古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

私のジョギングと水泳

2014-08-31 | 水泳

このところ、朝は涼しくなりました。秋が急にやってきたようです。
30日朝6時半、久しぶりにジョギングに出掛けました。お城を回ってから、名城公園に入りジョグコースを一周、7時半帰宅しました。
ここのところ走っていなかったのですが、私がジョギングを始めたのは30年前の8月30日ですから、30周年記念に走ってみようと考えたのです。
47歳で始めたジョギング、初めは5分走るのがやっとでしたが、やがて20分、30分、1時間と走り続けることが出来るようになり、
50歳の時、初めての42.195㎞を走ることが出来ました。年間で、一日4㎞つまり4×365=1460㎞を走るようになりました。
しかし、高齢化により体力の低下は争えず、一昨年は年1200km、昨年は600㎞になりました。今年は、現在165㎞、このペースだと年300㎞になるでしょう。走るスピードも落ちて、昨年3月の錦帯橋マラソン(山口県)では、
制限時間内に完走できず失格してしまい、それ以後マラソン大会出場はあきらめています。
 大会に出なくなると、走り続ける動機もなくなるので、年々走る距離が落ちているのです。
 人生、何事もいつか終りがあるものですから、私のランニングに終わりが来たということでしょう。
 水泳についても、ぼつぼつ終りがきたかな?と思う出来事が最近出てきました。
 今年2月の転倒事故。外傷はほとんど治っていますが、頸の痛みが停まらないのです。
頚椎損傷、いわゆる「むち打ち症」です。頸には脳から手脚に届く神経が走っています。
この神経回路が損傷したようです。脚、特に左脚が泳ぐときにうまく動かない。
そのためキック力が極端に落ちて、浮力が足りない。腰が落ちてしまうのです。そうなると、水の抵抗が大きくなって、泳力が低下します。
 具体的に言うと、バタフライで100mは、以前はそんなにきつくはなかったのですが、今は25mも泳ぐと息が上がってしまう。
100mはとてもおよげません。ですから、6月のなごやマスターズ、6連覇がかかっていましたが、100mは無理と棄権しました。
 9月のレインボーカップも2連覇がかかっていますが、現状では、無理です。
平泳ぎでも、以前は200m泳いでも平気でしたが今は50mで息が上がってきます。
 もちろん、泳ぐ距離も減ってきて、以前は年365㎞以上泳いでいましたが、昨年は300km、今年も現在までで165km、年間300kmがやっとです。
 ランニングに終わりが来たように、水泳にも終わりが来ているのかもしれません。
 なにしろ、後10年で88歳、あの世に行っていても不思議でない年頃です。
 このまま泳力の低下に甘んじて水泳をあきらめるか、脚のリハビリで、
毎日距離を決めて(例えば300m)、プールで毎日バタ足キックを繰り返して、
バタフライの100mに再挑戦しようかと思案しています。
80代で100mバタフライが泳げたら、「自分で自分を誉めてやりたい」のですが・・・


ハーグ平和会議

2014-08-16 | 読書
『若き日本の肖像』という本が今月の新潮文庫で刊行されました。寺島実郎さんが、1997年から雑誌『フォーサイト』に連載をまとめ「1900年への旅」として単行本とし
2007年、新潮選書として出したものを文庫版としたものです。
1900年当時、つまり20世紀の初頭に、日本から欧州に旅した日本人が、欧州から何を学んだかを探索し、今日日本は欧州から、そして世界から何を学ぶかを述べた本です。
 取り上げられた人物が多彩です。
 秋山真之、夏目漱石、森鴎外、南方熊楠、福沢諭吉、寺島宗則、福地源一郎、益田孝(三井物産初代社長)、ベルサイユ講和会議日本代表団の首席全権の西園寺公望、牧野伸憲顕、近衛文麿、松岡洋右、野村吉三郎、重光葵、吉田茂、芦田均
 それぞれ興味深い記述ですが、「ハーグ国際英和会議」についての記述がもっとも面白いものでした。「ハーグ国際平和会議」をご存じでしょうか。
太平洋戦争の後、占領軍は日本の戦争責任を問う「東京裁判」をスタートさせた。戦勝国が報復のために敗戦国を裁くという批判を避けるために、占領軍は、裁判の正当性を確立する必要があった。この時、唐突に登場してきたのが「平和に対する罪」という訴因であり、その立証の根拠の一つが「ハーグ平和条約違反」であった。東条英機はじめ28人のA級戦犯とされた人々からすれば、晴天の霹靂ともいうべき理由づけであった。
違反とされた事由は、ハーグ平和条約第23条「敵国または敵軍に属するものを、背信の行為をもって殺傷すること」の禁止が、宣戦布告前の真珠湾攻撃開始に適用されるというものであった。法的制裁効力のない平和条約を持ち出すこと自体、東京裁判の正当性を疑わせるが、世界の戦争史において、宣戦布告のない軍事行動などは米国自身の行動をも含め、枚挙にいとまがない。にもかかわらず「日本の卑劣さ」をアピールするうえで、この「ハーグ平和条約」違反という説明は一定以上の効果を持った。
 1899年、オランダのハーグにおいて「国際平和会議」が行われた。開催を提案したのは、ロシヤ皇帝ニコライ2世で、これをオランダのヴィルフェルム女王が受ける形でハーグでの開催になった。会議には26か国が参加、主として欧州の国々であるが、アジヤからは日本、清国、タイが参加、その他欧米以外ではトルコ、ペルシャ、メキシコが参加した。
 今日、ハーグに国際司法裁判所が置かれている歴史的背景もこの100年前の国際平和会議の開催にあった。
何故ニコライ2世が国際平和会議を呼びかけたのか、大きな謎だが、このニコライ2世こそ、日ロ戦争時のロシヤ側の当事者であり、1917年のロシヤ革命によって倒れたロマノフ王朝最後の皇帝。皇太子時代の1891年、訪日して大津で巡査津田三蔵に襲われた大津事件の被害者である。

「ハーグ国際平和会議」は2回行われた。第1回が1899年5月18日~7月29日、第2回が1907年6月15日~10月18日まで。第2回は米国の要請を背景に再びニコライ2世の招請という形で実現、44か国が参加した。当初のねらいであった「軍備の制限」は成果をえられなかったが、第1回会議で方向づけられた「国際紛争の平和的処理」や「戦争法規の改善」については進展が見られ、それが今日「ハーグ平和条約」といわれるものになった。また、現在の国際司法裁判所の前身である常設の国際仲裁裁判所の設置を決めたのもこの時だった。
日本はハーグ平和会議に2回とも代表を送った。第1回は日清戦争後、第2回は日露戦争後という微妙なタイミングであったが、日本はこの会議を欧米列強に伍す重要な会議と認識し、大型の代表団を派遣した。第1回は林薫男爵を特命全権公使、陸軍は上原勇作大佐、海軍は坂本俊篤大佐が随員として同行している。
第2回は特命全権大使に都築馨六、特命全権公使に佐藤愛麿、副委員に秋山好古陸軍少将、島村速雄海軍少将。目を惹くのは秋山好古という名で、『坂の上の雲』の主人公秋山兄弟の兄で奉天会戦でコサック騎兵と闘った人物である。
当時の日本のメデイヤはこの会議をどう伝えたか。1899年の第1回平和会議にあたり東京朝日は、1899年6月2日~6月20日まで「平和会議の由来」という読み応えのある記事を掲載している。
また第2回会議にあたっても、同紙は、1907年4月10日~11月21日、実に14回も解説記事を掲載し、報道を続けている。
今日、溢れる国際情報の中で、日本人は明治の先人ほどに真摯な問題意識をもって、国際秩序の在り方、日本の針路を考えているだろうか。とりわけ、国際平和を実現し、維持するしくみについて関心と構想力を傾けているとは、とても思えない。戦後50年の日米同盟という枠組みに馴れすぎて、固定観念を脱して柔軟な選択肢や構想の中でこの国の安全保障やアジヤ地域及び世界の平和実現のシステムを模索する気迫に欠けているというのが、現代日本人の特色であろう。

19世紀に米国は3回しか対外戦争をしなかった(1812年の英国との独立戦争、1846年のメキシコ戦争、1898米西戦争)。興味深い数字がある。米国は19世紀の3回の対外戦争で4378人の兵士を戦死させた。20世紀の米国は第1次、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争という大きな戦争だけで、42628人を戦死させている。「自由と民主主義」を護るために全体主義や共産主義と闘ってきたという米国の思い込みは、「アメリカの正義」の押し付けとなって、それ自体紛争の火種に油を注いでいる。
20世紀を振り返るとき、この世紀の初頭に国際法、国際仲裁裁判所、国際平和条約といった法体系や機構を探索する「国際主義」が一定の動きをしていたことは注目に値する。その事例が「ハーグ国際平和会議」であった。
この世に「正義の戦争」など存在しないというのが、20世紀の最大の教訓である。
世界一好戦的な国、米国を念頭において、「集団的自衛権」を主張することがいかに危ういことかを日本の為政者に考えてもらいたいと、小生は思います。

弱者の戦略

2014-08-09 | 読書
『弱者の戦略』(新潮社)と言う本が雑誌などの書評欄で話題になっている、面白そうだと丸善で購入してきました。筆者の稲垣栄洋さんは1968年生まれ、静岡大学教授で専門は「雑草生態学」だそうです。
 「弱い者でも、強い者の何倍もの努力をすれば、勝つことができる」と単純に考えてしまいがちだが、生き物の世界は、「歯を食いしばって頑張れば何とかなる」といった甘い考えは通用しない。弱いように見える生き物たちが厳しい自然界を生き抜いているのは、それなりに理由がある。何気なく生きているように見える彼らだが、弱者には弱者なりの生存戦略がある。
そんな生物の弱者の戦略」を紹介するという本です。
 そもそも、生き物にとって、「強者」とは何か。生き残ることが出来なければ「強者」ではない。コンドルやシベリヤ虎ヨーロッパオオカミなど、猛禽類、猛獣が、今日「絶滅危惧種」になっている。弱いと思われている生き物が、いわば「弱者の戦略」によって繁殖している例は少なしとしない。
世の中は競争社会で、圧倒的に競争に強い人間や会社であればよいが、そうでない多くの人間や会社にとっては生きずらい。だからこそ、自然界をたくましくしたたかに生き抜く「弱者の戦略」は、私たちにとって多くのヒントを与えてくれる。
 弱者の戦略は三つある。
 第一に、襲い来る捕食者の攻撃からのがれる術。
 第二に生活の場を確保する種間競争。
 第三に同じ生き物動詞で競い合う種内競争。強い者は有利に餌場を確保しメスを獲得できる。では弱い者はどのように振る舞えばよいか。以下、この第三の例です。
 生物のオスは縄張りを持つことがある。縄張りを持てば、そこでエサを独り占めすることができる。そして十分エサがある良い縄張りには、メスがたくさん訪れる。そのため縄張りを持つオスは、メスを獲得して、子孫を有利に残すことができる。
 しかし、縄張りを維持するのはたいへんである。常に縄張りを見張り、他のオスが縄張りに入ってきたら、追い払わなければならない。時には戦いになる。縄張りを持つことは強さの証しだが、手間のかかること。とはいえ、縄張りがなければ、メスを獲得し、子孫をのこすことはできない。縄張りを持てない弱いオスはどうするか。
 ウシガエルは「ヴォー、ヴォー」と牛のような大きな声で鳴く。この大きな声で縄張りを主張しメスを呼び寄せる。
 カエルは低い声の方がモテル。低い声を出すということは、身体が大きいことを意味し、低い声はメスにとって魅力的だ。
 一方、小さなカエルは声が高い。そのため声の高低があまりに違えば、戦わなくても相手が自分より強いか弱いか判断できる。そのため、小さなオスの中には最初から鳴かない者がある。メスを呼び寄せるために大きな声で鳴くと、天敵に見つかり易い。どうせ鳴いても勝てないのなら、鳴かない方が天敵に見つかるリスクが小さいのだ。
 小さなオスは、大きな声で鳴いているオスのすぐそばで、じっと息をひそめ、鳴いているオスに惹きつけられるメスを横取りする戦略を取る。
 このような「鳴かない戦略」は、トノサマガエル、ニホンヒキガエルなどでも見られる。このように、正面から戦うのでなく、そっと忍び込んで隙をみてメスを奪い取る戦略は、生態学では「スニーカー戦略」と呼ばれる。「スニーカー」は、「コソコソと忍び寄るもの」と言う意味で、因みに靴の「スニーカー」は、音を立てずに静かに歩けることに由来する。
 さけの「スニーカー戦略」は徹底している。サケは、河で生まれて海に下り、海で育つと、再び川に戻って産卵する。海に下らず川に留まるものもいるが、海で育った個体に比べずっと小さい。
一法、海で育ったサケは体が大きく、卵をたくさん産むことができる。大きなメスに卵を産ませることは、子孫を残すうえで有利である。しかし、大きなメスには海で育った大きなオスがいる。河で育ったオスはどうすればいいか。
 魚は体外受精なので、交尾をするのでなく、メスが生んだ卵にオスが精子をかけるという受精方法である。そのため、ペアにならなくてもメスの卵に精子だけかけることが出来ればよい。そこで、小さなオスは、大きなオスとメスが、ペアになっているところにそっと近づき、大きなメス卵を産んだ瞬間に素早く精子をかける。
 まぁ、こんな面白い「弱者の戦略」を数々紹介した本でした。

竜馬と大久保の暗殺

2014-08-07 | 読書
半藤一利著『幕末史』(新潮文庫、平成24年1月)を読みました。1年ほど前に購入して積読しておいた、半藤さんが2007年、12回にわたって講演した内容を本にしたものです。
 あとがきで、『張り扇の講談調、落語の人情話調の、ずさんきわまりない一席』と著者が述べているように、肩の凝らない雑談風の幕末四半世紀の物語で、それが面白いのです。
黒船来航が1853年、西南事変で西郷隆盛が死ぬのが、1877年、翌年の大久保利通の暗殺まで、わずか25年の出来事ですよ。
 今の時代に例えると、25年前に何があったでしょうか。25年前、日本はバブルの真っ最中で、東証ダウが史上最高値を記録していました。同じ期間に黒船来航から西郷・大久保が世を去るまでが起こっているのです。
あらためて明治維新がいか短期間の大変革であったかに驚きます。
著者は新潟県長岡市で育ち、越後長岡藩は、戊辰戦争で城下が焼け野原になった朝敵藩でした。従って、著者の幕末史観は、「明治以後に日本の悪くなりし原因は権謀に富みし薩長人の天下を取りし為なること、今更のように痛嘆せらるるなり。」(永井荷風、断腸亭日記、昭和19.11.21)と同じです。
以下、面白い話題を拾ってみます。
 慶応3年11月、坂本竜馬が暗殺されます。暗殺の下手人は見回組ですが、黒幕がいたはずです。なぜなら、竜馬が近江屋にアジトを持っていたことがそう簡単に知れるはずがない。ひそかに知らせた奴がいた。それも同志ともいうべき薩摩が黒幕ではないかと思っています。というのは、竜馬はいまや武力討幕などとんでもない。大政奉還して徳川家が一大名に下がったのであれば、これからの日本は「船中八策」のように万機公論に決すべきで、それぞれの藩が有能な議員を出し、一致した意見で国家を運営していくべきで、ここで戦争をやるべきでないと主張している。竜馬のように、弁が達者で、活動的でどんどん影響力を広げ、同志を増やしていくような人がそういうことを言いだしている。つまり、権力を武力によって勝ち取ろうとしている薩摩にとっては坂本竜馬は邪魔なんです。つまり、権謀術数にすぐれた人間が天下を取り、人格者ともいうべき人物が維新の騒乱渦中でみな死んでしまった。誰もいなくなった後、日本の政権を取ったのは二流の人物だった。二流人物の系譜が太平洋戦争にまで続き(今も続いている?)、荷風の嘆いたような事態になったのです。
 竜馬暗殺事件、具体的には、この日の朝、大久保が京に入っています。そこで大久保が見回組に竜馬の居所を教えた、というのが私の説です。証拠のない探偵的な推理ですが・・・
黒幕の大久保さん。1978年5月14日、大久保は暗殺されました。咽喉に突き刺さった留めの一撃は首を貫通し地面に切っ先が突き刺さったという。今もその場所、ホテルニューオオタニ前の清水谷公園には、大久保遭難のばかでかい碑が立っています。ときどき眺めて思うのですが、暗殺されたことの記念碑とはいったいどういうことか。
 元会津藩出身、母や姉妹を戦火の中に失った芝五郎‘(後陸軍大将)は、その回想録ある明治人の喜六――会津人芝五郎の遺書)に、西郷・大久保の死についてこう書く。
「余は、この両雄維新の際に相謀りて、武装蜂起を主張し『天下の耳目を惹かざれば大事ならず』として会津を血祭りにあげたる元凶なれば。今日いかに国家の柱石なりといえども許すことあたわず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情もわかず、両雄非業のの最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり」(

パソコンのてんやわんや

2014-08-02 | 経済と世相
PCをめぐっててんやわんやでした。
KDDIとNTTの競争がすごいのです。私はkDDIを従来使っていました。マンション住民対象のインターネット売り込みを10年以上前から始めたので契約して特に不便はなかったので、使っていたのですが、NTTがマンション向けインターネットのシェア奪回を狙い猛烈に売り込みを始めたのです。NTTの販売の子会社が連日電話で「2年間料金特別割引します、月額1500円お安くなります」」。断っても別の子会社が電話をかけてくる。根負けして「8月から契約しよう」と言ったら、「7月30日に工事させてもらいます」。しばらくしてNTTから、どさっと大量の文書が郵送されてきた。目をとおすだけでも大変なので、そのまま放置しておいた。しばらくして今度は“TOPPA”という会社から大量文書が来た。TOPPA?と開けてみたら、NTTの子会社で、プロバイダーだ。「ご契約ありがとうございます。月額料金は1980円云々」
 これでわかった。回線料金はNTTに払いインターネット料金は、プロバイダーに払え」というのだ。両方払ったら安くならない!早速NTTニ電話した。「安く名sらないからキャンセル」
 翌日、子会社から電話がかかった。「TOPPAの料金は、すべてのオプシヨンを含んだ料金で2か月分は無料ですから、2か月の間に必要ないと思われたらオプシヨン分を断れば、料金は¥599でNTTの回線分と合せて月額¥3629になるから、キャンセルしないでください」。「じゃ。工事していいよ」
 さて、30日にnTTのサービスマンが来てルータの取り換えを行いました。「インターネットの設定はTOPPAから送ってきた郵便の中にIDとパスワードがあるからご自分で」と言うので、パソコンを立ち上げて、ウェブにアクセスしてIDとパスワードをインプットしたら「パスワードまたはIDが違います」。TOPPAに電話した。お姉さんが親切に対応してくれたのだが「あそこのコードを外してみて」とか「ここをくりっくしてみて」と小一時間かかっての結論は、「バッファローの無線ルーターを使っているので、そのシステムがnTTのシステムと干渉して、NTTのパスワードを登録しようとしてもバッファローの登録システムが動き出すのでうまくいかない。「無線ルータを外した状態で試行して」。1Fに小生のPCがあり、2Fに息子のPCがある。息子が1Fから2F迄無線で飛ばしていたのだった。息子のPCをなぶるとヤバイと日曜日にでも息子と相談して設定しようと中断しました。息子はCSK(コンピュータ・サービス・株式会社)に勤務し、パソコンやコンピュータは専門ですが、小生のPCの手伝いは一切してくれません。
 友人ら息子さんにpCの設定をしてもらったというメールをよく拝読して、親孝行なお子様のようでうらやましく思います。
 ところで翌日になって、電話がかからなくなったことに気づきました。連れ合いに電話が故障したから、ケイタイを貸してくれというと、「たった月額1000円程度のことで、やっかいなことやらねばいいのに」軽蔑の眼で、で言われました。
電話メーカーのブラザー(先日、FAX兼用のプリンターを買ったら、電話機もついてきたので、それを使っていました)に電話したら、「プリンタ-の通信ボックスの電話線を外してみてくれ」と言う。
はずしてみても全く同じ状況だ。「「当社の機械につなげなくても故障状態はおなじですから、当社の機械の故障でなく回線の問題です」と言う。もっとも!と納得して、NTTに電話したら、サービスマンが来た。ルーターを見た瞬間「あっ配線がまちがっています。入れ替えましたね」。昨日、プロバイダーのお姉さんに電話してあちこち線を外して試験した後、戻すときに小生がミスして配線したのだ。恥ずかしい!
 昨日からのいきさつを話して、インタネット設定がうまくいかないと話したら「私のパソコンでやりましょう」とノートパソコンを取り出し、「TOPPAのパスワードを見せてください。と設定してくれた。バッファローのルータとは無関係のパソコンだから、あっという間に設定を終えました。
インターネットが無事にみられるようになりました。もう一つ、メールの問題があります。一般にメールアドレスは、プロバイダーを変更すると、変更になりますが、従来のアドレスをそのまま使うこともできます。ただし月額¥500を今までのプロバイダーに支払う必要があります。KDDIに電話してその手続きをしました。

「契約の切り替えは1週間後です」とのこと。この500円を含めると4100円ぐらいですから月額で900円の節約かな?
 ところが、もう一つ問題発生。メールが送信できなくなったのです。
契約変更で何かあったかな?
TOPPAに聞くと、KDDIで聞いてくれと言う。問い合わせたら設定がくるっているから変更しなさい。指示に従ったら、治りましたが、何故設定が狂ったかまったくわかりません。てんやわんやでした。