古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

マラソン選手の足

2011-05-31 | マラソン
 昨夜、10時からNHKテレビで「デイープ・ピープル」なる番組を放映していました。元女子マラソンの、有森裕子、千葉真子それに山下佐知子の3人の鼎談でした。ご覧になった方も見えると思いますが、面白い内容でしたので一部を紹介します。
足の話です。3人の足の形をクローズアップして見せてくれました。有森さんも千葉さんも、マラソン大会のゲストランナーで見えることが多いので、ご本人に直接会ったことはありますが、素足を見たことはありません。
まず、千葉さん。通常マラソン選手は足を酷使するので、(俗な言い方ですが)ゴツイ足をしています。ところが、彼女の足は丸みを帯びて実に女性らしい綺麗な足です。ただ、足裏のくぼみ(土踏まず)が高いので、やはりマラソン選手だな、と思いました。
有森さん。こういう足の形は初めて見ました。小指が実に長くて隣の薬指にめり込んでいるような形です。不思議な形です。
山下さん。ご本人は「外反母趾」みたいと笑っていましたが、親指のすぐ下(足首側)の部分の筋肉が外に張り出してコブみたいになっている。その結果、親指が外反母趾みたいに内側を向いているのです。多分これは着地の時、親指の下の部分の筋肉で路面を強く押すので、ここの筋肉が発達したのでしょう(この言い方をするなら有森さんの足は内反小趾で、小指が親指の方向に曲がっている)。
実は、小生の足は山下さんの足の形にそっくりです。

女子マラソンの選手はみな小柄な人が多い。でも足(足裏の面積)は大きいのですよ。足が大きいほうが、単位面積当たりの衝撃力は小さくなるから有利です。
だから、マラソンをやると足は大きくなる。47歳からジョギングを始めましたが、それまで25.5の靴を履いていましたが、今は26.5ぐらいでないと足が窮屈です。47歳から足が大きくなるのか?と思われるかもしれませんが、足の指が長くなるのです。それに、親指下のコブのせいか、4Eぐらいの幅広でないと履けない。

以上、マラソンと足の形についてですが、以下は余談です。

山下選手はバルセロナのオリンピックで、4位入賞でしたが、ゴールした直後、「有森さんが銀」と聞いて「良かった!」と、実にうれしそうな顔をしたことが、19年前のテレビで見て記憶に残っています。

石山寺・琵琶湖博物館・長浜城

2011-05-30 | 旅行
翌25日、6時前起きて外を見たら、同好の士が大勢いました。窓から見える近江大橋の歩道をジョギングする人が次々に走ってくる。「ここは絶好のジョギングコースなんだ」。
朝食の一階の和室からのぞかれるお庭は、「天の橋立を模したもの」とか。朝食の後は「珈琲をどうぞ」と隣の喫茶室でご馳走になる。
「ここは夜はバーになるんだ。カラオケセットもあるし」とJさん。
出発前に写真を撮ろうと玄関の前に立つと、昨日は気付かなかったのだが、玄関上部が船の前部の形を模している。
8時過ぎ宿を出て、すぐ近くという石山寺を訪れることにしました。瀬田川に沿って10分足らず、瀬田の唐橋。欄干が唐風ですが、さほど大きな橋ではない。「この橋が壬申の乱
で帰趨を決した戦いが行われた橋かな?」。橋を渡り左に行くと石山寺。その昔、紫式部が参篭し源氏物語の執筆をしたと伝えられるお寺で、西国13番札所とか。さほど大きな山ではないが、全山堂塔といった感じのお寺である。階段を登って観音様に参拝、隣に「紫式部の間」があった。蓮如堂があった。石山の名の由来である硅灰石を説明する看板がある。 帰りは近江大橋を通ってみるかと、瀬田川の右岸を走り、有料(¥150)の大橋を渡って湖岸道路に戻る。
 次は、昨夜旅館の女性が薦めていた琵琶湖博物館に寄ることにする。
博物館に上る坂道に番号順にクイズが掲示され、その答が次の番号の掲示板で問題下にあるのが面白い。「琵琶湖が洪水でもっとも水位が上がったのは何メートルか?」。答は「明治29年の洪水で4m」。
湖をテーマとする博物館としては日本最大で、ここの水族館は淡水魚を中心とし、琵琶湖の固有種はすべて見られるという。

 11時になったので、午後所要があるので帰るというHさんをJR守山駅まで送る。その後、長浜城に向かう。
 途中、昼食を済ませ、長浜城に着いたのは2時に近かった。
駐車場が満杯で、近くのグラウンドが駐車場に開放されていた。大河ドラマブームで、賑やかなのだ。グラウンドに車を置き豊公園(秀吉に因む名の公園があるのだ)を通り、お城へ。秀吉が最初に築き、山内一豊が城主であったこともある。
 もちろん元和元年に廃城になったから、再建(1983)のコンクリート作り。NHK大河ドラマに因み、「浅井三代と3姉妹展」をやっていた。
 天守閣に登り、琵琶湖の景観を眺めてからお城を辞去する。雑誌などで評判になっている黒壁スクエヤへ行ってみる。100円駐車場に車を置き、ガラス館を中心にレストランなどが並ぶ町並みを散策。平日なのに人通りが多い。「お江」ブームらしい。 散策を終えると3時半。「いい時間になったね」と帰ることにする。
 長浜ICから北陸道に上がり、米原から名神。一宮で名古屋高速を経て名古屋駅前には5時ちょっと前に着きました。


佐川美術館とびわこの宿

2011-05-29 | 旅行
5月24,25日、佐川美術館と石山寺の旅でした。
 24日朝、名古屋駅に9時半。浜松のSさんと落ち合い駐車場に向かう。小牧のJさんの車がまだ来ていない。Sさん、「ケイタイしたのですが、渋滞に巻き込まれて遅れてるよう」。まもなく、Jさんの車。直ぐスタート。Jさん「この駐車場、20分未満は無料です」。なので、名古屋駅で落ち合う時は、ここが待ち合わせ場所になる。
 名古屋高速に入り一宮から22号線、21号線を経て、西岐阜駅でHさんを拾う。
 メンバーが揃い、11時羽島ICから名神に乗る。養老で喫茶店に寄り、小休憩。昼食は多賀SA、栗東ICで高速を下りて湖岸道路に向かう。琵琶湖大橋手前の佐川美術館に着いたのは、午後2時だった。
 ここは8年前の秋、同じメンバーで訪れたことがある。佐川急便がスポンサーになって13年前開設された美術館だ。今回の目的は、平山郁夫画伯の作品展と、この3月30日、満99歳を目前に亡くなられた彫刻家佐藤忠良の「ブロンズの詩」展、それに8年前にはなかった楽吉左衛門館です。(入場チケット¥1000、入場者は駐車料金無料)
 http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/cgi-bin/index.cgi
「平山郁夫展 日本の美を描く」の膨大な作品群に圧倒されました。
http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/cgi-bin/news/detail.cgi?file_id=20110301_00000052
 続いて、佐藤忠良館。ここもたくさんの彫刻。解説の中の忠良さんの言葉が面白かった。。
氏はシベリヤに3年抑留されたそうだが、抑留中の苦労について「彫刻家になるための苦労に比べれば、あんなものはなんでもありません」
 下積みの苦労について、「売れるようになるまで50年はかかった」
 王選手の本塁打世界記録の記念塑像、「王さんと彫刻で勝負した」。
忠良さんについては、小生は「女優佐藤オリエさんの父君」としか認識がなかったが、かなりユニークな人生を歩まれた方のようだ。
 楽吉左衛門館は、水庭に埋設された地下展示室。改めて「本当に贅沢に作った美術館だ」と再認識した。
http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/cgi-bin/raku/index.html
 4時半まで見学、その後記念写真を撮影し、4時50分美術館を辞去、湖岸道路(別名さざなみ街道)を走って旅館に向かう。「この道路は本当に信号が少ないから、高速並みだね」。
「平山郁夫と佐藤忠良を組み合わせたセンスがすばらしい」、「プロデユーサーの設計がすばらしい」と、車内の会話でした。
 旅館は草津市新浜町。近江大橋の手前にあった。5時半着。大風呂に入浴後、6時から30分、Sさんの報告「遠州山辺の道」。Sさんは浜北区のボランテイヤで、区内の古遺跡と歴史を歩く「遠州山辺の道」の選定と歴史調査をされているそうだ。Sさんの住む浜北区根堅は、「本州で初めて年代が確認された旧石器人骨の出土地」だそうです(われわれのグループのこの旅行会、毎回、交替で発表会をやっています)。
6時半から夕食。ミニ会席、これがおいしかった。魚を中心にした会席料理だが、この店は、本店が丹後の天橋立近くにあり、「元祖日本一 船料理」というのが売りとのこと。本店はこの店の親父さんが経営しているが、創業者のお祖父さんは漁師だったそうだ。
時節柄、「地震や津波は大丈夫?」という話題になったが、「滋賀県は台風も地震も大丈夫よ」と給仕の女性が言う。
料理にすっかり満足して、「この旅館が今回最大のヒット」と、皆さんご満悦だったので、企画担当の小生、面目を施しました。インターネットで探した旅館で、価格も一泊2食¥10500ですからリーズナブル。「これは他人にも勧められる旅館だナ」と思いました。
2時間ほどで中締めにして部屋に引き上げました。廊下には部屋の前に、ぼんぼり風の部屋灯が灯され、和風旅館の風情を漂わせます。部屋でもブランデイを傾け、世相を論じました。(つづく)

時評:原発事故

2011-05-23 | 経済と世相

原発事故は「神の仕業」と、与謝野経済財政担当相が述べたそうです。フクシマ原発の津波対策に関しても「人間としては最高の知恵を働かせたと思っている」と、東電に事故の賠償責任を負わせるのは不当だとの考えを、記者会見で重ねて強調した。また、枝野官房長官が言及している金融機関の東電向け債権放棄問題について「電力事業のように堅実な公益性を持った事業に必要なお金を貸すことに、貸し手責任が発生することは理論上ありえない」と指摘。金融機関にも責任はないと明言した。
「人間としては最高の知恵を働かせた・・」というのは疑問です。もともと海抜35mの大地だった土地をわざわざ25mも掘り下げて原発を作るなんて、「最高の知恵」であるはずがない。
与謝野さんは原子力の専門家でないので間違った?しかし、与謝野さんが言いたかったのは、後段の「貸し手責任が発生することは理論上ありえない」でしょう。経済担当閣僚としては、金融機関に打撃を与えるような事態は容認できない!

以下、この問題についての私見です。
「貸し手責任」とは、貸出先企業が倒産したときに発生するものです。
貸出先が倒産すれば、貸した金が戻ってくるかどうかは、分からない。戻ってこなかったら、それが「貸し手責任」です。では、今回の場合、東電は倒産したのか?政府が一切手を出さず放置すれば、巨額の賠償金で、いかに優良企業の東電でも、いずれ倒産は明らかで、倒産すれば「貸し手責任」が発生することは明らかです。
税金で東電を救済すれば当然倒産しないから、銀行の「貸し手責任」はあいまいになり、結果として、巨額の税金投入が銀行を助けることになります。
こういうややこしい問題がでてきますから、一度倒産させてみれば、問題が明らかになります。政府の賠償支援策は、東電を倒産させないことを前提にしているようです。しかし・・
東電は今問題になっている補償問題の他に、今後10年~20年にわたって被爆による病気、白血病や甲状腺がんの患者から起こされる裁判に悩まされると思うのです。水俣病のチッソと同じ立場になります。
補償や裁判に誠実に対応しようとすると、資産はすべて売り払わねばなりません。
発電設備も送・配電網も売って会社を清算してしまう。つまり、関東地域の配電事業は、東電以外の会社が行う。先日、中部電力や東北電力に任せたらとメールしましたが、新しく資本を集めて新会社を設立することも可能です(この際、発電と送・配電事業を分離して、電力事業の自由化を図ることが出来れば、日本経済の今後にとって過を転じて福となすことになるのでは?)。
それくらい東電は追い込まれており、事故は深刻な状態だと思います。こうした企業を政府が救おうとすると、膨大な税金投入が必要です。
「原子力は国策で推進した。だから、事故で被害を受けた人には政府の援助が必要」と菅首相は言いますが、被害を受けた人に援助が必要なのは「国策」だからでなく、「国民」だからです。
そもそも「原子力は国策」だったのでしょうか?その前に、「国策」とは何でしょうか?私見では、国民投票で決めたことが「国策」だと思う。それ以外に、憲法の改定には国民投票が必要ですから、憲法に書かれたことは国策に準ずると見なしてよい。
「平成の開国」(TPP)とか、「原子力は国策」だとか、管さんは突然、言葉の意味を真剣に考えることなく、発言する傾向があります。

以上、最近の原発事故報道に憤懣やるかたなく、過激な論を展開してしまいました。

新聞に考えさせられる記事が二つ

2011-05-12 | 経済と世相
 中日新聞に考えさせられる記事が二つありました。一つは、5月5日の朝刊一面トップの「高台25m削り建設」という記事です。
 福島第一原発の立地場所が、40年以上前は海抜35mの大地だったことが、建設当時に東電が国に提出した資料で分かったという記事。【東電は、地盤の強度や原子炉を冷やす海水の取り入れやすさを考慮した結果、地表から25mも土を削って原発を建設した。】
 今回の震災で、東北電力の女川原発は、福島原発より震源に近かったにもかかわらず、大きな被害はなかった。土地の高さが14.8mあったために津波の被害を受けなかったからです。
 記事にはこうあります。【地震に対応する巨大な原子炉を建てるには、地表から25m下にある、比較的しっかりした泥岩層まで掘り下げることが必要と判断した。大量の冷却水を必要とする原発は、海面に近い方が、取水効率が良く、船で運搬される核燃料の荷揚げにも都合がいい】。元副社長は【「大地を削らず、建屋の基礎部分を深く埋めれば、地震と津波の両方の対策になった」と悔やむ】。
 要するにコストを考え、25mも地盤を低くして建設してしまった!ということです。

 もう一つに記事は、5月10日朝刊の『(ニュースの追跡)役所の矛盾、政府は強弁』。
【政府が、福島県内の学校などでの被ばく線量を年間20ミリシーベルト以下と定めた問題。内閣官房参与の小佐古東大大学院教授が辞任した。誰がどうこの基準を決めたのか】。
【文部科学省から原子力安全委員会(内閣府)に対し「福島県内などの校舎・校庭の利用判断の考え方について相談したい」と依頼があったのは先月9日。
相談を受けた5人の原子力安全委員らが何回か相談し、文科省にその都度口頭で議論の結果を伝えた。19日午後2時ごろ、この問題に最終的な責任を持つ政府の原子力災害対策本部が安全委に「助言要請」。4時ごろ、安全委から同本部に「20ミリシーベルト以下とすることは差し支えない」と文書で回答した。
 社民党の福島党首の求めに応じ、4月28日付けで原子力安全委員会事務局がメモを作成した。メモには安全委のメンバーから「年間20ミリシーベルトはあくまで出発点とすべきで、被ばくの低減に勤めることが必要」「内部被ばくを考慮することが必要」といった意見が出たとある。
 福島氏が同事務局に19日の委員の集合時間をたずねたら5人の安全委員のうち3人が集まったのは「助言」した1時間前の3時ごろ。遅れた委員と地方にいた委員へ電話連絡した後に「助言」した。・・・ 基準の「助言」にあたり、安全委は正式な委員会を招集せず、議事録も残していない。事務局は「『答申』を出す際は、正式に委員会で決定するので議事録を作成しなければならないが、口頭で行える「助言」は委員会を招集しなくても可能だ』。
 以下、「安全委員会にOKを貰った」(文科省)、「年間20ミリシーベルトの基準は認めていない」(安全委事務局)と話の食い違い。ばかばかしくなったので写すのはここまで。
 30日の衆院予算委員会で小里氏(自民党)が「通常時の一般人の基準は年間1ミリシーベルトだ」と引き下げを求めたが、高木文科相は「この方針で心配ない」。細野首相補佐官もTVで「政府の最終判断だ」。
 以下は私の見解ですが・・・
文科省の通達にどう書き込もうと、児童の被爆状況に何の影響もない。大事なことは、「どうやって児童の被爆を少しでも減少させるか」だ。郡山市などの一部の学校で始めているように、校庭の表土の削り取り(汚染土は東電に引き取りを要求すればよい)を文科省は指示すべきでないのか。
この新聞記事。日本のリーダー(エライ人)たちはどうなっているのか?心配です。

Mt・Fujiに向かって走る

2011-05-09 | マラソン
Mt・Fujiに向かって走る。以下、 第35回富士裾野高原マラソン大会参加の記です。

8日6:20の名古屋始発ひかりに乗車しました。7:14静岡に着き、20分ほど待って静岡始発のこだまに乗り換え、三島駅に8:06着。長い地下道を南口(在来線側)に抜け、改札口を出ると、富士急の大会会場行きの臨時バスが待っていました。乗り込むとほぼ満員でスタート。10分ほどで御殿場線の裾野駅。ここで大勢のランナーを拾って会場の裾野市陸上競技場には、8時45分に着きました。

 受付でゼッケン、選手名簿、Tシャツなど貰う。胸のゼッケンの裏にはリグと証する発信子が貼り付けてある。ゴールの絨毯を踏むと完走タイムがコンピュータに入るしかけです。背中のゼッケンは、通常は、ゼッケン番号とスポンサー企業名が書かれているが、今回は「東日本大震災復興支援 がんばろう日本」と大書し、下に小さくゼッケン番号。なるべく節約して余したお金は義捐金にするらしい。そのため、完走後のトン汁サービスなどもないようだ。

 競技場の観覧席に上り、席の裏側で着替えをした。9時には準備完了。医務室に医師と看護婦が閑そうな顔をしていたので覗いてみた。「血圧測ってくれない?」「どうぞ」「上が156ありますね。下はいいわ、83です。いつもどのくらい?」「150ぐらい、スタート前はいつも少し高くなります」。「どちらから?」「名古屋、朝一番の新幹線です」「名古屋からでも間に合うのですか」「名古屋から日帰りで出場できる一番遠いマラソン大会です」と雑談。「今日は水をしっかり取ってスタートしてください」と言う。実際、日差しが強くなった。リュックから、ウーロン茶の缶を1本取り出し。水分補給。開会式のアナウンスが流れる。大会のゲストランナーは、尾崎朱美さんだ。

 折角、富士まで行くのだから、富士山の麗姿をカメラに収めようとデジカメを持参したが、残念ながら山は雲に隠れている。

 選手名簿を見ていたら、60歳以上男子の出場者は145名、うち70歳以上が14名で、74歳の小生が最高齢だ。「今日は最高齢選手だ」とこの時思ったが、女子の部に76歳で出場のスーパー元気なおばあさんが二人もいた。「負けたなぁ、女子の70歳以上は珍しい」。

 10時、ハーフの部の1536名が一斉スタート。46秒でスタート線を踏む。246号線に出ると正面に富士山。雲が消えて美しい姿を現した。「すばらしい景色だ。日本のマラソンコース100選に選ばれるだけある」。しかし、延々と上り坂。富士山に向かうのだから当然だ。「ゴールはスタートに戻るのだから、上っただけ下りがある筈、上りはきつくても下りで楽が出来るはずだ」。5kmで220m上る。「石川県の宝達山マラソンでは550m駆け上がり駆け下りた。それに比べれば!」と思ったが、あれは10年も前。その頃と筋肉が全然違う。それに暑い!一昨日が立夏だから不思議でないが、夏のマラソンだ。

 5kmで時計を見ると、42分。1kmを8分もかかる。「これでは時速8kmだ」。5km過ぎると富士裾野の周回コース約6kmに入る。ここを2周する。

 直ぐに先導車が来た。「先頭の選手がきます。ランナーは左によってください」。先頭ランナーは6km先を走っていることになる。次々と先行ランナーが追い抜く。もたもたしている我々に「頑張ってください」と声をかけて追い抜いていくランナ-もいる。この周回コ-スも上がったり下ったりで、大変だ。周回コースの最後辺りに関東自動車東富士工場があった。

 それにしても遅かった。周回2度を終えた時(17kmあたり)、2時間10分。ずっと時速8kmで走っているようだ。「もう制限時間2時間半は無理だ」と思った。しかし、制限時間の関門が見当たらない。公表の制限は2時間半だが、制限時間を越えても最後まで走らせてくれるらしい。

 結局ゴールした時、2時間38分12秒。今まで200回以上ハーフを走っているが、2時間半を切れなかったのは初めて!暑さとコースの勾配を考慮しても筋力の衰えは明らかだ。同年輩のランニング仲間が次々とレースから引退していくのも、この筋力の衰えのためだろう。しかし、考えてみると、2時間半を越えても走り続ける体力はあったのだから、満足すべきかもしれない!

 リグを渡して完走証を受け取る。気温21度、湿度66%。男子60歳以上で118位とあった。まだ後ろが27名いたのだから大丈夫だと思うことにする。

 折角の富士山、ゴールしたときにはまた雲に隠れてしまった。

 帰りは1時15分のバスで、三島駅1:59のこだまに乗車した。4時15分帰宅しました。

駅ちかウオーキング

2011-05-06 | 旅行
 名古屋の地下鉄桜通り線が、3月27日、野並から徳重駅まで延長になりました。駅名で言うと、野並、鳴子北、相生山、神沢、徳重です。これを記念して、4月30日、「駅ちかウオーキング」のイベントが行われました。以下、その参加記です。ご笑覧ください。
 10時15分、野並駅に着くと、駅は黒山の人だかり。健康意識の高まりで、ウオーキングの人気は高いようです。3番出口で地図を受け取り歩き始めました。
 最初に『曹洞宗桂林寺』、次に『古鳴海八万社』。ここで知ったことですが、鳥居が2種類あることです。上から2番目の梁(正式名は貫(ぬき))が柱の外側まで伸びているタイプと柱までのタイプです。その両方がここにはあります。
 明治時代以前はここに神明社がありました。明治の神社合祀令によって1909(M42)年、ここから200メートルほど北西、現在の県営古鳴海住宅地にあった八幡社と神明社が合祀され、以来ここは古鳴海八幡社となったため、天照大御神と応神天皇ふたつの神さまを祀っています。
 鳴海といえば、往年の桶狭間合戦。今川軍が敗走した道の全域が戦場で、主戦場が特定できませんが、鳴海城跡の近いこの辺りも古戦場なのでしょう。

 南に歩くと伝治山交差点。ここに鳴海製陶があります。日本で一番最初に米国にディナーセットを輸出した会社だそうです。その傍に中日電子という会社があります。X線カメラや人工衛星用CCDカメラ、アミューズメント機器用のディスプレイなどを作る会社。この会社、元は放送局用の機器を作っていて、その名のとおり中部日本放送(CBC)の子会社だったのです。実はここがもうひとつの日本初の場所なのです。かつてCBCラジオの鳴海送信所がありました。1951(S26)年9月1日午前6時30分、CBCは日本で初めての民間放送として、ここから本放送の電波を発射しました。
交差点で左折。右側に新海池公園。新海池(にいのみいけ)は緑区内最大の池だそうです。
東へ歩き、滝の水公園南の交差点(ここまで3km)で左折、直ぐ公園の高い坂を上がります。坂の上は、名古屋一、夜景の美しいスポットとか。
名古屋薬学専門学校(昭和6~26年;現在の名古屋市立大学薬学部)の跡地です。 平成元年(1989年)開園ということですが、それまでは、昭和34年(1959年)に起こった伊勢湾台風のときに発生した古木、瓦、水に浸かった畳、 布団等あらゆるごみが集められていた場所だったそうです。そのゴミの山に土をかぶせ、芝を植えて造られたため、 現在のような山型の公園になったそうです。公園の北面角辺りには、ゴミから出るガスを抜くためのパイプが立っています。
(東日本大震災の瓦礫はどうするのでしょう。)
公園を下りると螺貝(ほらがい)公園。この辺りの地名は「篠の風」、優雅な名前です。直ぐ相生山の交差点。傍に地下鉄の駅です。相生山緑地も近くです。
この日は、その後、鳴海配水場を見て(配水場の見学では当初、飲料水の缶「名水」を配る予定でしたが、大震災で中止)、徳重駅まで7kmを歩いて解散でした。

1ドル50円時代(3)

2011-05-05 | 読書
第5章は、日本の通貨政策について。

1985年のプラザ合意。あの時が日本の通貨政策の大失敗の始まりであった。85年初には250円台だった円ドル相場は86年末160円、87年には120円台。円高不況を恐れる声が高く上がり、政府は対応に追われた。

財政面からは(この頃から既に財政再建が課題になっていた)政府が出来ることには限界があった。円高不況阻止の大役はもっぱら金融政策に課せられた。かくして日銀は、大幅な金融緩和に踏み切った。金融大緩和はマネーサプライの急膨張をもたらしバブルを生んだ。そのバブルが破綻して「失われた10年」がやってきた。

もし「失われた10年」がなければ、小泉純一郎という奇人政治家が出てきて、日本をさらに一段の混迷に追い込むこともなかっただろう。

筆者は「円高をひたすら脅威と受け止め、その不況効果を減殺することばかりに神経を集中した」ことが誤りで、円高のメリットを生かせる日本経済の構造転換に努力すべきだったという。

以下、第6章で、「政治に経済は変えられない」。政治はあくまで経済的変化に反応し、対応すべきもので、政治の都合で経済を振り回すと、後でしっぺ返しを受ける。基本姿勢としては、政治・安全保障上の考慮が経済を振り回すことは控えるのが得策と、「尖閣問題」などに言及する。

そして、これからの経済のキーワードは、「Think Local、Act Global」と、資本もヒトも「去る者は追わず来る者は拒まず」と説く。

第7章では、「行政のあり方」。それぞれの自治体が「Think Local、Act Global」。道州制について、「財政難からどう脱却するか」でなく、「地域主導をどう実現するか」の発想からスタートすべしと、と地域主権と経済との関係を述べる。

筆者は、英国のサッチャー政権について面白い指摘をしている。

イギリスでは1箇所だけ金融のバブルに乗って高く舞い上がったロンドン経済が、リーマン・ショック以来の金融危機で、一気に暗転してしまった。

サッチャー政権の末期から90年代の半ばぐらいまで、イギリスの製造業といえばその実態は概ね日本メーカーばかりという様相を呈していた。それはそれで上手に人のふんどしで相撲をとっていたわけだが、その間にイギリスの中小企業、あるいは衰えを見せていた大企業たちが技術的な力を上げて復活していったかというと、そうはならなかった。

イギリスにおける日本の製造業が割高なポンドによって価格競争力を失い、EUに新規加盟してきた東欧諸国などに生産拠点を移していくと、結局はまた空洞化時代に逆戻りだった。イギリスで一極集中が進み、地方が疲弊してしまったのは、サッチャーリズムが想定された以上に経済の集中化を進めてしまったためである。

第8章で、今後の政治。

「民主党政権発足時の鳩山前首相の初心表明演説はよく出来ていた(私も同感)。民主党政権は初心にもどるべきだ」と述べています。



追伸:この本は、大震災の前に刊行されました。大震災で、国力を弱めた日本が、1ドル50円を実現するとは思えなくなりました。そのことは、日本にとって不運なのか、あるいは幸運なのか。いずれにしても、興味深い著作でした。

1ドル50円時代(2)

2011-05-04 | 読書
 第3章では、日本の問題を論ずる。

 やせても枯れても日本は世界最大の債権国である。日本が持っているカネの流れ方がグローバル経済の行方を左右する。その意味で、日本円は<隠れ機軸通貨>である。

 円が<隠れ機軸通貨>的な力を持っていることを示したのが<円キャリートレード>でありリーマン・ショックである。リーマン・ショックに至るきっかけは世界的な金余り現象であり、この世界的カネ余りの発祥の地が日本であった。

 つまり、日本が90年代終りからリーマン・ショックに至るまで、10年を越える非常に長い期間ゼロ金利、あるいは量的緩和という政策を採り続けたことで、世界に低金利資金があふれ出ていくことになる。結局、これがリーマン・ショックをもたらした。

 日本のカネの流れが、悪さをすることで、世界中がこれだけ振り回されるのは、それだけ円の<隠れ機軸通貨>機能が高まっていることを示唆する。

 では円は<表機軸通貨>になるだろうか。それはないと筆者は述べる。私も同感です。なぜなら、<表機軸通貨>を有する国の金融政策は、世界経済のあり方を構想する構想力が要求される。それが、日本にあるとは、私には思えない。

 ドルの命運についてキャステイング・ボードを握っているのは、中東の湾岸諸国だ。

 ドルの資産を持ちすぎていて、その価値が下がると困るという点では、中東も中国も同様の立場にある(日本もそうだが、アメリカにとって日本は物言わぬ株主だ)。

仮に中東諸国や中国が1$=50円になるという見通しを共有した場合には、どのような行動をとるだろうか。彼らの逃げ足は案外早いかもしれない。ただし、その退避先は限られている。円なのか金なのか、それともユーロにも向かうだろうか。前述したようにユーロの先行きはあぶなっかしい。(最近の円高の背景にこれがあるのだ)。

 第4章では、中国について述べる。

 「中国はいまや世界の工場になった」という言い方が盛んにされるようになった。この言い方は正しくない。中国が自力で世界の工場になったのではない。世界が中国を工場にしているのである。世界中の企業が中国に投資し、中国を生産拠点にしている。工場がある場所は確かに中国だ。だが、その工場群を形成しているのは、多くは中国企業ではなくて、中国にやってきた世界の企業たちなのである。こうした状況(中国が世界の工場)が生まれるのも、グローバル時代ならではのことだ。

 かくて、どの国の通貨も基軸通貨たり得ない時代になると筆者は説く。機軸通貨と決済通貨は同義語として使われる場合があるが、本質的な意味では誤用だと思う。決済のための便宜的手段としての通貨と、通貨金融秩序の要としての通貨はやはり次元が異なる。前者がおのずと後者の役割を果たすとは限らない。ドルも円もユーロも元も、決済通貨としては、ワン・オブ・ゼムとして使われていくが、機軸通貨はない時代に向かっていく

1ドル50円時代(1)

2011-05-03 | 読書
『1ドル50円時代を生き抜く日本経済』(浜矩子著、朝日新聞出版、11年1月刊)という本を衝動買いしました。
 歴史的にみると、ドルは世界の基軸通貨の地位を去りつつあり、次にくる時代は機軸通貨なき時代だ、というのが筆者の世界経済観のようです。以下、さわりを紹介します。
 第2章で、ユーロとEUの議論が面白い。『ユーロはドル代替通貨ではなく、その足元と行く先の心もとなさで、むしろドル類似通貨だ』
 経済の成熟度や体力が異なる国々の間で通貨を一つにしてしまうとどうなるか。そのことを、リーマン・ショック後のユーロ圏が実に生々しく、われわれに示してくれた。
リーマン・ショクのような世界レベルの経済事件が発生すると、衝撃は国境を容易に越え相対的弱小国を直撃する。逆にヒト・モノ・カネは安全を求めて相対的強大国に逃げ込んでいく。そこで弱者救済負担が強き者にのしかかる。下手をすれば、強き者たちも救済疲れで共倒れ。これは単なる一過性の問題でなく内部構造上の問題で、こうした弱点を抱えるユーロは機軸通貨たり得ない。
 通貨が一つであれば、金融政策もまた一本化せざるを得ない。少なくともそれが従来の常識だった。だが、ユーロ圏で発生する諸問題を見ていると、どうもこの常識は考え直す必要があるかもしれない。ユーロ圏に好況国もあれば不況国もあるのに、それらが等しく一つの金融政策によって決定される一つの政策金利を受け入れなければならない。それぞれの国が、自国にとって最適の金融政策を採って景気をコントロールすることができないのである。金融政策の自由度を封印されたとなれば、国々の経済運営は財政政策に頼るしかない。このように、経済状態が異なる国々の間で通貨統合を実施することの問題性は実に奥が深い。
 ユーロの問題点をもう一つ。
 アイスランドは、ユーロ圏にもEUにも入っていない。しかし、EUとの間で市場の相互開放が進むと、実態的にはEU加盟同然の体制で、それを利用して、アイスランドは高金利政策をテコにEU諸国から資金を集め、金融立国型の高度成長を実現した。その結果、一人当たり国民所得のランキングで世界上位に名を連ねた。ところがリーマン・ショックで国内の大手金融機関が軒並み経営破たん。アイスランドは事実上の国家破産状態だ。
 アイスランドもさりながら、当面の問題はアイルランド(EUに加盟している)だ。アイルランドは、欧州単一市場化の伸展と外資導入の恩恵を受けて急成長を遂げた。法人税を12.5%ととびきり低くしてアメリカから大量の投資を呼び込んだ。90年代後半には、毎年10%前後の高度成長を記録した。かつての貧しい農業国が、2000年代半ば世界でもっとも豊かな国になったといわれた。それがリーマン・ショックで主要金融機関が軒並み経営破綻。いまや大手行はいずれも国家管理におかれ、それら金融機関の不良債権が想定以上に深刻で、政府が全額負担して処理するとなると10年度の財政赤字はGDPの30%を越え、銀行救済どころか政府そのものが倒れかねない。(続く)