古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

寺島さんが語る3.11後

2011-08-29 | 読書
 以下、寺島実郎著『世界を知る力】(PHP新書)の飲酒に残った論点二つです。
3.11の衝撃の中で、じっと日本人の魂の機軸を見つめてみると、絶対他力という思想の親鸞を通してさえ見えてきたのが、「自力自尊」という価値の大切さである。以下、二つの面から述べる。

最初に「脱原発」について考えてほしいことがある。
IAEA(国際原子力機関)で「世界の核査察予算の3割は日本で使われている」と聞かされて、意表をつかれた記憶がある。核査察といえば、最近ではイラク、北朝鮮、そしてイランといった、米国が「ならず者国家」呼ばわりする国に対して行うような印象があるが、そうではない。核保有国ではないが、原子力に関する基盤技術があり、核兵器への転用が容易であると思われる国こそ、核査察が必要で、その代表格は日本である。
6ケ所村の核燃料再処理工場にはIAEAの専門家が3人常駐しているし、日本中の原発には、「ブルーシール」が貼られた、日本人が触れてはならない監視カメラが24時間稼動している。世界は日本の核武装を疑っているのである。
つまり、原発の技術は原爆の技術に通ずる。原発を持つ国は直ぐ原爆を作れるのだ。日本は原爆を作ろうとすれば作れる国と、世界から見なされている。
その日本が原発を止めるということは、唯一核の技術を持ちながら核兵器を持たない国が、核の技術から離脱することを意味する。核兵器を持つ国々にのみ、核の技術が所有されることはのぞましいことだろうか?

次に日米関係である。
3.11後の「トモダチ作戦」で1.5万人の兵士を送り込んで救援活動に当った米軍への感謝の気持ちで日米関係は良好になったという。震災後の日本に対し多くの米国人が優しさと思いやりに満ちた同情と激励の言葉をかけてくる。
しかし、ペリーの来航以来160年の日米関係を深く考察すると、米国の表情の背後に「抑圧的寛容」とでもいうべき本音が横たわっていることに気付く。
打ちひしがれて失意の中にある者への米国人の寛容さと思いやりは感動的ですらある。ところが力をつけ自分を凌駕するかも知れない存在に対しては、底知れない猜疑心と嫉妬心に燃え、なんとかして抑圧しようとする意識が燃え盛るのも米国の性格である。
もし、幕末の志士が今日の時代にタイムスリップしたなら、彼らは何を思うか?
 65年前の敗戦という事実はともかく、同盟の名の下に外国の軍隊がこの国に半世紀以上も駐留している現実を知って驚くに違いない。
「なぜ外国の軍隊が駐留しているのだ!しかも65年間もの長きにわたって。なぜ、そんなことを許しているのだ!日本人は独立心さえ失ったのか!」
 世界を見渡したとき、敗戦から65年間も経つというのに戦勝国の駐留を認め、根本的な基地の地位協定すら改定しようとしない国は、独立国とはいえない。それが世界の常識だからである。
 3.11からの復興や創生に向けて、日本人としての思考を再起動させるものを問い詰めていくと、戦後日本がいつの間にか見失ったものに気付かされる。それを主体的に筋道をつけて取り戻さないかぎり、日本の未来は拓けないと思われるのである。その象徴的課題が、ほぼ占領軍のステータスを維持したままの米軍基地の存在であり、冷戦が終わって20年が経過し、世界が大きく変化しているにもかかわらず、依然として米国への過剰依存と期待で、この国の安全保障を確保していこうという巨大な虚構が存在し続けている。
 
5月4日、朝日新聞が「米軍グアム移転費水増し日本の負担軽減装う流出公電」というスクープ記事を報じた。わたしは、報じている中身よりも、「約25万点の米外交公電を入手した内部告発サイト『ウィキリークス』から、朝日新聞が日本関係の公電約7000点の提供を受け、分析する過程で判明した」といった事実に強く反応した。日本の外交官や防衛官僚のなかには、自国の「自立自尊」などは二の次と考える人が、かくも多く存在するということを物語っているからだ。(お暇がありましたら、図書館などで、5月4日の朝日を見てください)

ウィキリークスが暴き出したのは、この巨大な虚構の構図が憶測でなく、否定しがたい事実だということだ。清朝末期の亡国官僚にとって「大英帝国」がすべての秩序の機軸であったごとく多くのエリート防衛、外務官僚にとって「米国のいままでどおりの駐留」は自明であり、そのために自国の利益を失うことに罪の意識などないのだ。

政権交代後の民主党政権の罪深さは、世界がどう変化しようが、「結局、日米同盟は今までのままでいい」として、現状の見直しと変更を放棄したことである。

親鸞の言葉

2011-08-25 | 読書
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

 有名な親鸞の言葉ですが、この言葉の意味をどう解釈するか。
それを知るためには、「善人」と「悪人」を定義しなければならない。
 定義すると言っても、親鸞上人はこの世にいませんから、
その定義が正しいかどうかを親鸞さんに聞いて確認することはできません。
 つまり、仮説としての、善人、悪人の定義です。
 仮説が正しいかどうかは、自然科学なら実験で確認すればいいのですが、
歴史などでは実験できません。そういう場合、どうやって正否を知ることが出来るか?
 問題または事象をもっとも簡単に説明できる仮説を正しいとみるべきだと、私は考えます。
 その善人、悪人の定義、なるほどと思う定義に遇いました。
今読んでいる寺島実朗さんの『世界を知る力』という本です。
 同書から、親鸞に関する部分を紹介します。

寺島実郎さんが3.11後を語る『世界を知る 日本創生編』(PHP新書9月新刊)を読んでいます。面白いと思ったのは「親鸞」から語り始めていることです。
 【「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
 有名な言葉ですが、寺島さんの解釈によると、「善人」とは、善行を積み上げ社会的にも認められた人、あるいは、生まれながらにして高い身分の人びと。対して「悪人」とは、いまでいう犯罪者的な意味合いとはいささか違って、煩悩から脱却できない存在、あるいは下賎な身分に産まれてきた人びとを指す。彼らは、その時代、前世に犯した罪のせいで、因果応報により仏から見放された存在と見なされていたのである。
 つまり、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とは、ナミアミダブツを唱ずれば悪人も善人も浄土に往生するという絶対平等主義を意味するというのだ。
 浄土教そのものは日本オリジナルのものではない。世親というインドの高僧が原始的なことを考えた(4~5世紀)ようだ。「浄土論」は中国へと伝わり、北魏の僧であった曇鸞(どんらん)が中国浄土教として体系化し、他力の信心による浄土往生という概念が明確化されたという。親鸞という名は、世親と曇鸞に由来する。
 ユーラシヤの視界のなかで親鸞を眺めると――浄土教における慈悲慈愛とキリスト教における愛は違うが――親鸞の唱えた絶対平等主義という考え方が、キリスト教と共鳴しているように思えてならない。】
もう一つ。「他力本願」について、寺島さんはこう言う。
【親鸞は類稀なる独立自尊の人だったからこそ絶対他力という思想の実践者になりえた。
「他力本願」というと、一般には、「あなたまかせ」「他人まかせ」という意味で使われることが多い。
鈴木大拙は『真宗入門』のなかで、こう語る。
『彼岸にいるアミダはそこへ来るように招いているのでしょうが、われわれは自分のなし得ることすべてをしてしまうまで、アミダに会うことはできません。自力は実際に河を渡るに必要なものではありません。しかし、アミダはわれわれが自力の無効であることを悟るまで救いの手を差し伸べないでしょう。』
自力は他力に促され、他力は自力を待って働きを見せる。危機のときこそ、他力と自力は共鳴する】というのです。
津波災害と原発事故の惨状の克服には、親鸞の思想に思いをいたす必要があると、寺島さんは言う。

詩人茨木のり子の肖像

2011-08-22 | 読書

詩人茨木のり子をご存知ですか。
『倚りかからず』という詩があります。
もはや
できあいの思想に倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教に倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問に倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合なことやある

倚りかかるとすれば
それは椅子のせもたれだけ

1999年10月16日朝日の「天声人語」がこの詩を取り上げている。
『茨木さんは、いま73歳。自分がかりにそこまで生きられたとして「倚りかからない」ことを心底学べるだろうか。「なに不都合なことやある」と言い切れるか。「できあいの」思想や宗教や学問の背もたれに、相変わらず倚りかかっているのではなかろうか。』

 『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(後藤正治著、中央公論新社、10年11月刊)という本を読みました。

茨木さんには「ハングルへの旅」(朝日文庫)という語学の著書があります。
実は、小生が茨木のり子を知ったのは、この本を通してです。10年ほど前、当時、ハングルを大学で選択して勉強中でした。たまたま、旅行中、金沢駅構内の古書店でこの小さな文庫本を見つけて購入したのがきっかけでした。

偶々先日新聞で、この後藤さんの本が桑原武夫学芸賞を受賞したとの報に接し、読んでみようと図書館で借りてきました。

 こんな愉快な詩もあります。『花の名』という長編詩の冒頭です。
「浜松はとても進歩的ですよ」
「と申しますと?」
「全裸になっちまうんです 浜松のストリップ そりゃあ進歩的です」
なるほどそういう使い方もあるわけか 進歩的!
登山帽の男はひどく陽気だった
千住に住む甥っ子が女と同棲しちゃって
しかたないから結婚式をあげてやりにゆくという
「あなた先生ですか?」
「いいえ」
「じゃ絵描きさん?」
「いいえ
以前 女探偵かって言われたこともあります
やはり汽車のなかで」
「はっはっはっは」
私は告別式の帰り
父の骨を柳の箸でつまんできて
はかなさが11月の風のようです
黙って行きたいのです
「今日は戦時中のように混みますね
お花見時だから あなた何年うまれ?
へええ じゃ僕と同じとしだ こりゃ愉快!
ラバウルの生き残りですよ まったくひどいもんだった
さらばラバウルよって唄 知ってる?
いい唄だったなあ」
 かってのますらお・ますらめも
だいぶくたびれたものだと
お互いふっと目を据える
吉凶あいむかいにぎやかに東海道をのぼるより
仕方がなさそうな・・・(以下略)
吉本隆明さんがこう評している。
『茨木さんの詩のもう一つの特色は、言葉で書いているのではなくて、人格で書いているということだ。』
同じことを、茨木さん自身、木下順二について語っています。
<木下順二の人と作品―-―について思いめぐらすとき、まっさきに浮かんでくるのは「品格」という言葉である。
 人にも作品にも、今どき稀な品格がある。
それは1945年の敗戦以降、日本人が失った徳目の最たるもので、負けるというのはこういうことかとずっと長い間、情けなく思い続けてきた。>

 48歳のとき、ご主人と死別します。
>悲しめる友よ
女性は男性より先に死んではいけない。
男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない>
06年2月死去、享年79。夫の死後31年の半生、次の言葉がある。
『「寂寥だけが道ずれ」の日々が自由ということだった。
 この自由をなんとか使いこなしてゆきたいと思っている。』
 詩人は、自らの生き方を次の詩で語っています。(『自分の感受性くらい』)

ばさばさに乾いていく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりをおこたっておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそも、ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

こういうサイトもありました。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/shisyu.html


特訓中

2011-08-16 | 水泳

「言うまいと思えど今日の暑さかな」猛暑が続いています。
 8月8日、午後4時過ぎに名城公園屋外プールに出かけました。
月曜日は、いつも行く市営プールが休館日ですから、終業近い時間になれば空くだろうと、公園プールに行ったのです。
入り口に「水温33℃(4時)」と表示されています。着替えをして、25mプールへ。まだかなり人がいます。水が暑い!まるでお風呂の中のようです。これは、33℃よりもっと高いんじゃないの?
 暑かったけど、平泳ぎで200m、なんとか泳げました。その後、クロールや平泳ぎで600m泳ぐ間に3回子供たちに衝突しました。子供はぶつかるのも楽しみらしく避けてくれません。
 5時近くなり、一旦プールサイドに上がって休みました。5時15分終業ですから、みな帰り始めています。しばらく待てば2バタの練習ができるかも?と思ったのです。
予想通り5時になると、子供は皆引き上げました。まだ大人が二人残っていますが、これなら大丈夫とプールに入りました。
 2バタを泳ぎ始めました。この水温ではきついぞ、と思いましたので、思い切りゆっくりと泳ぎ始めました。100mを越すと、泳いでいるのは私一人になりました。
 ホントにきつかった!150mすぎると、もう必死です。
 結局、バタフライは運動量がきついので、他の種目と比べ、熱の発生量多い。
水温が33℃もあると、冷却が効きません。
最後に壁にタッチした時はへとへと。歩こうとしたら、よろめいて転びそう。後ダウンで50m泳ごうと思っていましたが、取りやめ、上がりました。
でも、なんとか2バタを泳げました。これで今年の夏は4回目(前3回は雨の日;水温の低い日)の2バタです。
こんなに暑くても、最後まで泳げたのだから、「今度の大会(水温27度)は絶対泳げる」と自分に暗示をかけました。

8月15日(月)、月曜はいつもの東区市営プールはお休みですので、4時すぎ名城公園の屋外プールに出かけました。夕方になれば空いてくるだろうと思ったのです。
入り口に「水温33℃」の表示があります。25mプールはまだかなり人がいます。「5時ごろ(終業5時15分)になれば、みんな帰るからバタフライの練習が出来る」と考え、それまで平泳ぎとクロールを中心に750m泳いで、プールサイドに上がりしばらく休憩しました。
5時前再度プールに入りました。大人はまだ3人いますが、子供たちは上がったみたいです。「今なら200m泳げるだろう」と、バタフライの練習を始めました。
ところが、いつもと様子が違う。体がすごく重い!100mでかなりアップアップ。何とか150m迄行きました。「後、一往復だ」と、全身で水をたたきましたが、175mでもういけません。止まってしまい、あとはハーハーと、荒い呼吸。200m泳げませんでした。
呼吸が静まった後残りの25mバタを泳ぎ、50mダウンの泳ぎで引き上げました。
いつもの温水プールは30℃で、水温33℃で泳ぐのは大変です。33℃で750m泳いだら、それだけでへとへとになり、バタの200mはとても泳げないという状態だったのです。
前向きに考えることにしました。この水温でも175m泳げたのだから、練習を続ければ大会では200mは絶対泳げるぞ!
9月(23日)の大会では200mバタに挑戦します。
以上、2バタで全国10位内(75歳区分)に入るため、年甲斐もなく特訓を続けている報告です。


原田泰さんの論

2011-08-15 | 経済と世相
 1年くらい前からエコノミスト原田泰さんに注目しています。先日も、県立図書館で、
「デフレは何故怖いのか」(文春新書、04年10月)と「世界経済同時危機」(日経新聞、2009年2月)を借りてきました。

読書感想、もし読んでみたいと思われましたら、以下をご笑覧ください。

http://d.hatena.ne.jp/snozue/20110810

http://d.hatena.ne.jp/snozue/20110814



 私の解釈で原田さんの主張を一言で言うと、

「デフレの原因はマネーサプライが少ない」からである。

日本の“失われた10年”とか”20年“とかの経済政策の失敗は、

貨幣量のコントロールのミス、換言すれば金融緩和の失敗にある。

「金利がこれだけ低くなっているからこれ以上金融緩和は無理だ」という意見があるが、

金利と金融緩和とは別である。金融を緩和すれば金利は低下するが、

金利が低いからといって金融が緩和されているとは言えない。

世界が大胆な金融緩和を行っているときに、日本がそうしなければ円は上昇する。

日本と世界のマネタリーベースの動き(00年以降)を見ると、

アメリカが大胆にマネタリーベースを拡大し、ユーロ圏やイギリスが着実に拡大している時、日本のマネタリーベースは伸びていない。

原田さんは、金融緩和とは金利の問題でなく、通貨量(マネタリーベース)の問題だという。世界の多くの金融危機のうち、失われた10年になったのは日本だけである。

 つまり、通貨量増大の不徹底が日本のデフレの真因とするのだが、

 私が思うのは、通貨量の増大は、たとえば投機行為が猖獗を極めるなど、別の副作用を生むのではないか?
しかし、デフレ現象そのものは、著者のいうように、案外簡単に説明できる現象かもしれない。

 いずれにしても、原田さんの論は注目すべきだと思っています。

原子力神話からの開放

2011-08-06 | 読書
『原子力神話からの開放』(高木仁三郎著、講談社α文庫10年5月刊)
著者の高木さんは、ご存知の方も多いと思いますが、核化学の専門家(1938~2000)で、原子力資料情報室を設立、原発とりわけプルトニューム利用の危険性について、警告を発し続けた方です。 この本は2000年8月に刊行された本の文庫版ですから亡くなる直前の著作ということになります。
 著者の名前は知っていましたが、著作を読んだことはなかったのです。今年の原発事故で、彼が何を警告していたかを知りたくなって書店で購入しました。
 一読、非常に分かり易い本だと感じました。イデオロギーにこだわらず、中学生にも分かる文章です。『原子力問題について本書のような本を書いてみたい・・2000年という年の初めになって思うようになりました。・・・二つの動機があります。1999年9月30日に起こった東海村のJCOウラン加工工場における臨界事故の衝撃・・・さらにその事故から2ヶ月あまり後、作業員である大内久さんの死・・・』。
『大内さんの死から数日にして、原子力安全委員会は、その事故調査委員会の報告書なるものを公表しました。この報告書を読んだときの私の印象には愕然とするものがありました。こんな報告書によってこの事故が、いわば締めくくられ、総括されてはたまらない・・巻末についた「事故調査委員会委員長所感」のなかで、委員長の吉川弘之氏は次のように言う。この事故の「直接の原因はすべて作業者の行為にあり、攻められるべきは作業者の逸脱行為である」。』
 こう、書き始めている本の内容は、まるでフクシマ原発事故について今書いた本のように思われます。勿論著者は10年以上前に世を去られたわけですから、フクシマについて知っているわけはありません。
 (私が原発について思うことの第一は、原発の技術は欠陥技術ではないかということ。そう思う理由は、使用済み燃料の処理方法が確立されていないこと。)
 日本政府のこれまでの方針は、使用済み燃料を再処理してプルトニュームを取り出し、残りの放射性廃棄物ガラスと一緒に固め、一定期間放射能を冷却するために貯蔵をして、最終的には地層処分する(地下に埋めるにも、実は地下水への影響を考えなくてはならないから、場所を見つけるのは大変です)。
 原発は私たちが生命の安定性、安全性の原理としている核の安定を壊すことによって成り立つ技術ですから、核の不安定性を生み出し、結果として膨大な量の有害な放射性物質を作り出すことになる。その放射性物質の多くは、かなり寿命が長くて、なかには何百年も残るものがあります。

 さらに再処理して取り出したプルトニュームが問題。現在(2000年)約30トンもの余剰プルトニュームを日本政府は抱えています。原発から出てくるプルトニュームでも7~8kgもあれば核兵器を作ることができると考えられますから、30トンのプルトニュームはたいへんな余剰、4000発の原爆を作ることができる。

 (フクシマの事故では、4号機は停止中でしたが、使用済み核燃料がプールに保管してあった。3月15日、水素爆発が起こりました。
 浜岡は運転停止はしたものの、プールの使用済み燃料は冷やし続けなければなりません。)

 温暖化防止のため、原発を増やすというのが、政府の方針でした。しかし、1gの二酸化炭素を出すことと、1ベクレルの放射能を出すこととどちらが問題なのか。原発が事故を起こす確率は1000年に一度だという人もいますが、世界中には400基を越す原発がある。1000年に一度でも、世界中では2.5年に1度になる。「原子力はクリーン」とは言えない。

 原子力に関する技術は進歩して、非常に大きな原発も造れるし、そこから大きな電力を得ることもできるようになりましたが、そこで生まれた放射性物質や廃棄物の放射能は消すことができません。

もともと、原子力は核兵器のために開発された技術です。平和利用というのが困難な技術だと思います。
人間の体の細胞は、細胞を構成する原子の安定があって生きられる。
原子の安定を破壊する放射線と共存はできないのですから。

原発事故と金融危機

2011-08-03 | 読書
『日本経済復活まで』の続きです。
 原発事故と金融危機とは良く似ている、と筆者は言う。
 【ある数字までを被害の「想定範囲」として、それを満たしたものを「安全」として宣言する、といった手法が採用されているのは原発ばかりではない。金融商品についてもこのような方法が日常的に使用されている。
 たとえば、社債や国債の格付けをするとき、格付け期間は一定の「想定範囲」のショックに対して安全である社債や国債に対して「AAA」などの格付け、お墨付けを付与する。
 住宅ローン全体ののうち不履行が20%以下の場合は、損失をかぶらなくても良い(その損失を引き受けるファンドが別にある)というファンドに「AAA」という格付けを与える。住宅ローンの不履行率、20%という「想定範囲」を設けたわけだ。
 アメリカの証券市場は、住宅ローン不履行2割という「臨界点」を越えた途端に大事故が発生した。】
格付けの「想定範囲」は、売れるように証券を設計するための「想定範囲」だった?
第2部は、「この国の未来」と題する。
一言で要約すると、『原発事故で日本は原子力に頼ることが困難になる。電力は火力発電に頼らざるを得ない。燃料として化石燃料の輸入が増えるので、その支払いのため、外貨を稼ぐ必要が高まる。かつての時代と同様、輸出産業の重要度が高まることになる。』
でも、その趣旨で述べるのなら、『円高の下、中国や韓国、インドなどの追い上げが厳しくなってくるのに、今後とも日本が輸出で食っていけるためにどうすべきか』を具体的に述べてほしかったと感じた。
しかし、筆者が指摘している次のことは重要だ。
『要するに、現在の東電はプレーヤとして二つの役割を持っている。第一はフクシマ原発事故の加害者、あるいはこの事故の解決責任者。また第二は、エネルギー産業の担い手として日本経済が陥っている供給のボトルネックを解消するために、政府による金融支援が第一番目に向けられる、かつての(傾斜生産方式での)石炭産業のような意味でのスター・プレーヤという役割である。』
私は、この二つの役割を同じ東電が果たすのは困難であり、だから前者の東電は会社更生法で整理すべきだと思うが、筆者はそう考えない。
その理由は、『東電債の不履行が生じた場合、それは日本の債権市場そのものの崩壊を招く。その根拠は次の二つ。東電債のような一番安全と見られていた社債でも立ち行かないとなれば、後の社債は怖くて近寄れない。すなわち社債価格は暴落し、社債市場による資金調達は不可能になる。第二に、東電債を多く抱えた企業や金融機関は、経営の悪化を疑われ、資金の調達ができなくなる。』要するに、大きすぎて潰せないという。どうするか。
やみくもに東電の救済だけを考えた『原子力損害賠償支援機構法』は、電力事業の再生という観点から、再考すべきと思う。
第2部よりも第1部の方が、面白い情報が多かった!


経済学者の見た東日本大震災

2011-08-02 | 読書
『日本経済復活まで』(竹森俊平著、中央公論新社、11年5月刊)を読む。
書評欄で、「(震災)復活後の日本は輸出産業が中心になると説く」とありました。私は、「輸出産業中心の日本経済では未来は開かれない」と思っていますので、著者の論拠に興味を持ち、取り寄せてみたのです。
 筆者は、56年生まれ、慶応義塾大学経済学部教授です。内容は2部に分かれ、第1部「震災発生」で、3月11日からの1ヶ月、日記のスタイルで、「東日本大震災」を語り、第2部「この国の未来」で、震災が日本経済に与えた影響を述べます。
 第1部:震災当日、著者はベルリンにいる。
「これはたいへんな事態だ」TVニュースで解説の科学者は興奮した声で話していた。
ドイツでは日本で報道された以上に”深刻な状況”と報道していた。ホテルの支配人は、「あなたは明日、日本に帰る予定ということだが、状態が安定するまで1ヶ月くらいここにいたらどうか」と言った。
 (私は、名古屋で新設のプラネタリウムの調整に来ていたドイツ人技術者が急遽、国に呼び戻されたことを思い出しました。)
著者の乗ったルフトハンザ便は北回り(シベリヤ経由)を変更し南回り、つまり香港経由になる。理由は、香港で乗務員が交替して羽田に向かえば、乗務員はその日に香港に帰れる。つまり、乗務員を日本に泊めなくても良いということだったらしい。
ドイツだけでない。フクシマ原発から退避圏内を20kmと定めた日本政府の方針に対して、問題の調査に訪れた米国原子力規制委員会委員長の定めた米国人の退避圏内が80kmという事実は内外問題意識の差をもっとも明確に示す。ニューヨークタイムスは、「なぜこの食い違いを日本のマスコミは追求しないか」との記事で訝っている。
3月29日の項にこうありました。
『「津波」という天災に加えて「原発事故」という人災が発生した。・・・今回の大震災の「人災」には2007年に世界的金融危機が発生したのに似通った事情があると気付いた。』
少し長くなりますが・・
 『内閣府に置かれてはいるが、省庁から独立した機関として「原子力安全委員会」がある。原子力の安全を監視し、安全規制についての基本的ルールを提案する。その提案に従って電力事業者を実際に規制するのが、経済産業省に設けられた「原子力安全・保安院」である。』
原発の耐震性について、毎日新聞3月23日付(インターネット版)の一つの記事がある。国会審問で、社民党の福島瑞穂党首が、原発の安全を監視し規制等のルールを設ける「原子力安全委員会」の委員長の過去の発言を問いただしたというのだ。その委員長は、<07年2月の中部電力浜岡原発運転指し止め訴訟で、複数の非常用発電機が起動しない可能性を問われ「そのような事態は想定しない。想定したら原発はつくれない」と発言した>原子力安全委員会が決めた想定範囲は、「原発をつくることを可能にするため設けられた」?(続)