古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

私の時評

2011-02-26 | 経済と世相
 曽野綾子さんが雑誌VOICE3月号にこんな問題提起をしていた。

『九州から沖縄本島までの約600kmの海域にある島々、沖縄本島から日本国領土の最西端・与那国島までの約700kmの間に点在する宮古、石垣、西表などの島々には、そこに住む島民を守れる陸上自衛隊は全くいないのである。九州には鹿児島の国分に約1200名、沖縄の那覇駐屯地などに約2100名の陸自がいるだけで、奄美大島、沖永良部島、久米島、宮古島には航空自衛隊基地があるとは書いてあるが、これもレーダーサイトだけで、戦闘部隊は全くいないのだという。つまり日本はこれらの島に住む日本国民の保護を放棄しているということになるのだが、土地の人たちは、それでいいのだろうか。これらの地域にどこかの国の武装集団や難民が大挙して上陸して、何をしようと、実質的防衛の方法は全くないというのが現状だ。この責任は誰にあるのか。私が島の住民なら、万が一の事態を恐れて、既にそれとなく本土に「疎開」だか「移住」だかしていそうである。あり得ないことではない。「占領」されたらその後の国際関係の混迷に引き込まれて、公然たる拉致同様に、どこかの国に連れて行かれるかもしれない、と思う。私はそれくらい国際的状況を信じていない小心者である。』

 以下はこの文章を読んでの感想です。

 自衛隊(政府)の任務は、国民の生命・財産を守ることにある。従って、どんな離島に住む国民も守れる体制を整備することが必要です。だから、すべての離島に自衛隊を配備せよとは言わないが、万が一外国の軍隊の侵攻があったなら、どう対応するかの戦略は、平常から持つべきだ。持っているのだろうか?

 軍事に限らず、近年の政治家の言動に、失望している小生は、日本の政治家に僻みっぽくなっていて、とてもそうした戦略を持っているように思えない。『何も考えていない』としか思えないのです。「日米安保があるから、大丈夫」と、いわばアメリカに丸投げしている。ところが、米国にとって、石垣島や西表島は、どうでも良い話。米国にとっては、自衛隊を米軍の下請けとして、使えればよいと思っているのではないか?

 前首相の「海兵隊の抑止力といったのは方便だ」発言が、顰蹙をかっているが、まぁ、言っていることには間違いがない。この発言の問題点は二つある。

 一つは、今述べたように、自衛隊に日本国民を守る戦略がないのでは?と疑われること。もう一つは、政治家がかくも正直であって良いのか?

 前首相の発言の背景について私の見るところでは、・・・

 『鳩山さんは、普天間を県外に移したかった。そこで、外務省・防衛省の官僚に米国との交渉を指示した。しかし、官僚たちにやる気がなかった(従来路線で行ったほうが官僚は楽だ)のか、米国が全然受け付けなかったのか、交渉は進展しなかった。止む無く、県外移転を諦めて「海兵隊の沖縄駐在が抑止力になっている」を口実に、沖縄を説得しようとした。「抑止力」は沖縄を説得する方便だった。』

 これが事実であったとしても、総理として、沖縄を説得すると決めたのなら、それが「方便」だとは、絶対言ってはならない。墓場まで黙って持って行くべきだ。「方便でした」と平然と言う神経が分からない。さらに言えば、官僚の言うことを聞くのが政治家の仕事ではなく、官僚に言うことをきかせるのが仕事ではないのか。

 同じことが、菅総理にも言える。財務省の官僚の言うままに「消費税を上げよう」とか、経済産業省の役人の言うまま、「TPPに加入しよう」と言い出す。

 従来の政治を変えようとして、1年半前の衆院選挙、国民は政権交代を選択した。ところが、今の政権のやろうとすることは、自民党のやろうとしていたことに変わらない。

なぜ変わらないのかというと、自民党政権がやっていたことは、実は自民党がやっていたのではなく、官僚がやっていたのだ。だから、官僚の言うことを聞くようになれば、前の政権と変わらない!与謝野さんを閣僚に起用しても、全然問題ないわけです。

民主党は、政権交代を訴えて成功したが、政権交代した後に、どのような国政を行うのか、何も考えていなかったらしい。

以上、「私の時評」。曽野綾子さんの寄稿に触発されました。

はやぶさ 2

2011-02-25 | 読書
 「はやぶさ」は06年8月28日、イトカワから4800kmの地点でイオンエンジンを停止。ここまでのイオンエンジン総運転時間25800時間、平均2.5基常時運転だった。以後は化学エンジン(燃料ヒドラジン、酸化剤4酸化2窒素)を用いて減速。イトカワから20kmで停止、往路を完走した。



 3億kmの距離ということは、光の速さで17分かかる距離で、地上から指令を送っても往復34分かかる。つまり、「はやぶさ」が「現在高度20m」と知らせてきても、それは17分前の情報で、「降下が早すぎるから上昇せよ」と送り返してもそれが届くのは更に17分後。その間「はやぶさ」は34分降下を続けている。

 このため着陸の最終段階では、距離、速度、位置をすべて「はやぶさ」自身が判断して行動する。

 3回の着陸リハーサルを行なった後、11月20日はじめて着陸に成功した。詳細は長くなるので割愛するが、2回バウンドし3回目に30分間着陸。さらに上昇後、100kmから最後の着陸を行なう。11月26日7時7分着地。

 

 帰途、「はやぶさ」は数々の故障に見舞われる。12月9日、「はやぶさ」との通信が途絶した。これからの通信復旧への努力が凄まじい。あたかもアポロ13号の地球帰還への努力を思わせる。06年1月23日、通信が回復に成功した。



 「はやぶさ」の帰還は10年6月13日。19時51分、カプセル切り離し。22時51分、秒速12kmで大気圏突入。「はやぶさ」は燃え尽きた。

 カプセルは、オーストラリヤ中部のウーメラ砂漠に着地、7年余の旅を終えた。

 このプロジェクトチームの苦闘の物語を読み終えて、最後に「はやぶさ」地球帰還の美しい写真を見直すと、感動的です(この本、カラー写真が実に綺麗です)。

もうひとつ、ページの見開き左ページの左下に、03年6月から10年6月まで毎月の、はやぶさ、地球、小惑星の位置関係の模式図が示されているのも楽しい。



最後に、「はやぶさ」の持ち帰ったイトカワの物質(微粒子)は、専用の分析装置「キュレーシヨン」で分析されていますが、このサンプルが地球外物質であることをどのように判断したか?

この資料のカンラン石や輝石は鉄の含量は地球上の火成岩と全く異なる。マグネシウムの含量は、イトカワ近傍で行なった近赤外線分析の結果に一致する。また硫化鉄は地表では容易に酸化され存在し得ない。等々調査が進んでいるようです。



小惑星探査機はやぶさ

2011-02-24 | 読書
『小惑星探査機はやぶさ』(川口淳一郎著、中公新書、10年12月刊)なる書を見つけて読んでみました。以下、その中から面白い話題の紹介です。

 これまで、人類の作ったものが地球の引力圏外まで行って着陸し、ふたたび地球に戻ってきたことはない(例えば米国の月着陸船は地球には戻ってきていない)。

 はやぶさは、MUSES-C(MU Space Engineering Satellite-C)、MUロケットで打ち上げる3番目の工学実験衛星という意味で、当初小惑星ネレウスに向かう予定だった。色々事情の変化があって、小惑星1989Mに目標を変更し、更に情勢の変化で、1998SF36に対象を変更した。

 MUSES-Cは、03年5月9日内之浦から打ち上げられた。探査機はロケットから分離が確認され“はやぶさ”と命名された。

 東京―鹿児島(内之浦発射場がある)を結んでいた寝台特急「はやぶさ」に因んだのか、あるいは糸川博士が戦時中に開発した戦闘機「隼」に因んだのかは明らかでない。

 その後(03年8月6日)、小惑星1989Mは“イトカワ”と命名された。

つまり、イトカワも「はやぶさ」も打ち上げられた後、名がついたというわけ。

 

 はやぶさには、化学エンジン(12基)もあるが、イオンエンジンが4基付いている(運転は3基、予備1基)。イオンエンジンの原理は、キセノンガス(60kg搭載)の電子を一つとるとプラスに帯電する。帯電したガス(イオン)を電圧をかけた電極二枚の間を通す。ガスは電場のなかで加速して高速で後部グリッドから排出される。反動ではやぶさが前進する(はやぶさにはマイナスイオンがたまってしまうので、これを中和する中和器も備えられている)。化学エンジンで出すことのできるガスのスピードは毎秒3000mだが、イオンエンジンは毎秒30kmで噴出できる。10倍の早さで噴射できるので燃料は10分の1でよい。

 ただし、イオンエンジンの推力は小さい。3基同時に運転しても20ミリニュートン(2g重)。しかし1日連続運転すると、毎秒4mに加速する。

なお、はやぶさの重量は510kg、イオンエンジンは大量に電力を必要とするが、電力を供給する太陽電池のパネルは、さしわたし5.7m、12平方mである。



 04年5月19日、はやぶさは地球をスィングバイする。スィングバイとは(惑星を周回することで)「惑星が探査機を掴んで放り投げる」操作で、探査機の燃料を使わずに大きな起動の修正を行なう。これは、世界で始めて行なったのは「さきがけ」(1985ハレー彗星探査で打ち上げ)で、日本の得意技だ。

 

 標的イトカワに到達するため、地上から測定する角度は1万分の1まで精密に測れるが、何しろ標的は3億kmのかなただから、1万分の1の角度の差は+―300kmの差になる。

 そのため、「はやぶさ」自身がイトカワを撮影し、その画像情報で航法処理する電波・光学複合航法をとった。これ意外と難しい。はやぶさのエンジンから放出したガスに含まれる微量の水がはやぶさの表面に付着して凍り、姿勢を変えた時、はがれてカメラの前を横切る。それが光り、どれがイトカワか分からない。時系列に撮った写真を重ねて、消えない光をイトカワと判断する。この複合航法を使うと、従来と比べ精度が1000倍にも上がった。(つづく)


日本はTPPに参加すべきか

2011-02-13 | 経済と世相
 2月9日の中日新聞に朝刊で、松原隆一郎東大教授が、夕刊に評論家の関ひろやさんがTPPを論じていました。最近、TPPが新聞でもTVでも話題になっています。

 菅首相が「平成の開国」と、意気込んでTPPに熱心のようですが、民主党のマニュフェストにTPPって、一言もかかれてなかった。一体、TPPが話題になってくるのは何時からか?調べたくなり、県図書館に出かけ、朝日新聞のデータベースを検索しました。

 時期別に、TPPが登場した件数は、

09年9月以前      0

09年10月~12月   2件(*1)

10年1~3月      2件

10年4~6月      0

10年7~9月      1件(*2)

10年9~12月   423件(*3)

11年1月~     197件

*1:09/11/15  オバマ大統領がTPP参加の意向を表明

*2:10/9/20   大畠経済産業相がTPP参加に意欲

*3:10/10/02  菅総理所信表明演説でTPP参加を検討する。

というわけです。

 さて、中日新聞の松原教授の「TPP参加問題を考える」というご意見。

TPPは輸出の振興を目的とするのだろうが、輸出は先進国の国策たりえない(この点は私の修士論文と同じ結論)と説く。

『2003年からの5年間は、輸出で景気が回復したではないか、と反論するかもしれない。実はその間、日米間で金利が5%もあった。それゆえ日本企業は輸出してドルを得てもせっせと米国債を買い込み、金利の高い米国で運用していた。円に換えても円高になるし、運用しようにもゼロ金利だったからだ。そしてリーマン・ショックの後には金利差が消えたために円に換金されたからだろう、一気に円高になってしまった。

 結局のところ、輸出できていた時期にも得た資産は国内では運用されず、還流が始まると円高で輸出が妨げられたのである。輸出は、そもそも先進国にとっては国策になりえないのだ。

 それでもなお「国際競争力」の躍進をめざしたのが構造改革だったが、景気が良い時期にも労働者の所得は減ってしまった。収益は株主に回ってしまったのだろう。結局のところ、構造改革とは、輸出大企業の株主と米国債に利する策だったということになる。

 (企業は)国内の消費者の審判を受けるような製品の開発競争に先進すべきであろう。

 日本の平均関税率が十分に低いのだから、わざわざ米豪の都合に合わせる必要はないと思う。(以上、詳細は拙著「日本経済論」、NHK出版新書)』

 次は夕刊の関さん。

 『今年の日本はTPPに参加するかどうかの問題で大きく揺れそうだ。この協定は間税や規制などでの各国の自主権を否定し完全な国境なき経済を目指すものなので、参加した場合には日本経済の急激な変化が予想される。

 国連などの統計によると、日本経済の輸出依存度はこれまで高かった年でも17%、貿易がGDPに占める割合は世界170国中で164番目である。つまり日本は米国やブラジルと並んで貿易の役割が極めて小さい内需中心経済の国なのである。

 先に菅首相はTPP参加を念頭に今年を「開国元年」と宣言したが、この開国は善、鎖国は悪という発想はペリーの黒船が日本を強引に開国させて以来の米国に対する劣等感の産物である。

 私にはこの米国の論理に対する日本の自信のない対応が理解できない。現在日本は技術では米国に勝るとも劣らず経済では米国に対する大債権国である。円高は日本の実力の指標である。そして治安の良さや細やかなサービス精神など多くの点で日本の社会はエゴ剥き出しの米国社会より優れているように思う。・・・

 90年代のバブル崩壊以来欧米のマスコミは日本の衰退や没落を騒ぎ立ててきた。だがリーマン・ショック以後、欧米諸国の破綻に比して日本の社会が相対的に安定していることが注目され始めた。最近は、「日本は世界に先駆けてゼロ経済成長、人口減少のポスト工業化段階に入り、社会の転換にある程度成功した国ではないか」という論調も出てきている。常に創造的革新的だった自国の伝統を学び直すべき時である。その意味で、TPP論議が日本人が静かな自信を取り戻すきっかけになることを願ってやまない。』

人生はアミダ籤

2011-02-12 | Weblog・人生・その他
 例年になく厳しい寒さが続いていますね。

 4時ごろ外出から帰り、部屋の暖房を入れテレビ(教育TV)をつけました。

 大阪大学総長の鷲田清一さん(哲学)が若いモデルさんと対談していました。

「自分探しって、タマネギの皮を剥くようなものですよ」

 例えば、会社員が(セールス担当だとしよう)、「自分は営業マンだ」。では営業マンを辞めた時、自分は何なんだろう。

 昇格して課長になったとしよう。「自分は課長だ」。では課長を辞めた時の自分は何か。部長になっていた。「自分は部長だ」。で、部長を辞めた時の自分は何か。

 退職した時「自分は何か?」

 結局ラッキョウやタマネギの皮をむいていくと最後は何もなくなってしまうように、自分というものは、社会の中のある役割をしているのが、自分であって、それらの役割とか、位置がなくなったところには、自分がないと覚悟すべきだというのです。



 もう一つ、「人生ってアミダ籤です」。

 人生のある時ある人と出会う。その影響で進路が変る。また次の時期、別の人に出会い、進路が変る。また、次の機会に別の人との出会いがあって、進路が変る。

 これが人生と言うものです。



 なるほどねぇと、思いました。

ウィキリークスが見た日米関係

2011-02-11 | 経済と世相
 ウィキリークスが日本政府に関連しては、どんな公電をすっぱ抜くかと興味深々でした。週刊朝日に「東京新聞に情報がある」とあったので、昨日、大学図書館に行き「1月20日の東京新聞見せてください」とインフォーメーシヨンの女性に頼むとすぐ出してくれました。

 以下、「米国が望んだ菅首相」と題する記事の要約です。

『昨年2月3日、ソウルでキャンベル米国務次官補は金星煥(キムソンファン)外交安保主席秘書官と面会し、会議内容を在韓米大使館から本国へ送った。

 「両者(キャンベル・金)は、民主党と自民党は『全く異なる』という認識で一致。北朝鮮との交渉で民主党が米韓と協調する重要性も確認した。また、金氏が北朝鮮が複数のチャンネルで民主党と接触していることは明らかと説明。キャンベル氏は、岡田外相と菅財務相と直接話し合うことの重要性を指摘した」

 この公電の意味を読み解くポイントは、米国が交渉の相手として当時の鳩山首相ではなく、岡田・菅氏を名指したことにある。

 鳩山氏は、一昨年夏の総選挙前に、普天間飛行場の移設問題で「最低でも県外」と主張した。政権交代後に交渉に乗り出したが、米政府が猛反発し鳩山政権は迷走を始める。公電が打たれたのはそんな時期。

 沖縄では「県外移転」への期待感は高まるばかり。その一方で、鳩山氏に対する米側の不信感は深まっていった。(中略)鳩山氏は急転直下で県外移転を断念し、6月に首相を辞任。後継首相となった菅氏は「普天間飛行場を名護市辺野古沖に移転する」・・・鳩山氏が打ち出した「東アジヤ共同体構想」は、いつの間にやら、忘れ去られた。

 元外務省国際情報局長・元防衛大学校教授の孫崎亨さんは、ウィキリクスの公電が意味するのは、米国が鳩山首相と距離を置き、岡田・菅氏を対話すべき相手と判断したこととする。

 キャンベル氏は金氏と会う前日昨年2月2日、小沢一郎幹事長(当時)と日本で会談している。孫崎さんは「キャンベル氏は、その際、小沢―鳩山ラインは米国の防衛戦略に乗ってこないと判断した。一つは在日米軍基地について米国の意向に沿わない考え方をしていること、もう一つは対中国政策について、融和外交を進めようとしていたことだった」

 代わった菅政権。孫崎さんは「米国にすべてを丸投げしている」と批判。「普天間飛行場の辺野古移転方針、日米共同統合演習実施、在日米軍駐留費(思いやり予算)の維持など、米港側の移行どおりの施策を進めている」。だが、こうした「米国追従」は必ずしみ安全保障につながらないというのが孫崎さんの意見だ、「中国の軍事力は増大し、ミサイルの射程も伸びている。もはや軍事力に軍事力で対抗しようとしても効果はない」という。

 最後に東京新聞のデスクはこう結んだ。【菅首相が就任の挨拶で「学生時代に国際政治学者、永井陽之助先生の『平和の代償』を読んだ」とエピソードを披露したのを思い出した。米軍基地も思いやり予算も「平和の代償」と説く本である。晴れの舞台で、語りかけた言葉の先には、誰がいたのだろうか。】(米政府だとは私も思いたくはないのだが)

 実は、小生、普天間問題で「なぜ鳩山さんは先ず米政府と交渉しないのか?」と疑問を抱いていましたが、どうやら交渉はしたのらしい。峻拒されたのが、鳩山さんの迷走の原因のようだ。外務省は秘密にしていた!報道しなかったマスコミの責任は大きい。



 なお、こんな記事も載っていました。「鳩山氏に米国側は疑心暗鬼になった。一方、岡田氏に対する米国側の信頼は厚い。「沖縄密約問題」を、日米関係に傷をつけずに処理したことについて高く評価している」(東京財団上席研究員の渡部恒夫さん)

 密約問題、米政府は、息をのんで日本国内の世論を注視していたのだ。

ヒトラーとケイズ(3)

2011-02-10 | 経済と世相
 勿論、この制度はドイツが世界大戦で敗れたため、世界的に採用されることはなかった。イラク戦争でフセインは処刑されたが、米国が開戦に踏み切った背景には、フセインが石油の決済をドルでなくユーロで行おうとしたことがあると私は考える。世界の金融システムは戦争に訴えても争われる問題なのだ。

面白い挿話がある。ケインズは1940年11月、情報省からある要請を受けた。ナチスの「欧州新経済秩序」に対して、経済学者の視点から批判してほしい、というものだった。イギリス情報省は、「自由貿易と金本位制のほうが優れていることを示し、「欧州新経済秩序」を否定してくれ」とケインズに頼んだのだ。

「明らかに私は、戦前の金本位制の美点や長所を説くにふさわしい人間ではありません。私の意見では、ドイツの放送から引用した部分のおよそ4分の3は、もしその中のドイツとか枢軸という言葉を、場合に応じてイギリスという言葉に置き換えるならば、またく優れたものになるでしょう。フンク案を額面どおりに受け取るならば、それは優れたもので、まさにわれわれ自身がその実現に努力すべきものであります」ケインズの返信です。

1944年にアメリカのブレトン・ウッズで開催されたブレトン・ウッズ会議に、ケインズはイギリス代表として参加することになる。

ケインズは、この会議のため、新しい国際金融システム案を用意していた。ケインズの国際金融システム案は、実はナチスの「欧州新経済秩序」と似た点がかなり多いのだ。その骨子は

1. 各国の決済は中央銀行が一括して行う。各国の貿易業者同士、民間銀行同士が独自に決済しない。

2. 金で決済を行わず、バンコールという国際決済のための通貨を使う。

3. 各国は輸出と輸入の均衡を図る義務がある。

4. 国際間の資本の移動は規制する。

 残念ながらケインズ案は破れ、ブレトン・ウッズ協定では、ドルを今後の世界経済の基軸通貨とすることが定められた。



ヒトラーはケインズに学んだのであろうか。

時系列で言うと、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』は1936年に発表された。ナチスの公共事業政策は1933年である。この点について、筆者は、ケインズは1924年にすでに、失業救済のために大規模な公共事業を行うべき、という論文を発表しており、ヒトラーの帷幕には、シャハト(ドイツ帝国銀行総裁、経済相)という経済担当の知恵者がいた。だから彼らは、ケインズの理論に学ぶことができた筈、と説明する。

 しかし、私は逆ではないか、と思う。ケインズがヒトラーの政策およびドイツの経済を見て、彼の理論を体系化したのではないかと。

ケインズは、人類史上5本の指に入る経済学者と思うのですが、マルクスであれスミスであれ、著名な経済学者の理論というものは、彼らの生きた時代のある国の経済社会を分析することで、完成出来た。ケインズとて、例外でない。現実の社会を分析することで、ケインズ理論は生まれた。その現実の社会とは、ナチスドイツであった?と考えます。

ヒトラーとケイズ(2)

2011-02-09 | 経済と世相

これには世界が仰天した。

他のヨーロッパ諸国は、世界大恐慌以降、金兌換の停止を行っていた。しかし、それはあくまで一時的なものであり、金融の混乱が回復すれば金本位制に復帰するつもりだったのだ。

ヒトラーは通貨に関して、次のようなことを側近に語っている。

「国民にカネを与えるのは、単に紙幣を刷ればいい問題である。大切なのは、作られた紙幣に見合うだけの物資を労働者が生産しているかどうかということである」

そもそも金本位制は緻密な経済理論に基づき、計画的に設計されたものではない。イギリスが金本位制を採用した(1816年)ために、なし崩し的に各国が採用したに過ぎないのだ。

金本位制が当初は国際経済の中でうまく機能していたのは、それが「イギリスの黄金時代」にかさなっていたからである。当時はイギリスが圧倒的に世界の金を所有していた。

イギリスは・・・世界中から物品を輸入する。そのため、イギリスの金は世界中にばら撒かれる。その一方で、イギリスは、世界の工場として工業製品を世界中に売りまくる。その代金として金が入ってくる。世界一の経済大国が、ダイナミックに輸出と輸入をする。このような循環があって、初めて国際的な金本位制は機能していた。



 1940年、ナチスは、「欧州新経済秩序」という経済計画を発表した。ドイツ経済相シャハトの後任のフンクが計画したもの。「欧州新経済秩序」とは、ヨーロッパの通過を統一して金本位制から脱し、ヨーロッパ域内のヒト、モノ、カネの移動を自由にする。つまりヨーロッパを一つの経済圏にするという計画である。

当時、ドイツはすでにフランス、オランダ、ベルギーなどを降服させており、西ヨーロッパの大半をその勢力圏に収めていた。その勢力圏をそのまま一つの経済圏にしてしまおうというのが、この「欧州新経済秩序」という計画だった。

このことは連合国側、特に英米にとっては衝撃的な内容だった。この計画が成功すれば、英米ともに、完全に世界経済の中心から外されることになる。その主な内容は・・

1. アウトバーンをヨーロッパ中に拡大する。

2. 金本位制に頼らない新しい金融制度。

3. ベルリンに世界銀行を作る。

4. 英米にかかわらないでやっていける経済システムにする。

 2の新しい金融制度の例を見よう。

ナチスが中南米や東欧諸国などと結んだ為替清算協定というのは、次のような仕組みで貿易の決済が行われるものだった。

 協定を締結した両当事国は中央銀行に相手国中央銀行名義の自国通貨建て清算勘定を開設し、輸入業者は相手国から輸入したとき、その代金はこの清算勘定に支払う。輸出業者は、この清算勘定から残高の範囲内で、自国通貨の支払いを受ける。双方の国がこの操作を行い、輸入と輸出の残高はそのまま残される。残された残高は、翌年の貿易の清算に当てられる。また双方の国は、残高が突出しないよう調整しあう。だいたいの場合、ドイツの輸入超過になっていることが多かったので、差額は特別マルク(ドイツとの支払いにのみ使える)で支払われた。・・つづく

ヒトラーとケインズ(1)

2011-02-08 | 経済と世相
『ヒトラーとケインズ』(武田知弘著、10年6月刊祥伝社新書)という面白いタイトルの本を読みました。

「不況期には、政府が財政出動して有効需要を創出し、失業を減らす」というケインズ理論は、今でも経済学説の重要な一角を占めている。

ヒトラーは、このケインズ理論の優等生であったと著者は述べるのです。

ヒトラーが政権を取った1933年というのは、ドイツは600万人以上が失業する(失業率34%)という、経済破綻状態に陥っていた。ヒトラーは政権を取って3ヵ月後、1933年5月「アウトバーン計画」を発表した。ドイツ全土を網羅する前兆1万7千㌔の高速道路「アウトバーン」を、これから6年間で建設するというものである。

アウトバーンをはじめ、住宅建設、都市再開発などの積極的な公共投資を行い、ドイツの失業率は一気に低下した。政権についてわずか2~3年でドイツ社会を復興させた。

ヒトラーというと、軍備を拡張することで失業を減らしたと思われることが多いが、それは正確ではない。ナチス政権の前半期に、国民のために支出(軍事費以外の支出)した費用は、ナチス政権以前より著しく大きい。またGNPに占める軍事費の割合も、1942年まではイギリスよりも低かった。

ヒトラーとケインズの政策思想で共通している部分の最たるものは、経済の中でもっとも悪いものは「失業」であると捉えていたことである。

金融危機、不況、インフレ、デフレが生じたとしても、失業者が出ず、食うのに困る人が出ないならば、ほとんど問題にならない。つまり、金融危機、不況自体が問題ではなく、失業が問題なのである。

その点を、現在の経済学者、経済政策者は履き違えている感がしてならない。

日本の現状をみてもそうだ。景気浮上のためと称して、巨額の財政支出を行っても、それはほとんど大企業の収益に吸収されてしまう。大企業が経営破たんしそうになると巨額の税金を使って救済する。

もし、失業者を減らすことを最優先に経済政策を行えば、もっと少ない税金で、社会を安定させることができるはずである。

ケインズの失業対策理論には「乗数効果」がある。政府が投資して雇用を増やせば、雇用された労働者は、そこで得た収入を使う。労働者がお金を使えば、それがまた誰かの収入になり、その収入が使われ誰かの収入になる。かくて、需要が乗数的に喚起され景気が上向くという理論である。この場合、お金を得た人の使う率(消費係数)が高いほど効果が高くなる。消費係数が高いのは所得の低い人だから、低所得者に多くお金がわたるようにするほど、乗数効果が高くなる。ナチスは高所得者に増税し、企業の増税をして公共事業の財源とした。

民主党の政策とヒトラーの政策(どちらも子供手当てを実施)の最大の違いは「民主党は大企業や金持ちに増税をしていない」ということである。



ヒトラーの経済政策と、ケインズ理論の共通項として、「公共事業」の次にあげられるのは、「金本位制」からの離脱である。

ヒトラー政権直前のドイツ経済は、金の流出が続き、金融危機に陥っていた。それを見たヒトラーは、金本位制を捨て管理通貨制に移行したのである。・・つづく


新春マスターズ水泳大会

2011-02-07 | 水泳
以下、6日の中日スポーツ社主催「新春マスターズ水泳大会」。ご笑覧ください。
 私の出番は4時55分ということでしたので、1時過ぎに家を出て会場の日本ガイシプールに2時ごろ着きました。例年、この大会は日進市の口論議(こうろぎ)プールで行われるのですが、今年はプールの改装工事のため日本ガイシプールに代わりました。
 競泳プールの入り口(二階)に行くと、「あれっ、玄関がしまっている!」。ガラス戸越しに中を見ると、いっぱいのスィマーがいるけど、入り口はしまっているのだ。
 「そうか!競泳プールではなく、温水プールでやるのだ!」と、一階の温水プールの入り口に回った。ここでも入り口を間違えて競泳プールの方に行こうとして、「こちらはスケートリンクです」と注意された。
 競泳プールは冬場スケート場に変身する。「日本ガイシプールで行う」と聞いたとき、「スケートリンクの氷をいったん溶かして湯をいれるのかな?」と思ったが、そんなお金をかけることをやる筈なかった。温水プールで開催するのだ。
 「それでは練習は?」。いつもここの大会は競泳プールでレース。温水プールが練習プールになる。入り口で聞くと、「練習は昼休みのみ。2時5分で練習タイムは終りです」
 「そうか、それで自分の出場時刻が4時55分という遅い時間になったのだ」。今までは練習はサブ(温水)プールであるから、練習時間はとらずに進行できた。
 さて、どこでアップの泳ぎをしようか、それともぶっつけ本番で泳ぐ?
「そうだ!総合体育館の地下に25mの市営プールがある」と思い起こした。いったん外に出て、25mプールに行き、バタ、背泳、平泳ぎ、クロ-ルを各50m2本、計400m泳いでアップを終わる。
 会場に戻って、受付のプログラムで、出場する100mバタフライを見ると、いつも出場する中村区のSATOU・KENさんの名がない。従って75歳区分の出場は私だけ。
 日本マスターズでは、競技年齢をその歳の12月末の満年齢とするので、今年からは75歳で出場します。この歳になってバタフライの100m、200mを泳ぐ人は稀ですから(古稀とは70歳でバタフライを泳ぐ人が稀、という意味になったらしい)完泳すれば優勝。この大会、今日完泳すると3年連続優勝になる。
 まだ2時間ぐらい時間がある。速報板を見に行き、知人の入賞状況を確認してから、更衣室で着替えをして泳ぐスタイルにTシャツのみ羽織って温水プールへいく。100m自由形が始まっていた。この後、平泳ぎ、背泳。そして私の出場するバタフライの順です。
 時間が迫り、召集所に行く。1組8コースだ。スタート台に上がった。スタートが拙かった。隣が飛び込むのを見てあわてて飛び込んだ感じ。「まぁ早すぎてフライングになるよりはいい」。泳ぎは順調に思えた。ゴールして記録は?温水プールには記録を示す電光表示がないのだ。次の組がとびこんでから上がって、記録員に聞くと「2分32秒78」という。
「わぁ、最悪だ」。わざとゆっくり泳いだわけではないが、結果を見るとゆっくり泳いだ。水温が高かった(30℃)ためもあるが、昨年より16秒も遅い。
 着替えしてから、受付に行き結果の届くのを待った。HANAI先輩が、記録証を貰っていた。後ろから方をたたき「お久しぶり!」、振り返って先輩は「やぁ久しぶり」。手に持つ記録証をちらと見て(50mクロールと100m平泳ぎだった)、「100m平泳ぎは、ボクの100mバタとほとんど同じタイムですね」と言ったら大きな声で「ヨーシッ!」。
 次回の大会では100mで私とタイムを競うつもりらしい。85歳になっても、負けん気は強い。
 1位のメダルと記録証を受取り帰途につきました。笠寺駅では、なぜか券売機の前は超満員、100mも並んでいる。どうやら日本ガイシホールで人気タレントの公演らしい。「これでは切符が買えない」。駅員に文句を言うと「下車駅で清算してください」と乗車駅証明書をくれた。最近は、私の知らない人気タレントが世の中に出回っているようだ。6時帰宅。