古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

新聞記者 司馬遼太郎

2015-06-30 | 読書
『新聞記者 司馬遼太郎』(文春文庫)という面白い本が2年前刊行された。面白い本である。こんな面白い本が、出たことを最近までしらなかったのは、私としては迂闊であった。
新聞記者 福田定一氏が作家司馬瞭太郎になる前のエピソードを編めた本で、著者は産経新聞。どのように面白いか、以下一部引用する。
「私の愛妻記」という司馬のエッセイがある。
<―――あのな。
と、私が、われわれの生涯でもっとも重要なことを発言しかけたのは、真夏の夕暮れであったようにおぼえている。
 場所は、当時私のいた新聞社の近くの、桜橋という市電の停留所であった。われわれは大勢の人と一緒に、安全地帯で市電を待っていた。
「あのな、あんた。つまり、僕の嫁はんになる気はないやろな」
そんな意味のことを、この時私は、折り目正しい標準語で話しかけたつもりであった。しかし、場所が悪かった。まだ陽が落ち切っておらず、あたりが明るすぎた。
「えっ?」
というように顔を上げたのは、群衆の方である。私の声が大きすぎた。
みな、私の方を見てしまっている。
どの視線もにやにやしていて、好奇心に満ちきっていた。しかもその視線どもは、いったん私を見てからゆっくりと動いて、私と一緒に立っている女性の顔に釘付けになった。
―――相手はこいつかい。
というわけであろう。
が、次の瞬間、私にとってひどく不幸なことが起こった。
その女性は、プイと横をむいたまま、素知らぬ顔をしたのである。ただ、顔が真っ赤だったために、この劇中の主要人物を彼女がつとめていることが、誰の目にもわかった。
「おい、おい」
私はことの勢いで、さらに言葉をかけずにいられなかった。しかし、彼女は、横を向いたままである。
私こそ、いい面の皮であった。みな、暑気で頭をたられた男が、ひとりごとを言っているとしかおもわなかったろう。
やっと、市電が来た。
私どもは、真っ赤になって乗り込んだ。
――場所がねと、彼女は後でいった。
―――わるかったのよ。
どっちが恥をかかせたことになるかはしらないが、彼女はそう答えた。それがまぁ、求婚の受諾であった。>
司馬遼フアンにはおすすめの本です。

木喰と円空の作品展

2015-06-29 | 美術館と美術展
先日、『仏像の見方』という本を読みました。
http://d.hatena.ne.jp/snozue/20150623
最終章で、木喰と円空を論じていました。
その木喰と円空の作品展が、名古屋松坂屋の美術館で開かれているというので、27日、行ってみました。
http://www.matsuzakaya.co.jp/nagoya/museum/2015_enku_mokujiki/
木喰の表情ゆたかな「微笑仏」は、確かに、『仏像の見方』にあったように、「子供」の表情をうつしているかのようです。
案内のパンフレットによれば、『天平~鎌倉時代に深化を続けた仏像表現は、江戸時代には過去の作品の模倣による停滞期に入ります。円空・木喰は全国を行脚僧として布教活動をしながらも独創的な仏像や神像を彫り歩きました。
 円空(1632~1695)は、荒々しくも自由奔放で力強い鑿痕により独特にデフォルメされた仏像を数多く彫り残しました。32歳で仏像を彫り始めてから64歳で入寂するまでの30年間の間に12万体造像したとも言われ、今までに確認された円空仏は5400体余。
 一方、木喰(1718~1810)は表情ゆたかな「微笑仏」と呼ばれるやわらかな笑みをたたえる丸みを帯びた像を彫り残し、61歳に初めて造像して以来80歳で1千体、90歳に2千体の造像を請願し、93歳で生涯を閉じるまで多くの仏像を彫り、現在720体余が確認されている。
 円空・木喰がたどった土地に今もなお、守り伝えられる仏像、神像、資料、初出品作品、円空7体、木喰6体を含む約270点により時代を超え、人々を魅了する二人の造形美を紹介します。』
荒子観音(名古屋)の木端仏、西光寺(柏崎市)の12神将像が印象に残りました。しかし、これ程たくさんの彫刻を一度に見ると、疲れますね!

真面目な総会

2015-06-28 | 経済と世相
  株主総会の季節です。26日がピークだったようです。例年通りD社総会に出席しました。総評すると「真面目な総会でした」。以下その報告。
9時、家を出て、あいにくの雨なので、市バスで大津橋へ。外堀通りを5~6分西へ歩いて、会場の名古屋銀行協会ビル・5Fホールに着きました。受付を済ませ、ジュースを1本頂きロビーで休憩していたら、懐かしい顔ぶれが一人、二人と現れます。「やぁこんにちわ」と会長から声をかけられました。「こんにちはおはようございます」と、答えながら「おやっ」と思いました。控室に向かう会長の足取りがいかにも老人の足取りです。確か73歳になるから、年は争えない。顔を見るとまだ元気だが、年齢は最初に足に出る。
 10時になる。会場に入りマイクの近くに席を決めた。総会で、私が質問しないと、「あいつ死んだのかな?」と思われるだろう。
 定刻に始まり、会長が議長席に着いた。「1号議案から6号議案までありますが、説明を一括して行い、質問も一括で受け付けます」という。
107期事業報告からビデオを使い内容説明がはじまった。
議案は、1号議案 剰余金の処分について
3月期は10円の配当。2号議案は、定款一部変更。
3号議案は、取締役の選任 5名の役員がすべて再任。社外取締役として日銀OBのT氏を提案した。
4号議案、監査役選任。5号議案は、補欠監査役の選任。
約因賞与が6号議案でした。
 「それでは、質問、動議を受け付けます。発言の方は出席カードナンバーと氏名をお知らせください」。
早速、手を挙げたが一瞬早く手を挙げた株主がいて、議長はそちらを指名した。
若いお兄さんが立ち上がり、設備投資の地域別の投資額について聞いた。真面目な質問です。
常務が経ちあがり答えた。「国内と海外と半々です。国内は生産能力増大のライン、およびバイメタルラインへの投資、海外は、生産能力増大のための投資です」。
 次に小生が立って室問。「
「事業報告の中で『世界No1シェアを達成』とあったが、それぞれの分野での市場の大きさと当社のシェアの推定値を教えてください。
 常務が回答「すべり軸受けの市場としての公表されたデータはないが、メーカーはわかっているので、それらのメーカーの公表データから推定すると、
すべり時軸受 3400億円で当社シェアは18%。
自動車用すべり軸受け、1200億円で当社は31%
低速デイーゼルエンジン用(大型船用)は46億円中当社は59%を占めると思われます」。
続いて別の株主「コーポレーチブ・ガバナンスへの対応について説明を」
社長が回答した。真面目な回答です。『法の求める制度については着実に対応していく』
その後、毎年恒例の質問者K君が立ちあがり、配当性向について質問した。
『現在配当性向は20%程度だが、世の中の傾向として30%を目指すべきでは』
常務の回答は、『配当性向は20%、連結ベースでは18%で、十分とは思っていないので今後努力する』
今度は小生が経ちあがり二度目の質問。
『地域別の売上高と営業損益を見ると、北米の売上は、+42%だが、営業損益はマイナスである。 メキシコ工場の経ちあがりに伴う経費のためと思うが、今年度は単年度黒字達成できるのか。』
常務の回答は『そうなるべく努力します』だった。
『女性従業員の活用策』についての質問があった。
「従来6歳以下の子供がいる場合、就業時間を短縮できる制度があったが、これを小学3年生以下の子供についても適用できるようにした。」と、人事担当役員の説明。
K君が質問した『第3号議案(役員選任)だが、会長を除くと、選任候補は全員60台です。50代の役員が少なくとも一人や二人はいてほしい。後継者の育成をどう考えているのか。年齢だけで決めるわけではない、また会長・社長はお元気であることは承知しているが、元気な内にこそ、将来を見据えて手を打っておく必要がある』
もっともな意見だ。
議長が回答者に社長を指名した。
でも、会長はもうやめるべきとは言えないので『後期者の育成は努力している』という回答に留まった。
技術開発について、小生の質問です。
『現在もっとも重点を置いている技術開発のテーマは?もう一つ、海外の生産ラインの新設の場合、基本方針として、最新鋭の設備をもっていくのか、それとも国内生産で実績を上げた設備を移転するのか?』
社長『製品開発は、ストップ・ゴーを繰り返しても摩耗の少ない軸受けの開発、生産技術では、コンパクトライン(従来の半分の長さで生産できるライン)の開発に力をいれている。
細菌、特に欧米では、最新鋭の設備でないと、受け入れてもらえない。』
先輩のWさんが発言を求めた。
「バイメタルの生産能力は余裕を持つべきだ」。社長が九州佐賀にバイメタルの工場を新設する取り組みを説明した。
 最後に小生が『今年一月から単位株を100株に変更したが、その狙いと成果は?』
「取引出来高は何ともいえないが、株主数は約200名ほど増加しているので、できるだけ多数の人に参加を求めるという目的は達成されつつあるのでは?」という常務のコメントでした。
11時45分、質問は終り、各議案は拍手で承認されました。
総じて、真面目な質疑が多く出た真面目な総会でした。真面目な株主が増えたのも単位株数変更の効果だったかも?
 最後に執行役員全員がならんで挨拶して終了でした。私の知らない人の法が多い。退社してから、もう18年以上も経っているのだ、と改めて感じました。

安保関連法制

2015-06-24 | 経済と世相
 国会で、自民党推薦の学者を含め3人の憲法学者が、いずれも安保関連法案を「憲法違反」だと指弾した。
週刊朝日6月26日号に、田原総一郎さんが以下の寄稿をしていた。
【なぜ安倍内閣はこうも強引なのか。そのことを日米間の表裏の事情に通じた元外務官僚に問うと「第3次アーミテージ・ナイ・レポート」なるものを紹介してくれた。アーミテージは、共和党政権時代の国務副長官、ナイはハーバート大教授で元国防次官補(民主党系である。
そのアーミテージとナイが、2012年8月15日に日米同盟に関する第3次レポートを発表しているのだ。過剰自衛隊幹部学校の「戦略研究会」がホームページ上のコラムで概要を発表している。
それによると、内容は、「日本が今後世界の中で『一流国』であり続けたいのか、あるいは『二流国』に甘んじることを許容するのかと問いただすものだという。そして、日本は今後とも「一流国」として国際社会で。一定の役割を果たすべきだとし、そのためには自衛隊について「時代遅れの抑制」を解消すべきだと主張している。「時代遅れの抑制」とは、私が思うに「専守防衛」「一国平和主義」のことではないか。
 さらに、中国が尋常ならぬ軍備拡大を図る中で、日米同盟の強化が必要だとも指摘している。この時期にはまだ南シナ海での強引な人工島づくりは進んでいなかったが、埋め立てが進み、もしもフィリピンなどの国々と何らかの事態が起きれば、日本がしかるべき行動をとることをもとめているのだろう。
 そしてホルムズ海峡が登場する。「ホルムズ海峡におけるイランの動向に鑑み、封鎖の意図が明らかになった際には、日本は単独で海上自衛隊の掃海艇を派遣し、当該海峡の通航の安全を確保する」という。
 この指摘で、私は安倍内閣が周辺事態法を改革し、自衛隊の活動範囲を地球の『裏側まで伸ばしたこと。そして首相が繰り返しホルムズ海峡の機雷除去に言及していることが理解できた。「アーミテージ・ナイ・レポートがそれを強く求めているのだ。
 さらに、このレポートでは、「武器輸出3原則の緩和」そして集団的自衛権の容認の必要性を強調している。こうしてみると、安保関連法案は、「アーミテージ・ナイ・レポート」と見事なほどかさなっているのがわかる。
田原さんは、「こうしたかたちになるのが同盟関係というものかもしれない。」というが、もし日米同盟が日本に集団的自衛権行使を要求するというのなら、現在の日米同盟自体が違憲でないか考え直す必要があろう。

『船を編む』

2015-06-18 | 読書
『船を編む』(三浦しおん著、光文社文庫)を読みました。2012年の本屋大賞第一位の小説です。本屋大賞とは、本屋の店員が「一番お勧めしたい」本を投票で選んだものです。
 署名の意味は、辞書を言語の海を渡る船に例えたもので、主人公はもちろん、辞書の編纂人、辞書オタクぶりをユーモラスに描いています。女性雑誌のCLASSYに連載され、20~30代の女性を読者対象としたよみものですから、とても読みやすい文章です。
 あとがきで、筆者から「辞書の編集過程」について取材を受けた岩波書店の平木さんがこう書いています。
(取材でもっとも印象に残ったのは)【2~3時間の取材中、いくつかの数字をメモした程度で、ほとんど記録を取られなかったことだ。】
【後日、友人、知人に「すごいんだよ!メモをとらないんだよ!」とふれまわっていた。】
トークイベントでご本人が種明かしをされていた。
「取材の時には、相手の表情や、同僚とのやりとりなども見ておきたいので、メモは最小限にとどめ、取材が終わったら喫茶店に駆け込み一気に頭の中の情報を吐き出すのだ、と。」
 脈絡もなく話したことが、現場の雰囲気から作業手順を含めて的確に再現され、物語の背景として描き出される。
一回目から作品の世界に引き込まれた。具体的な取材内容などほとんど覚えていない私としては、取材で口を滑らしてしまった日頃の本音なのか、しおんさんが想像されたり他社で聞いたりしたことなのか、もはやわからないことが、登場人物の口から次々と語られ、地の文で語られる。
平木さんは、最後にこう記している。
【この書がベストセラーになった理由は、テーマが辞典だからというだけでは、もちろんないだろう。弱く欠点をもった、しかし魅力に満ちた人々が愛情とユーモアをもって描かれ読者はその誰かに自らを投影できるのではないか。
【出版、製紙、料理など仕事と向き合う思いも随所に語られる。自分の天分を生かせる仕事、好きでたまらない仕事に出会えることは、この上ない幸せである。そうでなくても、目の前の仕事に真面目に取り組むことで、誰もがその道の「プロ」になり誇りをもてるのだと励まされ】本です。
 評判の本だから、どんな本か読んでみようと買った本でしたが、読み始めたら巻を置くことの出来ない本でした(私は、どんな本でも30ページ読んで面白くなければやめるのですが)。

白鳥公園、七里の渡しを歩く

2015-06-14 | 旅行
 13日も駅ちかウオーキングに出掛けました。9時5分前に家を出て、東海通駅に9時半。最近この駅をスタート、ゴールにするウオーキングが多いが、今までは東海通から西へ歩いた。今日は東である。白鳥公園と宮のわたり公園、熱田神宮を歩いて、ちかてつ堀田駅がゴールの8~9kmです。
④出口を出て左へ。南郊公園の手前で、東へ曲がる。南一番町で北へ曲がる。船方の交差点で斜め左、ケーキ工房パチスリーがあったので100円のシュウクリームを買い、バス停で腰を下ろして賞味した。大宝町4丁目で東へ曲がると、やがて名古屋国際会議場と白鳥公園が見えてくる。公園に入り、腰を下ろし、少し早いが弁当を広げた。名古屋学院大学のキャンパスに入り堀川に出た。近年、郊外にあった大学が名古屋市内に移転してくる傾向があるが、ここの大学のキャンパスはそのはしりであった。

堀川沿いに下流に歩くと白鳥庭園です。

白鳥貯木場を埋め立てて、1983年(昭和58年)年から1991年(平成3年)年までかけて整備した庭園。当初から白鳥庭園とする計画であった公園ではあるが、はじめは「白鳥公園」という街区公園として開園。1989年(平成元年)開催された世界デザイン博覧会のパビリオン「日本庭園」として本格的に整備された。閉幕後は、庭園専用の有料公園とするため継続整備され、1991年(平成3年)に完成・オープンした。

大きな池を中心に配置した「池泉回遊式」の日本庭園で、都市公園内の庭園としては、東海地方随一の規模を誇る。世界デザイン博覧会のパビリオンとして設置したため東海三県を中心とした中部地方地形をモチーフにしている。公園の南側にある築山を御嶽山に、そこから各池に注ぐ川を木曽川に、中央・周辺の池を伊勢湾に見立てており、自然の雄大さを演出している。
本日は入場料2割引き。65歳以上は80円でした。出口近く、大きな紫陽花がさいていました。
「名城公園でも紫陽花が盛りだよ」
「名城公園行ったの?」
「行ってない。でも毎年今が盛りなんだ」と、二人ずれが大きな声で話していた。
私も今年はジョギングを休みにしているので、名城公園の紫陽花をまだ見ていない。明日あたり見に行こうか。
庭園を出て、尚も堀川沿いに下ると、堀川と山崎川の合流地点に、宮の渡し(別名七里の渡し)公園です。今回はここでチェックポイント通過カードを貰う。


昔、東海道は、ここから船で三重県の桑名へ渡りました。昔の船着き場が公園として整備されています。



内田橋北の信号で歩道橋を渡り北へ。やがて熱田神宮南です。

熱田神宮に入ったところで「駅ちかウオーキング」の案内標識を見失いました。
神社の域内は標識を自粛していたのかもしれません。
宝物館を出たところで神社の外の道路(東の道路)に出て、次は東の秋葉山に立ち寄る予定でしたが、伝馬町に出ました。西の道路に出てしまいました。
ここまで8kmほど歩いていましたが、左足の足裏が腫れてきて痛み始めました。「神宮西口」の地下鉄駅が見えましたので、秋葉さんはカットしてここで打ち切ることにしまいた。地下鉄で「堀田駅」に行き、受付でチェックポイント通過カードを提出、完歩印を貰い(少しインチキかな)記念の「2015SPRINGU」駅ちかウオーキングのバッジを貰う。12時半帰宅しました。


水泳のレッスンと筋トレ

2015-06-10 | 水泳
 私のリハビリ、筋トレについての報告です。4月13日から、理学療法士の指導を受け、体幹の筋トレをやっています。
1月中旬、名古屋市のスポーツ障害診断を受診しました。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20150116
その時診断した医師から
「バランス能力が落ちているわけではないが、頸の動きが悪いためバランスがとりにくくなっている可能性があるので、体幹のバランスを鍛える訓練を取り入れるとよいでしょう」と言われた。近くの整形外科病院の医師に相談したら、「ウチにも理学療養士がいるから、リハビリに体幹の筋トレをやってはどうか」と、勧められ、週2回のペースでやることにしたのです。
「理学療法」とは、身体に障害のある者に対し、主としてその基本的動作能力の回復を図るため、治療体操その他の運動を行なわせ、及び電気刺激、マッサージ、温熱その他の物理的手段を加えることをいう
診療の補助として理学療法を行う。それは一般に考えられている、加齢、事故などによる身体機能障害からの回復目的のトレーニングのみならず、脳卒中での麻痺などから、新生児の運動能力の発達の遅れ、循環器・呼吸器・内科・難病疾等の身体的な障害を持つ人に対して、医師の指示の下、その基本的動作能力の回復を図ることを目的に、治療体操その他の運動(運動療法という)を行わせ、及び電気刺激、温熱、寒冷、光線、水、マッサージなどの物理的手段(物理療法という)を加える者である。その物理的治療手法による治療を理学療法という。

理学療養士という資格を持つ療養士M君が30~40分相手をしてくれて筋トレの指導をしてくれます。
体幹の筋トレが必要だという意見には私も納得です。というのは、泳いでいて横波が来たりすると姿勢がすぐ崩れる。姿勢が崩れると立て直すため腕を回します。腕の回転が速くなるとすぐ疲れてしまうので長く泳げないのです。
「ゆっくり泳ぐトレーニングをしなさい」と、コーチはいう。ゆっくり泳ぐのは簡単と思われるかもしれませが、正しい姿勢を保ちながらゆっくり泳ぐためには姿勢を保つ筋肉が強くないといけない。
 それで、筋トレが良いと、通っています。療養士M君はまだ若い人ですが、言うことは理論的です。
 最近ウオーキングをやっていて困っている問題があります。10㎞も歩くと、左足の足裏が腫れてきて痛むのです。
 この種の腫れは経験したことがあります。30年前、フルマラソンに挑戦しようと考え、練習を始めた直後、両脚の足裏が腫れてきたのです。走るとき体重の3倍の荷重が両足にかかりますから、20kmも30㎞も走ると腫れてきます。練習を重ねていると、足裏が固くなりますから、腫れはなくなりました。フルマラソンはそれだけ足裏を酷使するのです。今回の場合は、両脚でなく、なぜか左足だけです。整形外科医の診断を受けると「足の酷使だ。休ませれば治る」と言う。
「何故左足だけ腫れるのかな?」。M君が言います。
「野末さん、左側の筋肉に指令する神経がおかしくなっているらしく、左の腰も膝も上がりにくくなっている。歩くときは自分の体重を足裏だけでなく、腰や膝で受けている、ところが、腰や膝が荷重を持ちこたえず足裏だけに体重がかかり、足裏を酷使することになる」と言います。全く論理的です。
 でも、年が離れているので、時々面白い対話が発生します。
 先日、4年前の淀川マラソンでもらったTシャツを着て筋トレに行きました。「このシャツ有森裕子のデザインしたTシャツだよ」と私が言うと、
「有森裕子って?水泳の選手ですか」
「1992年のアトランタオリンピックの女子マラソンで銀メダル、1996年のバルセロナオリンピックで銅メダル」。「そんな人いたの!」「19年前のバルセロナオリンピックの時何歳でした?」。M君が答えました。「3歳でした」

7日の中日新聞に今年のなごやマスターズ水泳大会の1位入賞者のリストが載っていました。昔、一緒に泳いだ友人の名前が出ていました。2年前までは、私の名が出ていたのに!
もう一度、復活したい。そのため、筋トレのリハビリの他、北スポーツセンターに週3回「ワンポイントレッスン」(10分間の個人レッスン)に通っています。
 もっぱらバタフライのレッスンですが、先生は「バタの正式の泳ぎをマスターしないといけない」と言います。
「ゆっくり泳ぐ練習をしなさい」、「バタのキックは、水を叩くのではなく、水を押すのです。水しぶきは上がらないのです」等々、来年の復活を目指して頑張っていますが、今のところ、バタは25m泳ぐと、息が上がってしまいその後続けられない!まだまだ復活には時間がかかりそうです。

京都御苑(2)

2015-06-08 | 旅行
 堺町御門から木々を眺めながら、北へ歩き5~600m。この公園の樹は、あたかも盆栽のような枝ぶりに手入れされています。

銀杏の大木がありました。

「源実朝が暗殺された時、犯人は銀杏の大木に隠れていたと伝えられますが、鎌倉時代、イチョウは日本にまだ伝わっていなかったのですが・・・」と先生。
「鎌倉に行くと、その銀杏の二代目だとか三代目だとかいう銀杏がありますが」とメンバーの一人。「伝説とはそういうものですね」と先生。
東へ歩い出水の小川に出ました。ここから南に戻り、丸太町の入り口近く、閑院宮邸跡。無料公開していたので、入って見学しました。

 二八〇年の樹の木目が展示されていました。

12時10分、閑院宮邸を出て北へ。左手に蛤御門が見えました。幕末、巻き返しを狙って長州藩が激闘した。大河ドラマの舞台です。

さらに北へ歩き仲立売り御門の近くに無料休憩所があります。ここで、弁当を広げました。右手が京都御所。春秋一般公開しますが、今日は参観許可を取っていませんので、外側から御所の兵と白い雲を写しました。
昼食後北へ。児童公園がありました。

巨木で子供が遊んでいました。
同志社大学を左手に見ながら近衛邸跡を通り過ぎ、中山邸跡に来ました。ここは明治天皇のお母さんの実家。

 明治天皇が産湯をつかった井戸があるとか。ここから御所の鬼門を見る。
 南に折れるとコオロギの里。「メタセコイヤがありますよ」と教えてくれた。

清和院御門に来て「ここで終わりにしましょうか」


ここで解散になった。清和院御門を出て帰ろうとしたが、方角がわからないので、宝塚に帰るというメンバーに京都駅まで道案内を頼む。御苑の周りをぐるりと回り、今出川通りに出て東へ烏丸通まで歩いたが、かなりの距離。これなら御苑の中の道を戻った方が早かった。烏丸通と今出川通りの交差するところで、地下鉄今出川駅。4条で乗り換える彼と別れ、京都駅。3:33のひかり(ひかりと言っても各駅に停車)に乗り、名古屋駅4:25、家には5時、帰宅できました。

京都御苑(1)

2015-06-07 | 旅行
 京都御苑をウオーキングしました。
Green Earth Network(以下GEN)からメールが入り「京都御苑の自然を観察しましょう」と、ウオーキングの誘いがありました。
 GENは、中国の大同付近で植林活動をしているNPO法人で、私はかれこれ10年以上前から会員になっています。
 会員と言っても、何か特別なことをしているわけではなく、月千円の会費を寄付し続けているだけです。何故会員を続けているのかと言うと、これまで80年近く生きていても世に役立ついいことを何もやっていません。せめて世の中にいいことをやっている人を応援したいと考えて会員になっているのです。
 時々会員対象の講演会やこうした催しの案内がくるのです。
京都御苑を歩く機会など滅多にありませんから「行ってみるか」と参加の電話をして、6日の朝新幹線に乗りました。7:56のこだまで9時前京都着。
地下鉄烏丸線に¥260の切符を買って乗りました。乗ってすぐ目的地の丸太町はどのあたりかな、路線図の掲示を車内を見まわしましたが、路線と駅名の掲示がありません。観光地としては配慮がほしいものです。4つ目ぐらいの駅が丸田町でした。4つ目で¥260は少し割高、と思いました。
下車しましたが、まだ9時半。約束は10時でしたので、周辺を歩いてみようかと、エレベータに乗ったら。福祉会館という建物の1Fでした。別に珍しいものもないので、また地下鉄に戻ろうとエレベータに乗りB1のボタンを押したが動かない。またすぐ開いて次の人が乗り込んできてボタンを押すと上に上がり始めました。
「僕、地下にいくつもりだった」と言うと、その人は「土曜日はこのエレベータは地下へはいきません」と言う。省エネとはいえ、京都人がかくも節約家であるとはしりませんでした(このエレベータが珍しいもの)。1Fに降りフロントで、聞くと「玄関を出て左に行き階段をおりなさい」と言う。再び地下鉄に降りて北口に行きました。
10時になると、続々メンバーが集まり21名でした。
 案内は前中さん(元大阪府代大学院教授)でした。
 一番出口を出ると、京都御苑の入り口です。

http://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/
前中さん「京都御苑は国民公園です。国民公園は日本に三つ、ここと東京の新宿御苑。皇居外苑です。お役所の管轄では環境省、他の都市公園は国土交通省の管轄です」
「京都御所は京都御苑の一郭ですが、管轄は宮内省です。御苑の面積は65ヘクタール」
入り口の大きな樹から説明を始められた。
「これは百日紅です。サルスベリでも猿は登ります。人間でものぼれます。名前と言うものは、最初にそう名付けてその名になっただけで、名は体をあらわしません。人間でも子供が生まれれば親はいい名を考えますが、その名の通りにはなりません」
いご、御苑内の樹の名を説明し始めた(几帳面な人がいて、先生の説明する名前をメモしていた人がいたが、解散の時“今日、先生の説明した樹は83でした”)
「名前自体にはあまり意味がありません」と最初に煙幕を張った。
直ぐ横に九条邸跡があった。要するに京都御苑は、幕末、御所と周辺の九条、一条、西園寺、中山、近衛などの邸宅であったところを明治になって公園にしたのだ。
 その九条邸跡に入ると、厳島神社(巻頭写真)があった。
「国民の土地の中に特定の宗教法人を置くのは難しいので、こうした神社は別組織になっている」と言う。
九条邸の横に堺町御門がある。

幕末、この門を護っていた長州藩をおいおとすため、薩摩・会津の軍がこの門を固めた。いわゆる七卿落ちのクーデターである。
「ここの樹木は管理が行き届いていますね」と前中先生は言う。
 巨木の根元は防虫のカバーをしている。それに、巨木に盆栽のような枝ぶりの手入れをしている。

福井の旅(2)

2015-06-05 | 旅行
 我々4人の旅は、一泊し、夜、お互いの専門分野から話題を提供する勉強会を行っている。
今回は、Hさんに日本仏教の話。明日の予定が、蓮如上人が開いた吉崎御坊を訪れることになっているので、「法然・親鸞・蓮如を語る」を聞き、日本仏教について40分ほど語り合った。
 仏教というものは、奈良仏教に見られるように、天皇が国家の安定を祈念して大寺院を建てるなど、言うならば“国家仏道”だった。それが国家でなく、個人の救済を祈る教えになったのは、鎌倉時代の仏教からだった。その最初が、法然であり、法然の理論を精緻化したのが、親鸞。その教えの真宗は、消滅寸前まで衰亡していたのを再興したのが蓮如さんというわけ。蓮如さんは経営の才に恵まれた人だったらしく、比叡山派の弾圧を逃れ吉崎を開いたが4年半後、京都に山科本願寺を開き、晩年には大阪、石山本願寺を創設する。
「蓮如さんののおふみ」と言う形で文書が残されているので、教義上は親鸞の教えを文書化したことが功績と言えるかもしれない。Hさんによると、日本人の仏教に「来世」という考えが強く入ってくるのは蓮如さん以後だという。
 蓮如さんは、必ずしも権力者と争うという態度をもったわけではないが、吉崎御坊を築いたことは加賀一揆の因となったし、石山本願寺は、信長との長年の戦の根拠地になった。
 それよりも、85年の生涯に、5人の奥さんと結婚し、27人の子をなしたという生涯は、驚異的と思いました。
 6時半から夕食。「カラオケをやろう」と夕食後カラオケルームに行ったが、機械が故障。画面に「スタッフに連絡してください」。マネージャーが来てあれこれなぶったが、治らない。「カラオケ屋を呼びます。部屋に戻り寝ていたら10時過ぎに「治りました」と電話がきたらしいが、すっかり寝込んでいた。
 実際、夕食で飲んだ地酒「三国物語」がすっかり効いて翌朝7時までぐっすり寝込んでしまった。
翌朝「ご迷惑をおかけしました。お詫びに」ろマネージャーが土産を持ってきた。

 翌日は雨がぱらついていた。「雨が降っても、ここまで来たら、東尋坊をみないわけにはいかない」。波に浸食された景色が売り物だから観光船に乗って海側からの景色を見るべきだったかもしれないが、一寸だけ海をのぞいただけ。すっかり観光地化され土産物屋が立ち並んでいた。次は「吉崎御坊」です。カーナビの案内で30分ほど。吉崎御坊「蓮如上人記念館」に着いた。玄関直ぐのシアタールームでビデオを見た後、館内見学。
http://honganjifoundation.org/rennyo/facilities/facility.html
七不思議堂という蓮如さんの生涯の七不思議を解説した展示館がありました。熊谷組の社長の家を移築したというケヤキづくりの日本建築です。

 見終わった後喫茶スペースで珈琲。
メードさんに「蓮如さんに会っていきたい、どこにあるの?」と銅像の位置を聞く。坂を上
がると公園。ここが昔の吉崎御坊跡。詩人の高村光太郎の父、高村光雲の作になる12mの銅像があった。
太平洋戦争時、金属供出命令で工作隊が、この像を取り壊すという話が出た時、門徒衆がこの像の前で篝火を焚き人垣を作り「絶対に渡さない」というかまえだったという。さすが一向一揆の後裔です。その所為かどうか、昭和9年に造られた像は今も健在です。
 加賀ICから北陸道に乗り丸岡ICで降りる。
 丸岡城を訪ねる。

25年ほど前、丸岡城マラソンを走った時。ここを訪ねた。 柴田勝家の甥・勝豊が天正4年築いた城で日本に現存する最古の天守閣がある。昭和23年の福井大地震で倒壊したが、昭和25年、重要文化財指定、昭和30年修復再建(昔の材料を使い)という。中に入ってみたが、階段が急で狭い。安全のためロープがある。降りるときはロープを持たないと危ない。まるで登山のように階段を3Fまで上がり、周囲の展望を楽しんだ。外に出て、地震まで屋上にあった石のシャチを見つけました。

 寛永元年、一筆啓上で有名な本夛家の所領となったが、その後元禄8年有馬家が領主となり幕末まで続く。
 外に出て12時になっていたので、駐車場横の「ナントカ茶屋」というレストランで、今日も蕎麦を頂く。庭園の綺麗なレストランだった。

 帰りは、丸岡ICから高速に乗り米原経由羽島ICに4時、スタンドにより給油。満タンにして26.3l、420㎞を26.3lで走行したことになる。
西岐阜駅で再開を約して解散。5時15分帰宅しました。