古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

2014私撰10大ニュース

2014-12-27 | 経済と世相
クリスマスも終わりいよいよ年末です。
テレビは、一年を振り返って、2014ニュースハイライトを放映していました。
私も今年のニュースを振り返り、恒例の私選10大ニュースを選んでみました。順不同ですが、こうしてみると、いろいろなことがありました。
1. 年末選挙で安倍首相勝利
安倍首相の作戦勝ちだが、いよいよ憲法改正ですかね。
2. 青色LEDにノーベル賞
3. 日銀、執念の金融緩和
日銀って物価を上げるところ?
4. 消費税4月に8%に増税
実質賃金が上がらないのはこのため。
5. 集団的自衛権の閣議決定
どうしても「戦争のできる国にしたい?」
6. STAP細胞騒ぎ
自殺者まで出しての大騒動はどうして?
7. 普天間問題めど付かず
沖縄知事選で普天間基地反対候補当選。年末選挙で自民小選挙区は全敗
8 原発訴訟
大飯原発に福井地裁さしどめ
大間原発に函館市が差し止め訴訟
9災害 御嶽噴火、広島の土砂災害
10GDP成長せず(7~9月期、年率▼1.9%)
潜在成長率の天井が低いのでは?アベノミクスの限界。

原油暴落・燃料電池車発売は番外としました。


はやぶさが開発した4つの技術

2014-12-26 | サイエンス
 『ハヤブサ2の真実 どうなる日本の宇宙探査』(松浦晋也著、講談社現代新書2014年11月刊)を読みました。
この本で面白かったのは、ハヤブサを成功させるために開発された技術の解説と、副題が示している宇宙開発を推進する組織の話(旧文部省と科学技術庁の主導権争い、それはまた日本の宇宙開発をすすめるために求められる国家意思の話でもありますが)です。
 ここではまず技術の話。「はやぶさ」のために開発された4つの技術があります。
 探査機の目的は「小惑星からサンプルを持ち帰る」ではなく、「小惑星からサンプルを持ち帰るために必要な様々な技術を実地で実証する」と設定されました。
1.まずは、イオンエンジン(原理は下記をご覧ください。)
http://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa/about/principle2.html
小惑星への往復に必須の燃費の良いエンジンです。キセノンというガスにマイクロ波という電波を浴びせて電離させ電気を帯びたキセノンガスに電圧をかけ、加速噴射する。
推力が非常に小さい。化学推進ロケットだと、推力500N(51kgf)とか2000N(204kgf)とかだが。ハヤブサの「μ10」エンジンの推力は7mN。これは0.714gf、つまり1円玉を手にのせたほどの推力である。そのかわり長時間推力を発生し続けることが出来る。空気のない宇宙空間では、小さな加速でも何か月も続けていれば、最終的に非常に高い速度に到達するのだ。
 初代のはやぶさの検討段階では、化学推進を使う試案も存在した。この場合、打ち上げ時の探査機重量は、大量に積み込む推進剤で、2トンちかくになる。打ち上げに使ったm-Vロケットはそんな重さの探査機を打ち上げることが出来なかった。
2.光学航法
 探査機を目的の星にきちんと導くためには、探査機が今どこを飛んでいるかを精密に測定する必要がある。通常は、地球との電波のやりとりで、ある特定の波形の電波を送り、探査機がオウム返しに送り返す。時間差から地球と探査機の距離がわかる。また地球は自転しているので、地上の通信局は24時間周期で探査機に近づいたり離れたりする。この時のドプラー偏移からどの方向にいるかわかる。ところがこの方法では誤差を小さくするのが難しい。3億㎞離れた探査機の位置の測定誤差は300㎞にもなる。小惑星の大きさは1㎞以下。これでは小惑星に近づけない。
 そこで登場したのが光学航法だ。ある程度まで近づいたら、はやぶさ本体に搭載したカメラで、はやぶさから見える小惑星を星空毎撮影する。小惑星が星々とどういう位置関係かを見て、方向を判断する。
3.サンプラーホーン
 小惑星にお一瞬接地させて「弾丸を撃ち込む」。舞い上がってきた小惑星表面のサンプルはサンプラー内部を上がって、サンプル室に到達すると、次の瞬間、はやぶさは化学推進スラスターという小さなロケットエンジンを噴射して上昇するという仕組みである。
4.地球帰還カプセル
 地球にかえってきたハヤブサは、採取したサンプルをカプセルに収めて切り離す。カプセルは秒速12km以上の高速で大気圏に突入する。
 そこでカプセル全体は、はやぶさのために開発した炭素繊維に樹脂を浸透した熱防護材で覆われている。熱が加わると、樹脂は蒸発してカプセル表面にガスの層を作り、熱の浸透を防ぐ。


2014年の10冊

2014-12-24 | 読書
もうクリスマスイブです。今年も一週間を残すのみ。
今年一年いろいろな本を読みました。
印象に残った本10冊をあげてみます。
感想文はすべてブログに載せていますので、そのアドレスを参考のため記載します。


1.アベノミクスの終焉
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20140925
伊東光晴京大名誉教授のアベノミクス批判。
2.安保条約の成立(岩波新書)
http://d.hatena.ne.jp/snozue/20140724
豊下楢彦さんの力作
3.ケインズの逆襲・ハイエクの慧眼(松尾匡著、PHP新書)
http://d.hatena.ne.jp/snozue/20141215
本当にこの道以外ないのか。
4.変わった世界、変わらない日本(野口由紀雄著、講談社現代新書2014年4月刊)http://d.hatena.ne.jp/snozue/20140628
野口理論の簡潔な解説
5.日本の教育を考える(岩波新書。1988)
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20141029
「宇沢弘文さん」を考える本でした。
6.手入れの思想(新潮文庫、2013年11月)
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20140219
自然と人工、養老節です。
7.記憶力を強くする(講談社ブルーバック)
脳科学、今年はこの本を推奨。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/m/20140708
8.余談ばっかり(和田宏著)
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20140707
「余談」の面白さ
9.「はたらくこと」を問い直す』(山崎健著、岩波新書、2014年11月刊)
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20141213
日本の労働組合が、世界の人の働き方に影響した?
10.資本主義の終焉と歴史の危機水野和夫著、集英社新書)
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20140407
資本柚木は終わる。水野和夫さんのエッセンス


日清・日露戦争をどう見るか

2014-12-22 | 読書
「日清・日露戦争をどう見るか」(原朗著、NHK新書、2014年10月刊)を大学図書館の棚に見つけました。序章の次の記述に惹かれて読むことにしました。
『日清・日露戦争について取り上げるとすると、・・・司馬遼太郎氏による『坂の上の雲』について若干の感想を述べることは避けられません。
『坂の上の雲』が朝鮮問題についてほとんどまったく描写していないのはなぜだろう、というのが私のかねての疑問でした。
【日清戦争ついて、「原因は、朝鮮にある。と言っても、韓国や韓国人に罪があるのではなく、罪があるとしたら、朝鮮半島という地理的存在にある。ゆらい、半島国家というものは、維持が難しい」という程度ですませたのはなぜなのでしょうか。
 それ以外にも有名な「明るい明治」と「暗い昭和」の対比・・・
 司馬氏は敗戦前の昭和を「暗い昭和」と呼び、軍部が統帥権を握ったことを糾弾します。しかしながら、実はその統帥権をつくって強めてきたのは「明るい明治」の時代で、そこにこそ根源があります。
 また、「昭和」も暗い時代で終わったわけではありません。戦後の苦しい復興期を経て、昭和後期の日本では高度成長が始まり、・・・・ついには「経済大国」と呼ばれるほどにもなりました。戦前の「暗い昭和」の時代の貧しさからは想像もできないほど生活は豊かになりました。「暗い昭和」の後に「明るい昭和」があった。】
 この文を見て「読んでみょう」と思った次第です。
 著者は、東大名誉教授。専門は現代日本経済史という。
この本の結論は『120年前に開始された日清戦争は、その名のとおり、日本と清国の戦いでしたが、その戦争目的はまず何よりも朝鮮半島の支配権でしたから、むしろ「第1次朝鮮戦争」と言ったほうがより適切ないか。同じく110年前に開始された日露戦争も、その名のとおり日本とロシヤとの戦いであったが、その戦争目的はやはり朝鮮半島の支配権でしたから、いわば「第二次朝鮮戦争」と呼んでもいいものだろう。』ということだ。
 19世紀から20世紀にかけて、列強諸国の紛争は植民地をめぐっての争いでした。当時の資本主義は、原材料を仕入れる先として、また製品を売り込む先として植民地がないと、経済を繁栄させることができないと考えられていた。しかも国の武力は国の経済力によって決まるようになった。
つまり、資本主義の世紀にあっては、強国として存在するには、周辺として植民地が必須であった。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20140407
だから、植民地の争奪戦争が繰り広げられた。時代が変わって、植民地を維持するコストが、得られる利益よりも大きくなったと喝破したのは、石橋湛山でした。彼は帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張する(小日本主義)。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9

坂の上の雲」では、日清戦争の原因については、詳しくはふれられていない。そこで、この本により、その経緯を記述してみます。

「征韓論」をめぐる対立で、西郷、江藤などが下野した明治6年の政変は、よく知られています。しかし、この「征韓論」、西郷は武力行使に反対でしたから、正確には「朝鮮使節派遣論」というべきです。
 1875年、日本の軍艦雲揚号が江華島沖で朝鮮側の砲台と交戦する事件をお越し、これを契機に1876年、日本は軍艦をおくって日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させます。その第1条には「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有せり」、これは朝鮮に対する清国の相主権を否定するものでした。この日朝修好条規は、治外法権を定め、関税自主権を与えないなど、かつて日本が欧米に強制された不平等条約と同じものでした。
 1876年以後、朝鮮国内では、近代化をすすめて日本に習おうとする「開化派」と中国チュ新の冊封体制を維持しようという「守旧派」対立していた。
1882年、国王の父の指示を受け守旧派が、当時実権を握っていた明成皇后に対して軍事クーデターを起こす。日本公使館の襲撃を行う。清国軍が介入して明成皇后は復権、事態は一旦収束した。1884年、「開化派」がクーデターを起こし新政府を樹立(甲申事変)、これも清国軍が「開化派」を支援する日本の守備隊を破り新政権は3日で崩壊、以後朝鮮の内政・外交の主導権を清国が握る。
1885年4月、伊藤博文と李鴻章との間で天津条約が結ばれ、朝鮮から日清両国の軍隊撤廃、将来の派兵の際は事前通告するなどを定めた。
1894年「東学党の乱」(現在は甲午農民戦争)が始まり、第二次伊藤博文内閣は派兵を決定した。清国も朝鮮国王の要請により出兵すると通告してきた。
乱が収束しても日清両軍は撤兵せず、日本は清国に対し、協同で反乱鎮圧と朝鮮の内政改革にあたることを提案したが、清国はこれを拒絶。
この間、ロシヤとイギリスが調停を試みるが、日本は受け入れない。朝鮮政府に対し期限を付した内政改革案を提出、7月20日朝鮮に「清国への宗属関係を破棄するよう」最後通牒を突きつけた。
1894年7月23日、日本軍はソウルの朝鮮王宮を攻撃して占領、朝鮮軍を武装解除した。
 7月25日、朝鮮政府(日本の傀儡政権)は清国との宗属関係を破棄し牙山の清国軍を排除するよう日本軍に依頼する。同じ日、日本艦隊は豊島沖で清国軍艦を攻撃し、東郷平八郎は清国兵を乗せたイギリス船籍の貨物船を撃沈して国際法上の議論を呼び、外交的にも大問題になった。8月1日の宣戦布告により日清戦争になりますが、此処までの経緯を見ると、「第1次朝鮮戦争」というべきだという筆者の主張は頷けます。
 日清戦争後の下関条約により日本が得た利権は、最恵国条約により列強各国が持つことになり、清国は半植民地状態になります。反面、日本は最後の帝国主義国になった。両者の分かれ目は日清戦争でした。
日清戦争の次に日本が行った戦争が日露戦争と思いがちですが、この二つの戦争の間に「義和団戦争」(あるいは「北清事変」)があります。
義和団運動は、日清戦争後列強により半植民地状態におかれた清朝を助け外国を滅ぼすべきという運動です。
1900年5月北京駐在の11か国が集まって清国政府に義和団の鎮圧を要求し、各国は軍隊をおくって鎮圧に乗り出すことを決めた。8か国の連合軍が太湖の砲台を占拠、清国軍も反撃、西太后は8か国に正式に宣戦布告する。8か国連合軍が勝利し、8月15日北京を占領して義和団を鎮圧した。
この戦争の8か国(日本、イギリス、フランス、ドイツ、ロシヤ・イタリヤ、オーストリア、亜米利加)の連合軍の中で大活躍したのが日本軍でした。
1900年10月、講和会議で、4億5千万両の賠償金を清国が受諾。北京の公使館地区への軍隊駐留が認められた。ちなみに、このことがのちの日中戦争の引き金になった盧溝橋事件の遠因になったそうです。
 詳細は省きますが、日露戦争においても、朝鮮をめぐる対立が日露戦争に至ったことが、この本の記述で理解できます。
日清・日露ともに植民地支配をめぐる帝国主義の戦争であった。だからと言って、当時の日本の戦争を批判するものではありません。帝国主義戦争に勝たなければ生き残れなかった時代だったということでしょう。




私選第4四半期(10月~12月)10大ニュース

2014-12-21 | 経済と世相
もう今年も年末です。
少し早いですが、10~12月の私選10大ニュースです。
順不同ですが、私選第4四半期(10月~12月)10大ニュースです。
1. 年末解散・選挙、与党3分の2を得る・
安倍首相の作戦勝ち。安倍さんの名は歴史に残る。だが、そのことが日本人に幸運を意味しない?
2. 青色LED発明にノーベル賞
日本人の底力
3. 日銀、超金融緩和続く
どうやっても物価を引き上げたいって、「経済」は「経世済民」ではなかった!
4. 原油、年末にかけ値下がり
日本経済に神風
5. ロシヤ・ルーブル暴落
ロシタの経済力の基礎は原油、それに対し日本は働く人
6. 7~9月期GDPマイナス修正
実質で前期比0.5%減、年率換算で1.9%減となり、11月発表の速報値(前期比0.4%減、年率1.6%減)から下方修正。自動車の在庫減の影響とか。それだけ潜在成長率が落ちていること。アベノミクスの第三の矢は効果がなかったことになる。
7. トヨタ、燃料電池車発売
トヨタの技術力には経緯を表するも、それにしても200万円も補助金出すの!
8. はやぶさ2打ち上げ
こういうことにカネを使うなら、税金の無駄遣いもよい。
9. 高倉健、菅原文太世を去る
降る雪や、昭和は遠くなりにけり
10. みんなの党解散
 民主党もだが、「かくれ自民党」ではなかったか


一年に10人しか自殺しない会社

2014-12-20 | 読書
「一年に従業員が10人しか自殺しない会社」を、経済学者の野口由紀雄さんが、週刊新潮12/18号で紹介していました。
『フォックスコン』という会社がある。アップルの他、デルやヒューレット・パッカードなどの大手PCメーカーから受注している。ソニーの携帯電話なども生産している。シャープの筆頭株主になったホンハイの中核子会社だ。
 一般に電子機器の受託生産を行うことをEMSというが、フォックスコンは世界最大のEMS企業である。EMS企業は複数のメーカーから受託して電子機器の量産を行うが、自社ブランドの生産は行わない。設計は依頼者側が行う。ただし、受注先に代わって設計したり、資材の決定をしたりする場合もある。
 従業員数は、情報が公開されておらず、また急速に成長していることもあって、盛夏期にはわからないのだが。wikipediaは12年時点で123万人としている。ウォルマート220万人、マクドナルド190万人には及ばないが、トヨタ34.3万人よりずっと多い(トヨタの場合連結ベース、関連企業を含む)
 10年ごろ、80~90万人と言われていたから、数年で5割程度増えたわけ。現在では160万人とされる。Iphopne6の大量生産のために、河南省内で大規模な募集を行い作業員10~20万印を確保したと言われる。フォックスコンの工場は世界各地にあるが、大部分は中国にある。最大のものは深圳にある。
 この工業団地で業員数は、20~45万人と言われる。シャープの亀山工場はピーク時の従業員数は3000人程度だったから二けた違う。
 敷地内には15の工場があるが、それだけではない。レストラン、カフェ、スーパーマーケット、テニスコート、バスケットボールコート、体育館、サッカー場、それに2つの巨大な水泳プール、銀行や図書館もある。ラジオ局、病院も消防署もある。・・・
2007年、最初のiphoneが販売される予定日の1ヶ月前のこと、画面に擦り傷がつくのを見たスチーブ・ジョブスが「6週間以内にガラス製スクリーンに変更」との緊急決定を行った。そこで、フォックスコンの工場に対して生産ラインの全面見直し指令が出された。
ガラススクリーンが工場に到着し始めたのは真夜中だった。工場の現場監督は、寮に住む8000人の作業員を叩き起こし、彼女たちはビスケットとお茶を与えられ、工場につれて行かれた。
 それからわずか30分で、ガラス製スクリーンをフレームにはめ込む作業が、12時間シフト体制で開始された。96時間後には、工場は1日1万台のペースでIphoneを生産していた。3か月後、アップルは100万台の販売をした。
 このような速度で生産変更ができる工場は、アメリカにはない。作ろうとしてもできない。フォックスコンの従業員は寮に住んでいるから、突然の生産変更にも対応できるのだ。
 アップルの製品は、確かに優れたアイデアから生まれたものだ。しかし「もしもこの世にフォックスコンが存在しなければ、私たちはiphoneもipadもプレイステーシヨンも存在しない世界に生きねばんらなかった」という文句が一時、中国で流行ったそうだ。
 2010年、フォックスコンの工場で10人の自殺者が出た。世界最先端のアップル製品が、自殺者多発工場で生産されている!世界中のメデイヤがこのニュースに飛びついた。
だが、BBCが伝えた。
「中国の自殺者数は平均10万印に15人。フォックスコンには40万人いるから、自殺者数は「平均より異常に低い」。
 野口さんが言いたかったことは、グローバル化の時代、我われの想像もつかない新しいビジネスモデルが生まれつつあろということか。

日本がグローバル化の発信源(2)

2014-12-14 | 経済と世相
 1994年アメリカは教育法の改正を行った。改正の目的は、スキル・スタンダードという制度を学校教育と職業訓練の世界に持ち込むことだった。これは企業全体が有機的に連携しあう組織になるため必要な能力をはかる尺度だった。スキル・スタンダードを導入するため学校教育における基礎学力の向上を、企業競争力のかなめとなる従業員の能力の育成とリンクさせた。
 能力には潜在能力と顕在能力がある。日本企業は潜在能力を重視してきた。働いている人の能力が将来的に伸びてさまざまな知識を身に着けることで、企業全体の連携を高めることに有利になるからだ。一方、日本以外の国では顕在能力を重視してきた。フォード生産方式では、定められた職務以外のことを働く人に求めなかったからで、その伝統を覆す試みがスキル・スタンダード制度の導入だった。
 教育制度まで変えようと法律を定めたのだから、日本企業の進出を、アメリカ政財界の当局者がいかに脅威と受け止めていたかが分かる。
 アメリカ政府は、スキル・スタンダード制度をあらゆる産業に広めようとしていた。だが、実際に普及させるにはハードルが高かった。読み書き計算能力が不足する労働者が少なくなかったからである。
 日本企業のしくみを欧米が取り入れる試みは簡単には終わらなかった。
結論的からいうと、スキルスタンダードはうまくいかなかった。その理由は、求める能力要件と必要な訓練内容が、普通の労働者にとって難しすぎたからである
この失敗からアメリカ企業が学んだことがある。
 スキル・スタンダード制度が想定したような能力は、企業にとって中核的な役割を担う従業員だけが身につければいい、ということだ。
 企業は中核的な役割を期待する従業員を絞り込み、これまでより熱心に訓練をおこなうようになった。これはいわば、日本発の働き方のグローバル化であった。
 欧米にせよ日本にせよ、進行しているには、人数を絞り込んだ中核的な従業員によるメンバーシップ型の働かせ方への移行と、低賃金で単純作業を行うジョブ型の働きをする労働者への置き換えだ。こうした雇用モデルは、日本においての正社員と非正規社員の雇用モデルに似るのである。
 1980年代の日本が世界に与えたインパクトは、企業組織の在り方や労働者の働かせ方、評価や訓練の内容にとどまらず、社会システムそのものを変化させていった。それは、さながらグローバルスタンダードの発信源が日本であることを明らかにするものだった。
にも拘らず、ろうの当事者であるはずの日本は自らが何をなしたかを気づかなかった。
 ホンダをはじめとした自動車メーカーがアメリカに拠点を移したとき、参考にしたのは労働組合を作らせないアメリカの企業だった。ハーバードの調査でも、アメリカ国内で高い業績を上げている事例として、労働組合のない企業を参考にすべきだとしている。
 しかし、労働組合を必要としない社会、という選択はほんとうに正しいのか。日本とアメリカの異なる労使関係システム。この二つが接近することがなければ問題はおきなかった。だが、日本企業の海外進出はそれを許さなかった。これは欧米諸国の社会システムを根本から変えるものへとつながった。
 一人ひとりの仕事をなるべく細かく単純にして、ベルトコンベアでつなぎ合わせる。これがアメリカの自動車産業を強くした生産方式だった。労働組合は、それを受け入れることと引き換えに、それぞれの仕事に当てはまる賃金や労働者がどの賃金のポストに移るかをコントロールし、高い技能を持たなくても、子供に教育を受けさせ家や自動車を買うことが出来るようにした。こうした労働条件は労組のない企業にも波及していく。それだけでなく、健康保険や年金等の社会保障制度を社会に普及させることにも貢献した。
こうした仕組みが日本企業の躍進で壊されていく。
 アメリカの労使関係がつくってきたモデルは、高いスキルがなくても、ミドルクラスの生活や、社会保障制度を手にすることができるというものだった。それがくずされることになった。
 だがしかし、「利益の追求だけが目的なら、企業経営にとって労働組合は必ずしも必要ない」という発見は、めぐりめぐって日本に戻ってくる。
 労使関係の意義は、労使の交渉が個別企業という限られた場所で起ころうとも、労働条件の向上や社会保障制度に波及し社会全体に拡大することにあった。裏を返せば、社会への波及効果のない労使関係の存在意義はない。
 企業経営に協力するという労働組合の戦略は、1980年代までの日本企業の国際市場における躍進を支えてきたし、今もってその意味の役割を終えたわけではない。しかし、様々な変化の中で制度疲労を起こしたことも、また事実である。
結論に移ろう。
非正規社員の増加で正規社員だけで組織される労働組合の、交渉力を弱め、さらには社会への影響力を失わせている。欧米の労働組合の影響力を弱めた海外進出した日本企業の労使関係は、ブーメランのように、日本に戻ってきて日本に非正規雇用の増加と、労働組合の弱体化をもたらしたのである。


日本がグローバル化の発信源(1)

2014-12-13 | 経済と世相
『「働くこと」を問い直す』(山崎健著、岩波新書、2014年11月刊)
40年以上前になるが、労働組合の仕事にかかわっていた。だから、労使関係については関心があり、大学図書館で、新刊書の棚に標記の本を見出だし、手に取ってみると、どうやら労組について書かれた書らしいと、読んでみることにしました。
 筆者は、1967年独立行政法人労働政策研究・研修紀行副主任調査員とあった。
第3章「癲癇」が面白い。以下その紹介です。
1985年のプラザ合意から始まる。アメリカ、西ドイツ、フランス、イギリス、そして日本の財務担当大臣が集まった。
 目的はアメリカ経済立て直しに協力すること。アメリカは、貿易赤字が拡大し、二けたのインフレ率と9%を超える失業率にあえいでいた。アメリカだけでなくドルを基軸通貨とする先進資本主義国の危機だった。アメメリ経済が沈めば影響ははかりしれない。
 ターゲットになったのは日本である。自動車、電機、鉄鋼などの産業でアメリカ市場を席巻していた。日本の存在がアメリカの危機の一因とみられたこ。の時の合意によって各国は保有するドルを売るという市場介入を行った。円は大幅に上昇し、一人当たりGDPランキングで、日本は1985年14位が、翌年6位に順位を上げた。日本の経済成長率は、6.33%から2.83%に急降下した。それでもプラザ合意の思惑通りにはいかなかった。日本の経済成長率は1987年4.11%、1988年7.15%と再び上昇に転じた。背景に円高に負けなかった日本企業の競争力があった。それがアメリカにとって大きな脅威となった。ハーバート、MITなどのアメリカ有数の大学から大統領直属の経済諮問委員会に至るまで、日本企業の強みを探ることが急務になり、日本人の研究者も協力した。そこで明らかになったことは、日本企業も労働問題の研究者もそれまで意識してこなかったことだった。
 一方、1990年代から、日本はバブル経済の崩壊、「失われた10年」で、日本人は強かった日本経済に対する自信を失っていった。しかし、海の向こうは違っていた。日本企業の強さは依然として脅威であり、研究の中でつかんだ日本企業の強さを、自国の企業に役立たせると努力を続けていた。
 それは世界中に予想しなかった結果をもたらした。企業経営だけでなく社会システムそのものを変えてしまった。そしてその変化が、経済のグローバル化のなかで、形を変えて再び日本に戻り、日本の社会システムを変えつつある。日本では意識されていないけれども、世界に起こる様々な問題の原因の大きな部分に日本が関わっている。日本は経済グローバル化の有力な発信源なのだ。現在、世界中で格差の拡大と貧困が加速しているが、そのきっかけは日本にもあった。そのことに私たちが気付いたとして何ができるのだろうか。転機となった1980年代を詳しく見てみる。
 自動車、電機などの日本企業が、最大の市場アメリカに販売会社を置いたのは、1950年代末から60年代にかけてのことだった。その後、電機は1970年代から現地生産の段階へと移ったが、自動車が現地生産を始めたのはそれから10年ほど後のことだった。
 製造拠点を現地に動かそうとすると、越えなければならない壁がある。企業のあらゆる部門に日本式品質管理のしくみを埋め込んでいくことです。そのため、日本企業は一人一人の職務を限定しないようにしてきた。自動車の組み立ては、電気製品とくらべて部品点数が多い。生産工程も複雑だ。数多くの関連企業もある。すべての部品と一人ひとりに埋め込まれた品質管理のしくみを移転することが海外でも強みを発揮するために必要だった。
 日本企業はそのための環境を長期間にわたって作ってきた。新規学卒採用、終身雇用、年功賃金、企業別組合などである。
 海外では、こうした制度は日本と異なり、製造拠点を簡単に日本から移すことはできなかった。全く異なる文化や社会に、本国の組織文化や企業理念を移転、浸透させることは難しい。絶対に譲れないものは何か、現地の方法を採用してもよいのはどの部分か、慎重に見極めることが必要で、それには時間がかかる。
 でも日本の自動車メーカーはそれに成功した。
 自動車メーカーのうち、もっとも早くアメリカに工場を作ったのはホンダだった。
 オートバイの生産工場を1978年に立ち上げ、1982年には自動車の生産を立ち上げた。
 ホンダがアメリカに製造拠点を築いた手順は以下である。
 まず、日本国内と同等の品質を利益の見込めるコストで達成する、という目標を設定。
そのためには、従業員一人ひとりが品質に責任を持つこと。外部の部品メーカーの協力を得ること。
 ところが、アメリカ企業は求める姿とまったく違う働かせ方をしている。アメリカ式をそのまま受け入れてしまっては、日本国内で培ってきた強みを再現することはできない。
その影響から抜け出すことは、ホンダにとって難しいことに思えた。長い年月をかけてアメリカの労働組合と企業が作り上げてきたまさに社会文化の一部だったからだ。
 しかし、何が何でもそれと違う仕組みをアメリカに造らなければならない。それがホンダの命題だった。そのため、コンサルテイング会社や研究機関に、この課題の実現可能性の調査を依頼した。そこから出てきた結論は、アメリカに日本のしくみを移植することは充分にできる。そのための条件は立地の選定と新規従業員の採用を慎重に行うことだった。
 選んだのはオハイオ州コロンバス市郊外。従業員の採用も3000人から50人を選ぶという慎重なものだった。
 そうして次のようなしくにを組み込んだ。
 駐車場や食堂などの利用はすべての従業員を平等に扱う、人事部は従業員の面倒を細かく見る。仕事で身に着けた知識や技能のレベルに応じて手当を支給する。役員と従業員の賃金格差を大きくしない。業績がわるくなっても簡単に解雇しない。等々
 同じような方式は後続の日本企業に受け継がれた。
 それは日本企業を成功に導いたけれども、アメリカに暮す人々にとっても社会システムや生活を根底から覆すものだった。同じことは世界各地で起こった。
MITが調査結果を発表したのは1990年だった。
それは、日本とアメリカの自動車メーカーの競争力の差は(単に価格だけではなく)企業組織全体の機能の有機的な連携のサイクルに潜んでいることを明らかにするものだった。このしくみを「リーンシステム」と名付けた。
日本では、この強みを生産現場に限定してとらえていたが、MITでは企業組織全体にわたるとしてとらえていた。(続く)




アベノミクスの雇用効果

2014-12-10 | 経済と世相
8日の中日に面白い記事がありましたので、ご紹介します。
『安倍首相が雇用についてよく持ち出すのは「10万人増加した」というデータだ。7日の都内の遊説でも「正社員は10万人以上増やした」と強調した。
これに対し、野党側は逆に「22万人減っている」(共産党山下書記局長、7日のテレビ討論)などと批判している。
いずれも根拠とするのは、総務省労働力調査だ。だが、比較している時期が異なる。
 首相が言及するのは、今年の7~8月期と前年の同じ時期の比較だ。正規雇用の数は今年の7~9月期3305万人、昨年の同時期で3295万人。確かに10万人増えている。
 一方、「22万人減」という数字は安倍政権の登場する前の2012年7~9月期(3327万人)今年の7~9月期(3305万人)で、12年から13年にかけて正規雇用が非正規に代わっていった時期なので、こうした違いが出る。
 一方、民主党の海江田代表は遊説などで「世紀雇用は35万人減った」という。これは今年7~9月期の正規雇用を12年の平均値(3340万人)と比べたためだ。
 東大の小沢真理教授は「労働者数は季節で変動するので、本来は同じ時期同士で比較すべきだ。」
 アベニミクスの効果を見るには、「政権以前の12年87~9月期最新データの今年の7~9月期との比較がフェア。中期的には世紀が減り、非正規が増えている」と語る。

犬山を歩く

2014-12-08 | 旅行

一7日、8時に家を出て、犬山遊園に向かいました。小牧線経由で9時、犬山駅で途中下車。自民党の小泉進次郎が駅前で演説すると言うので、どんな話をするか聞いてみようと思ったのです。東口にでると、大勢の人が集まっています。寒い朝、これだけの人が集まるのですから、新次郎君は人寄せパンダの役割は充分果たしています。愛知6区の候補者N氏が演説していました。
 「国家の基本である教育の再生を・・]と教育問題を論じている。聞くところでは、N氏は文科副大臣とか。いわゆる文科族議員の一人かな?
次に進次郎氏が登壇。「愛知県の生んだ英雄豊臣秀吉は当時“人たらし”と呼ばれました」。「Nさんは平成の“人たらし”です」。と、候補者を持ち上げる。政策についての「小泉論」を述べるかと思ったが、「候補者を誉める」だけなので、切り上げて電車で犬山遊園に。9;35、東口で地図を貰い歩き始めました。すぐ東口の急坂を上り、犬山成田山です。

「犬山成田山は千葉県成田市の大本山成田山新勝寺の別院で、寺号を大本山成田山名古屋別院大聖寺。   弘法大師が敬刻開眼された不動明王をご本尊としています。名古屋周辺のご信徒様がたびたび千葉まで参拝されるのは困難であることから、昭和28年に中部地区最大の不動尊霊場として開創いたしました。」と言う。
息を弾ませながら一気に本堂まで上がる。参詣を済ませて、坂道を降り今度は寂光院へ、

ここの参道はすべて東海自然歩道になっている。今回のコースは8㎞とのことだが、アップダウンが多いから9mか10㎞ぐらいのコースに相当する。寂光院は創建以来1350年、尾張最古刹の神社だそうですが、上まで上がったら、さらにロープウェイ風の乗り物があって、「展望台まで 200円以上の奉納をお願いします」とあった。6人乗りで順番待ちの列が並んでいたので割愛することにして、引き返す。坂を下りると、木曽川沿いに出る。
 ここから木曽川沿いに犬山城までの風景は懐かしい風景だ。この辺りは、以前、読売犬山マラソンのコースで、5~6回走ったことがあるからです。
中でも昭和53年2月の大会は記憶に残っています・
 ゴールすると、愚息が現れ「あれっ、父さん早かったね」と言う。愚息と一緒にマラソン大会を走ったことは何度かあるが、愚息に褒められたことは、この時が最初で最後。
実際この時の1時間31分は、20㎞の私のベストタイムだった。その時のコースを今日はゆっくり、はるかに犬山城を見ながら歩きました。
犬山城は、創建当時のまま残っている全国でたった三つの城の一つだそうです。今日は、天守には登らず隣の針綱神社に参詣しました。
「五穀豊饒、厄除、安産、長命の神として、濃尾の総鎮守とされている。


安産、子授けにご利益があるという。これは、1537年(天文6)、織田信康(信長の叔父)が自ら手彫りの狛犬一対を奉納して安産祈願したことからである。」とか。
 「ゴールまで跡3km」の掲示があった。お城から犬山駅まで2㎞ぐらいじゃなかった?まだ寄り道がある?お城を降りて古い街並みを本町まで歩く。案の定、本町から駅に向かわず出来町に向かい、専正寺まで寄り道して駅西口まで歩いてのゴールでした。ほぼ12時、2時間半のウオーキングでした。