古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

2017年私撰10大ニュース

2017-12-30 | サイエンス

2017年も跡一週間を切りました。「今年の大ニュース」など新聞紙上に載るようになりました。

小生も順不同ですが、2017年10大ニュースをチェックしました。

まさか、まさかの出来事が多かった1年でした。

  1. 今年の漢字は「北」。北朝鮮、ミサイル実験を続ける。
  2. 米国からイージス・アショワ2基買うんだって、本当にミサイル落とせるの?防御軍備を買うことになる。もの要りなことだ。
    日本全域北のミサイルの到達範囲。原発を狙われrたら全滅
  3.  原発裁判続く
    .大阪高裁 高浜原発の運転差し止めを仮処分取り消し
    でも
  4. 国連で核兵器禁止条約成立。日本は反対。
    こういう時期に日本の政治は、
  5.  衆院解散。野党惨敗。
  6. 民進党分裂
    日本が得意の筈の工業技術で
  7. タカタ、1兆円負債(国内製造業で最大)で民事更生法申請
    経営者のミスであることは間違いないが、経営のグローバル化の悪阻らしさも感じました。
  8. 東芝、半導体事業売却
    経営者のミスであることは間違いないが、政府の原発推進策も責任あり?

10. 日産、スバルなど日本の大企業で検査データの改ざんなど不正発覚
番外。陛下、ご苦労さまでした。

11. 天皇、平成31年4月末の退位決まる

 

 

 

 


2017私選第4四半期(10月~12月)10大ニュース

2017-12-26 | 経済と世相

2017年も跡一週間を切りました。「今年の大ニュース」など新聞紙上に載るようになりました。

小生も順不同ですが、2017私選第3四半期(10月~12月)10大ニュースをチェックしました。この3ヶ月も、こんなにいろんな事件がありました。

  1. 衆院解散。野党惨敗。
  2. 民進党分裂
  3. 日産、スバルなど日本の大企業で検査データの改ざんなど不正発覚。
  4. 座間市で9人殺人
  5. 北朝鮮、ミサイル実験を続ける
     米国からイージス・アショワだって、防御軍備を買うことになる。もの要りなことだ。
  6. 天皇,平成31年4月末の退位決まる
  7. 広島高裁、伊方原発の運転さし止め。
  8. 日馬富士、暴力事件で引責引退
  9. 新幹線で重大インシデント

      たががユルンデいる?

10. 羽生さんと井山さんに国民栄誉賞

 

 

 


司馬遼太郎の歴史観

2017-12-25 | 読書

東区図書館を覗いたら「2018年は明治維新150年です。明治維新に活躍した人や関連する本を紹介します」と、一連の本が並べられていた。手に取ってみて3冊ほど面白そうだったので借りてきた。

『竜馬史』(磯田道史著、文芸春秋)

「坂本竜馬」(講談社学術文庫、飛鳥井雅道著)

『司馬遼太郎の歴史観』(中塚明著、高文研)

3冊目です。司馬遼太郎の歴史観とは「坂の上の雲」に対する批判らしい。

「司馬さんは昭和ヒトケタから20年を「異胎の時代」というのです。「胎」とは「はらむ」あるいは「はらごもり」の意味。「それまでとは違った非連続の時代の日本」)。そしてはらませた根源は「参謀本部だ」というのです。借りてきました。

 私も司馬さんのこうした考えに若干の疑問があります。

日露戦争までの国民の価値観が戦争後何故急に変わってしまったか説明がないからです。

 筆者はこういう。

 私はこの本で、近代日本と朝鮮のかかわりを読者に紹介したい。それによって「栄光の明治」とは異なる明治の姿が見えるはずです。

 さしあたって日露戦争の10年前、日清戦争についてふりかえってみます。

司馬遼太郎は、日露戦争後、日本はおかしくなった。日本陸軍は変質した、というのですが、、日清戦争のとき、日本がおこなった行動の中に、のちのち日本が暴走していく萌芽が現れていなかったか。そこにはその後の日本の歴史の上で、もっといえば、現在における日本と韓国の問題に関係してくる重要な問題を含んでいます。

日清戦争のとき日本軍の実弾発射第一撃は、ソウルの王宮に対してでした。日本軍は清国軍と放火を交える前に、朝鮮の王宮を占領し、国王を事実上、とりこにした。

 「清国軍を朝鮮から追い出してくれ」という朝鮮国王の公式文書を手に入れることによって、日本軍が清国軍を攻撃する建前を手に入れたかった、しかし朝鮮国王が同調するはずはない、それなら手荒なやり方ではあるが、王宮を占領して、しぶる国王を捕虜にしても清国軍攻撃の「公式要請文」を入手する。同時に、日本軍がソウルから南下して清国軍と戦っている間、ソウルの安全を確保するため、ソウル城内の朝鮮軍施設を全部占領し、城内から朝鮮軍を一層する。また朝鮮政府の敬礼で朝鮮人人馬の徴発をしやすくする。そんな目的で行われたのがこの朝鮮王宮占領とソウルの完全制圧でした。これを計画したのは誰か。発議したのは、軍よりも外交畑だったとみられる。朝鮮駐在の日本公使の大鳥圭介と外務大臣陸奥宗光、それに伊藤博文首相、勿論参謀本部との意思疎通の上計画された。

 朝鮮南部の農民蜂起(「東学党の乱」で、農民軍が政府軍を圧倒する勢いになり、朝鮮に駐在していた袁世凱らが朝鮮政府に清国軍の出兵を求めるよう圧力をかけた。それに対抗し日本軍も朝鮮に出兵する。しかし、日清両国の出兵を見た農民軍は政府軍と和睦、日清両国は出兵の口実を失う。それ以後、日本政府は開戦の口実を認めてさまざまに苦労する。さらに、下関条約(日清講和条約)の調印から半年後の1895年10月8日、朝鮮駐在の日本公使館と駐在日本軍が関わって、王宮の奥深く国王の妃の寝室に乱入し、王后を殺害するという事件が引き起こされた。「閔妃事件(みんぴ事件あるいはびんぴ事件)

 参謀次長の川上壮六らは、三国干渉後、思いのままにならない朝鮮事情、その中で王后を「親ロシヤ」の中心とみなして事件を計画したのです。」

 

 以下私見ですが、例えば英国はアヘン戦争で中国にかなりあくどいことをした。英国だけでなく、欧米の先進国はアジヤ諸国に対しかなりあくどいことをして領土を奪った。帝国主義の侵略です。日本もこうした帝国主義侵略をしてもかまわないと考えた。そういうことを認められる時代ではなくなっていたのに。日本は遅れてきた侵略主義だった。これが、日本がアジヤ諸国に嫌われた原因であったと思います。この遅れてきた帝国主義を「シベリヤ出兵」にも「満州事変」、「日支事変」にも持ち込んだ。日露戦争後に変質したのでなく、日清戦争時点で既に遅れてきた帝国主義ではなかったか。と、思います。


商品化できない

2017-12-24 | 読書

フクオカ博士の訳した『生命に部分はない』(講談社現代新書、2017年6月)を読みました。福岡ハカセ持論の「動的平衡」の説明かなと思って読んだのですが、違っていました。

訳者あとがきに以下の記述がありました。

 

古くは売血から始まり、やがて人間が自らの身体を切り刻み、あたかも自動車の部品工場に売られているようなパーツとして、商品化するにいたった。その詳細をあとづけた本だった。章を追うごとに組織、細胞、遺伝子と細分化が進んでいく。人間を部品化し、人体を商品化しているアメリカで、この潮流がどのように位置づけられているのか、

 ボストンの本屋で、ああこういう本を読みたかったのだ。そう痛感した。

購入して辞書を片手に食い入るように読み進めた。

 特別な病気にかかった人の血は特異抗体が含まれるからより高価で売れる。精子や卵子は、余剰として商品価値を持つ。特定の遺伝子に特許が付与される。動物の身体が薬品を製造する工場として利用される。ここまで事態が進行していることはショックだった。

 本書が優れているのは、ルポや事例研究の面白さや多彩さだけではない。むしろその白眉は後半にこそある。なぜ私たち人間は、自ら自分自身の身体を商品化するようになったのか、いや、商品化しうると考えることが出来るようになったか。

 人間の文明史を紐解くところに戻って考察は開始される。私たちは、本来、商品になりえないものを商品化してきた。それが人類の歴史である。大地を分断し商品にした。あるいは時間、誰のものでもない時間を対価と引き換えに差し出される。すべてのものを分節化し、分節化したものを切り売りする。

水や資源、ついには元素循環の一形態でしかない二酸化炭素まで取引対象になる。この志向がついに未開の地だった私たちの生命と身体に及んできた。

 私は衝撃を受けた。分子生物学者として、実験室の中で、日夜、遺伝子ハンチングとタンパク質の精製に明け暮れいしていた私は、このような「文明史観」をついぞ持ったことがなかった。

 本書を読んで、私が最も教えられたこと。そしてその後、ずっと考えることになったことは生物を、文字通り生きたモノとしてみるか、それとも生命という「現象」としてみるか、ということをめぐる生命観の相克である。

 もし物質の集合体として生物をとらえれば、生物を機能単位に分節し、分断化することが可能だし、それをモノとして交換、改変、あるいは別の何かに代替しうる。そして物品として価格を設定できるだろう。

しかし、それを物質の集合体ではあるものの、そこに成立している関係性を重視した「現象」としてとらえるなら、機能単位ごとに分節化することは、関係性を断ち切ることになる。関係しているものの関係性を分断することは不可能で、無理にそれを強行すれば、現象としての生命辞退を損なういことになる。

同じことは生命の空間的な関係性だけでなく、時間軸に対しても行われる。人はいつ人になるのか、人はいつ生まれたことになるのか、という問題は、生命操作技術が進展することと軌を一にして、私たちの前に深刻な疑問として問い直されている。

 生命現象はまごうことなく動的な平衡にある。生物は常に交換することで、蓄積するエントロピーを外部に捨て、わずかに変化し続けることによって新しい環境に適応してきた。生命は空間的にも時間的にも連続しており、分節化しうる部分と言えるものは本来、存在しない。

 

現在の資本主義の「市場原理」は、取引対象を商品化できる(対象を部品に分断して商品化、取引できる)という前提で成立している。しかし、今日、我々が対処すべき対象には商品化できないものが多々出てきているのではないだろうか。


今年の10冊

2017-12-17 | 読書

市立図書館で新聞を見ていたら、各紙に「今年の3冊」と題する有名人の書評が掲載されている。小生も今年の読書履歴を塗り帰り、「今年の10冊」を書くことにしました。

 

今年もフクオカ博士にはいろいろ教わりました。

生命に部分はない」(福男亜伸一訳、2017年6月、講談社現代新書)

動的平衡」(小学館新書、2017年6月)

福岡伸一 西田哲学をよむ」(2017年7月、明石書店)

野口悠紀夫先生にも、データから経済を読むこつを教わりました。

日本経済入門』(講談社現代新書、2017年3月)

日本経済の状況は、もっぱら新書で勉強しました。

偽りの経済政策』(服部茂幸著2017年5月岩波新書))

http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20171202

服部茂幸さんは今年発見した書き手でした。

一寸前(2013年5月の刊行で次の本があった。

新自由主義の帰結』(岩波新書、2013年5月)

中野剛志さんも「真説・企業論」(講談社現代新書2017年5月)で今年も健筆をふるっていた。

http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20171030

http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/201709202

そのほかの新書で山本七平の思想』東谷暁著、講談社新書、2017年7月モ1ユニークな新書でした。

http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20170909

 

司馬遼太郎に関連して興味深かった本は、朝日出版から

司馬遼太郎と宗教」が年末に出ました。、

 今年の経済学のノーベル賞は行動経済学に出ましたが、『かくて行動経済学は生まれた』(2047年7月、文芸春秋社)小生にとって」恰好の入門書でした。

 


竜馬の手紙

2017-12-13 | 読書

磯田道史著『竜馬氏』(文芸春秋社、2010年9月刊)という本を市立図書館の棚で見つけた。磯田道史って、最近時々TVで見かけるな、と手に取ってみた。

 

 手紙を読まずして竜馬を語るなかれ、と。竜馬の手紙を子細に読み解くことで竜馬を分析し、合わせて暗殺の真相に迫っています。

 文久2年3月、28歳で脱藩した竜馬は、松平春嶽そして勝海舟との大きな出会いがある。翌文久3年3月20日、姉乙女に向けて有名な手紙を書きました。

「うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり」、ここに彼の欠点が現れている。運が良いから自分だけは死なないとの過信です。結局、何度も危険な目にあって生き延びるが最後は死んでしまう。常に自分だけは死なないと根拠のない自信もっていた。

 この手紙で竜馬は勝海舟のことを「日本第一の人物」と表現します。脱藩した竜馬が、自分がい生きてゆく路をはっきり見つけた瞬間にかかれたものだと言ってよい。19歳で江戸に出て以来、剣術や砲術を一所懸命学んでたわけですが、ついにこれこそ自分の歩むべき路だ、と確信できるものに出会う。それが海舟に教えられた「海軍」だった。

 竜馬は海軍の本質を良く理解していました。海軍というとすぐ大砲をぶっぱなす武力的利用のイメージがありますが、それは皮相の見方です。海軍のもう一つの威力は貿易に使えて国に利益をもたらす点にあります。勝に出会った竜馬は海軍=商船艦隊=富国強兵という当時の日本人を超越した思想を内面化した。

手紙の最後も竜馬らしくユニークです。この手紙を「乙様/おつきあいの人にも、お心易き人には内内お見せあれ」と結んでいる。

 

竜馬の人生をいくつかに分けるおすれば、一、土佐時代、二江戸での修業時代、三、脱藩から勝海舟と出会い海軍に目覚め、亀山社中を結成した時期、そして第四の最も重要な時期が慶応二年からその死までの最後の字か年です。その第四期の入り口にかかれたのが慶応二年2月6日の木戸宛書簡です。いわゆる「薩長同盟」が竜馬の仲立ちで結ばれたのが1月22日、その翌日の夜、竜馬と三吉慎蔵の二人は、伏見寺田屋で伏見奉行所の捕り方約100人に襲撃されます。この手紙はその時の様子を簡潔に報告したもの。「かの高杉より送られ候ピストルを持って打ち払い一人を打倒し候」と報じている。手紙を貰った木戸孝允は、骨も凍る思いになったと返信に書いている。木戸は油断ならない世の中だから気をつけろと、心底龍馬のことを心配している。しかし竜馬は木戸や仲間の心配に耳を貸さず、最後まで根拠なき自信のもと、無防備な人生をおくってしまう。本来、竜馬が桂に報知しないといけないことは、ピストルを使っての大立ち回りのことでなく、別にあった。寺田屋で薩長同盟に関しての書類が伏見奉行所=幕府方に差し押さえられた可能性が高い。ので本来ならどんな書類が敵の手にわたったかを木戸に伝えなければならない。でもそんな要素は城戸宛の手紙に微塵も出てこない。この手紙の一月余りのちの手紙に「当時実に歎ずべきは伏見にとり逃がし浪人の取り落とせし書面」という一文があり、どうも竜馬は命からがら寺田屋を逃れた時、重要書類を抑えられたらしい。

 寺田谷事件を報告する手紙がもう一つある。「慶応二年12月4日、坂本権平、一同宛て」、は膨大な内容で、寺田屋で襲われた時の様子を家族に語っている。幕府の襲撃から逃れた本人がその様子をこれほど詳細に書いた書簡は見たことがない。日本史上残るテロ遭遇者の体験記です。

 興味深いのはここにかかれた「竜馬がねらわっる理由です。幕府大目付は次のように言って伏見奉行所に竜馬殺害を命じたと、竜馬は自分の家族に説明している。

「坂本竜馬なるものハ決して盗み、かたりは致さぬ者なれどもこの者がありてハ徳川家の御為にならぬと申して是非殺す様にとのこと。この故ハ幕府の敵たる長州・薩洲の間に往来して居るとのことなり」

 竜馬暗殺の黒幕は誰か、定説はなく、“幕府を温存しようと竜馬が邪魔になり薩摩が殺した”との説もしばしば語られます。しかし、要するに『この者ありては徳川家の御為にならぬ』ということが、竜馬がこの世にいられなくなった理由ではないでしょうか。本人もちゃんとその容疑がわかってて家族に説明している。

 慶応3年の秋から冬、つまり暗殺される直前には、竜馬は土佐と『薩摩を結びつける動きを活発に始める。幕府からすれば、これ以上自由にさせておくわけにいかない。それで竜馬を捕縛に向い殺すにいたった。手紙を虚心坦懐に読むとそう考えるのが自然です。

竜馬の手紙の顕著な特徴は、家族に指示活動の内容、自分が知ったさまざまな内幕などを全部喋ってしまうことで、この手紙はその典型です。

このおしゃべりな性格は、竜馬暗殺に大きく関係している。今どこにいて何をしようとしているかをすぐ手紙に書く。だから、竜馬の居場所などの情報はすぐ外部に漏れます。

 竜馬が人並み外れた求心力を持ち、数々の大胆な周旋を可能にしたのお彼のこの身軽さ、警戒心のなさ、無邪気さによるところが大きいのは間違いない。ただ、しばしば、最大の長所が最大の欠点になるように、彼の長所が彼の命を奪うことにもなりました。

 慶応3年8月、竜馬は薩長土連合艦隊を作って幕府と闘うつもりでした。同月下旬にかかれた土佐藩の佐々木孝之宛て書簡でわかる。

この手紙では、いきなり「先、西郷、大久保一翁のこと、戦争中にもかたほ(方頬)にかかり一向忘れ申さず」と書き出し、自分がいかに西郷、大久保一翁の二人に男ぼれしているかを語っている。もし戦死をしても西郷と大久保一翁の二人の手ずら「ただ一度の香花を手向けくれ候らわば必ず成仏いたしそう牢固と」とまで言う。

勝でなく同じ幕臣の大久保一翁と言っているのがポイントです。

勝は毀誉褒貶別れるけれど大久保一翁には大変な人望があった。

思うに竜馬には、その藩や組織の中で「あいつのいうことだったらしょうがない」と人を納得させる人間を見つけそういう人間と付き合う。

 身分も立場もない一介の浪人でありながら、幕末史の中で重要な仕事ができたのはこの主軸となる人を使うという行動パターンが影響している。

 

 以上、竜馬直筆の手紙を読んでいくと、意外と知られていない竜馬の素顔が見えてくる。

竜馬は幕末の志士のなかで日本一面白い手紙を書いた人です。司馬遼太郎の『竜馬が逝く』だけ読むのはもったいない。竜馬自身の手紙(講談社学術文庫の宮地佐一郎編「竜馬の手紙」139通の手紙がある)と二つながら読めば片方だけ読むより数倍も楽しい。


阿久悠と松本隆

2017-12-08 | 読書

12月3日。丸善に行き新書の棚を診ていたら、「阿久悠と松本隆」という本を見つけた。

「阿久悠が亡くなってもう10年になるな」と手に取ってみた。

パラパラのぞいていたら、「この本は、二人が交差した瞬間を求め、その前後7年を描く現代詩である」とあった。阿久悠は知っているが、松本隆は良く知らない。そういえば「冬のリヴィエラ」は松本隆作詞でなかったかな、「二人が並走していた1975年から1981年までに絞って書く」という。買い求めた。

「冬のリヴィエラ」、こんな歌だった。

「彼女(あいつ)によろしく伝えておくれ

今ならホテルで寝ている筈さ

泣いたら窓辺のラジオをつけて

陽気な歌でもきかせてやれよ」

これって、阿久悠の「ジョニーへの伝言」と似たとろあるじゃない。

「ジョニーが来たならつたえてよ。

2時間待ってたと

割に元気よくでていったよと

お酒のついでに話してよ」

「例えば一篇の小説、一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じヴォリュームを4分間に盛ることは狩野ではないか」と阿久悠は語る。「冬のリヴィエラ」も「ジョニーへの伝言」も一片の小説の一場面みたいなフレーズだ。

「時代に正対していると、その時代に就く悠のものが見えてくる」と、阿久悠は、時代を語ることに熱心だが、松本隆はあまり「時代」を意識していない。

 松本隆は「冬のリヴィエラ」の他に何があったか、ネットで調べた。

「木綿のハンカチーフ」があった。大ヒット曲だ。

改めて見ると、この唄すごく凝ったつくりだ。

まず、男女のセリフが交互に出てくるのだけど、両方のセリフを男女でなく、一人の女性歌手に歌わせている。

「恋人よ僕は旅建つ 東へ向かう列車で

華やいだ街で 君への贈り物探すつもりだ

 

いいえあなた私はほしいものはないのよ

ただ都会の絵の具に染まらないで帰ってほしい

染まらないで帰ってほしい」

この唄どうして木綿のハンカチーフなの?

「おくりものねだるわ

ねえ 涙ふく木綿のハンカチーフください。」

最後で「木綿のハンカチーフ」が出てきた。

阿久悠も松本隆も、昔からの歌謡曲を脱皮した演歌を目指したらしい。

 


偽りの経済政策

2017-12-02 | 読書

『偽りの経済政策』(服部茂幸著2017年5月岩波新書)を読んだ。

『アベノミクスの終焉』(2014年5月)は、アベノミクスの中間報告であったが、本書は最終報告としてあらわしたと筆者は言う。

 もっとも興味深い指摘は「日本の成長率は、人口一人当たりや現役世代人口一人当たり辺りでみれば、低くないことは、欧米の経済学者にも知られるようになったとぃう。

 90年代はともかく、2000年代に入ると、日本の一人当たり実質GDPはアメリカやユーロ圏と同じように増加を続けた。08年の危機後、経済は大きく落ち込むが素早い回復をみせた。2000年代からの日本の経済成長は人口一人当たりでみれば、アメリカに匹敵する。しかも日本で人口が増加しているのは老人である。現役世代人口一人あたりなら、日本の方がアメリカより高い。

 主要先進国の中で、日本だけがデフレによって経済が停滞していると言われているが、現役世代一人あたりの成長率でみると、全く別の風景が見えるというのだ。

 つまり、日本は金融政策で失敗したため経済成長の低迷が続いているのだという見方がアベノミクスの金融緩和策の背景にあるのだが、現役世代一人あたりでみると、それほど低迷しているわけでないとなると、異常な金融緩和策の必要性を再検討すべきだろうということになるのだ。

 もう一つの指摘は、アベノミクスで雇用は増加したか。

実体経済が低迷しているのに雇用の改善はみられるだろうか。就業者数が増えたとしても、非正規雇用が増えているだけではないか。雇用の指標として何をとるかが問題だ。延べ就業時間で見れば、15年以降微増だが、未だに12年の水準には戻っていない。

 労働生産性の上昇は経済成長を進めていくうえで最も重要な要素である。現役世代が減少する日本では、労働生産性の上昇は死活的に重要である。中長期的に現在の状況が続くなら、日本の経済成長は絶望的である。2%の実質経済成長率と実質賃金の上昇は、アベノミクスの目標の中でもっとも実現困難な目標だと筆者は言う。労働生産性の上昇なき雇用の改善は、政策の成果でなく失敗なのだ。

 アベノミクスの最終報告として本書は、最終章で、経済政策としてのアベノミクスを総括している。

 経済政策の成功は、低所得の人に収入を引き上げることに成功したかどうかで決まる。この点で、アベノミクスは失敗と断じている。

 自然科学と経済学の最大の違いは、経済学では実験で理論の正しさを証明できないことである。社会科学では簡単に実験を行うことが出来ない。アベノミクスは、マネタリーベースの拡大で、実体経済を活性化できるかを実験した社会実験ではなかったのかと、私は思います。


だるせん展

2017-12-01 | 美術館と美術展

12月1日午後、思い立って名古屋市博物館に出掛けました。「北斎だるせん展」をやっている筈と見に行きました。「だるせん」とは、200年前葛飾北斎が名古屋で大きなダルマの絵(18m×11m)を描き、人々の称讃をあび、「だるまの先生」と呼ばれたそうです。「ダルマの先生」略して「だるせん」というわけです。名古屋と北斎のかかわりを主題にした展覧会でした。

2,3日前の新聞に、この時の北斎のイベントに倣って、名古屋の西別院で大きな達磨の絵を描き月内展示していると載っていたが昨日で展示は終わっている筈です。

 その北斎の大達磨の模写が展示され「写真撮影はご自由」とあったが、残念ながらカメラの持参を忘れていた。写真が撮れなかったので売店で絵葉書を100円で買い求めました(写真)」。