古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

雨プール

2015-08-31 | 水泳
 名城公園の屋外プールは、毎年7月20日から8月31日まで開業する。
例年千円で11枚綴りの回数券を1冊購入して、つまりひと夏11回このプールで泳ぐ。
暑い日は、子供たちで芋を洗うような混雑なので、まったく泳げない。
コースロープは引いてないし、プールの真ん中では、子供が逆立ちして遊んでいるから、直ぐぶつかってしまうのだ。
 今年は、雨がなかなか降らなかった。最初にプールに行ったのは、8月17日である。
 受付のおばさんが「久しぶりだねぇ」と言ってくれた。1年ぶりなのに、顔を覚えていてくれた。
17日が初日では11日はいけないと、回数券は止めて、1回100円の当日券で入場した。
8月後半は、雨の日が多く、昨日までに6日行けた。今日、最後だし、秋雨前線が停滞している。
泳いで来ようと、3時過ぎ、パラパラ雨が落ちる天気だったが、泳ぎに行った。
2~3度泳いでいて他人にぶつかった。雨がパルつく日は、ほとんど貸切状態のプールになるのだが、みな今日は「最後だから」と思ったらしく、割と混んでいた。
クロールと平泳ぎは前の泳力に戻ったようだが、バタフライは、怪我の後遺症でうまく泳げない。
どっちみちこれだけ混んでいてはバタフライは無理。少し泳いで人がいるところでは停まって立ち、また人のいない方向に泳ぐというやり方だった。
それでも、1時間弱で700mばかり泳いだ。
 帰り際に受付のおばさんに「来年また来ます。もし生きていたらね」といったら、「いつも雨の日はいろんな泳ぎをやってますね」と言ってくれた。覚えていてくれた。
「それが、昨年までは4種目泳げたのが、去年、鞭うちをやってバタフライが泳げなくなってね。もう一度練習をやりなおしているんですが、この齢では難しいですね」
「また来年ね」と言い置いて帰ってきました。
 今朝3時過ぎに目覚めて、深夜便のラジオを聞くと「雨酒場」を歌っていた。香西かおりの歌だが、「雨の日にきてくれるとじっくり話ができる」と酒場のおかみさんに言われた作詞家の作った歌らしい。20年以上前、私が単身赴任の地で流行っていた歌だ。
「雨に日はじっくり泳げる」と通った「雨プール」の報告でした。


奥村宏さんに注目

2015-08-29 | 読書
 最近、資本主義システムの限界を説く本が出ている。
『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫著、集英社新書、2014年3月刊)。
『21世紀の資本』ピケテイ著(みすず書房)。
 資本主義の危機が認識された80年代、新自由主義政策が導入され危機を打開しようとしたが、「1%対99%の格差拡大」をもたらし、アメリカを代表する資本主義国の危機をさらに鮮明にした。なぜ資本主義が危機に陥ったか、
 資本主義だけでなく、社会主義も1989ベルリンの壁崩壊、1901ソ連解体と既に限界が露呈。
なぜ社会主義が行き詰ったか、
エコノミストの奥村宏さんが、面白い説を提起しています。
「資本主義の危機の大きな原因は、資本主義を支えてきた巨大株式会社が大きくなりすぎたためであり、ソ連の社会主義が行き詰ったのは、国有企業が大きくなりすぎたためだ。」(『資本主義と言う病』、東洋経済新報、2015年5月)というのです。
著者の奥村さんは、1930年生まれ、著書に「会社本位主義は崩れるか」(岩波新書)、「株式会社に企業責任はあるか」(同)、新聞記者を経て大学教授(中央大学、立教大学)。この本の最後に特別解説として「株式会社の定点観測者――奥村宏小論」(平川克美)なる特別解説が載っています。
この解説によると、
 【民主党政権実現の少し前、奥村が教授を勤めていた同じ中央大学の宇沢弘文が中心になって「シンクネット・センター21」という民主党系のシンクタンクを発足させ、奥村は乞われてそのメンバーになった。そこで「企業システムの改革」というプロジェクトを立ち上げ、提言をまとめた。
 しかし、残念なことに、このシンクタンクは、おそらくは現実性はないということで、突然閉鎖されてしまった。しばらく後に民主党政権が誕生し、そして東電の事故が起きた。
もしあの時、奥村の提言を民主党が受け入れ、実行の緒についていたら、原発事故は避けられなかったとしても、その後の経緯は違ったであろう。】ということです。奥村宏に注目です。

お金を貸す側の問題

2015-08-28 | 経済と世相
 図書館で新着雑誌を見ていたら堤未果さんの「ギリシャ軍事予算」という寄稿を見つけました。
【6月30日、ギリシャはIMFへの返済ができず、事実上債務不履行に陥った。7月5日にはEUからの要望である緊縮策の賛否を問う国民投票が実施された。ここで財政赤字が膨れ上がった原因は・・・債務の半分以上を占めると言われる防衛予算だ、
 NATO同盟国28ヶ国の中で、ギリシャの予算に占める軍事支出比率はトップのアメリカに次いで2位と突出している。金融危機から5年経った2015年においても財政赤字がGDPの175%だった前年よりも軍事費は1%増やしGDP比2.45%というEU最大規模を維持し続けている。
「1300車両というイギリスの2倍以上の数の戦車が本当に必要かどうかは議論が分かれるところだろう。だが、トルコの軍事的脅威に対しバランスをとるためには、やむを得ない」
トルコの脅威。だが本当にそれだけか?
奇妙なことに、危機に陥ってからこの間、IMFやEU、欧州中央銀行から提示された緊縮財政メニューの中に軍事費削減は載っていない。
 ギリシャへの財政支援条件として最も強く緊縮財政を要求している最大債権国のドイツも、ギリシャに軍事費を半減させ、ドイツと同じGDP比1%台に抑えることでIMFへの当座の支払をさせるという現実的な要求は決してしなかった。代わりにメルケル首相は、救済金の大半を国内経済の立て直しでなく軍事支出に振り分けるよう、ギリシャ政府に圧力をかけている。
だがメルケル首相にはそうするだけの理由があった。ドイツは武器輸入大国ギリシャから、アメリカに次いで恩恵を受けている。因みに輸出国3位は、ドイツ同様長年ギリシャ政府に軍事費造の政治的圧力をかけてきたフランス。2010~2014までの5年間、ギリシャ政府は5億5100万ドル分の武器をドイツから。1億3000万ドルの武器をフランスから購入している。
2010年に、メルケル首相とサルコジ大統領が、借入金が入る前に武器輸入契約の維持をギリシャ政府に約束させた。2013年には、ドイツの防衛産業からの収賄でギリシャの元防衛大臣他政府高官が逮捕された。(堤未果)】
お金を借りている側の問題だけでなく、お金を貸している側の問題もあるようです。
そこで、最近評判の『「ドイツ帝国が世界を破滅させる」(エマニエル・トット著、文春新書)の記述を思い起こしました。
 (余談になりますが、この著者は、フランスの歴史人口学者で、人口動態に注目することで、『最後の転落』(76年)で「ソ連崩壊」を、『帝国以後』(2002年)で、米国発の金融危機を、『文明の接近』(2007年)で「アラブの春」を予言しています。)
この本は、「ドイツがヨーロッパを牛耳る」ことを記述しますが、それを論ずる過程で、
「国家債務が今日問題とされているが、問題は、お金を借りる側でなく貸す側にある。」と論じていました。「政府への貸し付けは、富裕層のもつカネの安全化だ。政府債務は民間金融機関の発明なのだ」と。
「2008年の危機(サブプライムローン・ショック)の出発点は、中国その他の国々が、低賃金のおかげで世界の生産のうちの大きな部分を占有して、それが富裕な国のなかでの所得の抑制、需要の不足を生み出したことに起因する。即ち、今日の資本主義の問題は需要不足、カネの貸出先不足という貸す側の問題だというのです。
面白い着眼点だと思いました。


国会中継

2015-08-26 | 経済と世相
25日の夕刻、テレビをつけたら国会中継をやっていた。
参議院の例の「安保法制」の審議です。山田太郎議員が質問に立っていました。
「時間が17分しかありませんから、安倍総理だけに御回答をお願いします。他の大臣方は答えて頂かなう手も結構です」と前置きして
「自国が攻撃されなくとも、同盟国が攻撃され、その攻撃が新3要件を満たす場合、集団的自衛権を行使すると言いますが、
その同盟国が国際条約を護っていない(例えば非戦闘員の殺害など)場合は、行使しないと考えてよいか確認したのち、「国際条約を守っているかどうかの判断は同盟国がどこの国であるかに関係ないですね」と念を押す。
その後、イラク戦争における米軍の市民虐殺は、国際法に違反していると思わないかと聞く。
「議員のおっしゃる事案について真偽を知りませんので、コメントできません」と答えると、(ここからが面白い)
「広島、長崎の原爆投下、東京大空襲(1945年3月10日)は、非戦闘員の虐殺であるから、国際条約違反ですね」と質問する。
何故か外務大臣が答弁に立つ。
「国際条約の趣旨に添わないものと考えています」と、もごもご言う。
「広島、長崎の原爆投下は、国際条約違反かどうか、総理答えてください。」再度迫った。
なんと答えるか興味深々で見ていたら「時間ですので放送終了します」と消えてしまった。
「大相撲の時は6時になっても、最後の取り組みが終わるまで1~2分は延長するのだがな」。
NHKは政府が微妙な回答を迫られると放送終了するみたいだ。


『捏造の科学者 』という本

2015-08-15 | 読書
『捏造の科学者 STAP細胞事件』(須田桃子著、文芸春秋)という本を読みたいと思い、今日、東図書館に行き、端末で検索しました。
名古屋の市立図書館は各区にあり、全区の図書館の本が検索借り出しできるようになっています。吃驚しました。
 この本、全区の図書館にあるのですが、全部貸出し中でした。
ベストセラーだと、こういうことはしばしばありますから、全部貸出に驚いたのではありません。
予約数が0だったのです。全部貸出という人気のある本は予約数が数十、あるいは数百というのが普通ですが、ゼロなんです。
これはどう理解したらいいか。
 評判を聞いて、読んでみようと借りているのではない。
図書館の棚にならんでいるのを、手に取ってみた人が「これは面白そうだ」と借りていったのでしょう。
だから、手に取らない人は予約していない。(早速私が予約したので、現在は予約1名ですが)
 それにしても、手にとって数ページ読んだだけで、「これは面白い」と思わせる筆者の表現力はすばらしい。
因みに、この本は昨年度の大宅壮一ノンフィクシヨン賞を受賞しているそうです。
 読んでみたら、皆様に紹介のメールを送りますが、『捏造の科学者 STAP細胞事件』という書名は記憶に留めておく価値がありそうです。(続く)


遅れてきた帝国主義

2015-08-08 | 経済と世相
戦後70年と言うことで、雑誌や新聞が、特集記事を掲載しています。
私も、戦後70年の時点で、日本は何を間違えたかを「昭和陸軍全史」を読むことで、総括してみようと考えました。
読み終えて、個々の事案の判断ミスは、確かにありましたが、一番のミスは大局観を間違えたことと思います。
帝国主義の侵略の時代が終わったことに気付かず、いわば「遅れてきた帝国主義」で、侵略戦争に走ったことが最大のミス!
こうした大局観を養う上で、最近の文科省の方針(理科系重視、文科系軽視)は気になります。
私は、文科系の科学こそ大局観を養うために必要な科学だと考えるからです。


昭和陸軍はどこで間違えたか。以下は、本の著者の考えとは別で、小生の愚見です。
彼らの判断で正しかったことを見てみます。
一つは、第一次世界大戦以後、戦争の形が変わり、経済力も政治力も含めた総力戦になった。もう一つは、第二次世界大戦が起きて日本は多分巻き込まれるだろうという判断でした。

従って、総力戦に勝ち抜くためには、日本は経済力、当時の考えでは、資源を持たねばならない。そこで、満州へも、中国でも他国の領土を支配しようとした。
「大東亜経済圏」論が出てくるのです。
大東亜経済圏に包摂されるべき諸民族を「白人帝国主義」下の奴隷的境遇から解放することが、日本の使命だとした。
だが、当時の陸軍省の内部資料では、日本の国力で、中国4億に加え南方1億が必要とする製品を供給できるか疑問視されている。ことに南方占領地では、軍事資源取得など一方的な「搾取的経済情勢が生ずること、すなわち資源略奪となることが指摘されていた。
東南アジヤ、満州、中国などに侵略し、資源を獲得しないと、来るべき大戦に勝てない。
これが一つの判断ミス。
もう一つは、そういう政策を軍部の判断だけで実行してよいのか。軍には天皇を補佐する「統帥権」があり、天皇には統治権があるのだから、それにより、軍が国を統治できると考えた。これが第二の致命的判断ミスでしたが、国民の支持がなければ軍の統治は実現しません。当時、満州や南方アジヤに領地が広がることを国民は喜んでいたと思います。だから、国民全体の判断ミスというべきかもしれません。

では、どのような判断が正しかったのか。
大戦にまきこまれないようにするには、どのように行動すべきかを考えるべきでした。日本は逆に戦争の火種を増やすことばかりしていました。
 日本は、強化すべきは軍事力でなく、国際政治における政治力でした。

 本書は太平洋戦争の時期の陸軍、陸軍をリードした軍人たちがどのような戦略構想、言い換えれば何を考えていたかを明らかにする目的で書かれた。従って、昭和天皇の関わりについては、最終段階の意思決定にどのように関わったかのみが記されている。

「9月6日の御前会議(帝国国策遂行要領決定)となり『10月上旬に至るも対米要求貫徹のめどなき場合は、対米英戦を決意す』との決議となった。これには外交をますます積極的に推し進めることが前提になることはもちろんであり、10月上旬となれば準備の実行を許容するための決意であって、即開戦でないことは当然であった。」(武藤)
しかし、参謀本部・軍令部は、対米英戦を決意すれば、11月初頭に開戦を想定していた。
10月17日、重臣会議の結果、東条に組閣の大命が下った。
大命を受けた東条に城戸内大臣は、天皇の思し召しとして9月6日御前会議決定の白紙還元を求め(「白紙還元の優諚」)東条は了承した。
東条内閣下での白紙還元による戦争回避は、海軍が「(対米戦に)自信ある決意」を示さないことを前提としていた。結果をみると、海軍は明言をしなかった。
結局、天皇は内閣や統帥部の決定に不満であったとしても、再検討を求める以外の行動は自粛されたということであろう。

昭和陸軍全史

2015-08-05 | 読書
 [満州事変以降の【昭和陸軍】をリードしたのは、陸軍中央の中堅幕僚グループ(派閥)『一夕会』。1929年結成された。メンバーは東条英機、永田鉄山、石原莞爾、武藤章(1892年 - 1948年(昭和23年)12月23日)。最終階級は陸軍中将。極東国際軍事裁判(東京裁判)で唯一中将として絞首刑)、田中真一ら約40人。
一般的には東条が日本を破滅に導いたように思われていますが、昭和陸軍の戦略構想を立てたのは、永田と石原、武藤、田中。東条は彼らの構想に従って動いたに過ぎない。
 永田を中心にした彼ら4人は、単なる軍事エリートではなく、当時の日本社会では知性と教養を併せ持つ知的エリートでした。戦前の陸軍は何も考えずに暴走したと思われがちですが、そうではなかった』
『一夕会が存在感を強めたのが、1931年の満州事変の発端となった『柳条湖事件』です。満州事変は関東軍作戦参謀だった石原のプランに基づく。
 石原は関東軍赴任前から、20世紀後半期に日米間で戦争が行われる「世界最終戦争」という世界観を持っていた。
「石原は将来的に、アジヤの指導国家となった日本と、欧米を代表する米国が世界最終戦争を戦うと予想。その戦争に勝つためには、鉄・石炭などの資源が必用で、そのため全満州の領有、さらには中国大陸の資源、税収などを掌握しなければいけないと考えた」
 石原らの謀略、越権行為に対し、当時の若槻内閣は戦線の「不拡大」を決めたが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大。陸軍省の軍事課長だった永田も、石原らの行動を支持した。
 彼らがそう考えた背景に第一次世界大戦がある。「陸軍きっての俊秀と知られた永田は第一次世界大戦前後の6年間、ドイツなどに駐在。大戦の実態をみた。
 人類史上初の総力戦になった第一次世界大戦でドイツが負けたのは、資源が自給自足できなかったため。次の世界大戦はさらに機械化が進み、資源や労働力が必要になると確信した永田はドイツの轍を踏まないよう、資源、機械生産、労働力のすべてを締めで供給できる体制を整えなばならないと危機感を募らせた。永田の眼には、敗戦で過重な賠償を課されたドイツが次の大戦の発火点になるのは必至。そこに日本は必ず巻き込まれる。その時に備えて国家総動員体制を早期に整えなくてはならないと考えた」
 だが、当時の日本は多くの物資をアメリカからの輸入(石油の7割はアメリカから輸入)にたより自給自足にほど遠かった。
「そこで永田が考えたのは。中国の満州、華北、華中の資源を確保すること。当時中国では反日ナショナリズムが盛り上がり、蒋介石率いる国民党政府が中国の統一を目指して北伐を実施。この動きに永田らは日本の資源戦略が脅かされるとして安全保障上の危機感を強めた。満州事変はそうした危機感によるものだった。
一夕会の抗争とは逆に、当時の日本政府は、第一次大戦の戦禍を踏まえて結成された国際連盟の常任理事国として国際協調を模索していた。
 一夕会からすると、とにかく波風を立てまいとする内閣、政党政治家はあまりに無知。いつまでたっても国家総動員体制は出来ず、日本は次の大戦で滅ぶか、三流国に転落する、と危機感が強まる一方だった。
永田らは、政党政治家にとって代わり自分たち陸軍の手で政治を支配しようと動き出す。
「『統帥権の独立』と「陸海軍大臣武官制を使って(不満な内閣からは陸軍大臣を引き上げる)内閣に執拗な恫喝を繰り返し、屈服させていく。
1932年5月、青年将校が犬飼首相らを殺害する5.15事件が発生。政党政治は終焉を迎え、1933年満州国独立をめぐり日本は国際連盟を脱退しました。
 陸軍主流派になった一夕会は権力闘争が激化、皇道派と統制派に分かれる。内紛のなかで、永田は執務中に斬殺される。永田の死後、石原と武藤が永田の国家総動員構想を推進していくが、1936年、皇道派の青年将校らが2.26事件。石原・武藤は二人三脚で鎮圧する。
「永田の構想を引き継いだのは武藤でした、
武藤は、永田の構想に基づき、32年に誕生した満州国とは別に華北地域に親日の傀儡政権を作り、華北の資源を確保しようとした。
 武藤が資源確保を急いだのは、第二次世界大戦が現実味を帯びてきたからです」
ところが石原がこれに待ったをかけた。石原は当初華北分離政策を支持していたがそれを止める。理由はソ連の存在。華北分離政策を続けると、ソ連が介入して戦争になると危惧した。
 ソ連との戦争になればアメリカから物資を輸入せざるを得ない。しかし華北分離を進めると、中国に権益を持つ英米との関係が緊迫し、石油の輸入も受けられない。よって自重すべきだというのが石原の考えでした。
石原は、たとえ欧州で次の大戦が起こったとしても、日本は介入すべきでないという立場だった。
「しかし、武藤は欧州で大戦が起これば必ず日本も巻き込まれる。華北分離工作を止めてしまうと、大戦の準備ができなくなるとして、石原と対立した。
1937年7月、盧溝橋事件、日中戦争が始まった。石原は速やかに事態を収拾しようとするが、武藤は“一撃で中国を屈服させる”と豪語。戦線の拡大、不拡大で大論争に発展した。一夕会のメンバーでは田中が武藤に同調。結局、武藤は石原を排除、石原は失脚した。」
1939年9月、欧州で第二次世界大戦がはじまった。武藤は、永田や自分の考えた通りの展開になったとして1940年6月「総合国策10年計画」を策定する。
「この中で武藤は『大東亜共同経済圏』という言葉を使い、日本・朝鮮中国としていた自給自足圏を東南アジヤにまで拡大する構想を初めて掲げた。
 第二次大戦勃発に合わせて調査し直したところ、自給自足のためには石油やポーキサイトやスズ、石炭や鉄も足りないことが判明。それで東南アジヤでも資源を獲保しようとした」
南方進出は、建前は援蒋ルートの遮断だが、本音は資源確保だった。
 南方進出はイギリスとの戦争を意味した。一方で武藤は対米戦は絶対避けるつもりだった。『アメリカは物資と財力で世界一であり、年間軍事費は約140億円(日本は20億円)で日本はかなわない』と述べている。武藤が考えたのはドイツにイギリスを倒してもらい、欧州でのアメリカの足場を崩すことだった。
 武藤ら陸軍中央は、英米の密接な関係を十分承知していながら、この時点で、何故イギリスのみに攻撃を限定することが可能と考えたのだろうか。なぜ英米可分と判断したのだろうか。
 それは、ドイツ軍の英本土上陸によってイギリスが一気に崩壊すれば、アメリカ政府は、戦争準備体制の未整備と孤立主義的な国内世論のなかで、南方への軍事介入のチャンスを失う。英本国が崩壊すれば、その植民地のために、日本との戦争を堵することはないと考えた。
陸軍は、6月中旬の時点では、明らかに英領植民地及び蘭印への侵入を念頭においた。因みに6月22日、フランスはドイツに降伏していた。
 武藤は三国同盟にソ連を加え4か国連合でアメリカを封じ込めようとした。しかし、まさかの独ソ開戦。逆に三国同盟包囲網が整った。
「武藤は南部仏印に進駐したぐらいで、亜米利加が石油を禁輸するとは予想していなかった。石油を禁輸すれば日本が東南アジヤの石油を求めて南方に進出する。アメリカはイギリスを助けるため、まずドイツを叩く、二正面作戦になる日本との戦争を望んでいないと思い込んでいた。」
 結局、仏印進駐が太平洋戦争の引き金になりました。
そもそもは満州事変から15年戦争がはじまったのですが、第一次世界大戦で、それ以後の戦争は国の政治経済の総力を挙げるものになると考え、資源を持たない日本が資源を自給できる体制を整える必要があり、そのためには、満州を必要と考え、さらに満州だけでなく華北を抑える必要があると考え、さらには石油資源を抑えるには、仏印進駐もやむを得ないと考え、行動した。ここまで来ると、アメリカも対日戦争も覚悟してハルノートを日本に突き付け、日本は真珠湾攻撃で応えた。
仏印進駐の際、イギリスとの戦争は覚悟していたが、米国とは戦わずに済むと甘い判断、欧州戦線でドイツが勝つという前提で、ドイツが破れたらどうするというシナリオはなかったみたいです。(
追伸
『暗い暦』という澤地久枝さんの小説を読みました。
副題が2.26事件以後と武藤章」となっていて、本の主題は、武藤章小伝の形をとる。
昭和23年12月23日夜、満56歳になってほぼ1週間後、極東国際軍事裁判法廷で絞首刑を受けた7名のA級戦犯の最年少者として、13怪談を上った。
「日本陸軍全史」なる本を読んで、「武藤章」に関心を持ち、図書庵の棚に見出したこの本を「読んでみよう」と思ったのです。内容は、「日本陸軍全史」とほぼ同じ。「日本陸軍全史」を小説で読んだ感でした。
『妻たちの2.26事件』を書いた筆者は、「武藤章」を是非書いてみたいと思うようにmなった。2.26事件を昭和史前期に如何に位置づけるか。筆者は、軍ファシズム化の分岐点となったマイナスの事件と評価する。事件の不幸な「完成」の歴史を語るうえで、武藤章は欠くことのできない人物であった。
「戦争を行うには、天皇の許可が必用であった。――彼が暗殺されたかもしれないということは、問題の答えにはならない。――彼の免責は、疑いもなく、須br手の連合国の最前の利益のために決定された。」(ウェップ裁判長)
「そこに一人の主要な惹起者があり、そのものが一切の素は句を免れていることで、本件の被告は、いずれにしても、そのものの共犯者としてしか考えることが出来ない」(フランス代表判事ベルナール)
点王を無罪にする限り、誰かを有罪にする必要がある。武藤は、その誰かの中で最年少(それは再優秀を意味した)だったのが武藤であった。
つづく)

玉音盤と昭和陸軍全史

2015-08-01 | 経済と世相
8月1日朝、NHKから終戦の玉音盤の放送がありました。
実際に70年前の放送を聞いたときは、雑音がひどくて、当時小学(国民学校)3年生の私には全く意味がわかりません。
放送の終わった後、大人たちの会話で「日本は負けたんだ」とわかりました。
「耐えがたきを耐え忍びがたきをしのび」という言葉だけ記憶に残りました。
翌8月16日、夏休み中ですが、出校日でした。
 担任の先生、(20歳前後の娘さんでしたが)から訓示がありました。
「天皇陛下はいかにお悔しいでしょう。みなさんはおおきくなったら、もう一度アメリカと戦い必ず勝ってください」。
「耐えがたきを耐え忍びがたきをしのび」とは、そういう意味かと思った次第です。
ところで、今でも不思議に思うのは、当時の日本の指導者たち、なかには優秀な人もいたと思うのですが、何故アメリカと戦争をしようなどと思ったのでしょうか。
かくも国力の隔絶したアメリカと闘い勝てるつもりだったのでしょうか。当時の指導者がどう考えて戦争に踏み切ったのでしょうか。
学問的な研究というか、検証はないのでしょうか。
 大学図書館に行き、さがしたら、名大名誉教授の川田稔さんが、講談社新書から「昭和陸軍全史」全3巻を最近出していました。
第3巻(太平洋戦争関係)を借りてきて読み始めました。どんな内容かを読み終えた後、報告します。