古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

今年の確定申告

2017-01-25 | 経済と世相
今年の確定申告の報告です。
1月も下旬となって、ぼつぼつ確定申告をやらないと、と24日国税のホームページ、確定申告作成ページにアクセスしました。1年に1回しか使わないソフトですから、1年ぶりに使ってみると、使い方をわすれていて、あっちでつかえ、こっちでつかえしましたが、なんとか最後まで打ち込んだ。最後に今年だけの新操作、「マイカードナンバーを入力してください」が出た。個人番号というのは、1年一寸前、区役所から送ってきたっけ」。と机の引き出しを探ってみたが見つからない。「まぁいいか。これは後回しにしよう」とキャンセルしてデータ入力を終了にした。最後に印刷をクリックしたら、PCはウーンと唸った切り動かない。何かデータを読み込みに行くんだが、読み込めないで止まっている感じだ。あちこちクリックしていたら、間違えたらしくデータがすべて消えてしまった。
 「やり直しだ」。最初から打ち直し、30分程度で打ち終わるのだが、印刷をクリックすると、唸っているだけで、プリンタが動かない。「データの一時保管をクリックしたが、やはり動かない。
「これはダメだ」。税務署のPCを借りて打ち込もうと、北税務署に電話した。
「個人ナンバーの書類を紛失して番号がわからないんですが、どうしましょう。」
 「お手数ですが、区役所に行き、「個人ナンバーを記載した住民票をもらってきてください」という。「もう一つ、PCの調子が悪いので、税務署のPCを借りて書類作成したいのですが、借りれますか」。「もちろんPCは準備していますが、かなり混雑しますから、待ち時間がかかりますが、」
「正規の確定申告は、2月の半ば以降ですね。今は還付金の返還請求が受け付けている筈ですから、今の方が空いているでしょう」と言うと、「還付請求の場合1月でも受け付けるということが大分知られてきて、今も混雑しています。2月より今の方が空いているかどうかは私、推定しかねるのですが・・・」と電話口のお姉さんは言う。
あくる25日、関係書類を持参して、冷え込む朝の空気の中自転車を転がして9時、北税務署に行きました。受付で「確定申告の還付請求をしたいので、PCを貸してください」と言うと「ご自分で、PCで書類をお作りになるのですね」。「そうです」。
 「ではこちらへ」と多数並んだPCの1台の前に案内してくれました。
私の予想通り、今なら空いているのですぐ使えるのです。
 30分くらいで終わると思ったが、今年から、税務署のPCで打ち込む人はe-tax申請の扱いになるので、最初に「e-taxの利用者識別場号と暗証コードの登録をしてくれ」というので、e-taxの登録をしていたら、それだけで20分かかってしまった。
「じゃ、入力をお願いします」と言われて打ち込み始めました。昨日2回練習しているので、すぐ要領がわかって30分足らずで入力終了。個人ナンバーの入力になった。自分の個人番号を住民票を見ながら入力すると今度は「配偶者の個人番号を入力する画面になった。スタッフを呼んで「私の確定申告なのに、家内の個人ナンバーをインプットせよというのは何故ですか?」
「配偶者控除を申請されたでしょう。そのためです」。
住民票に家族全員が記載されていたので、連れ合いの個人ナンバーも難なく打ち込んで終了した。最後にスタッフが入力内容をチェックして「ご苦労様でした」。9時52分終了しました。
しかし、個人番号を入力させる場合、配偶者の個人番号を入力させるのは、前もって知らせておかないと困る人がでるのではないでしょうか。そもそも個人番号は何に役立っているのかな?
還付金はおよそ3万4百円。毎年3週間後に振り込まれますから、今年は2月半ばに振り込んでくれるだろうと思います。

サラリーマン論

2017-01-22 | 読書
司馬遼太郎さんが、司馬遼太郎を名乗る前に、本名の福田定一で出した『名言随筆サラリーマン』という本がある。大作家の司馬さんがサラリーマンというものをどう考えていたか、是非読んでみたいと思っていたが、手にすることがなかった。ぞの本が昨年12月、文春新書の一冊として『ビジネスエリートの新論語』という書名で出版されたと聞き、早速本屋で入手しました。
司馬さんのサラリーマン暮らしのあれこれについてのエッセイであるが、さすがに期待に背かぬ内容でした。その一部を紹介します。
老いてサダラリーマンは運命論者になる
 商人や政治家や芸術家の人生なら、実力が彼を推進するメインスクリューになりうることが多い。サラリーマンはそうではない。彼の人生を運転するものは「運」なのだ。サラリーマンの人生の目標が社内での出世、つまり課長や重役になることであるとすれば、最初一斉にスタートしたサラリーマンの何%がそうした目標に到着できるかまず数的にもその可能性に厳しい限界がある。
 出世するには、最初に規格がある。学閥、親分罰、部課罰、その他の縁罰、まずその一つか、できればそのすべてを持つ必要がある。
 ついで、人間ノタイプだ。独立自尊型、というのはあまり芳しくないようである。好空かれなくてはならない。というより、かわいがられるタイプでなければならない。すこし坊ちゃん坊ちゃんしている。多少頼りないとこえろがある。そのくせチョッピル直情径行なところもある。仕事をやらせれば十人並にはできる。が、ときどき女にダマされたりして、どうも一人でほっとけない。そんなのに、上役という者は、つい肩入れしてしまうものだ。・・・
 独立自尊型は、えてしてこうでない。仕事と人生に対する自信がまず、ツラツキに出ていて、かわいげがない。実力に対する自信があるから、実力相応に報われないとつい不平がでる。不満は多くの場合、自分を有能の士として遇しない上役に向かって放たれる、やがてそれが聞こえる。こういうのが引き立てられることは極めてまれで、せいぜいよくて地方の支店長辺りがトマリで、ついには言語動作まで野武士化し、同期の重役の無能を罵倒しつつ定年に到達するのがオチである。
以上の良き条件をすべて備えていたところでそれだけではどうにもならない。もし親分が死んだり、事故で左遷されたりしたら、それでフイだ。親分が隆々社の主流を占め初めて」彼の運は開ける。その命中公算の稀少さはパチンコ玉の比でない。
 だから、自然、10年も同じ社にいれば、好むと好まざるとにかかわらず、運命論の信者になる。「運」に大悟しない者は、はじめからサラリーマンになるのが間違っているのである。こういう人は、キケロの言葉を朝夕唱味するがいい。―――人間の一生を支配するものは運であって、知恵ではない。

アベノミクスと株価

2017-01-17 | 経済と世相
 図書館で、古い雑誌をチェックしていたら、アベノミクスと株価についての論述が見つかりました。
「世界」の昨年11月号の寺島実郎氏の『脳力ノレッスン「2016年米大統領選の深層課題民主主義は資本主義を制御できるか」』です。以下にその部分を紹介します。

あたかも「株価を上げる政治が良い政治」であるかのごとく時代が動いている。日本の高齢者がアベノミクスに拍手を送る構造をかいせきすると、記入資産の保有状況をみると、貯蓄の58%、有価証券の72%は60歳以上の世帯によって保有されている。貯蓄が一切利息を産まない状況で年金だけでは苦しくなった高齢者にとって保有する株の値上がりへの関心は尋常でない。「株を上げること」につながる政策誘導を支持する心理がアベノミクスを支持する。金融緩和だけでなく、公的マネーを株式市場に突っ込む方向に向かい、GPIF(年金基金)と日銀のETF買いだけで実に39兆円(16年3月末)もの額が直接日本株に投入された。上場企業の4分の1の筆頭株主が公的マネーという事態が生じ、国家資本主義ともいえる様相を呈している。健全な市場機能が急速に失われている。
アベノミクスに入り3年は外国人投資家の買い越しが(ピーク時累計で21兆円が日経平均を2.1万円に押し上げたが、今年に入って8兆円の売り越しとなり、代わって公的マネーの投入で1.6万円台を維持している。これがなければ既に1.2万円を割り込んでいるだろう。株価の維持が政権基盤、安易に株価を上げる政策だけに誘惑を感ずるというのが政治の現実である。
 日本のような産業国家は、「経済の金融化」に振り回されることを極力避けなばならない。マネーゲームを抑制し財政を健全化し、技術を重視する産業政策をもって実態経済に地平を開かねばならない。

 ところでトランプ氏の当選が決まった直後、株価は急落しましたが、翌日になると一転急上昇しました。株価を上げたいアベノミクスにとっては天佑でしたが、これをどう解釈すべきでしょう。
 かつて日本のバブル崩壊後の経済低迷について、外国の経済専門家は日本の政策をいろいろ批判しましたが、近年、欧米先進国が経済低迷すると、欧米の各国が採った政策は、日本政府と同じような金融緩和を日本以上に拡大して行うことでした。それをまた真似して異次元の金融緩和に踏み切ったのがアベノミクスでした。「アベノミクスと同様な株価上げ政策をトランプ政権が採るだろう。先回りして買っておこう」と市場が判断したのだと、私は思います。

梅棹忠夫と司馬遼太郎

2017-01-16 | 読書
では、梅棹さんは、現下の日本経済の低迷と今後の展開を予言しているだろうか。ここで、著者は梅棹と司馬遼太郎の交流に筆を進める。
 1969年11月梅棹は司馬遼太郎との対談で、「無思想」かつ「無階層」なのが日本だと語り、司馬は「無思想・無階層」時代の「先兵」なのだと受けた。この年、日本中に燃え盛った学園紛争はピークを迎え、東大は安田講堂が占拠され入学試験が中止に追い込まれた。戦後の急速な経済成長や戦後日本を肯定していると思われていた二人が、60年代の風潮には全く染まっていない。とはいえこの二人は80年代後半になると、当時の日本に嫌悪を感じるようになっていた。 
 二人が初めてであったのは1969年10月のことだ。
梅棹は次のように述べる。
 「司馬遼太郎氏は人も知る歴史小説の大家であるが、その知識の広さと話の面白さに毎回舌を巻いた。」
「当初からこれはエライ人やなと思いました。言うことが非常にピシッピシッとツボを押さえている・話が面白い。事実を実によく知っている。」
また、司馬の死後語った。
「2月に亡くなった司馬遼太郎さんは、私の出逢った中で最も知的会話を楽しめた方でした。梅棹は京大理学部を繰り上げ卒業になる前、徴兵検査を受けている。「第1種合格。現役兵。決定は戦車兵だった。『兵庫県加古川の戦車連帯に入営せよ。後に知ったところでは、司馬遼太郎氏のいたのと同じ連隊だった。ところが、梅棹は、その年にできた大学院特別研修生に指名され、入営は先遅れになる。
 対談で、司馬はこう論じている。
「戦争を仕掛けられたらどうするか。すぐに降伏すればいい。戦争をすれば100万人は死にますね。それより無抵抗で、ハイもてるだけもって行ってください、といえるくらいの生産力を持っていれば済むことでしょう。向こうが占領して住み着いたら、これに同化しちゃえばいい。」
この司馬の降伏論は、1979年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授の森嶋通夫が文芸春秋同年7月号に発表して論争を巻き起こした。(
 1970~71年のこと、司馬のところに梅棹から電話。「今ミナミで飲んでいるんやけど来やへんか」。「いくいく」と答えてミナミの料亭にむかった。部屋にいたのは宮沢喜一(当時通産相)、木村俊夫(当時官房副長官)。おそらく、梅棹は二人を相手に、民博建設に関する説得をしていたと思われる。いわば二人は「戦友」としての関係も有して、お互い共感のもてる相手だった。この共感は80年代後半、バブル経済がさまざまに忌まわしい兆候を見せるようになってさらに深くなった。
「私は日本の戦後社会を肯定するし、好きでもある。
かといっていまの私どもの社会や文化、あるいは精神が、戦後社会を父母としていると言われたら、多少口惜しくもあって、これは一種の二律対立感情です、といっていい。」(この国のかたち)
バブル的時代に対する懐疑は、70年代にすでに土地公有論として語られていたが、80年代には日本経済そのものにまで達する。司馬は土地ころがしと呼ばれた土地を介した投機経済が日本経済を破綻させることを予測していた。
 こうした司馬の発言に梅棹は強いシンパシーを感じていたようだ。
司馬は1996年死去してしまう。梅梅は語る。
「生きていたら語り合ってみたかったテーマは数多くありますが、やはり一番は日本人論です。とりわけ日本人の『志の喪失』です。司馬さんは日本の歴史や文化を比較的肯定的にとらえてきていましたが、晩年は私と同じように批判的になっていたようです。」
 かつて二人が圧倒的な技術力によって占領者をも豊かにしてしまおうと語った「ビジョン」は、もちろん、現実的な政策と言うより戦後思想を担った二人の夢だったのだろう。しかし、そこに戦争を体験した人間の真剣な思いもあったことも確かである。
 司馬の死去後、梅棹はまだ10余年の余命があった。その間、自らの仕事の締めくくりをすると同時に、「日本文明は終りかもしれへん」、「21世紀の中頃には日本はダメになるやろうな」と語り、インタビューでも口にした。

予言者梅棹忠夫

2017-01-15 | 読書
年末、丸善に出掛け、「予言者梅棹忠夫」(東谷暁著、2016年12月文春新書)を買ってきました。
この著者を、「エコノミストは信用できるか」、「エコノミストを格付けする」などの著書で小生は注目していました。早稲田大学在学中から国立民族学博物館監修『季刊民族学』編集部で編集に従事。同館館長だった梅棹の知遇を得たといいます。
 梅棹といえば1957年の『文明の生態史観序説』が有名です。もっとも梅棹によれば「序説は編集者が付したもの」とのことである。私はこの論文が中央公論に出た時(学生でしたが)読んで、凄い人がいると、この生物学出身の社会学者に感嘆した記憶がある。また『知的生産の技術』は長く愛読書でした。
 しかし、予言者とは感じていなかったので「これはどういうこと?」と店頭で手に取ったのです。
梅棹が「文明の生態史観」を書いたときには、既に日本は復興を遂げつつあったと言ってよかった。しかしそれは必ずしも国民全体が感じられるようなものではなかった。その時、梅棹は、「これからは豊かさこそ歴史の推進力になっていく」とこの論文で宣言しました。
「精神」が歴史を推進するのではなく「技術」が文明のダイナミズムを生み出すという仮説を提出するものだった。
 敗戦によって打ちひしがれた日本が、実はほかでもない日本独自の歴史的法則で、先進国の技術を自由に取り入れながら、これまで以上に豊かになっていくと予言したのだ。
中央公論1963年3月号に掲載された「情報産業論」は、情報社会論の先駆けだった。
「もちろん、情報産業は工業の発達を前提にした印刷技術、電波技術の発展なしでは、それらは、原始的情報売買業以上にはでなかった。しかし、その起源については工業に負うところが大きいとしても、情報産業は工業ではない。それは工業の時代に続く、なんらかの新しい時代。その時代を情報産業の時代と呼んでおこう」
ここで梅棹は情報産業の原理として「お布施の原理」を持ち出す。
「これまでの経済学が対象にしてきた製造物と異なり、情報には価値をつけるための「外延量」がない。他のものと交換する際に明らかになる相対価格が認めにくい。そして、「情報の価格決定法について一つの暗示を与える現象がある。それが「坊さんのお布施」だと述べる。
 情報をかなりの程度に扱える経済学がまだない、という彼の指摘は正しい。
お布施理論と並んで、「コンニャク情報論」がある。
「コンニャクには何も栄養となるものは含まれないが、消化器官を通過することで消化器官を刺激して身体を健康に保つ。これと同じで、何か価値あるものを生み出しているわけではないが、そのデータやメッセージをやり取りしていると、脳が刺激を受けてその活動を盛んにする。」
日本経済の高度成長とその後の情報化社会を予言する論文を発表したのだと、筆者は言う。
(そのあと、梅棹の大阪万博における貢献を述べているが1良く知られていることだから割愛する)・・・続く・・・

続・私の松の内

2017-01-10 | Weblog・人生・その他
6日昼12時、ホームプールの東区市営プールに出掛けました。ホームプールの初泳ぎです。個人メドレーの順で4種目を25mずつの100mを10セット泳いできました。
一応泳げましたが、1週間休んだためもあるだろうか、25m泳ぐと息がはずみますから、まだまだ本調子には戻っていません。
7日は姪のご主人がなくなって葬儀に行きました。8:40JRの大府駅に、弟に車で迎えに来てもらいました。妹も一緒です。30分のドライブで、知多市亀崎の公民館に着きました。ここが葬儀会場。ふと思ったのは、私が同一人の結婚式と葬式に出席するのは初めてです。
 会場には小さな折りたたみ椅子が並んでいました。今日は足が楽だ。
 9;45、司会者の本日の予定の説明、「享年63」という。10時から葬儀が始まりました。真宗大谷派の住職ということで、多分ありがたいお経なのだろうが、私には最後の「ナムアミダブツ」以外全然意味が分からない。11時、出棺。マイクロバスで、霊きゅう車の後をついて知多市の斎場に着く。周辺の山茶花の赤い花が満開でした。大きな斎場で、本日は3名の火葬予定が記されている。窯の前で最後のお別れ。喪主が故人のメガネをはずした。12時から火葬が始まった。別室で食事を供され故人をしのぶ話が交わされた。
「どこがわるかったの?」
「肺らしいよ」
余りに急の死亡だったから、脳溢血かな?と想像していたが、肺だという。
「肺結核?それとも肺がん?」
「知らないけど前から病院に入ったり出たりはしてたみたい」。
1時20分から納骨。弟と一緒に箸で骨を拾いました。
 2時、またマイクロバスに乗って公民館へ。もう一度お坊さんが来て、仏様になった故人にありがたいお経をあげてもらいました。
 3時に終わり、大府駅まで送ってもらい、4時半帰宅しました。
 以上、私の松の内でした。

どアホノミクス

2017-01-09 | 経済と世相
「どアホノミウスの正体」(佐高信・浜矩子著、2016年12月講談社新書)を読みました。
佐高・浜両氏の対談を本にしたものですが、けちょんけちょんに安倍政策をやっつけています。アベノミクスは、およそ「政策」の体をなしていない、経済政策とすることにすら問題があると指摘し「どアホノミクス」と断罪する。
 その点で、いささか大衆向けを狙ったオモシロ本ですが、2点、なるほど経済学者の指摘だという指摘がありました。一つは経済の成長を狙うのは軍備費の増強が狙いだという指摘。
安倍はこういう「日本経済はデフレから脱却し、経済を成長させ、GDPを増やしていく。それは社会保障の基盤を強くし、当然防衛費を増やしていくことができる」。軍備増強・富国強兵が安倍の目的であり、アベノミクスの正体であると指摘します。2020年GDP600兆円も、そうなれば軍備費を増やせるという話です。
もう一つは、通貨についての指摘です。
 通貨価値の番人であることが、中央銀行の役割であり、ひいてはそれが民主主義を守ることにつながる。それが今、せっせと国債を買い込むことが本務と日銀は心得ているようだ。
 2%物価上昇率目標について、当初から本気にやる気があったのかどうかははなはだ疑問です。もしかしたら当初から無限に国債を買い取るための煙幕だったのではないか。「自由主義経済」というけれど、2%目標と言うのは完全に統制経済でしょう。
 (すこし日銀のために弁護すると)各国中央銀行がみな金融緩和政策で通貨を増発しているときに、日銀が通貨増発を止めたら、円高が進行することになる。つまり、日銀の政策はやむを得ない面もあった。つまり世界中の中央銀行が誤っているという現下の大問題がある。
 通貨と言語についての論議が面白い。EUについて、
EU各国にはすべての言語が存在しないといけないという考えがあった。独自言語の保持は民主主義の根幹でもあるという認識が根強い。
 実は通貨についても言語についてと同じ発想が貫かれてしかるべきだった。言語について統一を考えないならば、なぜ通貨について統一を考えたのか。言語を統一するのと同じくらい通貨統一にも合理性がないのだ。
 ドイツとフランスが一つ屋根の下に収まれば、ヨーロッパ人が殺しあうという惨劇を繰り返さなくて済むであろうという理念に異論をさしはさむ余地はない。しかし、そのために経済統合、通貨統一という道筋を選んだことが仇を招いた。
 ユーロは欧州う単一通貨であり、ドイツもフランスもイタリヤもギリシャも自国通貨を放棄してユロに統一した。そうではなく、各国が自国通貨を持ちつつ、ユーロという共通通貨で国境を超えた取引を刷るという』方法もあった。
 国の財政がまっとうに所得再分配をやってくれないとなったなら、その時点でこの国が単一通貨圏であり続けることは無理をきたします。
 

私の松の内

2017-01-07 | Weblog・人生・その他
三が日は無事に終わりました。
元旦は午前中、八事の菓子屋に行き手土産のカステラを買い、帰途なごやドームのイーオンの書店で小説本1冊を買いました。伊東潤著、「江戸を作った男」、河村瑞賢の伝記です。二日までに読み終わりました。3日、弟の家に集まり兄弟会をやる予定で、兄弟共に歴史小説が好きですので、読み終えて弟にプレゼントするつもりでした。兄には同じく伊東潤の「天下人の茶」(千利休と秀吉の葛藤についての新説を題材にした小説)をプレゼントするつもりでした。
 伊東潤はこの10年、歴史小説を書き続けて、史料の解釈が面白いので愛読しています。
信玄の死から長篠合戦までを描く「天地雷同」、それに村田新八を軸に西南戦争を描く「武士の礎」などが面白かった。
3日11時に東浦町の弟の家に行く。例年大府の妹の家でやっている兄弟会、今年は弟の家に変更した。妹が脚立から転倒して背骨を骨折したから、今年は出来ないというからです。
 もう77歳になる。骨粗しょう症がでる年頃だから骨折しても不思議はないが、
「いったいどうしたの?」顔を見て聞くと、
「脚立に乗ってガラスを葺いていて転倒した」という。「何時?」、「昨年の10月21日」
「もう2か月も経つ。どうして転倒?」
「地震よ。鳥取で大きな地震があったでしょう」
「鳥取の地震で愛知県で転ぶの?」
名古屋でも震度3とTVのニュースで言ってたわ」
「そう?10月21日、記憶ないなぁ」
3時半ごろまでいろいろ話して今年の兄弟会は終わった。
最後に「Tさん(兄の長女のご主人で電器店経営)、今日急に具合悪くなって入院したって」という。
「Tさん、まだ60にはなっていない』と思うが・・・妹は言う。
『うちの電気製品は全部Tさんから買っているから、何かあったらすぐTさんに来てもらうことにしてる。「貴方に生きていてもらわないと困る」といったら「大丈夫!まだ生きてる」って言ってた』。
 ところが二日後Tさんが急逝。土曜日葬儀になった。自分たちは無事に終わったお正月だが、周辺では無事でない人もいる。
4日は仕事始め。私の仕事始めは病院通いです。
 朝、自転車で西部医療センターに行きました。。
待ち時間で「ドアホノミクスの招待(浜矩子・佐高信共著、講談社α新書)を読み終える。。
いつも通りの手順で、12時診察でした
「PSAは0.006とまた下がっています」と先生は言う。しかし、
「前回チェックした肺の影もあるので(放射線治療に切り替えず)注射と投薬を続けるのがいいと思います。次回は2月22日にしましょう」。お腹に注射します。(転移を防ぐ注射)。
「一寸痛いけど辛抱してください」
痛いのはお腹でなく財布の方だった。
帰り際に先生が言った。
「今日は夕方風呂に入ってもいいですよ」。聞き返しました。
「これから泳ぎに行こうと思いますが、プールに入ってもいいですか」。
「今日は止めておいて。注射の傷口から水が入るから。」
水泳事始めは明日に延しました。
会計で7800円ほどの請求。1割負担ですよ。ちくっと打つだけで8万円近い注射だ。
この日は12時半帰宅できました。
あくる日、家の前の薬局で薬を貰いました。
「今年もよろしく。お元気でしたか。」と薬剤師が言う。
「なんとか生きてます。生きていくことが仕事ですから。生きてないと年金が貰えないのです」。
薬代が2300円。前日の注射代と合せて1万円札が飛んで行ったことになる。
午後、プールで初泳ぎ。
「どうしたの?」と仲間に聞かれて気づきました。お腹の注射の痕が5㎝ぐらいの円の範囲、紫色に変色していた。(続く)