古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

3200対0

2012-02-27 | 経済と世相
 先日(22日だったと思う)、NHKのニュースで「フクシマ事故に関して、米国政府の委員会の公文書(議事録)が公開された」という報道があった。3200ページに及ぶという。日本政府は先だってフクシマ事故に関する委員会の議事録が作成されていなかったと発表した。
 だから、ゼロページである。3200対0、この違いは一体どういうことだろうと、愕然としました。
 日本で起きた事故なんです。米国ではこの事故に対応する委員会の議事録が3200ページ。日本では、議事録なし。将来フクシマを研究する日本の学者は、米国の公文書を見ないと、研究が出来ない!
 米国では、政府は国民の税金で運営されているので、政府の行動を説明する公文書を残し、国民に公開されなければならない、というのが常識。ところが、日本では、後から官僚の決定にミスがあったと疑われかねない文書は、作成しないし作成しても隠してしまう。
 この重大な問題に関して、マスコミはどう報道しているかと、25日図書館で23日の有力紙を見てみました。
 朝日、毎日、読売と見たのですが、わずかに朝日が23日朝刊7面に載せているだけでした。その朝日の記事も、米国公文書の内容が、日本政府の発表と異なる点(例えば日本では20km、30km地点の避難地域指定だったが、米国は80km地点まで避難指示したとか)を簡単に報じているだけで、3200ページ対0ページについては、全く触れられていない。
 新聞の価値は、どの記事が国民にとって重大かを判断して記事の構成をすることにある、と私は考えます。新聞各紙の、記事の重大性を判断する基準が間違っている!ないしは、霞ヶ関に遠慮して、官僚のご機嫌を損ずる記事を載せない?
 これは絶対に一面報道すべきだと愚考します。因みに23日の朝日の一面記事は、「フクシマの津波防波堤の工事が一向に進まない」というどうでもいい記事です(どうでもいいというのは、フクシマ事故の原因が津波にあるとは思えないからです。東電がそういっているだけです。東電は賠償責任をなるべく避けたいため、原子力賠償法で「天変地異の場合には賠償責任を免れる」旨の記載があるので、そういっているだけだと思います)。
 どうしてこうなるのか?日本の民主主義の生成の歴史に起因すると思うのです。
 明治20年代、国会と内閣の制度が出来たとき、山県有朋らは、国民の選挙で選ばれた議員たちが国を誤りなく運営することが出来るなどということは信じられなかった。
 でも、一応民主主義の形態を取らないと、諸外国が相手にしてくれない。そこで、、内閣がおかしくなっても国家が運営できるシステム、官僚制度を作った。そして生まれたのが「官僚は無誤謬」という考え、優秀な人材を選んだ官僚の行為に誤りがあるはずがない。このことから、官僚の誤りを指摘できるような書類はあってはならない、となった。
 国民がカネを出し合って政府を運営するのだという欧米諸国とは、「公文書公開」の考えがまったく違うのだと、愚考する所以です。

変人の研究

2012-02-26 | 読書
先日、大学図書館の新着本の棚に新潮社刊「落合博満 変人の研究」という本を見つけました。
手に取ってみると、著者は小説家のねじめ正一、初版は08年4月だが、この本は11年10月の3版です。
 中日の昨年のセ・リーグ制覇で売れると見込んで増版したのだな、と目次を見てみると、全8章のうち、第2章で江夏豊、第3章で赤瀬川原平、第4章で豊田泰光(元西鉄内野手)、
第5章で富士真奈美(女優)+高橋春男(漫画家)と筆者との「落合を語る」対談を入れている。

これは面白そうだ、と借りてきて読みました。

 終始一貫、落合の言動を引用して、彼は変人と説いているが、私には、さっぱり変人とは思えないのです。

落合が変人だと考える日本人社会のほうがおかしいのでは?と思ったのですが、・・・・

さわりを紹介します。まず、落合語録(太字)から。
人それぞれ、からだの造りも頭の構造も違う。だから、今までの選手もみんな自己流というか、我流でやってきたんだと思う。
カラダのバネからものの考え方まで、なにからなにまで自分とそっくりな人間に教えられれば、それはその人間のレベルまではいくだろう。
ところがそんなことはありえない。完全に同じコピーを作るのは不可能なのに、日本の社会はそれをやりたがる。」
つまり選手は一人ひとり違うので、一人ひとりの状態を見ることが大事だ。
監督一年目のキャンプで、一軍、二軍を一緒に練習させましたね。同じグラウンドにいれば、二軍の選手が一軍の選手と比べて、どれくらい力が劣っているか、自分で見極めることができますね。(筆者)
骨董屋の目利きの方法です。骨董屋には人を食ってる人がいる。落合も人を食いますね。人を食うということで思い出したのは細川護熙さんのことですね。
いま、とてもいい焼き物を作っているんですが、もともと知識や心得があった人じゃないんです。総理を突然辞職して、だいたい自分であたりをつけて、辻村史朗さんという陶芸家のところにいきなり住み込んじゃう。奈良の山奥で一人やっている人なんですが、弟子を取らないので知られていて、細川さんは、作品を見せて頂きたいといって対面して、互いに名前も告げずに、そのまま居ついちゃうんです。いいとも悪いともいわれず、ただ許可されて毎日ロクロを廻し、修行を始めた。
とってもきたないところで、野生の暮らしをしている陶芸家でね。ただ、その世界では凄い人なので、たまに客が来ます。“おや、元首相に似た人がぼろぼろになって焼き物をつくっていますね“と思って質問するんです。でも、「うん、みんなそういいますね」というぐらい・・・細川さんはさんざん悪口を叩かれながら修行して、一年ほど経ったら「もう来んでもええやろ」と言われる。これは卒業したかな、と思って、細川さんは自立してやっていくんです。(赤瀬川)
ある種の人の食い方です(辞任は、総理よりも陶工に向いていると思った?)。
(落合氏とは)野球の話が多いですか?(筆者)
野球の話しかできないの、あいつは。一般常識ゼロです。(豊田)
落合采配の是非は、山井大介の完全試合問題で、一気に全国区になりましたよね。・・豊田さんのご意見はどうですか?
オレなら代えないね。采配を云々する以前に、あのまま山井を投げさせたって、中日はシリーズを負けることはなかったでしょう。やっぱり、52年間日本一になっていない、という重圧が、どこかにあったんですかね。・・
―――私は、あのとき、中日の白井オーナーの顔が浮かんだんじゃないか、という気がしてなりません。落合は白井さんに拾ってもらった人でしょう。これはぜひ豊田さんにお聞きしたかったんですが、本来なら落合は監督になれる人間じゃなかったですよね。
普通はなれませんよ、あんなのは。(豊田)
よく、上の方が落合を使っているよ。(江夏)
(監督)就任する時は、現役選手時代の「オレ流」がたたって評判が悪く、白井オーナーが押し切った形で監督に就任した。周囲は不協和音だらけ。
「球団オーナーも時代と戦わなきゃ駄目なんですよ。中日の白井オーナーはすごいですよ。中日を辞めたら高く売れるようなイメージもあるようですけれども、実際はなかなか球団が来ないと思います。白井オーナーみたいな方が何人いるかが問題でしょう。」(筆者)
そして・・・(2004)開幕戦の川崎先発。中日に高額な年俸でFA移籍したものの、肩痛で3年間一度も当番機会のない川崎の先発・・・
「川崎の先発は1月3日に決めていた。このチームを変えるために必要だったんだ。チーム全員で先発した彼の背中を押してやることがな。」
川崎は5点を取られてノックアウトされた。しかし、この試合中日が逆転して勝った。
立浪は将来の中日監督と筆者は言う。
「レギュラーを剥奪され、代打の切り札とはいえ、黙っていいように使われている感のある立浪こそ、なかなかの逸材である。
元中日監督の星野は選手としての立浪の才能を見抜いた人であるが、落合は立浪の監督の才能を見抜いた人である。」
「プロ野球に這入ってなかったら、今でもずっとサラリーマンをやっていたと思う。だって会社に行ってれば、おカネくれるものね。一生平社員というのは楽でいいんだろうな」。こういう発言を聞いても どこが変人なのだろう、と考えこんで、結論は「彼は自分の頭で考えて行動する」!
野球をやる場合に、一生懸命如何に野球するか考えて野球をする。野球人としては当然です。しかし彼の場合、24時間、自分の頭で野球する時を考えて、行動している。つまり、日本人は、自分の言動を自分の頭で考えて行うのでなく、世間の人が考えた言動に従ってそのまま行動する。そのほうが面倒でない。
すべてを自分で考えて行動する人間は、日本人の社会では変人?


格付けの思想

2012-02-19 | 経済と世相
 2月17日の「中日春秋」欄に以下の内容の文が載りました。
とても面白い内容ですので、全文引用します。
『1998年8月、米国の格付け会社が、トヨタ自動車の社債の格付けを、最上位から一つ格下げしたことがあった。
 理由は、同社が表明していた「終身雇用制の維持」。ロナルド・ドーア氏の新聞の表現を借りれば、要は、「人員整理の決意が足りない」と格付け会社がみなしたということ。それがいけないと断じたわけである。
 時は降って2012年、つい一昨日のことだが、日本の格付け会社がトヨタの格付けを、やはり最高位から一つ下げた。今度の理由は「円高への対策が不十分」。つまり国内生産の比率が高いのがいけない、というのである。
 いかにも、トヨタは他の自動車メーカーに比べて海外生産比率が低い。あまつさえ、雇用を守るためとして「国内生産3百万台の維持」を掲げてもいる。この円高時代に、不利を承知で国内で踏ん張ってくれている印象がある。
 昨年暮れ、豊田彰男社長を今年注目の「世界の経営者12人」に選んだ米紙ウールストリト・ジャーナルも、記事の中でそうした同社の姿勢に懐疑を示したものだ。「日本にとって良いことは、トヨタにとってよいことか」と。
 だが、おかしくないか。従業員を守ろうとする姿勢が、その会社の欠点とみなされ、雇用をなんとも思わない会社だと株価や企業価値が上がるなんて。嗚呼、企業が「人間」ではなく「市場」のものになっていく・・・』

格付け会社の「格付け」は度々新聞の経済面で話題になります。
その「格付け」を行う思想が、投資家にとって「投資家の利益になるか」、端的に言えば「儲かる確率」です。つまり、この場合の投資家は、儲かるかどうかだけで行動する人間(思想も感情も持たずに利益の有無で行動するロボットみたいな経済的存在)です。
現実の投資家は、例えば地域社会に貢献している企業に投資するといった行動をするかもしれませんが、「格付け」は利益だけで行動する投資家を想定しています。
 格付け会社が、どんな思想で格付けしようが、それは格付け会社の勝手ですが、もしかすると、経済の「グローバル化」は、人々の経済的行動を、経済的ロボットにしてしまうものかもしれません。

原発のコスト

2012-02-18 | 経済と世相
 日本の原発はどうなるのか、どうすべきなのか、『原発のコスト』(大島堅一著、11年11月刊、岩波新書)を読んで考えてみました。以下『 』内は同署からの引用です。
 原発については、人により賛否両論があると思いますが、現実問題として、もはや、日本では原発は運転できないと考えます。それは
『東日本に原発オプシヨンがないのはもはや明白であるが、他の地域ではどうであろうか。・・原発は一定の期間を経ると定期検査を実施しなければならない。定期検査終了後、再稼動させる「ためには、地元の合意をとる必要がある。』からです。
 であるとすると、原発なしで、必要とする電力を確保できるかを考えなくてはならない・
 第一の検討事項は「電力の消費量を減らすことができるか?」
『全ての発電量に占める(原子力の)割合は、2000年代に入ると、30%ほどになっている。発電量が2010年度より30%少ないのは、だいたい1986,7年ごろと同じである。したがって原子力発電がなくなり、何の対策を採らないとしても、当時と同じレベルの生活は十分に出来る。』
 第二に、発電のピーク量を調べて、それに対応できる設備容量にすることを考える。
『供給量の基礎となる発電設備容量についてみてみよう。全国の発電設備要領は、2010年3月時点で2億3715万キロワットある。内、原子力は4885万キロワットである。したがって仮に原子力を全てなくしたとしても、発電設備容量は1億8830万キロワットである。2010年のピーク時の電力は8月7日の1億5913万キロワット(過去最高は2007年8月7日の1億7928万キロワット)であったから、これを十分に満たすことができる。』
『(原子力の多い)関西電力の場合、中部電力や中国電力などの発電事業者から融通してもらえば、ピーク時の電力不足はおこらない。』
 原子力を停めても、原子力以外の発電設備で、なんとか対応できるということですが
『ところが、現実はこれほど単純でない。日本は9つの電力会社が、それぞれの域内の電力を独占的につくり、販売するという地域独占体制のもとで、電力が供給され、電力会社間の電力の融通がほとんど行われていない。そのため、電力供給のための設備を各電力会社がフルに持つ必要が出てくる。』
 各地域で電力を融通できるためには、発電と送電を別会社として、送電会社が日本中どこにでも送電できる体制にする必要があります。このことは次に述べる再生可能エネルギーの導入にも必要だと考えます。
 第三に、新エネルギー(再生可能エネルギー)の導入を考える。
『世界の再生可能エネルギー資源量(兆キロワット時・年)を調べてみると、
太陽光 最大3000
太陽熱 1.05~7.8
風力  410
地熱  0.57~1.21
水力  最大16.5
波力  4.4
潮力  0.18
再生可能電力を大幅に導入するときの障害は、従来の電力会社の地域独占体制にある。
既存の電力会社から系統を分離する発送電分離は、他国では普遍的にみられることである。技術的・経営的に大きな問題はないし、電力供給が途絶えるという社会的影響もない。
地域独占体制は、日本の電力会社の巨大な利益の源泉になっているから、元経産省官僚の古賀茂明が述べているように、これを切り崩す発送電分離に対する電力会社の抵抗は非常に大きい。』
第四に、化石エネルギーの新規調達
愛知県沖でメタンハイドレードの試掘も始まりましたから、可能性はあります。

以上、原子力がなくても、日本は、電気供給になんの問題なく対応することは可能。ただ、九電力地域独占体制を改めることと、新しいエネルギー開発に努力すれば良いだけと考えます。

 それにしても、原発のコストを、原発立地への交付金やバックエンド事業(使用済み燃料の処理廃棄)の費用、事故が生じた場合の補償費用(損害額×発生確率)を加えて考えると、絶対に採算にのらない。その原子力発電が、何故国策として推進されたのか?
 その国策決定過程には民主的手続きはあったのか?そもそも、民主主義とは何であったろうか、まで考えさせられました。この本(「原子力のコスト」:岩波新書)は好著です。

水泳大会後日談

2012-02-16 | 水泳
 練習日の14日、プールに行くと、仲間が「どうだった?」
「4年連続の一位だよ。同じ年齢区分では一人だけで泳いだのも4年連続」
「でも、同じ組で泳ぐ人はいたんでしょう」
「それはそうだよ。10年も20年も若い人と一緒だけどネ」
「そんなにバタ泳ぐ人いないの?55歳くらいでもいないの?」
「その55歳が20年若い人だ」
「あっ そか!」という話になりました。

 14日の中日に、大会の記事が載りました。『18歳から93歳まで889人の選手が参加とのこと』。
HANAI先輩は85歳区分平泳ぎで一位。MATSUYAMAさん(93歳でクロールを泳いだ仁)も90歳区分1位でした。この年齢になると、泳ぐだけで入賞に値するわけです(小生も同じかな?)。

中日スポーツマスターズ水泳大会

2012-02-13 | 水泳
『中日スポーツマスターズ水泳大会』に出場しました。
 12日午後家を出る。今日の大会、出場種目の100mバタフライは、16:41開始予定ですので、午後の出発でした。
会場の日本碍子プールは、競泳プールと温水プール(50m)がありますが、競泳プールは、冬場はスケートリンクになります(2週間前に国体のフィギユアアスケートの大会が開かれ愛知の小塚選手(男子)、鈴木明子選手(女子)が優勝しました)。
従って、今日の大会は温水プールで行われ、サブプールがないので、練習は休憩時間しかできない。そこで、JR笠寺駅に着き、会場のプールに行く前に、総合体育館の地下の南区市営プールの25mプールに寄りました。空いているプールで、500mゆっくり泳いで、アップの練習を済ませたのです。
会場について、売店でゴーグルを新調しました。着替えて、水着にTシャツを引っ掛け、プールサイドに行く。2時半です。200m個人メドレーが始まっていました。この後、フリー、平泳ぎ、背泳、バタフライの100mが、女子・男子の順で行われます。まだ2時間あるな、とプールサイドの長椅子に腰を下したら、前にHANAI先輩が坐っていた。先輩、振り返って私をみると「ここへおいで」と隣を指す。先輩の招集時間まで1時間半、話し込みました。
隣へ行き「何を泳ぐの?」。「今日は平泳ぎだ。去年から平泳ぎに変えた。クロールは途中で脚が吊るようになったんで」。先輩は小生より10歳年上です。
「あんたも同じだが、泳ぎはやめられんな。風邪を全然引かないわけではないが、引いても直ぐ治るもんな」
100mクロールが始まった。「あの1コース泳いでる仁は、93歳だよ」と、教えてくれる。泳ぎを見ながら「最後まで泳げれば立派だ!」
私が言う「1年前に神戸の短水路大会に行ったのです。県体の仲間と一緒に」
「そう!遠くまで行ったナ」
「帰りに仲間が言ったんです。“今日泳いだ選手の中で、一番拍手が多かったのはNOZUEさんだよ”」、「その筈です。100mの3分の2泳いだら、他の選手はみなゴールして泳いでるのは私だけだから。耳が水の中に入ると地上の音は聞こえにくいでしょう。それが、その時ははっきり拍手が聞こえたんですよ。今日も3分の2泳いだら後は独泳ですよ」。
先輩の招集時間が来た後、平泳ぎ1組の先輩の泳ぎまで見ていた。やはり、齢は争えない。3分の2まで泳いだら独泳になった。
暖房が効きすぎていたのか、暑かった。水温も高いだろう。昨年のこの大会、水温のためか、タイムは良くなかった。今日もタイムは出ないだろう。
時間がきて召集所にいく。1組2コースだったが、3,4コースが来ない。4コースはSATOH KENさんとプログラムにはあったが、見えない。まぁKENさんでも、80歳近くになれば、体調の悪い時もあるだろう。彼がいなければ、私の75歳区分1位入賞確実だな、と思った。
予定より5分ぐらい遅れたが、スタート台に立つ。
スタートの笛で飛び込む。飛び込むまではドキドキしているが、飛び込んでしまえば、前へ、前へ、行くしかない。やはり、水温は高いと思った。50mターン、後半は2かき1呼吸。あっという間にフィニッシュした感じだったが、タイムは2分30秒18。2分30秒が登録タイムだから、ほとんど予定通りのタイムだった。4年連続一位入賞達成です。
プールから上がって着替えをして帰りかける。プールの入り口でASANO先生(大会委員長)に出会う。「観ていたよ!」と声をかけてくれた。
受付に記録証とメダルを貰いに行ったら、美人のKコーチがいた。拍手して握手してくれた。5時13分の電車で、6時前帰宅できました。

将棋ソフトの創造性

2012-02-06 | Weblog・人生・その他


『将棋ソフトの創造性』と題するコラムが2月4日の中日夕刊に載りました。

匿名記者の原稿ですが、面白い内容でしたので、以下に紹介します。

『将棋の元名人米長邦雄さんとコンピュータソフト「ボンクラーズ」が対戦した電王戦は、

ボンクラーズが圧勝した。「コンピューターがプロ棋士に初勝利」と話題を呼んだが、

内容はまるで面白くなかった。

後手版の米長さんは2手目に62王と指し、ボンクラーズの攻めを封じる作戦に出た。

この手は、人間同士ならはっきり悪手である。

相手が現役プロ棋士なら、たちまち劣勢に陥ったであろう。

ところが、ボンクラーズはこの手を咎められず、自陣で飛車を左右に行ったり来たり、

この時点では米長さんが優勢だった。

だが、米長さんの読みに穴があり、そこを突かれて一気に敗勢に。

要するに、米長さんの一人相撲だった。

ミスを逃さずに突くボンクラーズは確かにすごい。

だが、ただの一手も驚くような手を指してくれなかった。

勝負は挑まず、ひたすら相手のミスを待つ。

米長さんが引き分けに持ち込もうとすれば楽にできただろうが、

それでは興ざめだし、敢えて避けたのだろう。

電王戦は来年も行われるという。

ならば、将棋ソフトの開発者の皆さんには来年までに、自分のソフトに、

人間を楽しませる創造的な手を指す能力を付与するよう注文をつけておこう。』

これを読んでの私の感想を下記します。



面白いコメントですが、これは難しい!何故難しいか、私の愚考です。



記憶の中では、複数の事象が回路で結び付けられています。

時たま回路のない事象が結び付けられる。これがミスです。

ところが、たまたま関係のなかった事象AとBとが、結び付けられて、

そこに新しい論理が発見されることがある。新しい発想です。

ですから、関係のなかった事象を結びつけるという点で、

ミスと発想は脳回路の同じ機能によって生ずる。

ミスしない脳からは、新発想を創造することは出来ない。ミスをする機械は、機械でないと思います。

なかにし礼の歌謡曲論

2012-02-05 | 読書
『歌謡曲から「昭和」を読む』(なかにし礼著、11年12月刊、NHK新書)を読みました。以下、印象に残った記述。
【まったく不思議な符合としか言いようのないのだが、歌謡曲は初めから終りまで、「昭和」という時代とぴったり重なっている】
【歌謡曲が成立するためには、多くの人々に歌を届けるメデイヤの整備が不可欠だが、それが大正末から昭和初年にかけて行われていた。】。
(~昭和20年)【軍歌こそは戦争の時代を代表する歌謡曲であり、これを無視して歌謡史は成り立たない。】
【戦後の歌謡界は、そのインフラとテレビという新しく強力なメデイヤを媒介として発展してゆく。そして昭和30年代後半、音楽出版社というまったく新しい業態、システムの導入により、若く能力のあるフリーの作家たちが歌謡曲製作に参加したことで、昭和40年代~50年代には一挙に歌謡曲の黄金時代を迎えることになる。」
【歌謡曲とは何よりも流行歌のことである。すなわち、「ヒット(流行)をねらって売り出される商業的な歌曲」だ。・・・とはいえ、ヒットをねらって星の数ほど売り出される歌の中で、ほんとうにヒットするのはごくわずかである。私の場合なら、25年間の作詞家生活で作詞した歌は約3000曲(訳詩をあわせれば4000)、そのうちヒットしたといえる曲は約300、今もカラオケで歌われる曲は百曲ぐらいか。】
【ヒット曲と埋もれる曲を分かつものは何か。・・・結果的にではあるが、大ヒットした曲は多かれ少なかれ、時代をつかんでいるということだ。】
【1970年代の歌謡曲の黄金時代は同時に、歌謡曲が終焉へと向かう道のとば口にもあたっていた。そのキーワードは「デジタル」であり、具体的にはコンパクト・デイスクの爆発的浸透である。
 昭和57年に商品化されたCDは、瞬く間に音楽のあり方を変えた。製作コストの安さから新しいバンドの自主制作CDなどが大量に出回ると、若者はもうテレビの音楽番組などを見ることなく、一人部屋にこもって自分の好きな音楽だけを聴くことができるようになった。すると、それまで家族で音楽番組を見ることによって保たれていた音楽の共有性が消滅する。つまり、家族が共通で知っている曲がなくなってしまう。当然、全国の誰もが知っているような曲などありえない。・・・それは、ヒットすることをめざしてつくられる歌謡曲にとっては、目的そのものがあらかじめ奪われることである。・・・
 こうして、昭和天皇が逝去した昭和64年1月の前後に、歌謡曲もまた終焉した。
思えば、この2年前の昭和62年7月には、映画と歌謡曲を股にかけて活躍した「昭和の大スター」石原裕次郎が逝った。また、この年平成元年の6月には、「歌謡曲の女王」美空ひばりが逝った。・・・それは「昭和」の終焉と軌を一にした。
美空ひばりに名称をささげるなら、「演歌の女王」などという狭い名称ではなく、「歌謡曲の女王」や「昭和の歌姫」といった呼び名がふさわしい。「演歌」とはおそらく昭和40年代の半ばに、いわゆる日本調の歌謡曲のことを誰かが呼び始めた名称である。歌謡曲の一部だ。ひばりの歌は、その狭い曲種には入らないものが多い。」
歌謡曲とは、初めから終わりまで特殊昭和的現象だったというほかない。】
 コンパクト・デイスクという技術が、歌謡曲を変えたという指摘は「目から鱗」でした。

ミスすることが出来る能力

2012-02-03 | Weblog・人生・その他
中村桂子さん(JT生命誌研究館館長)が「人間の魅力と機械」と題して、1日の中日朝刊に寄稿していました。
「ハイゼンベルグの不確定性原理」が修正されるというニュースについて、
 『まず、不確定性原理を考えてみよう。素粒子などミクロの世界では、自動車の運転やビルの建設などで日常的用いる決定論的で未来を予測できる力学は成立しない。素粒子の動きはあいまいであり確率でしか決まらず、不確定性を持つのだ。・・・私たちが暮らす世界の基本が決定論的ではないという事実は重要だ。

 ところで、ハイゼルベルグの式では本質的な不確定性(ゆらぎ)と測定による乱れが区別されていないことに小沢名大教授が気付き、整理したのだという。教科書を書き換えるようなこの新しい考え方を、最先端のレーザー技術などを用いてウイーン工科大学の長谷川裕准教授が実証したというわけだ。 機械の進歩あっての成果と言える。しかし、世界のありようについて創造的な考えを出せるのは人間であることを忘れてはならない。』
このあたり、詳しく知りたい方は
http://www.nikkei-science.com/?p=16686

 『ここで将棋の話になる。米長邦雄永世棋聖はコンピュータの癖を研究して守りを固め、中盤までは優勢だったとのことだ。しかし後半一つのミスをきっかけに、コンピュータの猛攻が続いて一気に追い込まれ、113手で投了となった。
 しかし、人間の脳とコンピュータでは働き方が違う。さしての美しさや時々出るミスまで含めての人間らしさ。私たちはそれを将棋として楽しんでいるのではないだろうか。
 棋士の頭の中には、小沢教授が不確定性原理の式に抱いたと同じ理性と感性の共同したはたらきがあり、そこに創造性があるのではないか。人間にとって技術は大事だし、活用し楽しむのはよいが、人間とは何かという問いを忘れると機械にふりまわされる。』
 つまり、こういうことだと思います。人間には新しいことを発想する創造力がある。しかし、人間は時にミスをする。実は、ミスをする能力があるから、新しい発想ができる。ミスをする神経回路があるから、新しいアイデアが生まれるのだ。
 機械は、いくら精巧になっても、ミスができない。新しい棋譜を発想する棋士の頭と、新しい法則を見出す物理学者の頭は、実は、ミスする脳の回路があればこそ、それが可能だ。精巧な機械は、それらのミスを見出すことは出来る。
将棋では、コンピュータは人間のミスを見出すことで、人間に勝てる。もし人間の差し手にミスがなければ、コンピュータは人間に勝てない。
不確定性原理では、ハイゼンベルク先生のミスを、最先端の機械がみつけた。
最後に中村先生は、センター試験に一言!
 『センター試験のトラブルも同じだ。・・・
 この際、そもそも全国一斉の試験は本当によいやり方かという問いが出ても良いのではないだろうか。大学や地域がそれぞれの特徴を生かして、さまざまな人々を育てるのが本来の教育の姿だろう。コンピュータ処理ができるから大規模試験をやるというのでなく、本当の教育を考えた時の試験のあり方を考え、その上で機械を活用してほしい。』