古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

高野山紀行 1

2009-05-31 | 旅行
5月26日から27日、友人と一行4名で高野山に旅行に出かけました。以下、その紀行記ご笑覧ください。

10時、名古屋駅集合。Mさんの車で、名古屋西ICから東名阪に乗りましたが、誤算がありました。昨日からリフレッシュ工事が始っていたのです。インター入り口から渋滞。でも、工事をしていたのは名古屋と出口の亀山部分だけでしたので、途中はそれほどでもなかった。

「東名阪と西名阪の間は、高速はまだつながってない?」とMさんに聞くと

「一般道です。でも高速と同じような一般道です」

亀山を通過すると、国道25号線に入る。Mさんの言ったとおりだった。全く高速と同じつくりで、信号無し。道路わきに時速制限60kmの表示が出ているのに、どの車も80km以上で走っている。料金がないから、これが本当のフリーウェイだ。

「こんな道で、60kmで走っていたら危険ですよ。60kmで走っていないことが分かっているのに、60kmの表示だけ出しとけばいい、ということらしい」とMさん。

天理を通過して西名阪に入る所で料金所。「一般車400円」と表示されているので、「先払いなの?」。でも、西名阪がどこまで行っても400円はあり得ない。「どうなってんの?」

それでも400円払って、500mほど行ったら、「郡山IC出口」の表示「ここだよ」

「なーにこれ?500mで400円なの?此処で出て正しいの?」と車を止め、後続車に「橿原方面はこの方向で良いんですか?」と聞くと「そうです。」

R24を行けば良いと、一般道を走るが、このR24、表示が分かりにくい。所ところで分岐があるのだが、分岐のどちらもR24の表示がある。後になって分かったが、高速道を作っているのだが、部分的に出来ていて、その細切れ高速道をR24として開放しているらしい。つまり、従来の一般道のR24と、部分的高速化されたR24があるのだ。それならそうと表示してくれないと、初めて来たドライバーには分からない。

昼食を取る。橿原を経て御所(ごせと読む)市から五条市。橋本市に入ると和歌山県。ここからR370に折れて高野山に向かう。九度山(くどやま)町が高野山の麓。麓で「高野山22km」の表示。「22kmもあるの?」、「800mも上がるのですから22kmあるのです」とMさん。

九十九折の山道を上がりきって、大門が見える。過ぎると、忽然として平地が開けて町並みがある。高野山町は4時前到着。町を通り抜け、中の橋駐車場に車を置く。ここに奥の院への参道がある。

大勢観光客が歩いていた。私たちも、参道を登り始めると、両側にびっしり墓や慰霊碑が立ち並んでいる。「シロアリ」の慰霊碑まであった。シロアリ駆除の業者団体が建てたもの。企業の慰霊碑も立ち並んである。「日産自動車」や「シャープ」の物故従業員の慰霊碑もあった。しかし、やはり目を引くのは、史上の有名な人物の墓だ。豊臣秀吉はもちろん、浅野内匠頭や四十七士の墓も。大名の墓には鳥居のあるものもあった。

「これ(高野山にお墓を作ること)って、ステータス・シンボルになっているんじゃない」と私が言うと「そうですねえ」とSさんが頷く。


墓々の間に芭蕉の句碑がありました。

「父母の しきりに恋し 雉子の声」

(続く)


四角い太鼓

2009-05-25 | 旅行
「平針」は名古屋東郊です。わが住宅シニアクラブの今月のハイキングは「平針散策」でした。以下、ご笑覧ください。

22日、総勢7名、今にも降り出しそうな空模様でしたが9時半出発。地下鉄平針駅を10時20分に歩き始めました。

最初に着いたのが、秋葉山慈眼寺。

大同4年(809)京都御所炎上に際し、遠州の三尺坊なる方が火災を鎮めるため京へ上がり、その帰途この地に立ち寄り創建、永禄3年(1560)の桶狭間合戦には、織田信長がこの山に祈願して勝利を得たので三尺坊の尊像を奉納したされたと伝えられる。

このお寺で面白いものを見つけました。一つは、四角い太鼓。もう一つは、織部焼きの灯篭です。考えてみると、太鼓は必ずしも丸くなくても良いのですね。

すぐ隣に忠魂碑がありました。立派な石碑が並びます。「明治三七・八年戦役記念碑」とあるのは、日露戦争の戦死者を悼む石碑。隣に「征清・・・記念碑」は日清戦争、真新しい「太平洋戦争戦没者慰霊碑」(これだけ慰霊碑で記念碑でない)。「大正三年・・至大正九年・・記念碑」というのがある。第一次世界大戦とシベリヤ出兵の犠牲者の石碑らしい。地元の戦死者を弔う石碑が築かれ、今もお守りされているのは、地元に裕福な家が多いのだろう。

秋葉山慈眼寺から針名神社(祭神の針名根連命は昔尾張の国を治めたと伝えられる)へ向かいます。途中、巨木が立っていて、耳をつけると、樹の内部で流れる水の音が、ざわざわと聞こえると、皆さん、耳をつけていました。



なぜか、神社の境内の牛や馬(狛犬でなく、狛牛と狛馬)の彫刻は、五三の桐の紋章が付いている。

境内に「ご縁木」という同じ古い根から、檜と杉が生えている木を見出しました。どうやら、自然が行った接木らしい。

http://toppy.net/nagoya/tenpaku13.html

針名神社の直ぐお隣が、名古屋市農業センターでした。

栽培されている花々を見ながら歩くともう12時近い。「良い時間ですね」と食堂に入る。¥700のランチを頂く。

食事後、鶏の飼育室を見学にいくと、卵が孵化する様子。中から殻をつついて、殻にひびが入っていきます。皆さん、興味津々で覗き込んだ誕生の瞬間でした。

雛の誕生にすっかり時間をとられましたが、その後、特産のアイスクリームを頬張ってから農業センターの売店へ。皆さん、割安の野菜などをリュックいっぱい買い込み、私も、茄子・胡瓜・イチゴをリュックに、帰途につきました。

もう一寺、駅に戻る途中、秀伝寺に立ち寄りました。曹洞宗のお寺だそうですが、隣の保育園はお寺の多角経営らしい。明応2年(1498)創建、火災で廃寺になっていたが、家康の命で、慶長17年(1612)再建された。由緒ある寺のようですが、綺麗に整備されて、やはり平針の人は裕福だと思わせた。

「土地の値上がりで裕福になったかなあ」。「みんな、山持ち、田畑持ちだったからね」。

名城公園駅でとんでもないハプニングがありました。

そそっかしい地下鉄の車掌が、乗客が降りきらないうちにドアを閉めて電車を発車させ、仲間の一人が、隣の駅まで運ばれてしまった。

シニヤクラブとして見過ごし出来ないと、シニヤパワー全開。駅長室で猛抗議!隣駅に運ばれた仲間も戻ってきて抗議に加わる。地下鉄職員の教育はどうなってんの?

降雨率70%の予報でしたが、雨に降られず(どなたか”晴れ女“か”晴れ男“がいた?)、住宅には4時半ごろ帰宅しました。

ウィルスって生き物でしょうか?

2009-05-23 | 経済と世相
新型インフルエンス・ウィルスが話題になっています。

そこで思ったことですが、一体ウィルスって生き物でしょうか?それとも無生物で、単なる物質なのでしょうか?

生物とは何か?定義があると思います。例えば「細胞が集まって出来ている」。ところがウィルスって細胞より小さい。

野口英世博士が、黄熱病の病原菌を研究したが成功しなかった。黄熱病は細菌による病気でなく、ウィルスによる病気だったので、野口博士の時代の顕微鏡では、細菌の細胞より小さいウィルスを見ることが出来なかったのです。

生物を「自己複製作用で増殖するもの」とする定義もあります。ウィルスは増殖するから、他人に感染しますね。この定義なら生物らしい。しかし、ウィルスは自分だけで増殖するのではなくて、他の生き物の細胞の中に入ると、DNAやRNAのように細胞分裂、つまり、自己複製が可能になる。「自己複製」の意味を、他の生き物を利用しての「自己複製」にまで広げたときに、初めて、ウィルスは生き物になる。

要するにウィルスって何なの?私は、「ウィルスは細胞の部品」あるいは、「ウィルスは細胞の断片」と思っています。

もちろん、私は生物学者ではありませんから、間違っているかもしれません。ただ、私の乏しい知識からすると、そう思うのが、一番理解が早いのです。

もうひとつ、何故大騒ぎをするのか?

生物は、自分の身体と違うものを見つけると、それを攻撃する抗体が存在するから、免疫機能が発揮できる。この自分と異なるものと言うのは、自然界には無限といっていいほど沢山ある。そのひとつ一つに対応する抗体をすべて持たねばならないとなると、身体中、抗体だらけになってしまう。実際は、異物を体験すると、その異物に対応する抗体をつくる仕組みが、身体の中にある。(このしくみを発見した利根川進博士はノーベル賞を受賞しました。)

ウィルスの抗体も、ウィルスを体験することで、人間の身体に出来てくる。ところが、突然変異で出来た、文字通り新型ウィルスは、今まで誰も体験していないから、誰も抗体を持っていない。そんなウィルスが世界中に広がったら、人類は大打撃を受ける危険性がある。というので、大騒ぎになっていました。

「水際で防止する」と、空港の検疫体制を強化して、大張り切りの大臣もみえましたが、グローバル化の時代、そんなことは不可能でした。感染しても潜伏期間がありますから、空港に着いた時に発病していない人は、すいすい通過してしまいます。

グローバル化は、経済もおなじですが、良いことばかりではありません。近頃、外国に行ったことがない人が珍しいくらいになったのは、グローバル化の恩恵ですが、マイナス面も考えて、政治家には手をうってもらいたいものですね。もちろん、経済について。

以上、小生の愚考です。

三木たかしさんと読書

2009-05-21 | 読書
 18日夕刻6時、NHK衛星第二「蔵出し」で、先日なくなられた三木たかしさんを取り上げていました。

 三木さんは下喉頭がんだったと初めて知りました。手術で声が出なくなっていたのを何とか声を出せるところ迄回復していたようですが、インタヴューに応える声も痛々しく感じられました。

 インタヴューでは、こんなことを話していました。

「本を読むノルマを決めていました。毎月30冊、純文学、小説、話題になっている本と、どんどん読みました。音楽は、輸入版のCDを月30枚は聞く。」

 音楽家も、音楽だけでなく、いろいろな情報に接することで、自らの感性を磨いているのですね。そうした感性が音を生み出す。

「不思議なことに音が降ってくるんです。書くのが間に合わないくらい音が流れてくる。」

 例えば「津軽海峡冬景色。<荒波>のイメージが湧き、<タタターン>というイントロが浮かんでくるのです。

「津軽海峡冬景色」は、歌の部分のメロデイよりも、イントロが先にできたみたいです(この歌は、歌詞より先に曲ができたのだそうです)。

 石川さゆりさんが、この曲は「イントロにエネルギーがある」と語っていました。

 私の好きな「豊後水道」も、イントロの音が素晴らしい。

それに(ある意味で意外なことに)「風の盆恋歌」も三木さんの曲です。

 ところで、三木さんの読書のノルマから思ったことです。

 放送大学で指導教官から「NOZUEさんは、とりあえず関連文献を探して、5月中に10冊は目を通してください。8月の第一回報告には、少なくとも20冊の参考文献リストを付けてください。」と言われていますので、三木さんにならって私も参考文献に目を通すノルマが必要です。

 そういえば、今週出た週刊朝日に、司馬遼太郎さん家のお手伝いさんの文章が掲載されていました。「最初、先生のお宅にお伺いした折、膨大な本の量にびっくりして、“みんな読まれたのですか?”と聞くと“そういうわけではないが、何処に何が書いてあるかは、皆わかっている”と応えられた」そうです。

そういう本の読み方を、私もマスターしたいものです。

宇和島紀行(3)

2009-05-07 | マラソン
学校と民具館を見た後、古い町並みを歩いて、先哲記念館へ。
http://www.city.seiyo.ehime.jp/kanko/uwa_sentetsu.html
その後、通りを西に歩く。高野長英の隠れ家があった。二宮医院という病院が見えた。多分、二宮敬作先生のご子孫だろう。ここから北へ曲がると、現在の小学校に出る。「児童の安全のため閉ざしています」の掛札が門にかかっている。二宮先生の時代には考えられない札です。高台の上に米博物館がありました。昔の小学校を移築したもののようです。
http://www.city.seiyo.ehime.jp/kanko/uwa_kome.html
駅に戻って、12時前の野村町行きのバスに乗った。直ぐ「西予市役所前」というバス停があったので、「市役所は卯之町にあるんだ」。平成16年、5か町村が合併して誕生した市です。35分ぐらいで終点に着く。バスを降りると、「あぁ、この風景は覚えがある」。実は、12年前、ここのマラソン大会に来たことがあるのです。

予約した宿は聞くと、直ぐわかった。民宿みたいな旅館で、「早かったネ。もう上がってもらっていいよ」と、女将さん。「風呂が壊れてね。使えないの。近くの乙亥会館のお風呂に入ってください」と入館券を呉れた。徒歩4~5分で、その会館があった。何と、明日のマラソン大会の受付会場だ。地下に大風呂があった。十分身体をほぐして出てくると、お兄さんたちが会場作りに大忙しでした。「12年前に来た時は、こんな立派な会館でなかった」と思ったら「定礎平成17年」の表示があった。体育館と大浴場を組み合わせたような施設で、乙亥とは、この地方に11月の乙亥の日に、火除けの神様に相撲の奉納をする慣わしがあるのに由来するとのこと。実際、次の愛媛国体(平成17年)の相撲はこの会館で行われることが定まっているという。
相撲関係の展示室もあり、中央大学後援会の化粧回しをつけた玉春日(ご当地出身)の関脇時代の写真も展示されていた。今月末が断髪式だと、旅館の女将さんが話していた。

3日は第18回朝霧湖マラソン大会。8時半、会場の乙亥会館まで歩き受付をすませた。旅館に戻ってゆっくり仕度してから、荷物は旅館に預けて会場に行く。スタートは10時半、ハーフ出場は700余名。
スタートの号砲後18秒でスタート線を踏んだ。最初町中を一回りしてから、
朝霧湖を目指す。上り坂が続きます。5kmほどで緑の湖面が見えてきました。
http://www.wec.or.jp/center/hyakusen/asagiriko.html
「どうもおかしいな!」。標高で150mくらい登るのですが、えらくキツイのです。12年前、こんなきついコースを走ったのかな?これだけきつかったら、記憶がある筈なのに、そういう記憶がないのです。ということは、12年前はこの難コースを全然キツイと思わなかった!景色は見覚えがあるからこのコースを12年前走ったのは間違いない。
やっと登りきったと思うと下り坂。下ると上り坂です。これが繰り返される。10kmを過ぎたのはなんと1時間9分です。これじゃ2時間半ぐらいかかっちゃう!それに、両太腿の前側の筋肉が痛くなってきた。走り終わって筋肉が痛むのは良くあること。走っている最中に筋肉が痛むのは初めてです。12km辺りで折り返し。脚は痛くても,
とにかく粘って、2時間20分43秒でフィニッシュしました。後半は下り坂が多かったので少し早くなった。しかし、12年前は1時間50分で走っていますから30分も遅い。
高級和紙を使った完走証には、「60歳以上男子(*)55位」とありました。(*75名出場)
お蕎麦とお握りの昼飯を頂き、入浴券を貰ったので、その後、昨日と同じ風呂に入る。
旅館に戻り、女将さんとしばらく雑談。「来年も来てよ」の女将さんの声を後ろにして辞去。3時5分のバスで卯之町へ。4時のJRで八幡浜。名古屋行きのバスは8時55分ですから、4時間ぐらい時間があるな、と駅前をぶらついたら、BOOK OFFがある。「こんなところにもあるの?」とのぞいてみたら、宇沢弘文著「経済学の考え方」(岩波新書)が100円で売られていた。衝動買いし、ついでに、なかにし礼の「翔べ!わが思い」(文春文庫)を250円で買った。
レストランを探し2時間かけて夕食。その後マクドナルドで、200円の珈琲で2時間ちかく買った本を読みながら時間をつぶしました。
帰りのバスは、午前0時半に吉野川SAで休憩。さらに明け方の5時半、東名阪の御在所SAで休憩、予定より15分早い6時15分、名鉄バスセンターに到着。足掛け5日の旅を終え、家には7時前の朝帰りでした。以上、私のGWの旅です。

宇和島紀行(2)

2009-05-06 | マラソン
 最初の登り口に戻り、今度は城山を半周して搦め手門側に出て、天赦園に行く。先に伊達博物館が目に入ったので入ってみた。
入ると直ぐに、例の伊達政宗の詩が掲げられていた。

馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯は天の赦す所
是を楽しまずして如何せん

ここでの少年は若い頃の意味。若いころは戦に明け暮れた。戦の時代が終わった時、気がつけば白髪の老年に達している。残躯(余生)を愉しむことは、天の赦(ゆる)すところであるから、これを愉しまずしてどうしようか。この詩が、天赦園の語源になったそうです。
しかし、私は、この詩の解釈、後半は違うのでは?と思います。
『残躯は天の赦すところなるも 是を楽しめず。如何せん。』というのが、私の解釈。政宗は『自分は世に生まれてくるのが少し遅かったばかりに天下を取ることが出来なかった。才能から言えば、秀吉や家康に劣るものではなかった。しかし、世に出たときは秀吉・家康の体制に定まっていて、自分は東北の僻隅に押し込められてしまった。このことを思うと、余生を愉しむような気分になれない』。私には、英雄政宗が、余生を愉しもうなどと言う平凡な発想の詩歌を作るとは思えないのです。
伊達博物館は、伊達家に伝わる鎧などの美術品を公開していますが、GWの目玉がありました。豊臣秀吉肖像画です。国の重要文化財で通常期間は展示されていないのですが、毎年GW期間のみ、公開されているとのことでした。

博物館を出た後、天赦園に向かいました。入り口が思ったより小さくて見逃し、つい反対側に歩いたので、園を一周してから、「あぁ此処が入り口だった」。
竹(伊達家の家紋)林を背景にした静かなたたずまいの日本庭園です。

天赦園を出た後は、空腹を覚え、路傍のトンカツ屋に入って腹ごしらえ。また市内を歩いて駅まで戻り、ホテルにチェックインしました。
部屋に入ったら、パソコン用のモデムが設置してあり、「お手持ちのパソコンをLANケーブルで接続してご使用ください」とあった。もうひとつ、「光触媒で室内空気を洗浄しています」という装置が置いてあった。どういう仕組みになっているか分からないが、世の中、日進月歩と思った次第です。
フロントで貰ったサービスの愛媛新聞を開いたら「クライスラー破綻」の記事。かつて自動車産業で働いた自分としては、感無量です。
2日は、8時半にホテルを出て卯之町に向かおうと、駅のキップの自販機で、乗車券を買おうと千円札をいれました。卯之町まで750円と表示されました。「あれっ440円じゃなかった?」。よく見ると「乗車券と自由席特急券」と表示されている。しばし、自販機を眺めていたら、隅に「乗車券のみ」というボタンがあった。このボタンを押したら「卯之町¥440」の表示が出ました。
ここでは、普通電車に乗ろうという暇人は少数派で、通常は特急に乗るようです。実際、普通電車より特急電車の本数の方が多い。前日、八幡浜から特急に乗ったら、特定特急券¥510の表示があった。特定とはどういう意味かがわかりました。
JR四国としては、料金を上げないと採算が取れない。そこで特急ばかり走らせることにしたが、地元から苦情が出たので、近い区間の特急券を「特定特急券」にしたのだ。

 さて卯之町です。
卯之町を全国区にしたのは、司馬遼太郎さんです。前述の「街道を往く」で、卯之町を詳述し、小説「花神」の舞台にも。蘭医二宮敬作がシーボルトの娘イネを卯之町に引き取り女医に育てる顛末が語たられています。
30分ほどで卯之町駅。無人の駅に、「うわ町歩きマップ」のパンフが置いてあったので1枚頂いて歩き始めた。もう一人女性が下車したが、彼女もパンフを取って歩き始めた。観光客らしい。
 最初に行ったのは「開明学校」、学制発布の明治5年に開校した学校です。
http://www.city.seiyo.ehime.jp/kanko/uwa_kaimei.html
入り口に「入館券を民具館でお求めください」とある。学校の向かいに「民具館」があった。
「一館のみだと200円ですが、4館ご覧になる学遊切符は400円です」と言う。結局4館見てみようと400円のキップを買った。

宇和島紀行(1)

2009-05-05 | マラソン
ゴールデンウィークの旅の報告、ご笑覧ください。(少し長くなってごめんなさい。)

30日夜11時10分の伊予鉄高速バス「八幡浜行き」に乗車しました。

夜行バスは16年ぶりぐらいです。昔はマラソンのたびに夜行バスを使ったのですが、最近の遠距離旅行は、JRのジパング料金の3割引で出かけるのですが、今回はGW中でジパングが使えないので、久しぶりの夜行バスです。

エンジンの音がやかましくて、なかなか眠れません。でも、運転手の「吉野川SAです。休憩しますが5時20分までにお戻りください」、マイクの声に、はっと気がつくと、時計は5時5分。いつの間にか寝入っていました。「吉野川って言ったから、瀬戸大橋でなく、明石海峡大橋を渡って来たんだ」。運転手に「このバスは明石海峡大橋を渡ってきたの?」と聞くと「そうです」。トイレ休憩の後、再び走り出し、松山に7時10分過ぎ、終点・八幡浜には10分遅れの8時45分に到着しました。古くからの港町ですが、最近は森進一の港町ブルースですね。

『・・・明日はいらない 今夜が欲しい
港 高知 高松 八幡浜』



バスを降りると、JRの駅の隣でした。駅で時刻表を見ると、普通電車よりも特急の方が多い。8:59の「特急いしづち」に乗って30分。宇和島駅です。ホームに入る電車の窓から、今夜の宿の看板が大きく見えました。

宇和島は、ごく最近まで、日本国の街道のゆきつく果てと言われていた。司馬遼太郎の「街道を往く」では、

『いまでも国鉄のレールは宇和島駅で終わっている。昭和30年代にはじめて宇和島へ行ったとき、駅の構内のむこうで線路が果てているのを見て、つよい感動を持った。日本中の鉄道がなんらかの形で循環しているものだとおもっていただけに、宇和島という町は鉄道文明の上からみても最涯であることを感じたのである。(南伊予・西土佐の道)』

注:高知県の窪川までを結ぶ予土線が昭和49年に開通し、宇和島駅は四国を循環する鉄道路線の一環となった。


駅を出ると、駅頭にSLがある。勿論、JRのレールの最涯てという意味ではない。「汽笛一声新橋を・・」の鉄道唱歌を作詞した大和田建樹の出生の地であることに因んでいる。

駅前のホテルに荷物を預けて、早速、宇和島城に出かけました。

『日本で現存する12城・・・北から。弘前城、松本城、犬山城、丸岡城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城・・・』この12城が、再建でないお城と言われます。考えてみると私は、宇和島城はまだ行ったことがなかったが、他の11の城は、総て訪れている。

宇和島の城、是非機会を作って訪ねてみたいと考えたのが、今回の旅のきっかけでした。


お城に近づくと急坂になります。何かトレーニングをやっていたらしく、三々五々、女子学生の集団が降りてきた。私を見ると、口々に大きな声で「オハヨウゴザイマス」と挨拶する。古い町に伝わる良風美俗かな?

 城は慶長年間、藤堂高虎によって築かれた。その後、伊達政宗の長子秀宗が入城し宇和島伊達藩が始る。政宗が、徳川に遠慮して、秀吉に仕えていた秀宗を廃し、仙台伊達家を次男に継がせたので、幕府は宇和島10万石を秀宗に与えたという。

藤堂高虎は築城の名手と言われ、高虎縄張りの城は各地にある。今治、津、伊賀上野・・

あたかも、日本庭園に小堀遠州作という庭園が多いように、城は高虎の普請が多い。そういえば、小堀遠州は、確か、藤堂高虎の女婿だった。

最初に突き当たるのが、桑折(こおり)長屋門。門を通して後ろの石垣が見える。

そう、この城は石垣と石の階段が圧巻でした。天守閣までの坂道は良い運動になります。

天守から降りてきたら、山里倉庫(城山郷土館)という建物が目についた。中に入ってみたら、観光客は他にいなかったので、管理人と思しき男性が、丁寧に展示品の説明をしてくれた。昔、三の丸の武器倉であった建物で、現在は古い民具や古写真を展示している。(続く)