古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

「派遣切り」を考えてみました

2009-01-31 | 経済と世相
 30日、TVをつけたら国会中継でした。「派遣切り」が問題になっています。そこで、以下に「派遣切り」を考えてみました。

 04年の労働者派遣法の改定(製造業に派遣を認めた)は、基本的に誤りだったと、私は考えています。

 なぜ、そう考えるか?

 そもそも経営というものは、固定費がゼロだったらいつでも利益が出る。しかし、固定費はゼロにできない。そこで、利益の出る会社にするため、固定費のあり方に知恵を絞るのが経営です。多くの会社では、固定費の中で最も大きい費用項目が人件費です。人件費を派遣にすることは、人件費を変動費にできることですから、経営は知恵を出さなくても利益が出せる。経営にとって有難い話です。ところが、派遣労働者の方は、人間扱いでなく、モノ扱いになります。そういう雇用を合法としたのが、04年の労働法改定だった。

 つまり、従来は、社員を採用する場合、正社員を採用するしかなかった(期間工・パートは別として)。ところが、派遣でも良いとなれば、当然、一部は派遣社員にする。その方が費用を変動費にできるから経営上有利になる。即ち、正社員として採用する人数を減らして派遣労働者を採用することになる。かくして今や非正社員が三分の一を占めるようになった。

 しかも、派遣社員には、雇用保険も、時には健康保険も適用しにくい状況になっているのに、製造業に派遣を認める際、セーフテイネットに、政治家はまったく配慮しなかった。

 更に言うと、派遣会社が派遣先企業から受け取る給料から天引きする手数料に制限がなかった。お金を借りる場合、利率の上限が法律で定められているのに、派遣社員の給料の天引き率(ピンハネ)には、何の制限もない。

 だから、現行の労働者派遣法という法律は、使用者と労働者との関係において、圧倒的に使用者側に有利な法律なのです。

 「市場」に任せれば、最適の資源配分が実現するというのが、経済学の新自由主義の主張でしたが、現在の不況に直面して「市場」に任せるだけでは、巧くいかないと、政府の介入を正当化する主張が息を吹き返しています。しかし、「市場」とは、参加者が「競争」することで、最適の資源配分を実現する場です。そして、「競争」は、ルールがなくては成り立たない。そのルールが、どの参加者にも公平なルールになっていなくては、そもそも競争が成立しない。「市場」の限界を論ずる前に、市場における「競争のルール」が妥当であったかどうか?を考える必要があると思うのです。

 結論として、私は、製造業には派遣を認めるべきでない。派遣法を04年以前の状態に戻すべきだと考えます。政府も派遣法の改定を考えているようですが、聞くところでは、日雇い派遣を禁止するというのですが、日雇い派遣を禁じられると、請負という名目(偽装請負いです)で、業者は抜け道を考えるだけです。それも来年の4月からと言うのです。即刻、派遣そのものを禁止すべきではないでしょうか。

 自民党の有力者は、「派遣を禁止したら雇用が減少する」と言っていました。しかし、派遣の実態は、雇用の名にふさわしいものではありません。

また「派遣を禁止したら、企業は海外に逃げ出す」という政治家がいます。これも誤りです。

 経済がグローバル化されれば、先進国では、労賃が安くなければ成立しない産業は、成り立たないのが当然です。そういう業種をやりたいなら、海外に行ってやってもらうしかない。国内では、人件費が高くても成立する事業をやるしかないのです。

 それも出来ないというのなら、経済のグローバル化そのものを進めてはいけない。

 そのことを全く考慮せず、「グローバル化は正義」とばかり、推進したのが「小泉構造改革」ではなかったでしょうか。

日本は現在一人当たりGDPが世界一位です

2009-01-23 | 経済と世相
「日本は現在一人当たりGDPが世界一位です」と言われたら驚きますか。

「一人当たりGDPがおECD加盟国で18位だから、日本は経済で一流国とはいえない」とついこの間、経済担当の女性国務大臣がいっていました。しかし、現時点での瞬間風速でいうと、日本が世界一らしい。

 一つは、円高の影響で1ドル90円で計算すると、という話。もう一つは、金融危機ショックです。日本が18位と言った時、日本の上を行っていた国々は、金融立国で、金融でじゃんじゃん稼いだ国々。それらが米国発の金融危機で、皆ぽしゃってしまったのです。かくて、ジャパン・アズ・ナンバーワンが復活したというのです。

 そんなことは、計算だけの話、とおっしゃるかもしれません。それはそうですが、計算だけでも世界一になれない国が大多数ですよ。

 もう一つ、日本は、OECD加盟国の中で米国に次ぎ、相対的貧困率が高いという話。

「等価可処分所得の中央値の半分の金額未満の所得しかない人口が全人口に占める比率」を「相対的貧困率」と定義しています。「等価可処分所得」とは、統計上、世帯全体の可処分所得を世帯の人数の平方根で割って算出するのだそうです。

 一人当たりGDPが世界一で、相対的貧困率が第二位(OECD)というデータの語るものは何か?

 すぐ分かるのは、一人当たりGDPは、為替相場でどのようにでもなるし、景気動向で外国が不況になれば外国のGDPは減少するから順位は変わってくる。それに対して、相対的貧困率は、外国の経済データは直接には関係しない。国内だけの経済状況で決まる。

 以下、私の推論です。

 日本政府の政策は、企業の輸出競争力の強化策には熱心であったが、個々の国民を豊かにする政策には熱心でなかった?

 為替を円安に維持すれば、輸出企業には有利です。しかし、国民生活の面から言うと、物価高になります。昨年来のガソリン価格のアップ・ダウンを見れば明らかです。

 従来は、円安基調を維持することに、政策の重点が置かれていた。円安で輸出企業が稼いで、日本のGDPを押し上げるという国家戦略を取ってきたのです。それにも関わらず、GDPは、はかばかしく増えず、一人当たりでは18位で、「日本は負け組」などと騒ぎ始めた。ところが、昨今、政府の意に反して、円高が進展した。輸出業界は大不況となったが、ドルで評価する日本のGDPは、ついに、一人当たりではトップになってしまった。

 別に、政府の政策が目指すような、輸出優先でなくても、GDP世界一の道はあるのだ。

一方、政府の政策が目指さなくては、貧困率の改善は不可能でした。米国に次ぐ国内の貧困ということは、日本政府の施策の失敗を如実に物語ります。


中谷先生の転向

2009-01-22 | 経済と世相
 中谷巌さんといえば、昔、一橋大学の教授であった時、ソニーの社外取締役に選任され、文部省から公務員が民間企業の役員を兼任できないといわれて、あっさり教授を辞任したエピソードが有名ですが、今「転向」が話題になっている。

 中日新聞の20日朝刊が、この話題を特集していました。

「転向」というのは、こうです。

 中谷さんは、小渕内閣で経済戦略会議のメンバー(議長代理)として、戦略的規制緩和、派遣の原則自由化、医療への競争原理の導入、所得税の最高税率引き下げを提言、小泉構造改革にも影響を与えました。竹中平蔵氏と並んで構造改革の急先鋒でした。

 ところが、昨年末刊行した「資本主義はなぜ自壊したのか」で、自ら“懺悔の書”として、過去の路線を否定したのだそうです。以下、中日から同氏の言。

【米国流の「小さな政府」を掲げる構造改革路線だけでは、日本人は幸せになれないと思うようになった。】

【日本は最近、急速に貧困層が増大しているし緊急医療を受けられない「救急難民」も増えている。格差拡大を助長し、日本人が大事に育ててきた社会的価値を破壊するような改革には賛成できなくなった。】

【若い私は、・・・規制をなくし、市場が機能すれば、豊かで幸福な社会が実現するという「新自由主義」を信じこんだ。】しかし・・・

【郵政改革は、郵便貯金が自動的に不要不急の公共事業に使われる財政投資制度にくさびを打ち込んだ点で画期的な意味を持つ。しかし、山村でお年寄りの心の拠りどころとなっている小さな郵便局を廃止することにどれだけ意味があるのか。誰のための改革か。】

【医療も福祉もコスト抑制や競争原理が優先され、高度成長を支えた人たちの尊厳を踏みにじる後期高齢者医療制度ができた。路頭に迷う人たちには冷たい「自己責任」という言葉が投げかけられる。人心がすさみ、無差別殺人なども目立つ・・日本の伝統であった「安心・安全」が脅かされる社会になった。】

【竹中氏は「問題なのは改革が不十分だから。改革を徹底し、グローバル資本主義が機能すれば問題は解決されていく」と主張しているが、。

 私はそう思わない。グローバル資本主義は本質的な欠陥を持つからだ。一つは世界経済を不安定化させることだ。・・・グローバル資本主義は、世界経済の活性化に寄与したが、世界を大不況に陥れた。】

【二つ目は格差拡大を生むことだ。・・ゴールドマン・サックスの従業員の平均年棒は7000万円に達したのに、米国では5千万人近くが健康保険に入れず医者にかかれない。日本でも信じられない速度で貧困層が増えている。】

【さらにグローバル資本主義は環境規制の緩やかな地域に投資を集中する傾向があるため、環境破壊が進む。】

 といった具合で、いわゆる「新自由主義の経済理論」を徹底的に否定している。

しかし、中谷先生、気がつくのが遅すぎたのではないですか!

それにしても、正しいかどうかまだ分かっていない経済理論を基にして、経済戦略とやらを決めてしまって、「改革」、「改革」と称して一国の社会をめちゃくちゃにした責任は、誰が取るのでしょうか?

九州の旅(3)

2009-01-20 | マラソン
 ゴールすると、くじ引きがある。北海道千歳マラソンの招待券が当るというのだが、残念ながら「はずれ」。

ぜんざいをご馳走になる。豚汁も頂こうと行くと、「売り切れです」。

バスに戻ると、少し前にゴールした女性のIさんが着替えを済まし、「豚汁ご馳走になってくるわ」。「売り切れだったよ」と言うと、「そうなの。でも何か食べてくるわ」。

しばらくして戻ってきたIさん。私の分まで豚汁を抱えている。「また豚汁、始まったから、貴方の分も貰ってきたわ」。

帰りの船は2時15分の高速船。芦辺港までバスで送ってもらう。

乗船券を購入し、土産を物色した後、椅子に腰掛けていたら、民宿で同宿した男性が「貴方の写真をもらってきたよ」と、マラソンランナーを写した大判の写真(30センチ×20センチ)を持ってきてくれた。

「もう出来てるの!」と、見ると確かに私が写っている。しかし、ゼッケンが今年は351番なのに354番だ?

 これは、一昨年の写真だ。しかし、シャツも短パンも靴も今年と同じで、すぐ私と分かる。

「(港の前の)ダイエイ壱岐店で土産を物色していたら壱岐マラソンの写真展示をやっていたの。

 写っている人に差し上げるというので、貰ってきた」ということだった。
 
写真は、さすがにプロの写したものは違いますね。顔をゆがめて(笑)必死に前のランナーに追いすがる小生に、ピントがあっている。

 この写真は第二のハプニングでした。

 船はジェットフォイルという船体が水上に浮かんで走る高速艇で、ゆれも少なく船酔いはありませんでした。

 1時間ほどで博多港。バスで博多駅。3時52分の新幹線に乗車しました。

 来た電車に乗る主義ですので「こだま」に乗ってしまいました。おかげで新幹線に厚狭(あさ)という駅があることを知りました。徳山でひかりレールスター(新大阪行き)に乗り換え。姫路で後から来たひかり東京行きに乗り換え。

 名古屋駅には8時半ごろでした。

以上、三日間の九州の旅でした。

九州の旅(2)

2009-01-19 | マラソン
 乗船後、読みかけの文庫本を取り出して読んでいました。30分ぐらいしたら、どうも様子がおかしくなった。気分が悪くなったのです。

船酔いだ!しまった、やってしまった。

 船に限らず、バスでも、よく揺れる乗り物の中で本を読むと気分が悪くなるのです。眼球が、揺れる活字を追っていると、乗り物酔いする。
 風もないし、雪も止んで青空が出始めていた。ゆれはたいしたことない、と玄界灘を甘くみていました。

 外を見ると、船の上下動がかなり激しい。寝転がって我慢していましたが、到着10分程前に、我慢できず洗面所に走り、戻してしまいました。

 第一のハプニングでした。

港には、民宿のおかみさんが迎えに来ていました。

「ウチは、マラソンの折り返し点の近く。左京鼻の近くです」と女将さん。

「そうですか。会場とかなり離れてますね。明朝。会場まで大変でナ。」

「ウチのバスでお送りしますから大丈夫ですよ」と言う。

 午後、民宿周辺を散策。近くに「はらほげ地蔵」という海浜に建つ六地蔵がありました。景色は抜群。

http://www.ajkj.jp/ajkj/nagasaki/iki/kanko/harahogejizou/harahogejizou.html

 夕食には14~15人のランナーが顔を合わせました。寒ブリのお刺身と,うに飯が美味しかった。



 11日8時、バスでマラソン会場のふれあい広場に。

バスは、そのまま駐車場に置いておいてくれたので更衣室に利用できた。しかし、9時過ぎに雪が舞い始めた。今日は寒いレースになりそう。

 10時、最初にハーフのおよそ400名がスタートした。前半は弘安の役の古戦場、箱崎方面を回ってスタート地点のふれあい広場下に戻る10km、後半は広場を横に見て、半島を目指し、左京鼻で折り返す11km。何度も走っているので、コースは熟知している。

 スタートして5km過ぎたところで急坂にさしかかる。この急坂を駆け上るスタミナがあれば、タイムは別として完走は確実だ。

 なんとか、その5km地点の急坂をこなせた。7km前で、20分後にスタートした10kmの先頭走者に抜かれてしまった。

 10km地点の給水場にくると、「頑張ってエ」と声をかける女性がいる。民宿の女将さん。大会のボランテイアもやっているようだ。

 腕のストップウオッチを見ると、1時間5分を示している。

 10kmを1時間5分だと、20kmは2時間10分、ゴールは2時間17分だ。かなりゆっくりのペース。ことさらゆっくり走っているつもりはないのだが、寒さで筋肉が固くなってスピードが出せないのか?

 後半は、玄界灘を左に見て海岸を走る。半島の付け根で、応援していたおじさんが「尊敬してます」と声をかけて呉れる。このおじさん、前に来たときも「尊敬します」とやってくれたが、今年は声が小さい。歳を取ったのかな?

「勝丸民宿」の看板が見えた。15kmを過ぎて、左京鼻を折り返す。帰りは風の寒さが身にしみた。ゴールは2時間18分12秒でした。

一昨年は2時間8分だった(昨年は欠場)から、天候の所為はあるが、加齢によるスピードダウンは否定できない。(続く)

九州の旅(1)

2009-01-18 | マラソン
 9日7時、名古屋駅始発のひかりに乗車しました。恒例の壱岐新春マラソン(11日)を走る旅です。博多には11時7分着、直ちに長崎本線の特急かもめに乗り換え、1時過ぎに長崎駅に着きました。2年ぶりの長崎です。旧友を訪ねて、駅前の彼のオフィスを訪れました。

 彼が、三菱造船所の史料館を案内してくれました。

http://www.mhi.co.jp/nsmw/introduction/history/archive/
 
昭和60年に開設された博物館ですが、一般に開放されるようになったのは、最近のようです。

 赤レンガの建物は明治31年、鋳物工場の木型工場として建設されたそうですが、驚くのは、この建物が原爆投下の衝撃に耐えたことです。手積みのレンガ建てというのは意外と強いものですね。造船所内に現存する建物で最古と言う。

 日本最古の工作機械や船の蒸気機関が展示されています。当所で製造された船の写真が、括弧付きで何号艦(船の当所で製作された順番らしい)と表示され掲示されている。戦艦武蔵も長崎造船所製なのですネ。

 1時間見学した後、長崎造船所のドックや工場を車で案内してくれましたが、まるで長崎の町が造船所の中にあるみたいに錯覚させるほど、広大な敷地です。

「全部、岩崎弥太郎さんが人脈を活かして払い下げてもらった土地かな」

「一部、埋め立てで広げた土地もあります」と、彼が言う。風力発電の専用工場もありました。環境やエネルギーにビジネスチャンスを見つけようとしているのは、どこの会社も同じようです。

「長崎の夜景を見たい」と小生が希望。駅ビルの居酒屋で夕食後、大師匠に別れ、8時過ぎ駅前のホテルに投宿しました。すっかり酔ってしまい、部屋に入るなり、風呂にも入らず寝てしまった次第です。 

 10日は、6時半起床。ホテルのヴァイキングで朝食。7時半の“かもめ”に乗り、昨夜の雪で、屋根がまだら模様の家々を車窓に眺めながら、博多に戻りました。博多駅からタクシーで港へ。10時のフェリーに乗船しました。

 今年は例年と違うことが船便に二つありました。

 昨年の原油の暴騰で、乗船料金にサーチャージ(3ヶ月毎に設定される)が課され、約1000円高です。フェリーの本数も一本減らされました。いつもは午後2時頃に芦辺港行きのフェリーがあったのですが、それがなくなった。それで10時の郷ノ浦行きのフェリーです。マラソンは芦辺町で行われるので、芦辺と反対側の郷ノ浦は都合が良くない。止むを得ないと、民宿に電話して郷ノ浦まで迎えに来てもらうことにしました。
 
 実は、民宿も変えました。毎年、大平荘という民宿に泊まりました。ご主人の大平さんという人と気が合って、彼と語り合うのも、壱岐マラソンの楽しみだったのです。

 今年も大平荘に泊まろうと電話しましたが「この番号は現在使われていません。番号をご確認ください」とテープが回っている。役場(大会事務局)に電話したら「大平荘さんは、ご主人が亡くなられて廃業されました」と言う。「えっ」と、言葉もありませんでした。私より二つ三つ年上でした・・・(道理で年賀状がこなかった)

 仕方ないから、別の民宿を紹介してもらい決めたのが、「勝丸民宿」です。(続く)



長兄の葬儀

2009-01-17 | 素晴らしき仲間たち
兄が11日なくなりました。以下、13日に行われた葬儀です。

新城市鳳来の「JAやすらぎほーる」で行われました。

 農協がこういう葬祭事業に進出していることをはじめて知りました。立派な式場です。こんな大きな会場で、来場者が少なすぎて格好がつかないのでは、と心配しましたが、故人の子どもの勤め先から大勢の人が来てくれました。

 10時の開式前、ロビーに立っていたら、弔問客の一人が寄ってきて、話しかけられました。

「失礼ですが、Mさん(長兄)とどのようなご関係でしょうか?」
「弟です。Mは長男で私が三男です」
「そうなんですか!Mさんとお顔立ちがそっくりなので・・・」

葬儀は11時に終わり、車で30分、町の焼き場に。骨を拾った後、お寺で和尚さんの読経と説法を聞きました。

父と母の葬儀の時も導師をして頂いた和尚さんで、とても聞かせるお説法でした。

こんな具合です。

「通夜は、故人の良かったこと悪かったことを思い起こします。」

「誰でも人である以上、良い点もあれば悪い点もある。昨日もMさんの話を耳にしました。“制限速度40kmの道路を走ると、Mさんは絶対に40km以上は出さない。ついて行く時、ついイライラしてしまう”といっていました。あ、これは悪い点ではなかったですナ、たとえが悪かった!ある意味で融通が利かないけれど、曲がったことは絶対にしない。その意味で、町内の名士でしたネ。」

葬儀の最後に故人の長男が遺族を代表しての挨拶「不器用でしたが、人をだましたり他人の足を引っ張るということは絶対にしなかった78年間の父の生き方を誇りに思います」を思いだしました。(自分が死んだら、息子は私についてなんというだろうか?)

「49日は追善供養の期間です。故人のために善行を追加する。善行とは、それぞれの人が自分にできる善行を行えばいいのです。」
ここで、故人の孫を指差す。
「ボクは何年生かな?」
「中二です」
「中学二年生か、キミの得意な学科は何かな?」
「数学です」
「数学!それは良い。ご尊家の家系は、理数系に強い人が出るようですナ」と持ち上げておき、

「オジイサンはキミをかわいがってくれたナ」
孫はコックリ肯く。

「キミは49日間、数学の応用問題を一日一問余分に勉強する。それがキミにできる善行だ。そうすると、オジイサンは極楽にいくことができるのだよ」と諭す。

檀家の家族の一人一人を知っている和尚さんの説法でした。

「大府駅まで送りましょう」という次兄の息子の言葉に甘え、連れ合いと一緒に次兄一家の車に同乗して帰途につきました。

車の中で、次兄が「あと何年生きられるかなア」とポツリといいました。人は必ずいつかは死んで、骨を拾われる。人生の無常を思わせられる一日でした。