「ポスト資本主義」(岩波新書、広井良典著)なる新刊を図書館の棚に見つけ借りてきました。最近、資本主義の限界を論ずる本、水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」、ピケテイ「21世紀の資本」(菅さんのブログがありますhttp://blogos.com/article/105763/)などがベストセラーになっている。その系統の最新刊らしいと手に取ったのです。
著者の主張点を要約して以下紹介します。
人類の歴史を大きく俯瞰すると、それを人口や経済規模の「拡大・成長」の時代と(成長が資源の制約に面した結果の)「定常化」の時代の交代として把握できる。
人間の歴史の中での(狩猟採集時代、農耕時代に続く)第三の拡大・成長と定常化のサイクルの全体が、現在の資本主義/ポスト資本主義の展開と重なるのである。
注目したいのは、人間の歴史における拡大・成長から定常への移行期において、それまでには存在しなかったような新しい観念ないし思想、あるいは価値が生まれたという点だ。
人類学や考古学の分野で「文化のビッグバン」と呼ばれている現象がある。加工された装飾品、絵画や彫刻など芸術作品のようなものが今から5万年前の時期に一気に現れたことをさす。
また、(これは私の仮説だが)普遍宗教の群は、農耕と人口増加が進み、森林の枯渇、土壌の浸食などが深刻に進み、農耕文明がある種の資源・環境制約に直面した時、そうした制約の中で「物質的生産の量的拡大から精神的・文化的発展へ」という方向を導く思想として生じたと考えられないか。
「心のビッグバン」も、同様のメカニズムで狩猟・最終文明の拡大・成長から定常化への移行の時期に生じたと考えてみることも可能ではないか。
「定常」という表現からはともすれば“変化の停まった退屈で窮屈な社会”というイメージが伴うかもしれないが、それは物質的な量的成長の概念にとらわれた理解で、定常期とはむしろ豊な文化的創造の時代なのである。
現在が人類史における第三の定常化の時代だとすれば心のビッグバンにおいて生じた自然信仰や芸術や、普遍宗教が一斉に誕生した時期に匹敵する、根本的に新しい何らかの価値原理や思想が要請される時代の入り口を私たちは迎えようとしているのではないか。
次のような議論もありうる。
「人間はこれまでも常に次なる「拡大・成長」へと突破してきたのだから、」むしろこれからの21世紀は「第四の拡大・成長」の時代となるはずだ」。「超資本主義」というビジョンだ。私はそのような方向へ技術的な突破の可能性があるとしたら以下の三つが主要な候補になると思う。
すなわち、第一は「人工光合成」、第二に宇宙開発ないし地球脱出、そして第三が「ポストhy-マン」(人間改造、例えば人間の体を小さくしてエネルギー使用量を減らす)である。
いずれにしても私たちは21世紀の第四の拡大・成長と定常化の間で、数百年ないし数千年単位の歴史の大きな分岐点の時代に立っている。
そこでの新しく生まれる価値原理や思想があるとしたらそれは何か。
そもそも資本主義とは何か。
資本主義=「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステムと言えるが、市場経済と資本主義とは全く異なる概念で、資本主義とは、集中、相対的に高い独占化、つまり「反――市場」を来す。
本川達雄は、生物学的文明論において「時間を環境問題としてとらえる」という印象深い議論を展開している。
ビジネスの本質は、資本主義下では、「エネルギーを大量に使って時間を短縮すること」と言える。
たとえば東京から博多への出張に列車でなく飛行機で行くと、それはエネルギーをより多く使う分、それだけ早い時間で目的地に到着することができる。つまり、「エネルギー―→時間」という変換がなされた。人間は生活のスピードを無際限に速めてきており、現代人の時間の流れは縄文人の40倍ものスピード」(縄文人の40倍のエネルギー消費)になっている。しかしそうした時間の速さに現代人は身体的について言えなくなりつつある。これが「時間環境問題」である。
かつての時代は、“人手が足りず、自然資源が十分ある“という状況だったので「労働生産性」(=少ない人手で多くの生産を上げる)が重要だった。しかし現在むしろ”人手があまり自然資源が足りない“という状況になっている。そこでは「環境効率性」つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費を抑えるという方向が重要で、生産性の概念を転換することが課題となる。
そうした生産性概念の変更を踏まえると、これまで“生産性が低い”ことの象徴のように言われてきた福祉や教育などの領域がむしろ“生産性が高い”領域として浮上する。
市場経済においては“時間をめぐる「市場の失敗」”が様々な形で生じているという把握が重要である。すなわち、市場は、きわめて“短期“の時間軸で物事を評価するので―――金融市場などはその典型―――、より長い時間で評価さえるべき財やサービスは、十分にその価値が評価されない。いま「より長い時間軸で評価されるべき財やサービス」といったのは、」たとえば農林水産物や、森林など自然環境委に関するものであり、また場面は異なるが、介護どのサービスもそれに該当する。
介護と言う営みは、親の介護を子が行い、その子が年取ったらまたその子が介護を行い・・・という具合に世代間継承性の中でのコミュニテイ的な営みとして(長い時間軸で)行われていた。しかし、それが市場において「介護サービス」という商品になるとそうした要素は捨象され、個々の行為が断片化され評価され、「価格」はそれだけ低くなってしまう。
視点を変えて考え直す必要性を感じさせる本でした。
著者の主張点を要約して以下紹介します。
人類の歴史を大きく俯瞰すると、それを人口や経済規模の「拡大・成長」の時代と(成長が資源の制約に面した結果の)「定常化」の時代の交代として把握できる。
人間の歴史の中での(狩猟採集時代、農耕時代に続く)第三の拡大・成長と定常化のサイクルの全体が、現在の資本主義/ポスト資本主義の展開と重なるのである。
注目したいのは、人間の歴史における拡大・成長から定常への移行期において、それまでには存在しなかったような新しい観念ないし思想、あるいは価値が生まれたという点だ。
人類学や考古学の分野で「文化のビッグバン」と呼ばれている現象がある。加工された装飾品、絵画や彫刻など芸術作品のようなものが今から5万年前の時期に一気に現れたことをさす。
また、(これは私の仮説だが)普遍宗教の群は、農耕と人口増加が進み、森林の枯渇、土壌の浸食などが深刻に進み、農耕文明がある種の資源・環境制約に直面した時、そうした制約の中で「物質的生産の量的拡大から精神的・文化的発展へ」という方向を導く思想として生じたと考えられないか。
「心のビッグバン」も、同様のメカニズムで狩猟・最終文明の拡大・成長から定常化への移行の時期に生じたと考えてみることも可能ではないか。
「定常」という表現からはともすれば“変化の停まった退屈で窮屈な社会”というイメージが伴うかもしれないが、それは物質的な量的成長の概念にとらわれた理解で、定常期とはむしろ豊な文化的創造の時代なのである。
現在が人類史における第三の定常化の時代だとすれば心のビッグバンにおいて生じた自然信仰や芸術や、普遍宗教が一斉に誕生した時期に匹敵する、根本的に新しい何らかの価値原理や思想が要請される時代の入り口を私たちは迎えようとしているのではないか。
次のような議論もありうる。
「人間はこれまでも常に次なる「拡大・成長」へと突破してきたのだから、」むしろこれからの21世紀は「第四の拡大・成長」の時代となるはずだ」。「超資本主義」というビジョンだ。私はそのような方向へ技術的な突破の可能性があるとしたら以下の三つが主要な候補になると思う。
すなわち、第一は「人工光合成」、第二に宇宙開発ないし地球脱出、そして第三が「ポストhy-マン」(人間改造、例えば人間の体を小さくしてエネルギー使用量を減らす)である。
いずれにしても私たちは21世紀の第四の拡大・成長と定常化の間で、数百年ないし数千年単位の歴史の大きな分岐点の時代に立っている。
そこでの新しく生まれる価値原理や思想があるとしたらそれは何か。
そもそも資本主義とは何か。
資本主義=「市場経済プラス(限りない)拡大・成長」を志向するシステムと言えるが、市場経済と資本主義とは全く異なる概念で、資本主義とは、集中、相対的に高い独占化、つまり「反――市場」を来す。
本川達雄は、生物学的文明論において「時間を環境問題としてとらえる」という印象深い議論を展開している。
ビジネスの本質は、資本主義下では、「エネルギーを大量に使って時間を短縮すること」と言える。
たとえば東京から博多への出張に列車でなく飛行機で行くと、それはエネルギーをより多く使う分、それだけ早い時間で目的地に到着することができる。つまり、「エネルギー―→時間」という変換がなされた。人間は生活のスピードを無際限に速めてきており、現代人の時間の流れは縄文人の40倍ものスピード」(縄文人の40倍のエネルギー消費)になっている。しかしそうした時間の速さに現代人は身体的について言えなくなりつつある。これが「時間環境問題」である。
かつての時代は、“人手が足りず、自然資源が十分ある“という状況だったので「労働生産性」(=少ない人手で多くの生産を上げる)が重要だった。しかし現在むしろ”人手があまり自然資源が足りない“という状況になっている。そこでは「環境効率性」つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費を抑えるという方向が重要で、生産性の概念を転換することが課題となる。
そうした生産性概念の変更を踏まえると、これまで“生産性が低い”ことの象徴のように言われてきた福祉や教育などの領域がむしろ“生産性が高い”領域として浮上する。
市場経済においては“時間をめぐる「市場の失敗」”が様々な形で生じているという把握が重要である。すなわち、市場は、きわめて“短期“の時間軸で物事を評価するので―――金融市場などはその典型―――、より長い時間で評価さえるべき財やサービスは、十分にその価値が評価されない。いま「より長い時間軸で評価されるべき財やサービス」といったのは、」たとえば農林水産物や、森林など自然環境委に関するものであり、また場面は異なるが、介護どのサービスもそれに該当する。
介護と言う営みは、親の介護を子が行い、その子が年取ったらまたその子が介護を行い・・・という具合に世代間継承性の中でのコミュニテイ的な営みとして(長い時間軸で)行われていた。しかし、それが市場において「介護サービス」という商品になるとそうした要素は捨象され、個々の行為が断片化され評価され、「価格」はそれだけ低くなってしまう。
視点を変えて考え直す必要性を感じさせる本でした。