古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

大久野島と生口島の旅(4)

2012-04-30 | 旅行
生口島北ICから、再度しまなみ海道へ。今度は全長790mの生口島橋を渡り、因島です。

因島大橋、尾道大橋をわたって本州に戻りました。

福山西ICを目指します。ところがここで一寸したミスをやりました。

私たちは、しまなみ海道は山陽道に直結していると思い込んでいました。

ところが、いつの間にか2号線を走っている。

「あれっ、一般道を走って入るよ」。山陽道としまなみ海道を結ぶのは、一般道だった。

「道理で、橋を渡ったところで料金所があった。

橋の通行料かと思ったが、あれが、しまなみ海道の料金所だった」

それはいいのだが、福山西へ行くつもりが福山東ICに向かっているらしい。

西と東の間は、17kmほどあるので、時間がかかってしまった。

「まぁ仕方ないか!ガソリン入れて行こう」道路サイドのスタンドに寄る。¥154/Lだ。

満タンにして約7000円。「走行距離は何メーター?」、「548kmだ」。

出発時ゼロにし、満タンでスタートした。7000/548は13円/km。1kmのガソリン代が13円になる。

福山東から再び山陽道に乗る。吉備SAで小休憩したが。岡山までは順調に走った。

ところが岡山を過ぎた所で、急に大渋滞。

「高速道を降りてください」の表示が出ている。「事故だ!」

Jさんがラジオを入れた。

「3km先のトンエルで2時10分事故がありました。和気まで通行止め」。

「福山でもたもたしなければ、事故の前に通過できたのになぁ」とJさん。

「逆に事故に巻き込まれて困っていたかも?」と、Sさん。

ここは、良い方に考えよう。だが、和気ICに向かう道が分かりにくかった。

思わぬ時間はとられたが、無事、和気ICから山陽道に乗れた。

帰りも三木SAでトイレ休憩。「アイスクリームを食べていこう」と宝塚ホテルの売店による。

ところで、SAで、スタバの珈琲屋ってなんでこんな増えたのかな?



車の中で、世相談義に花が咲いた。

「最近の道路舗装の技術は向上して、すごく騒音が少ないんです」と、自宅が第二東名に近いSさん。

私は、労働者派遣法について、Sさんの意見を聞いた。

「派遣法の改正って、成立したけど、意味のある部分が皆削除されてしまった!

どうして労組は、あんな改定を承認したのかな?」

「総連の会長が電機で、事務局長が電力労連。彼らは派遣法改正などやる気なかった」

彦根辺りで6時になっていた。「西岐阜到着は7時だな」と小生。

岐阜羽島で高速を下りると暗くなっていた。7時1分にjR西岐阜駅に到着。

70代4人衆の旅が終わりました。他日を約して解散。私はSさんと名古屋へ。

浜松に向うSさんとは駅で別れ、8時過ぎ帰宅しました。

大久野島と生口島の旅(3)

2012-04-29 | 旅行

12分で島の盛港に着いた。ここは愛媛県です。しまなみ海道に乗って、多々良大橋を渡り、隣の生口島へ。

生口島南ICで下りて西へ。

海沿いの街路を見ると、8年前自転車で走行したときのことを思い起こす。

平山郁夫記念館に着いた。入り口から美術館へのアプローチには、岐阜県の薄墨桜も移植されていた。

さすがに品のいい建物だ。

「師の教えと平山郁夫」という企画展をやっていて、平山画伯の先生に当たるのか、

小林古径や安田 靫彦、前田青邨等の作品が展示されていた。


画伯の青少年期の作品もあった。

「さすがに、幼いときから才能があったんですね」、「それはそうだよ」

Sさんが「秋野不矩の絵と画風が似てると思わない?」。

小生、「秋野不矩の方が(女性だけど)男性的な画風じゃない」と小生。

秋野不矩はインドを描いたが、平山画伯はシルクロードを描いた。

画伯の筆になるしまなみ海道の絵葉書セットを土産に購入する。

喫茶室に立ち寄り、珈琲や紅茶を喫して小休憩。12時少し前辞去することにする。(つづく)


大久野島と生口島の旅(2)

2012-04-29 | 旅行
 25日は朝6時前に起床、6時半島内のウオーキングに出かけた。

外に出るとすぐうさぎが沢山寄ってくる。

「フロントで兎の餌を買ってくるべきだった」とJさん。

兎は、第二次大戦後、地元の小学校が大久野島に数羽のうさぎを放したことがうさぎ島の始まりとか。

天敵と言えるものがほとんどいない大久野島で次第にうさぎたちは数を増やしていく。
 うさぎ島と呼ばれ始めたころ、ペットだったうさぎが数多く島に捨てられたことで、

うさぎ達に転機が訪れます。他の品種の血が混じったことで、体毛の色が変化したり、

耳が垂れたうさぎが出てきたりと、様々な特徴をもつうさぎが生まれ始めた。
そして現在、島内には約300羽のうさぎ達がのんびりと生活している。



周囲4.3kmの小さな島ですが、砲台跡や山の頂には展望台が設けられています。


大久野島には、明治30年代に日露戦争開戦に備え、芸予要塞の一角として砲台などが設置された。

その後砲台は撤去されたが、陸軍は、地理的な条件や秘匿の容易さなどから、

大久野島を化学兵器の生産拠点に選び出した。

化学兵器は、ジュネーブ協定(1925)で戦争での使用が禁止されていたが、

開発保有は合法だった(当時の日本は署名だけで、批准はしていなかった)。

昭和4年(1929)5月には生産施設の建設に着手した。毒ガスの製造である。

施設の一部が現在、毒ガス資料館になっています。(写真)



7時半ホテルに戻り、バイキングの朝食。

9時、ホテルの直ぐ傍の毒ガス資料館の開館を待って見学した。

この島には、休暇村の職員しか住んでいない。資料館の管理も休暇村で代行しているようだ。

従って、Hさんの仏像も「竹原市役所に持っていかないと受け入れ判断が出来ない」とのことで、

「市役所に送る」とHさんは言う。



15分ほど見学して表で桟橋行のホテルのバスを待つ。

バスで数分、昨日着船した桟橋に着いて、フェリーには9:42乗船。今度は大三島島に向かう。

(つづく)


大久野島と生口島の旅(1)

2012-04-28 | 旅行
24~25日、大久野島と生口島の旅に出かけました。
 今年の正月、名鉄百貨店で「平山郁夫展」があり、Jさんが「平山郁夫の生地に建てられた美術館に行ってみたい」と言う。「あそこまで行くのなら、大久野島まで行こうとHさんが言うのじゃない」と小生。春の(40年来の)友人4人旅は、広島県と決まりました。
 24日10時、JR西岐阜の駅に集合。Jさんの車です。
 Hさんは、風呂敷包みを抱えている。「何ですか?」と聞くと、先代の住職の遺言で、全国の太平洋戦争の故地に仏像を寄進している。大久野島にも置いて貰ええないか持参したという。Hさんは長良河畔のお寺の住職です。
岐阜羽島から名神に乗り、一路西へ。吹田JCから中国道へ。昼食を取ろうかと西宮名塩SAに入ったが、駐車場は満杯、時分どきだ。「次にしよう」と本線にもどり、神戸から山陽道に入る。三木SAで昼食。この後、運転がHさんに交替した。今回は長距離なので、Jさん、Hさんが交代で運転する。
 岡山・倉敷・福山・三原と快適に飛ばす。「今日はお天気が良くてよかった!」
 本郷ICに4時ごろ。ICを下りてから忠海(ただのうみ)の港には12~13分だった。
走行メータは470kmだ。
 フェリーは4時半という。フェリー料金は、車と運転手が¥1930、同乗者は一人¥300でした。10分程度で島に着く。車は港の駐車場に置く。この島は一般の車は運転禁止で、駐車場に置いておく。ホテル(休暇村)のバスが迎えに来ていた。
 大久野島は、戦時中に本陸軍が毒ガスを製造した島(毒ガス資料館なる博物館がある)で、今は野生のうさぎが住み着いて、うさぎ島の異名がある。

5時前ホテルに着いた。毒ガス資料館を見学する予定だったが、もう閉まっているので明日にする。
 温泉で疲れをとった後、夕食は、人件費高の時勢でバイキング方式。平日なのにお客は賑わっている。
「地元のお酒は?」と聞くと、『忠海』なるお酒が出てきた。720ml入りが¥1500.
 1本呑んでみたが、これがHさんの気に入って、もう一本部屋に持っていくと、注文した。私は、生ビール一杯と忠海に付き合っただけで、早鐘のような脈になってしまい、部屋に戻ると、布団の上になったが、Hさんは、Jさんを相手にもう一本の『忠海』をあけてしまった。(つづく)

続・SPEEDIをめぐって

2012-04-24 | 経済と世相
 『プロメテウスの罠』の続きです。第3章は面白い挿話を紹介している。SPEEDIは気象庁が主管する。その気象庁の体質(霞ヶ関の体質?)を示す挿話です。
 気象研は1954年から放射能の研究をしている。きっかけはビキニの水爆実験。57年からは大気と海洋の環境放射能の観測を始め、一度も途切れることなく続けてきた。3月31日午後6時、本庁企画課から突然、電話があった。
「明日から放射能観測の予算は使えなくなります」。放射能が観測史上最高の値を示しているときになぜやめるのか。
「福島原発事故に対応するため、関連の予算を整理すると文科省から本庁に通達があったそうです。緊急に放射能を測らなければならくなったのでそっちに予算を廻したい」。
文科省に連絡すると、「気象庁から放射能調査研究費は必要ないとの回答を頂いています」。
もう一つ。
 「福島原発から出た放射性物質の海洋環境への影響」という論文は2011年4月、ネイチャー誌への掲載が決まっていた。執筆者は、気象研の研究者青山道夫、米国のウッヅホール海洋研究所の研究者、ケン・ベッセラー、海洋研究機構の研究者深溝理朗(まさお)だ。
 「チェルノブイリ事故による黒海などの放射能は高いところで数千ベクレルだが、福島原発排水口付近はその約1万倍。30km沖では薄まり、黒海と近い値もある。」といったグラフを付けた。
 この論文掲載に気象研所長がストップをかけた。青山は共同筆者のケン・ベッセラーにメールした。「所長の承認が得られない。私の名前を外して出してくれ」
ネイチャー誌は「所属機関のトップが反対する論文を掲載することは出来ない」
そうした気象研の空気が一気にかわった。6月28日のことだった。
 つくば市の気象研に民主党参院議員の森ゆう子が突然やってきた。青山らと面談した森はその場でケイタイしたという。
「相手は文部科学省のようでした。『予算は一体どうなってるの!』なんて感じで話してました。3月31日に停められた2011年度の放射能調査研究費が復活したのは、それからまもなくのことだった。論文は10月、別の科学誌「エンバイロメンタル・サイエンス&テクノロジーに載った。所長は、今回はいっさい口を挟まなかった。」

 その他、低線量被爆の実態をチェルノブイリの場合を例にとって述べているが、これについては割愛します。
 ただ思うのは、当時官房長官は「直ちには健康被害は生じない」と繰り返し述べたが、低線量被爆は直ちにではなく、10年、20年後に発病するものであることを承知した上での発言であったのか?
「直ちには被害は生じない」とは、現地の放射能汚染を測定した上での発言であったのか?


SPEEDIをめぐって

2012-04-23 | 経済と世相
『プロメテウスの罠』(朝日新聞特報部、学研2012年3月刊)を読みました。
 2011年10月から朝日の紙上に連載された記事を書籍化したものですが、内容が長いので、「SPEEDI」に関連した部分のみ紹介します。
【SPEEDIというコンピュータ・シミュレーシヨンがある。政府が130億円を投じて作ったシステム。放射線量、地形、天候、風向きなどを入力すると、もれた放射性物質がどこに流れたかをたちまち割り出す。3月12日、(文科省)原子力安全技術センターがそのシミュレーシヨンを実施した。
 放射性物質は津島地区(フクシマの北西)の方向に飛散していた。政府はそれを住民に告げなかった。・・福島県も電子メールで受け取っていたが、活用されずいつのまにか削除されていた。
「これは殺人罪じゃないか」(浪江)町長の馬場有は抗議した。
 文科省は情報を出すだけで、それを使って避難指示を出すのは原子力対策本部、つまり官邸だ。しかし、首相の菅直人も、経産相の海江田も、官房長官の枝野もSPEEDIを知らなかったと主張する。特に海江田と枝野は3月20日過ぎまで知らなかったと国会答弁している。】
 米軍には伝えられていた。以下その経緯です。
【14日朝、外務省北米局日米安全保障条約課の外務事務官木戸のところに横田基地の在日米軍司令部から電話が入った。
「原発事故の支援に際して放射能関連の情報が必要だ。提供してほしい」
あちこち電話して文科省防災環境対策室に行き着いた「
「提供してかまわない」、「データを直接米軍に提供してほしい」、「震災後のどたばたで手が足りない」、「私の方でリレーしましょう」。10時40分、メールが届いた。添付ファイルは、SPEEDIのデータ。米軍に転送された。】

 文科省とは別に、経産省の原子力保安院もSPEEDIのシステムを使って放射能汚染の予測(避難計画案を作成)を行っていた。第1回は(11日)午後9時12分。第2回は12日午前1時12分。16日までに45回の独自予測をはじき出した。
(しかし、官邸には伝えられなかった。)
【「おれの目の前に保安院のトップがいたんだよ」
10月31日夕、東京永田町の議員会館。当時の首相、菅直人は強調した。菅は毎朝、「プロメテウスの罠」を読んでいる。その日の朝も、いつも通り朝日新聞を開いた。読み始めた菅は驚愕した。
 保安院がSPEEDIを使って独自に避難計画案を作っていた経緯が載っていた。そんな情報は全く届いていなかった。目の前に保安院のトップがいたのに、なぜ彼は自分に伝えなかった?】
(住民の避難範囲を官邸で議論していたとき、何故、保安院がその計画に着手していることを伝えなかったか?)
【SPEEDIの存在を認識した後も、官邸は予測図を公開しなかった。それに関連し、首相補佐官の細野は、5月2日の記者会見で「国民がパニックになることを懸念した」と説明した。・・実際には政府自身がパニックに近い混乱ぶりだった。
 そのパニックぶり、第6章「首相官邸のいちばん長い日」は、地震発生の瞬間からの5日間の首相官邸の動きを臨場感あふれる記録に綴る。
「全交流電源を喪失し、冷却できない状態です」
首相は11日夕、総理執務室で経産相海江田万里と原子力安全・保安院長寺坂から報告を受けた。
菅は寺坂に状況を質した。だがどう対処すればいいのか具体的な答えがない。菅は尋ねた。「技術のことは分かってるのか」東大経済学部卒の寺坂はこう答えたと本人は言う。
「私は経済学部ですけど」・・「しかし基本的なことは分かってるつもりです」
(保安院のトップは、技術系と事務系が交互に就任することになっているらしい)
12日午後6時、伊藤(内閣危機管理監、元警視総監)「冷却水注入といっても、普通の水じゃ量がたりないだろう。海水を注入できないのか」
保安院幹部「炉に海水を入れたらいけません。炉がつかえなくなります。」
伊藤「その真水はどこからどれくらいを運べばいいんだ」
保安院「・・・・・・」
「福島の原発を造ったのは東芝と日立だ。詳しいことを知っているのは、東電や保安院よりメーカーだ」(13日)東芝の社長、午前11時8分、佐々木則夫が到着した。】(続く)


酒と女

2012-04-22 | 読書
、「酒と女」の話題です。

脳科学者の池谷祐二さんが、週刊朝日(4/27)に寄稿していました。

【カリフォルニヤ大学のショファット―オーフィル博士らの研究です。

 実験はオスのハエに交尾を断たせることで行われました。

二つの方法が取られました。一つはオスだけで飼育する。

もう一つはメスに求愛を拒否される状態に導く方法です。

 ハエの求愛には決まったパターンがある。

まず片方の羽を振って、求愛の音を立てながら近づきます。

つぎに前足でメスの胴部を触れ、そして鼻で生殖器をつつきます。この告白は成功率が高い。

オスとメスが一匹ずつしかいない場合は、この手順を踏めば、ほぼ100%の確率で交尾が成立する。

ですからこのままではオスに性行為を断ってもらうことはできない。

 博士らは、処女のハエでなく、すでに交尾を済ませたメスを用いました。

一度交尾したメスは他のオスとは関係をもちません。

このような方法で、数日間異性との関係を絶ったオスに、エサの選択をさせました。

いつも食べているエサと、15%のアルコールが含まれたエサです。

すると、メス断ちをしたオスはアルコール入りを好んで選びました。

エサの質を落としても、やはりアルコール入りを選択しました。

 「ヒトと同じだ」とメデイヤは紹介しました。



 学術的には少なくとも四つのポイントがある。

一つ目は「ハエでもアルコールが快楽となる」。

二つ目は「ハエでも交尾が快楽である」。

三つ目、「アルコールと交尾という異なる快楽が相互に埋め合わせ可能だ」。

ハエの快楽はNPFというペプチドが媒介しています。

アルコールでも交尾でも脳のNPFが上昇します。

NPFを人工的に増やしておけば交尾を断ってもアルコール摂取量が増えるということはありません。

四つ目、ヒトの脳にもNPFと似た物質がある。酒などの快楽に関係するペプチドです。

 フラれて酒におぼれることは珍しくないが、「快の補填」がハエにも認められるのは、進化的な観点から、なんとも興味深い】

と池谷さんは言っています。

人間が人間となる前から「酒と女」は問題だった?

さくら道ネイチャーラン

2012-04-21 | マラソン
4月の第3土曜日は、「さくら道ネイチャーラン」ウルトラマラソンの日です。

今朝は5時に起床しジョギングがてら、6時名古屋城正門前に行きました。

ちょうど第一陣がスタートするときでした。5分おきに20人ぐらいづつスタートしていきます。

 名古屋城の桜はもう散ってしまいましたが、

ゴールの金澤兼六園の桜が完走するランナーを迎えてくれることでしょう。

それにしても、中部山岳地帯を乗り越えて明日夕刻6時までに金澤まで250kmを駆け抜けようとする。

そんな人たちが100人以上(今年は110人とか)もいることが驚きです。

 カメラに写していたら「おはようございます」と声がかかった。

マラソンの先輩IDEさんです。「ひさしぶりですねぇ」。

彼はいつも5時か6時ごろ名城周辺をジョグしている。

最近の小生は8時ごろ走っているので、最近はすっかりご無沙汰していた。

 「最近、大会に出ていますか?」と聞くと、

「ダメなの。家人を介護しなくちゃならんくなって出られない。もう私も90だから」と言う。

90になって介護されるほうでなく、介護する方なら立派なものだ。

 「僕も年の所為ですっかり遅くなって制限時間のゆるい大会でないと出られなくなりました」

「遅くなっても出られるうちは健康だからいいよ」

 話しているうちに最後の組が通り過ぎたので、ランナーの完走を祈念しつつ、

ジョギングで家に帰りました。(写真:ランナーとIDEさん)


日本で3番になるなんて

2012-04-19 | 水泳
13時過ぎ、出番がきた。

男子バタの一組3コースだが、4,5,6コースが60,65、70歳区分で、75歳区分は小生のみ。

 プールが浅いためか飛び込み台は使用しない。

スタートの笛で飛び込んだ。水温は高い(28.4度と後で聞いた)。

 必死に腕を廻す。早く泳がなくても金メダルはもらえるのだが、今回の石川大会は第1回で、

一位になると、大会記録に残るから(それが大会出場の不純な動機です)少しでも早く泳ごうと思った。

75m過ぎて血圧(測ることは出来ないが)が多分200くらいに上がっているかな、と思った。

 フィニッシュ!2分29秒79だった。まぁ、2分30秒を切れれば今の実力どおり。

それに6コースがまだ泳いでいる。

 プールを上がると、「頑張ってますネ」と声がかかった。見ると、いつも泳いでいる東区市営プールの女性コーチだ。

大会の応援に駆り出されたみたい。

 休憩時間になったので、100mほどダウンで泳いでプールから上がった。



 受付で、ロッカーキーを返却。金メダルと記録証を貰う。

ふと見ると、「2011全国50傑ランキング」なる本を売っている。\3000投資して入手しました。

 まず、「昨年の自分の記録をみなくちゃ」と、長水路75歳区分の200mバタをみました。

 「エッ、3位」びっくりしました。

レインボーカップで泳いだ5:35:41が3位にランクされています。

 1位の埼玉県朝霞市Kさんの5:04:68は同じ日のレインボーカップでの記録です。

あの時、30秒以上も差をつけられて「とても敵わないなぁ」と思ったのですが、

相手が日本一では敵わないわけです。

 念のため他の年齢も調べてみたら、80~84歳区分で一人,

札幌の人が4分半くらいで泳いでいる。上には上がいますね。

 要するに、75歳以上で200mバタを泳いだ男子は4人しかいなかったというわけです。

それにしても、日本で3番になるなんて、本人がびっくり!



今度は100mバタを見たら、私の記録は(8人中)5位にランクされていました

私の年齢では、バタを泳ぐ人はほんとに少ないのですね!



 ホテルに戻り、風呂でゆっくり休養。その後、TVで山本昌投手の力投を見ました。



16日も近江町市場など金澤市内で遊んだ後、午後、高速バスに乗車。

乗る前に2~3年前リフォームした金沢駅をバックに、再度桜を写しました。6時帰宅。

以上、金沢紀行です。

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金澤紀行

2012-04-18 | 水泳
4月14日、8時半の金澤行高速バスに乗りました。15日のマスターズ水泳短水路大会石川に出場するためです。

 バスは、名神の米原インターチェンジから北陸道へ。金澤までは4時間旅だが、道中到る所で、桜が咲き誇っている。

こうして見ると、日本人は桜が好きな民族だと、改めて感ずる。TV報道によると、前日金澤は「桜満開宣言」だそうだ。

 12時半、金澤着。駅前の都ホテルのランチバイキングで腹ごしらえ、

今夜は駅ビル上階のホテルに泊まることにしているので、荷物をホテルフロントに預け、兼六園の桜を見物に出かけた。

毎年桜のシーズンには、兼六園は入場料無料になる。今日がその無料日。

 兼六園は数回訪れたことがあるが、桜満開の時期に訪れるのは初めてである。

「日本最古の噴水」の説明がある池の噴水、19世紀のものらしい。園内を一時間ほど散策して、20ショットほどカメラに収める。



 駅に戻り、構内の書店で「震災復興 欺瞞の構図」(原田泰著、新潮新書)と

「プロメテウスの罠」(朝日新聞特別報道部、学研)の二冊を買い求めた。ここでも、震災関係の本が積み重ねられている。



 ホテルのフロントでキーになるカードを貰って、部屋の前に行き、

カードを差し込もうとしたら、ドアに差込口が見つからない。

「あれっ」と、フロントで受け取ったパンフを見直したら、キーは「ドアに接触する」ものらしい。

カードをドアノブに接触させると小さな緑ランプが灯ってドアが開けられた。

 こういう形式のカードキーは初めて。

 ここのホテルはレストランがないので、夕食は一階のレストラン街で取る。

これだけレストランがあればホテルに食堂がなくても不便はない。



 15日の朝はダルビッシュの力投をTVで見た後10時前、バス乗り場に行く。

案内によると市営総合プールはバス乗り場30・31・32番にて「泉が丘高校前」下車とあった。

 30番乗り場ってないじゃない?聞くと、30番系統の意味で、乗り場は8番とのこと。

 8番乗り場に行くと、「金澤工業大学」方面行の乗り場だ。

バスを待っていたら中年の女性から声をかけられた。

「水泳大会に行かれるのですか」「ええ」

「私も大会です。地元の方ですか?」「いいえ、名古屋からです」

「あら、軽装なので地元の方と思いました。」「荷物はホテルに預けてきたからです」

 と、話がはずんだ。彼女は滋賀県からで、50mのフリーと平泳ぎに出場するという。

 「私は、100mバッタです」「へー、よく泳がれますね」

「もう75過ぎてますから、100バタなら他に泳ぐ人がいないからメダル貰えるんです」

 直ぐバスが来て、25分ほどで下車バス停。会場の総合プールの前も桜が満開でした。

受付で、ロッカーの鍵を借りたら、「保証金\2000お願いします。ご返却の際お返しします」と言う。

これも珍しい。まぁ、ロッカーを探すのに苦労することはないから、これも良いか!

 出場選手は361名という。小規模な大会だ。

だから、途中2回の休憩時間(30分)を設けて、選手がプールで練習できるようにプログラムしている。

練習用のプールがないのでこういう配慮をしている。

小児用の浅いプールがあるにだが、膝くらいの深さで、私にはとてもバタの練習は出来ない

(もっとも器用にバタを泳いでいる人は見えた)。(続く)