのには助かった。River is Kawa in Japanese. (リバーは日本語でカワと言う)その内に指を差しながら「これは橋」「あれは山」と日本語がそのまま会話になったのです。こうなれば黙って見ていた孫娘も仲間に入ってきて 「これは手です」とか言っていた。ジョンが英語で「幾つですか」と尋ねると 「サーティーン」と「イレヴン」と夫々にも英語が出て来ました。「名前は」と聞かれれば 「アイアムウララ」とか「アイアムアンズ」と車内がワイワイと賑やかになってきた。しかし彼を下ろす場所に近づいて来ました。このまま別れ難い気持になりました。ふっと私にアィディアが浮かんだ。

「ジョンを一緒に泊めようか」すると 即時「そうしよう」と全員一致となった。
どうかと聞くと「ラッキーです」と。「雑魚寝でもいいか」「雑魚寝とはなんですか」
「日本の風呂に入った事はあるか」「NO」それでも一緒に泊まる事にしました

部屋に着くと 娘が辞書を借りてきて 話に熱が入りました。前述の彼の身の上調査の大部分はこの時に得たものです。おおよそ話し終えたら 孫が「私は空手をやっていた」と言うと「ぜひ見せて下さい」と。2人は忘れかけた空手を披露した。
左の写真は空手を披露後に撮ったものです。
楽しい雰囲気が出ているでしょう。


Do you know how to take the Japanese bath?

日本の風呂の入り方は知っていますか。

彼は日本の風呂に入いった事はないが 知識はあるかもしれないと思って尋ねてみた。やっぱり「NO」でした。浴場に入り私はまずスモールタオルで 下半身を隠す事を教え浴室に入った。そして浴槽の横にかがみ 桶で湯を汲み下半身を洗う事を率先実演した。彼は素直に従った。そして屋外の展望風呂に入った。一瞬「Hot!」と言ったが浅い湯船で長々と足を伸ばし気持よさそうでした。一望に眺められる下呂の街を見渡しながら「ベリーグー」そのあと体を洗った。彼も私の横で同じように洗った。初めての風呂だから なにかのハプニングを少し期待したが 指導者がよかったせいか 順調に部屋に戻った。



すると4人が多分質問の準備をして待ち構えていた。 その後も話は続いた。

娘が俄然ハッスルしだしました。「兄弟は?」彼は6人兄弟の末っ子で一番上が姉で あとは皆兄と。お父さんは昨年がんで亡くなった事も話した。母親は今58才そうだ。
私達も話しました。息子家族は東京に居ること。婿の仕事は週末には休みがないのこと。

アメリカに3人の姪と1人の甥がいて 何度もアメリカへ行ったことや 家族10人でハワイへ行った事も話しました。

夕食はバイキングでした。春休みなので子供連れで大満員。また得とく料金のせいか 美味しいものは見当たりません。彼は茶碗に盛ったご飯にピザのおかずで食べ出しました。

下の孫が「ジスイズテンプラ」と見せましたが 興味は示せなかった。
今度は上の孫が「ジスイズスシ」と言うと取りに行きました。そして「美味しい」と言った。箸使いはとても上手でした。(続く)


罪を憎んで人を憎まず

2005-05-19 | 経済と世相
 16日の国会審議で、「靖国問題」について問われた小泉首相は、次のように答え
ました。
「どの国でも、戦没者を追悼する気持ちを持っているはずだ。追悼の仕方を他国が干
渉すべきでない。『罪を憎んで人を憎まず』というのは中国の孔子の言葉だ。」
 何か違和感を感ずる発言です。どこがおかしいかな?と思っていたら,18日の朝
日、『罪を憎んで人を憎まず』は、被害者が加害者に使う言葉ですと、社説でたしなめてい
た。
 その点は置くとしても,尚,釈然としない。釈然としない理由をよく考えたら,
「罪」って何を言っているのか分からないからだと思い当たったのです。
 以前,小泉さんは「日本人には、死んでしまえば皆仏様という考えがある」と言っ
ていたと思います。日本人には通用する考えですが、外国人には通用しないのではな
いか、とその時思いました。『罪を憎んで人を憎まず』と言うなら、罪は何をさすの
か明確にして言わないと、外国人には通用しないと思い当たったのです。
 問題になっているのは、A級戦犯です。戦争犯罪といっても、彼らのどういう行為
が戦争犯罪なのかは明らかなのでしょうか?「東京裁判は戦勝者の報復裁判であっ
て、公正な審判をしたものではない」という方もいます。それなら、何故日本人は日
本人自身で、あの大戦争を起こして、日本人に塗炭の苦しみを与えた責任者はいるの
かいないのかを明確にしないのでしょうか?
 それとも心の底では、あの戦争は自衛の戦争で、悪いのは連合国、日本人に責任は
ない!と思っているのでしょうか?
 勿論、例えば原爆投下は当時の米国大統領の責任で、戦争犯罪は米国大統領にも問
うべきと考えますが,敗戦が明らかになっても、原爆投下に到るまで戦争を継続した
のは、日本の政治家に責任があります。
 およそ、あらゆる失敗には原因があり、失敗の再発を防止するためには、その原因
の究明が必要で,その究明過程で、戦争犯罪者がいるとすれば明らかになる。
 たとえば、文官としてただ一人A級戦犯にされた広田元首相がいる。彼は一体何を
したのか?2.26の後、首相に就任した広田は、内閣の陸海軍大臣を現役の軍人に
限ると定めた。これによって、以後軍が大臣を出さないとゴネルと、内閣が潰れるこ
とになり、軍の言うままの政治が行われることになった。だから、日本は戦争にのめ
りこんでいったと言う。
 この考えが正しいかどうかは知らないが、具体的にどのような行為が日本を戦争に
導いたかは,日本人自らが明らかにすべきで、東京裁判など、外国人に任せて平然と
している日本人、日本の首相は心ある外国人からみて、尊敬されないのでは?
 『罪を憎んで人を憎まず』に私が釈然としない理由です。

キーワードは人口減少

2005-05-13 | 経済と世相
<年金>
【昭和40年代、厚生省は「将来の経済成長はもっとも悲観的にみて0%とし、
利子率はもっとも悲観的に見て5.5%とする」という前提を立てて年金保険料
を算定したという。長期的に見れば,利子は経済成長の配分として支払われ
る。経済成長が0%では利子率が5.5%になる筈がないことは,経済学の問題と
言うより常識の問題である。 
 破綻が運命付けられた愚かな制度を作り,危機が現実化すると少子高齢化の
せいにするとは、先見性がないばかりか反省も識見もない政治家を持った国民
の不幸である。】
<経済と社会>
【戦後の日本経済は、企業の成長を基幹としてきた。終身雇用・年功序列・企
業別労組など種々の企業システムは、企業の成長の中で、より多くの資源を企
業内に留め、その資源を恒常的に投資に回した。政府も増加するGDPの枠内で
産業基盤整備に偏った投資を行い、企業のコストを社会全体で負担し,非関税
障壁の経済の閉鎖性によって企業を保護し,企業設備投資の膨張に貢献した。
 人口の増加が緩やかになり、高齢化率が10%を越え始めた1980年代後半か
ら、わが国の経済には縮小均衡圧力が働き始めた。・・・人口減少社会でよく
起こると言われている、経済の循環によるデフレ・スパイラルが起こっている
のかといえば、決してそうではない。これは、現在の経済社会システムによる
付加価値配分の誤りが起こした貯蓄投資アンバランスによる縮小均衡圧力に起
因している。
 戦後の社会経済システムでは、生産活動水準の上昇に見合った国民生活水準
の上昇がもたらされなかったのは事実だ・・・これは、積極的な投資の推進の
ために賃金と金利が低く抑制され、政府投資の拡大が財政負担を膨張させ,家
計に税負担を強いることになったためである・・・試算によると、家計購買力
に最も関係が深いのは賃金所得だが、その低下よりも、財産所得の低下と税負
担の上昇が著しい。例えば,74年を100としたとき、97年の家計財産所得の水
準は43に、税負担は150程度になっている。
 このような分析から、いままでの経済システムでは日本の経済は縮小均衡過
程に入ることが明らかである。しかし、これを打破することは十分に可能だ。
それは家計購買力を増加させるために、労働分配率を上げ,金利水準を上昇さ
せ、政府投資を縮小させることだ・・・金利水準を引き上げることは,当面の
企業活動にとっては大きな痛みを伴う。しかし、それはやがて消費水準を向上
させ,日本経済の牽引力になる。】
 一方従業員の側では【50歳以上の労働力が急速に増加し、25歳から34歳まで
の労働力が急減する2005年から2010年、給与体系の激変が余儀なくされる。い
わゆる終身雇用・年功序列賃金という、これまでの既得権の消失が、このとき
に起こる。一社懸命の時代は2010年までになくなる?】
<補足>世界人口が増え続けるか?生物種には自分達の個体数を調節する本能
が備わっていると思います。人間もその例外でない。子供が生まれて直ぐ死ぬ
場合は沢山産み,死ぬ人が少なくなれば産む数は少なくなる。経験的に言っ
て,一人当たり所得が増加するに従い,死亡率が低くなり長寿になる、それに
伴い少子になる。各国の現在の出生率をそのまま直線的に延長すれば人類は
100億にも200億にもなりますが、所得水準の向上を予測し、それに伴い出生率
が低下すると仮定すれば,そんな数にならない。七十数億で頭打ちと言う予測
は、政策研究大学院大学・高齢社会プロジェクトの予測です。
 いずれにせよ、「少子化」が悪ではなく、日本の社会システム(年金,医
療,企業,金融他)が人口減少を考えたシステムになっていないのが問題。景
気対策も人口減少を考えると、消費者に如何に金を使わせるかが、公共投資よ
り優先すべきと思うのですが・・・これからは「人口減少」をキーワードにシ
ステムの再設計が必要と思います。
 

続・人口減少社会

2005-05-13 | 読書
 「人口減少社会」を続けます。
<介護>
【高齢社会は入院患者や要介護者だらけの社会・・こんな認識が世の中には強
い。しかし、それは大きな誤解だ。大半の人は死ぬ直前まで元気に社会生活を
送り、ほんの僅かの入院期間で死にいたる。
 厚生省は2000年3月時点で既に,各種の高齢者施設や病院、さらには家庭で
介護されている人達より3割以上多い人が要介護者として申請するであろうと
予測し、保険料の設定と予算枠の獲得を行った。要介護者の数は270万人、介
護に要する額は4.1兆円程度である(と予測したが)天寿を全うしたといえる
平均寿命の80歳程度で死亡した人でも、半数以上の人は死亡の3ヶ月前まで
は、自立して生活していることが調査結果から出ており、現実には要介護の期
間は驚くほど短い。実際,厚生省の予測に反して、要介護者は2000年4月で240
万人にも達していない。】
 とあるのだが、介護保険の現実と比べ、どうであろうか?
<土地と金融>
【土建屋国家の終焉は、間違いなく次の30年間で起きる。
人口減少社会では、土地は資産にならない。土地は安くなり、流動化し,そし
て、利用して初めて資産価値が生まれる】(株式市場のゼネコン、銀行株の激動
はこれを先取り?)
<教育>
【小学校から大学まで、教育の基本は,必要最低限のことだけを教え、あとは
自分で必要なものを獲得する場とすべきである。理由は簡単である。IT革命と
いわれる情報ネットワーク・シシテムの登場は、教育にもっとも効果のある領
域だからだ。すでにいまでも、日本の大学だけでなく、スタンフォードやMIT
などの海外の授業を受講することができ、卒業できる時代である。このように
なると、もはや学校の教師というものの存在価値すら無くなってくる可能性も
ある。「TIME」2000年5月22日号に「次世代にはやる10の職業と無くなる10の
職業」というのがあったが、その無くなる方に「teacher」が入ってい
た。・・・これからの知識や学術や芸術の世界は、効率が問われるより,どう
やって自分を発見するかの方に重点が置かれるだろう。
 日本は戦後,終身雇用制を作り出し、会社から離れては何もできない男達の
世界が大きく拡がり過ぎた。・・・自分が食べるための仕事の他に、全く
別の自分を育てるシステムが、これからの人口減少社会で重要になる。
 IT革命という言葉が最近流行しているが・・・よく眺めれば、それは個人の
自由を基本に据えた、自由主義の究極の姿である。ここにも国とか国民とかの
発想はない。】
<医療>
 【老人医療費は、1983年に老人保健法が実施された時点では3.3兆円だったものが、
1996年にはほぼ10兆円と3倍に伸び、その費用の半分は他の健康保険からの拠出金でまか
なわれてきた・・・2025年にはこの老人医療費の部分は、このまま何ら医療費の値上げ
をしないでも21兆円と、2000年より8.3兆円の増額となり,65歳以下の人の医療費が2兆
円も少なくなるのと比べると際立った差が生ずる。
(だから結局の所,健康保険は国保も健保も現役世代を一本に統合,高齢者医療は現役
とほぼ同額を高齢者が負担し,残りは公費負担?という形になるのでは?)】

追伸:長くなってすみません。次回で終わりにします。

人口減少社会

2005-05-13 | 読書
 あらゆる経済予測の中で最も信頼できる予測は人口の予測で,従って21世紀
の社会の予測は人口の動向をベースに予測するのが確度が高い筈と,「ウェル
カム・人口減少社会」(文春新書、99年刊)という本を買ってきて読み始めました。す
ると、あるわあるわ,参考になるデータが一杯,以下にさわりを紹介します。
 【子供の出生数が少なくなるのは、高齢社会の結果であって原因ではな
い。・・・少子という言葉はある日突然登場したが、本来日本語にはない言葉
である。1992年版の国民生活白書が「少子社会の到来,その影響と対応」とい
う副題をつけ、大々的に取り上げているから,このあたりから使われ始めたの
だろう。・・・「少産・少子から起こる人口減少は文明国の基本理念であっ
て、その結果安定した成熟社会が生まれる」】
 補足すると,生物が個体数を増やすには子を沢山産む必要がある。子供の時
期にとくに弱くて他の生物に捕食される生物は,一回に産む子供の数が多い。
人間も、子供が死ぬのが当たり前の長い年月を経験している。生物界の法則と
して「たくさん産むのは子供が死ぬからである」と認知する必要がある。現代
は人の死亡率が低くなったので、たくさん子を産む必要がない時代なのであ
る。
 1950年までは平均寿命は50歳代で、60歳は人の寿命を越えた高齢であった。
長寿が達成された経緯を多変量解析手法を応用して分析すると,「医学医療の
進歩によって長寿が達成された」というのは眉唾とわかる。東大医学部の同窓
会である鉄門倶楽部の会員の生存率曲線を描くと、現在の日本人の生命表と全
く同じ,つまり医師ならば、「優れた医師の友人がいる」「いざという時直ぐ
に入院できる」などと想像されがちだが、そんなわずかな利権は寿命に全く影
響しない。】
【医療・医師の効用は、死神に取り憑かれた不運な人のもとに駆けつけて死神
と闘う、と言うとすばらしいが多くのばあいは死神と取引するか、なだめる、
ごまかす、という程度の実力】
【先進国で寿命が延びたのは貧困と無知の追放による】
 世界人口についていうと
【2000年に60億人を超えた人口はしばらく増加が続くが、出生数は次第に減少
を始める。実際には2033年に73億5000万人に達した人口は,2050年には70億を
割り込むと予測される。】(続く)