古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

自己組織化についての話

2008-02-26 | 経済と世相
 週刊誌をのぞいていたら、竹内久美子さんのエッセイがありました。 
 【『イワシなどの小魚、あるいは小鳥が群れをなして飛んだりする時、急に方向転換する場合でも一糸乱れず、団体行動をとる。誰かリーダーがいるのか?』
 この分野の研究によると、リーダーがいなくても(むしろ、いないからこそ?)、見事な集団行動がとれるというのです。
 魚の群れの行動のルールはごくごく単純で、次の3点にまとめられる。
①近隣者が遠くへ去るならそちらへ行け!
②近くの魚との衝突を避けよ!
③この二つのルールによって近隣者たちが好ましい距離のところにいるなら、同じ方向に動き続けよ!
 もちろん最初に敵に気づいた者、群れの一番前にいるものの動きがきっかけになるが、リーダーも命令もいらない。
 個体同志がただ単に、驚くほど単純なルールに従って何らかの行動をとる。・・・それだけのことで群れの全体が、一糸乱れぬ統制のとれた行動を示したり、何らかのパターンが出来上がったりする。そういう過程は「自己組織化」と呼ばれています。
 ところが・・・
 ウグイの群れは見事に統制された泳ぎを見せます。もちろんそれは自己組織化の働き・・
 そこでエーリッヒ・フォン・ホルストという生物学者がウグイの脳の一部(前脳)を切り取り、群れに戻すという実験をしました。どうなったと思います?
 前脳部に損傷を受けた彼(彼女?)は、ルールを守らなくなった。他の個体を無視し、自分の好きなように泳ぎ始めたのです。
 方や、他の連中はきちんとルールを守る。おかげで単なる彼の気紛れに、ただただ振り回される結果となってしまった。 前脳部の損傷で、俄かリーダーが、いや、イカれた独裁者が現れた次第。】

 以下は、私の妄想です。
 『政治家の動きにも、この自己組織化があるのでは?「カイカクだぁ!」と叫び始めた個体が、リーダーになって、与党も国会も振り回され、これまた気まぐれでリーダーを辞めてしまった。やっと、元の個体運動ルールに基づく全体行動に戻り始めた。道路の特定財源論議も、そう思って見ると良く理解できる。
 
 ところで、イージス艦の行動原理はどうなってたのかな?
 自分より小さい艦は無視して行きたい方向に行く!ということになってたのかな?』

経済成長率3.7%?

2008-02-17 | 経済と世相
今、『人々はなぜグローバル化経済の本質を見誤るのか』(水野和夫著)を読んでいます。こんな個所がありました。
 最近は【資本流入額の多寡と成長率に高い相関がある。】
 近年、経常赤字を増大させている国の方が高い成長を実現している。・・・経常赤字の変化と、03年以降の年平均成長率をグラフの横軸、縦軸にプロットすると、相関関係が直線で示され、赤字拡大国の方が成長は高いというのです。平たく言うと、借金してでもお金をかき集めた国の方が、借金の少ない国より成長率は高い。

 
 このことから、以下の仮説に思い至りました。
 先日発表された10~12月期のGNP統計では、成長率は年率3.7%と予想外の高さと言われた。
 この問題を考究するには、近年の金融と実体経済の問題を整理しておく必要があります。
1. 金融は、実体経済を写すものだった。つまり、実体経済が頭で、金融は尻尾、頭が東を向けば尻尾は西を向く。ところが、今や、金融が実体経済をふりまわす。すなわち、金融が頭で、実体経済が尻尾になる傾向が出てきた。例えば、一国の経済成長(実体経済)は、その国への資本流入(金融)で決まる、つまり借金で決まる。
 昔は、経常黒字の国が資本の蓄積が可能であり、その資本を投資して経済成長を実現した。日本の戦後の経済発展を振り返ってみても、経済成長には資本が必要で、その資本は経常収支の黒字で稼ぎ出した。だから、成長のために投資をすると、保有外貨量の壁があって、外貨不足になり、すぐ成長にブレーキを掛けねばならなかった。経常赤字では経済成長は出来なかったのである。
 しかし、今は外貨不足になれば、経済のグローバル化で、外国から資金を借りることが出来る。だから、むしろ赤字国の方が成長できる。そうなると、借金という金融の流れが、その国の経済成長の度合いを決める。尻尾だった金融が頭で、成長という実体経済が尻尾になった。
 近年、米国が行ってきたことは、まさに赤字国の高成長で、それを可能にしたのが、米国の作り上げたグローバル経済のしくみ。まさに、尻尾と頭が逆転するしくみでした。
2 .金利と格差問題。
 経常赤字の続く米国が、自国の経済成長を続けるためには、米国への資本流入が続くシステムが必要だった。それが、米国主導の経済のグローバル化だった。この一環として、日本の低金利がある。
 このシステムでは、各国の稼いだ黒字が直接その国への資本投下(投資)になるのでなく、資金は一旦米国に集められ、それが米国から各国への投資として配分されることになる。それが、金融の自由化でした。
 日本のように、貿易で稼いできた国は、従来は、輸出で稼いだ金が国内を循環して、国民各層を潤したが、稼いだ金が一旦米国に行ってしまうと、輸出で稼げない業種に金が回らない。これが格差問題の真相と思います。
3 .経済が成長するか、好景気が続くかは、資本の流入状況を見ていれば分かるはず。その、資本の流れが、サブプライム問題をきっかけに変調を来たしている。米国の成長を担保する、資本の流入が細っているのだ(イラク戦争の失敗で、中東産油国の金が米国以外に流れるようになったことも影響)。世界経済をリードしてきた米国の失速は深刻です。簡単に、米国に代わって需要を引っ張る市場が出てくるとは思えないからです。
4.にも拘らず、10~12月のわが国の成長率は、何故高かったか?
 二つ理由が考えられます。一つは、金融の流れが実体経済に波及するまでの時間の遅れ。頭が回ってから尻尾が回るまでに若干の時差があるということ。
 もう一つは、尻尾であっても、尻尾がなくなるわけではない。尻尾の部分では日本の製造業は健在だ。
以上です。

スーダラ節

2008-02-16 | Weblog・人生・その他
 このところ寒さ、出掛けるのが億劫で、プール仲間のガールフレンドに貰った義理?チョコをかじりながらTVを見ていました。「植木等」が出ていました。「あの人に会いたい」なる10分ぐらいの番組です。
 亡くなってからもう一年近くなるな、と見ていたのですが、いい話でした。

 「スーダラ節」という歌を貰った時、「こんな不真面目な歌を!」と悩んだのだそうです。そこで、父親(お寺の住職)と相談した。
父”一寸歌ってみイ”
 「♪ チョイと一杯のつもりで飲んで、
いつの間にやらはしご酒、」
父”フンフン自然じゃない・・それで”
 「気が付きゃホームのベンチでごろ寝、
これじゃ身体にいいわきゃないよ。」
 ”フーン、その後は?”
「分かっちゃいるけど、止められない。
ほれスイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイ ♪」
 ”いい歌だなあ、そりゃ、親鸞上人の生き様そのものだ”
「はア?」
 ”親鸞様は、90歳で亡くなるとき、「自分の人生を振り返ると、やってはいけないと思っていることを、性懲りなく繰り返してきた。人の一生とはそういうものだと語られた。そりゃ、親鸞上人の生き様そのものの歌だ”(植木さんの父上は名僧だった?)
 で、植木さんはこの歌を歌う決心がついたという話でした。
この話、その後調べたら、インターネットに掲載されていました。
http://www.spacelan.ne.jp/~teruteru/houwa/su-da.html

 もう一つ、こんなことも語っていました。
【人生は「縁」ですよ。女房と連れ添うのも「縁」です。
 翻ってみるに、自分の子供の教育というものを、まったく自分は何もせず、女房にすべて任せてきた。
それでも、なんとか普通に、まともな人間に育ててくれた。そういう女房にめぐり合えたのも「縁」です。】
 この話、身につまされました。

菜の花忌

2008-02-14 | 読書
 12日、友人からのきれいな菜の花写真のメールを見て、「ああ今日は菜の花忌だ」と気がつきました。

 司馬遼太郎さんが亡くなったのは1996年ですから満12年、13回忌になるわけですね。当時、まだ現役でした。当日は振替休日でしたが、翌日出勤して、誰か司馬さんの死去を話題にするかと思ったのですが、誰も言及する人がいなかったので、「これほどの国民的作家が亡くなったのに」と腹を立てました。これは腹を立てる方が悪かったかなと、後で思いもしましたが、でも美空ひばりが亡くなった日は、出勤すると、お茶を入れてくれた女性が(その時は工場長だったのでお茶を入れてくれました)「ひばりが亡くなりましたネ」と話し掛けてくれました。
 勿論、「ひばり」は偉大な歌手でしたが、司馬さんも偉大な作家だったのに、と思います。
 2月1日、朝日新聞社から「週刊 司馬遼太郎Ⅲ」という本が出ました。週刊朝日に連載されているものを纏めた本ですが、巻頭の写真が「壱岐・対馬」で、自分が度々訪れた場所なので、気に入り買っておきました。「新史太閤記」の秀吉、「義経」、「翔ぶが如く」の西郷隆盛、「花神」の大村益次郎を題材に、司馬さんの担当記者だった朝日の記者が、ゆかりの地を訪ね、かつ司馬文学を紹介しています。
 読み終わって、話題はいろいろありましたが、一つだけを紹介。
 大村益次郎、長州の百姓医者だった彼を抜擢したのは宇和島藩主の伊達宗城だった。黒船来航に、宗城は宇和島藩で黒船を作ることを決意し、大村を呼んで士分に引き上げ、宇和島城下の大工嘉蔵と共に蒸気船製作を命じた。勿論、二人の作った蒸気船は宇和島の内海をちょろちょろ動く程度だったが、それにしても、黒船来航後3年で蒸気機関を作ったというから凄い!

 宇和島の殿様は、長寿の家系だったらしく、宗城の父、宗紀公は100歳を越えたという。
 【司馬さんも宗紀の長寿については、「街道を往く14 南伊予土佐の道」で触れている。
長寿の秘訣を聞かれた宗紀は言った。
<―――それは女色を遠ざけることです。
と、訪客が驚き、御前は幾歳のときから婦人を遠ざけられましたか、ときくと、
「70のときからです」と真顔で答えられたという。>】
 このくだり、10数年前に読みましたが、その時は、とても面白かった。

 でも、今回 再度読んだのですが、あまり面白くない。自分が70歳を越えたら、全然面白くなくなった。皆さんは面白いでしょうか?

第62回丸亀ハーフマラソンを走る

2008-02-05 | マラソン
 3日、7時50分ホテルのバスに乗る。雨は上がっているようだが、家々の屋根には雪が残っている。昨夜降ったのだろう。会場の丸亀競技場には、8時過ぎ着いた。受付をすませ、更衣所のテントに行き支度する。パンフを見ると、北海道から沖縄まで、岩手をのぞく46都道府県から参加者が来ている。
 ハーフの出場者は、約5000名。招待選手は、女子が、弘山晴美(資生堂)以下16名、男子も松宮(コニカミノルタ)以下16名です。弘山は、名古屋マラソンに出場すると聞くので、今日はその調整を兼ねて走るのだろう。
 毎年、有名選手が出場することが、この大会の人気の一因で、7年前私が出場した時は高橋尚子が出場した。なにしろ、シドニーで金メダルを取った後初めての大会出場ということで、一目彼女を見ようという人たちでコース両側は切れ目なく観衆があふれた。
 一昨年は、野口みずきと福士加代子が出場、せりあったが福士が日本最高記録(1.07.26)を出して、野口を制した。この時勝ったため過信し、先日の大阪マラソンの失敗を招いたのかも・・・
 それにしても寒い。マイクが気温2度と伝えている。ハーフのスタート時刻は10時35分。10時前、血圧測定のテントに行って計ってもらうと、「180あるよ」看護師が言う。
「寒さの所為だよ。このテント、あったかい(ストーブが入っていた)から少し温まってから、計り直して」と、10分後計ると「165」。「大丈夫だよ!」と、荷物を預かり所に預け、ビニールの透明カッパ(受付で貰った雨対策用)を防寒に役立つだろうと頭から被った。
 スタート場所に並ぶ。スタートの号砲で腕のストップウオッチを押したが、しばらくは歩くだけ。スタート線を踏んだのは1分40秒。2kmぐらいまでは他のランナーと脚がぶつかりそうな混雑だった。
 2kmで前方に小さく天守閣が見えてくる。お城を過ぎたあたりで高松方向に右折、コースは坂出に向かう。坂出駅近くで折り返す往復コースだ。右折後、コースの右側(道路のセンターライン沿い)を走る。7~8kmで先頭グループが折り返してくるだろうから、招待選手を見ようと思った。しかし、先頭とすれ違ったのは6km半ぐらい、宇多津駅手前だった。それだけ自分が遅くなったのだろう。
 弘山を見ようと思ったが、男子グループに囲まれていたらしく、確認できなかった。
 折り返しで時計を見たら1時間8分だ。「遅い!」と思った。スタートで2分ロスが有ったとして片道1時間6分かかっている。帰りも1時間6分かかると、2時間14分になる。7年前は1時間50分を切ったのに!「やっぱり、寒さで筋肉がこわくなっているんだ。
 タイムは期待できないから、完走だけに目標をしぼって走りつづける。15kmを過ぎると、また丸亀城天守が見えてくる。7年前ほどではないが、応援の町の人が多い。「お父さん、頑張って」と声を掛けてくれる。20kmあたりになると、掛け声が「お父さん、よぉう頑張っとる」になる。
 スピードは歳の所為でなくなったが、持久力はまだ大丈夫だ。
 競技場に戻り、アンツーカーを1周半、フィニッシュした。記録証を貰いに、プリンターの前の行列に並ぶ。これが寒かった。汗が一気に冷たくなるのだ。記録証は
 タイム   2時間14分28秒。
 ネットタイム2時間12分47秒。(スタートロス除くタイム)
 一般男子3392名中23215位(70歳代男子35名中20位)
 『あなたは本大会において、上記の記録にて完走されましたことを証し、その栄誉をたたえます。』
 帰りは無料のシャトルバス。2時頃駅に着き、隣接するスーパーに入って、弁当代わりに「恵方巻き」1本¥300、お握り(1個¥88)2個、蜜柑一袋¥198を買う。この蜜柑は廉かった。7センチぐらいの玉9個入ってこの値段だ。名古屋なら倍の値段です。
 2時27分の電車で、坂出乗り換え。岡山からは、今度は、ひかりレールスターに乗りました。
 新幹線の中で、恵方巻きにかぶりつき、「方角が少し違うかな?違ってたら神様ゴメンナサイ」。

新大阪乗り換え、名古屋駅には6時10分に着きました。
 以上、3回目の丸亀マラソン出場記です。



7年前の出場記録は以下です。(左欄 01年2月6日をクリック)

http://blog.goo.ne.jp/snozue/e/6901c14d1ff6c5693da8ff9fb596fc9e




丸亀への旅

2008-02-04 | マラソン
 第62回丸亀マラソン出場の旅に出かけました。
 62回ということは、戦後すぐ(昭和22年)に始まったということで、私の出場したマラソン大会でもっとも伝統のある大会です。
7年前と11年前に出場し、今回が3回目です。

 2日、8時10分名古屋駅から「新快速 米原行き」に乗車しました。

「新快速」って、「新幹線」でないの?と思われるでしょう。年初来、株価が暴落し小生の資産価格も評価損が大きく、経費節約の必要を感じて、行きは在来線にしたのです。昨年末この大会にエントリー(申し込み)した時は、在来線で行くとは思ってませんでした。サブプライム・ローン・ショックです。

 米原駅で9:22の姫路行新快速に乗り換えます。9:22に着いたので、向かい側ホームの電車に飛び乗り。あわてなくても良かった!同じJRですから、客の乗換えが終わるのを待ってくれて発車しました。

 姫路には、11:26着。ここで20分ほど乗り換え時間があったので、トイレを済ませ駅弁を買い込んで、各駅停車の播州赤穂行き。ここから直接岡山行きは出ていないのです。

 途中「竜野駅」に止まります。ここは「うすくち醤油」発祥の地とか。私の記憶では「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・」を作詞した詩人の郷里です。

 次いで「相生」です。ここで岡山行きの新快速に乗り換え。これまで10両編成の列車だったのが、3両編成になったので、急に田舎に来たような感じでした。

 1時半、岡山着。これで、ひかり特急券代を節約、今夜の夕食代が浮きました。

 高松行きのマリンライナーに乗車。岡山を出ると車窓から見る路面がぬれています。

「雨が降り出した」。今から降り出せば、明日のマラソンまでには上がるだろう。

でも、瀬戸大橋を渡るとき、視界が悪くて、折角の眺めが観られませんでした。


 瀬戸内海にかかる3本の橋を、人力で(車や電車でなく)渡ったことがあるというのが小生の自慢です。
 瀬戸大橋は15年前「瀬戸大橋開橋5周年記念」の「大橋を渡るウオーキング」なるイベントがあって、鷲羽山側から坂出北ICまで3時間20分かけて歩きました。橋の真ん中に行くと、風がものすごく強くて、身体を斜めに倒さないと、まっすぐ立っていられない。海の上は風がつよいものなんだな、と思ったことを覚えています。

 今年も20周年で4月13日に20周年のイベントがあるそうですが、橋を渡りきるのでなく、最初の島まで歩いて戻ってくるそうです。

 明石海峡大橋は、橋が出来た時、神戸側から淡路島までを折り返す記念のハーフマラソン大会がありました。走って橋を往復したのは、かれこれ10年前です。

 「しまなみ海道」を今治から尾道まで、およそ80km、レンタル自転車で走破したのは、4年前の秋でした。

 坂出で琴平行きに乗り換え、2時38分丸亀に着きました。ここまで名古屋から6時間半。運賃は4730円(ジパング料金)、1時間当たり約730円で旅を楽しめたから、ずいぶん値打ちだ。

 大会事務局紹介の宿を予約したのだが、送られてきた略図だと、ホテルは駅と丸亀城の中間あたり。傘をさしてお城の方角に歩き出す。

 「この辺で町の人に聞いてみようかな」と思ったとき目の前にホテルはあった。
 3時チェックイン。ビジネスホテルにしては、ゆとりのある部屋でした。

 時間があるから、お城でも見てこようかな、と外出した。雨の中6~7分歩いたらお城の大手門。仰ぎ見ると、石垣は素晴らしく、巨大(60m、日本一の高さだそうだ)。だが天守閣は木造で、かわいいといって良いほど小ぶりです。

 本丸に登る坂道はかなりの急坂(「見返り坂」という)、「登りは良いが下りはつんのめりそうだ」と思う。
 5~6人の若者グループが、雨中をランニングで登っていく。明日のマラソンの練習かな?
 残念ながら、天守閣は年末から2月末まで休館で、入場できない。

 駅に戻って、食堂街(というほど店は多くないが)夕食を取ってからホテルに帰った。(続く)