古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

手入れの思想(2)

2014-02-20 | 読書
 教育について、さらにこう述べている。
 【日本は、儒教的イデオロギーを封建的と称して、戦後徹底的につぶしました。ご存じのように戦後、教育勅語が消えました。教育勅語は、大変日本的な儒教思想でした。教育勅語の中身を消したのですが、その精神は綿々と今も生きている。あれを作った時の文部大臣は芳川顕正という人ですが、教育勅語にいれなかったことが二つあると言いました。それは宗教と哲学です。宗教と哲学をのぞいて造られた勅語とは何かというと「マニュアル」です。まさに人生のマニュアルです。それは自分で自分の生き方を考えるなということです。そのかわりこのとおりにやれということです。】
 面白い指摘です。哲学と宗教は「自分で自分の生き方を考える」ものであり、日本の教育は、「生き方のマニュアル」を教えるものだった。マニュアルに宗教と哲学は要らないというのです。
さらに、都市の中の人間について、
 【荻生徂徠は江戸の人間をさして「旅宿人である」と言っています。旅宿人はどこにも根付くところがない。
 農民は違う。土地に張り付いている人たちです。自分のアイデンティテイが半分土地にある。だから名字がなくてもよかった。名字がないのは封建的なのではなくて、土地が実際にその人のアイデンティテイとして成り立っていた。】
【都市というのは、実は土地の代わりにイデオロギーを持たないと(人が)アイデンテテイが持てない】。
イスラム教もユダヤ教もキリスト教も都会で生まれた宗教と、養老さんは言う。根付くところのない都会人はイデオロギーに根付きます。「会社人間」というのは、根付く地面がなくて会社に根付いた人たちだそうです。
 
 都市の中に住んで、自然環境の制約を離れて予定どおり(意識したとおり)に生きたいというのが、都会人です。しかし、人生は思う(意識する)ようにならないもの。
 【私たちが生まれて、としをとって、病を得て死ぬということには意識はいっさいかかわっていません。気がついたら生まれていて、気がついたら年をとっていて・・・・私も手帳に詳しく予定を書いていますが、私の告別式の予定はまだ入っていません。】
 【ひるがえって戦後の日本を考えますと、非常に面白い。戦後の日本というのは、イデオロギーなしに急速に都市化が進んだ最初の社会ではないかと私は思います。】
 戦後50年、イデオロギーなしの都市化をやってきたとなると、世界の常識をひっくり返した稀有のケースになると思います。】
 哲学と宗教がないとは、イデオロギーがないというのです。
イデオロギーがないと「こうやってはいけない、ああやってはいけない」ということが何もない。
 イデオロギーとは、生きていくための思想です。

最後に、ゴキブリをなぜ人は嫌うか。
都市には人間の作ったものしかない。地面も嫌って舗装で埋め尽くす。
何故、人はゴキブリを嫌うか。
【ゴキブリも人間が作ったものではありません。あれが出てくるとほとんどの人が錯乱します。どうして錯乱するのかよくわかりませんが、嫌いだということがある・・・実はチンパンジーもああいうものは嫌います。人間やチンパンジーなどのような高等霊長類の遺伝子の中に、ゴキブリなどを嫌うという性向があるのは確かですが、それにしてもちょっと嫌い方がはげしい。その理由を考えてみますと、あれも裸の地面と同じで、ヒトの意識が作らなかったものだから・・】
 つまり、人工の環境の中に、「自然」(人間の意のままにならない)の生き物が遠慮会釈ないイキモノが入り込んでくるのが不愉快、だからゴキブルを嫌うというのですが、チンパンジーもゴキブリを嫌うのですかねー。

手入れの思想(1)

2014-02-19 | 読書
養老孟司さんが『手入れの思想』(新潮文庫2013年11月刊)という本を出しました。氏の講演をまとめたものですが、養老節を堪能できる本でした。
 最初に養老さんの「人工と自然」観、
人工は人間が設計したものですから、人間の意のままに動かせる。しかし、自然は人間が設計したものでないから、人間の思うようにはならない。思うようにならないが、「手入れ」を続けて、何とか人間と折り合いをつけることができるようになる。

【二つ軸を考えます。一方の軸は人工(都市化)の軸です。「みなとみらい」でも天王洲でもいいし、新宿でもいい、ああいうふうな典型的な人工的な世界。もう一つの軸は自然。自然というと、屋久島の原生林、白神山地。これはアメリカ式の自然の定義。人間とできるだけかかわりのない所を自然というのです。
 だけど本当に人間とかかわりがないのなら、そんなものあってもなくても(人間にとって)同じではないかと私は思っています。日本人はそうではありません。日本人本来の自然に対する感覚の根本にあるのは「自然との折り合い」です。
 自然のままではどうにもならない、つまり屋久島、白神山地では使いようがありませんから、どうするかというと、これに「手入れ」をします。
 これは女の人が毎日経験していること。
 鏡の前に、極端な場合1時間も座っています。何をしているかというと、完全に手入れしないで放っておくと、屋久島、白神山地になっちゃう。それで思い切ってやる人は天王洲にしようとする。設計図を用いて美容整形に行くわけですが、いろいろと問題もありまして、私の女房の場合は結局、毎日毎日手入れをする。まぁ30年,40年やっていれば何とか人前に出して見られるようになる。
 子供も放っておけば野生児です。でどうするかというと、毎日毎日やかましく言う。これは「手入れ」です。】
お化粧も教育も「手入れ」であると、養老さんは言う。
これが、本書のタイトル「手入れの思想」の意味です。
 確かに、子供は設計できるものではないから「自然」です。「自然」ですから親の思うようには決してならない。親としては、なんとか「やかましく言って折り合いをつける」だけ、これは「手入れ」です。】
子供を育ててみると、「教育も手入れ」の意味が良くわかります。

 養老さんは、「都市化」について、こう述べます。
【東京でマムシにかまれると、だいたい「誰があんなところにマムシを置いた」。ジャワで青ハブにかまれてもそれは当たり前です。かまれた方が運が悪い。自然の中に暮しているときに不幸な出来事が起こりますと「それは仕方ない」。都会の中で不幸な出来事が起こると「誰のせいだ」ということになります。】
 戦後の日本は、ひたすら都市化を推し進めてきた。都会では何事も、ヒトの所為にします。戦後の日本人の態度の変化でいちばん目立つのは、何事も人のせいにする人が出てきたことということです。
 【中国では7,8割が農民だということ、私たちはちょっと誤解していまして、2,3割の都市こそ中国であると、どこかで思い込むところがあります。そう思い込んだ典型が日本の陸軍でした。ですから戦争中に、都市を全部占領して、その間の道路を封鎖したら中国人はへたばると考えたのです。それを戦後に毛沢東が笑いました。当たり前です。7割の人はよそに住んでいる。(現在も中国論というのは中国都市論になってきているような気がします。)】(つづく)


流通から日本経済を見る

2014-02-17 | 読書
『流通大変動』(伊藤元重著、NHK新書2014年1月刊)は面白い本です。
この本の面白さは、「はじめに」で筆者が述べている『本書は流通を素材とした書籍であるが、小売業や卸売業という流通に直接関わる企業だけでなく、不動産業界、貿易ビジネス、金融業など、多様な経済主体がかかわる現象に触れている。流通業で起きている変化は、日本経済の縮図であるのだ』という点。
流通を解説しながら、日本経済のこれまでとこれからを論じて、話題が豊富なのです。そのいくつかを紹介します。
【少子高齢化にともなって、日本国内の消費市場の成熟化が進んでいく。かつての日本経済のように、市場が急速に拡大している時代の商売のやり方は通用しなくなってきた。「成長しない市場でどうやって業績を上げていくのか」。この問いに答えるためにどのようなビジネスモデルを確立するのか。これが多くの産業、そして企業にとって急務の課題となっている。】
日本経済成長の最大の障壁は人口の減少であり、顧客が増えなければ、企業は顧客層を深堀しないといけない。顧客を深堀りするとは、リピーターを増やすという意味です。
【コンビニは、店舗を増やして拡大成長することから、(顧客データを活用して)顧客を深堀して成長していく段階に入ろうとしている。これはコンビニに限らずあらゆる小売業、さらには多くの消費財メーカーについていえることだ。】
【「市場が限られているとき安売りを追いかけて来るような客は、他の店が安売りをすれば最初に逃げていく客である。そんな客を真剣に追いかけても意味がない。それよりは、いま店に来ている客をリピーターにして、深堀りする努力をしたほうがいい。」】
顧客の深堀と並んで、もう一つは海外展開。
【少子高齢化によって縮小気味の国内市場。一方で、近隣のアジヤ諸国は高い成長を続けている。日本経済が活力を維持できるかどうかは、アジヤ諸国との間でヒト、モノ、カネなどのやりとりをいかに拡大させていくかにかかっている】
 【国際経済学の標準的な考え方に、グラヴィテイ・モデルというものがある。
オランダの経済学者ヤン・テインバーゲンによって最初に提起された。グラヴィテイは引力で、距離が近いほどそして経済規模が大きいほど、二つの国の間の貿易額は大きくなる傾向があるという(テインバーゲンはその後、第1回ノーベル経済学賞を受賞した)。
 日本と韓国の貿易額が、日本とイギリスの間の貿易額より大きい。(一方)韓国よりも日本から遠い距離にある米国のほうが日本との貿易額が大きいのは(明らかに)、米国経済が圧倒的に大きいからだ。
 今後の日本経済の貿易を考えるとき、このグラヴィテイという考え方が非常に重要になる。今後ともアジヤ諸国が高い成長を続けていく限り、日本の輸出も輸入も増えていく。】 
【アジヤ市場の成長を実感する(アジヤ経済を分析する)とき、どのデータを使うのか、気をつける必要がある。
たとえば中国を例にとれば、その経済規模であるGDPは、過去10年で約3倍になった。しかし、中間所得層と富裕層の数でみると、過去10年で8倍にも膨れ上がっている。
 こうした動きは、中国だけでなく、アジヤ全域で起きている。過去10年でアジヤ各国の中間所得層以上の人の数は、およそ8億人増えている。そしてこれから10年でさらに10億に増えると予想される。】
(アジヤに販売を拡大するために必ずしも工場を海外移転する必要はない)
【広島県福山市にカイハラという日本を代表するデニムの生地を生産しているメーカーがある。聞くところでは、ユニクロで売っているジーンズはカイハラの生地を使っているようだ。
 カイハラのようなメーカーは、自らがアジヤにでていかなくても、アジヤの市場を広げていくことができる。それはユニクロがあるからだ。】
 日本の製造業について、
【グローバル化で日本のものづくりはどう変化していくのだろうか。もう20年近く前のことだが、この問いへの重要なヒントを見た気がしたことがある。
 当時、背広など毛織物の製造や流通の現場を回っていた。愛知県一宮市は日本有数の毛織物の産地であった。地元でも有名な機屋(はたや;織物業者)の工場を案内してもらった。多品種少量を実現した見事な工場であった。迅速な段取り替えをして、実に効率的な生産をしているのだ。】
 20年も前に、毛織物業界はトヨタ生産方式を導入していたのですね。
 【しかし、それから数か月後、イタリヤのビネラという村でゼニアという毛織物の工場を見て、一宮で見た光景がまったく違って見えることになった。ビエラは小さな村であるが、世界的な毛織物の産地であり、ゼニアは高価な世界的な毛織物のブランドである。ゼニアの工場では、ゆったりとした環境の中でじっくりとものづくりをしていた。
 なぜ、ゼニアはこんなにゆったりとした生産が可能なのか。答えは簡単だった。ゼニアの客は、欧州と北米とアジヤなどで、それぞれ3分の1ずつであるという。要するにグローバルな市場を相手に徹底した商品の絞り込みとそれなりの量の生産をしている。
 日本の一宮ではこれができない。それは国内市場を相手にしているからだ。】
 ユニクロのビジネスモデルも、徹底した品種の絞り込みで、ロットをまとめる(数量を増やす)。少品種多量で、かつアジヤの際立った低コストで生産していることがユニクロの強さである。
 (ユニクロについては)【約1年前、東レのトップと雑誌で対談した。「新繊維が東レの中でもっとも利益率が高い。他の企業にはないような特徴のある糸について、ユニクロのような企業と戦略的互恵関係を結ぶことで大きな成功を遂げた」と言う。】

また、日本の流通業にネット販売がどう影響するかを論じた後、こう述べる。
【世界全体でコンピューター・サーバーが利用している電力量は、日本の電力使用量よりも多いそうだ。サーバーの電力使用量が多いのもさることながら、それだけ多くのサーバーが世界中で稼働しているということは驚きだ。
現在、サーバーに利用するハードデイスクは冷却するために大量の電気を利用する。また、サーバー内の情報のやりとりは電線を利用した電気信号で行われている。このハードデイスクに最新の半導体を利用することで、そして電気信号の代りに光ファイバーを利用した光通信を使うことで、サーバーの処理能力を大幅にアップして、かつ電力使用量を大幅に下げることができるという。
(今)たいへんな勢いでクラウド利用が拡大している。クラウドが急速に拡大しているのは、こうした多面的な技術革新の結果でもある。】


株は買わせたいが税金は下げたくない

2014-02-15 | 経済と世相
 今冬一番の積雪になりそうな14日午前、
「プールへ泳ぎに行こう」と支度をはじめたら、証券会社から電話-が入った。
「NISAの口座を開設頂きましてありがとうございます」と言う。
「以前買った株がアベノミクスのおかげか値上がりしたから売ろうとか考えているのだが、
税金はかからないのだネ」と聞くと、
「いえ、無税になるのは、NISAの口座で購入した株を売却する場合で、
以前、買った株を売却された場合は、課税されます」
 「えぇ、そうなの」
 小生は「NISAを開設すれば、株の売却益は、年1回は無税になる」と勘違いしていました。
これから買った株が値上りして売る場合に無税になるという話で、
今までに買った株の売却益が無税になるのではないのです。
 そうだろうナ、国税庁が、みすみすとれる税金を取らない筈はないのだ!
これだと、アベノミクスで、株価はかなり高い所に来ているから、
これから買ったら値下がりの確率の方が高いのでは?結局、NISAはたいして効果はなかったということになると考えます。
庶民に株は買わせたいが税金は下げたくないのが、政府の本音でしょう。

プールはさすがに空いていました。
積雪の日に、悠々泳いでいると、自分が貧乏人であることを忘れて、
優雅な生活をしているような気がします。


皆さんがねぎらってくれる

2014-02-12 | 水泳
2014中日スポーツマスターズ水泳大会は、2月11日、日進市の口論議(こうろぎ)運動公園プールで開催されました。
この大会、過去5年間100mバタフライで1位入賞しているので、もしかしたら6連覇?と出掛けることにしました。10時家を出て、まず東区市営プールに行きました。
大会の出場予定時刻は3時50分ごろですので、いつものプールで練習を済ませてから、大会会場に行こうと思ったのです。
800m泳いでから、プールを出て、3階の図書館に寄り、借りていた本を返却。その後ジャスコで弁当を買い、プールのロビーで腹ごしらえ。12時20分に地下鉄へ。藤が丘へ回り、リニモで長久手古戦場駅に1時着。10分ほど歩いて口論議プールには1時10分。
観覧席に上がる。
男子バタフライ50mが始まっていた。
75歳区分で、32秒6の世界新記録が出た。75歳で50mバタを32秒台で泳ぐなんてすごい人がいる。
チーム仲間の場所がわからない。泳愛クラブのIIDAさんがいたので、「一寸、座らせて」と、同クラブの端の席に腰を下した。
しばらくしたら、チームのOさんが、小生をみつけて「こちらよ」と声をかけてくれた。そちらに移ると、チームメンバーの面々。キャプテンのKさんから参加賞をもらう。
「調子どうですか」とKさん。「ぜんぜん早く泳げなくなった。平泳ぎに転向しなくちゃいけないと思ってます」と答えた。
3時になって、100mバックに出場のKさん、「先に行きます」とプールに向かったので、私も着替えをしてプールサイドに降りた。
間もなく、男子バックが始まったのでKさんの泳ぎを見ていた。泳ぎ終えたKさん、小生の顔を見て「頑張ってください」。その後「無理しないでください」がついた。
4時前、1コースの飛び込み台に上がる。75歳区分は今回は滋賀県から来た選手が7コースにいる。「今日は2位だな」。
スタートの号砲で飛び込んだ。「ツメターイ」、身体が暖房で温まっていたためか、すごく水が冷たく感じられた。でも20mも行くと体が熱くなってくる。
隣の2コースが早い。「2コースは、60歳区分だったな」、とてもついていけない。「まぁマイペースで行こう」、50mターンまでは、そんなにきつくない。「マイペースで最後までいければいい」と、腕を回す。さすがに80mぐらいからきつくなった。
なんとかフィニッシュしたが、恥ずかしいぐらい呼吸が荒い。
「おつかれさま」と隣の2コースが声をかけてくれる。
「あぁ、きついなー。年の所為だネ」と、息を弾ませながら、答える。「いゃ、ご立派です」とねぎらってくれた。タイムは、2分56秒44、年の所為だろうが、遅くなった!
着替えして席に戻ると、KさんとMさんが帰り支度をしていた。
Kさん、「完泳おめでとう」、「平泳ぎに転向と言ってたけど、まだ当分バタフライで行けますよ」と言う。
タイムは見事に遅いのだけど、年の割には頑張っている。と皆さんがねぎらってくれるのだ。
チームメンバー全員が引き上げたので、私も引き上げる。銀メダルを頂こうと受付に行くと、コーチのKさんがいる。大きなマスクをつけている。そう言えば、花粉症だと言っていた。Kコーチ、「あぁNOZUEさん。ここにサインして」と言う。メダルの受領欄にサインしようとしたが、泳ぎの直後で、腕に力を入れすぎたので手が震える。字が歪んでしまう。「ごめんなさい!手が震えて」。「泳いですぐだからネ」とKコーチは笑う。
長久手古戦場駅で4:37のリニモに乗り藤が丘で地下手に乗り換え。5時半帰宅でした。

1995年という年

2014-02-08 | 読書
『1995年』(速水健朗著、ちくま新書2013年11月刊)を図書館でみつけました。1995年と言えば神戸大震災と地下鉄サリン事件の年ですが、小生が現役引退する1年前でもありました。あれからもう20年近いのだと、目を通しました。
 以下、「あぁそうだった」と気づかされた事毎を、読みながらメモしました。
『日本で製造業従事者の数が農林水産業従事者数を超したのが東京オリンピックの翌年に当たる1965年のこと。そして、その製造業従事者の数がサービス業に抜かれるのが、1994年である。』
『村山政権の数少ない業績に「村山談話」がある。
当時、中国や東南アジヤの経済成長とともに、貿易相手としてのアジヤの存在感は急速にたかまりつつあった。1995年時点での日本の輸出入総額を見ると。貿易相手国の第1位は断トツでアメリカ(18兆4094億円)である。全体に占める割合は、25.2%。2位の中国は、7.4%(5兆4428億円)にすぎない。
だが、2011年の貿易相手国の順位を見ると、中国が27兆5441億円で1位占める割合は20.6%、2位のアメリカは、15兆9491億円で11.9%に落ちている。』
『1月1日、WTOが発足し・・真っ先に追求されることになったのは、焼酎である。
焼酎の低い税率を問題にしたのは、EUだった。EUといっても実質的にこれを問題にした当事国はスコッチウィスキーを日本に輸出していたイギリスである。
日本の蒸留酒税率の問題は、史上初となるWTOによる仲裁案件に持ち込まれた。
この話の後日談。焼酎vsスコッチ、バーボン、ウィスキーのグローバルな市場競争において勝利を収めたのは日本の焼酎だった。
九州の地場産業だった中小の焼酎の酒蔵は、酒税のアップを控え「本格焼酎」のブランデイングに乗り出す。安い値段で愛される庶民の酒という方向性を捨てた。焼酎をスコッチなどと同等の酒として飲まれるような高級酒に育てようと考えた。
2003年には、約50年ぶりに日本酒の出荷量を焼酎が超えるという快挙まで達成した。』
1995年の新食管法で、スーパーやコンビニでコメが販売されるようになった。
マクドナルドは、それまで210円だったハンバーガーを130円に
変更した。』
『満20歳人口のピークは1994年だったが、日本が生産年齢人口のピークを迎えるのは1995年(8716万人)のことだった。96年は生産年齢減少社会元年だった。』
自動車で言うと、『「プリウス」のプロトタイプが初めて発表されたのは、1995年10月に開催された東京モーターショウである。』
1995年は、秋葉原が家電の街でなくなった年である。雑誌『東京人』の1995年9月号、1994年に秋葉原ではパソコンの売り上げが家電を超えたことを伝えている。翌年の1995年はパソコンの出荷台数が初めて500万台を超えた年だった。』
『携帯電話が急速に普及し始めたのが1995年である。94年の時点では430万件程度に過ぎなかった契約数は、95年には1000万件を突破する。この年を機に携帯電話は年間1000万台以上のペースで加入数を増やしていくことになる。』
『グーグル創業者のラリー・ページとセリゲー・プリンが大学でやっとであったのが1995年の出来事だった。』

名古屋女子マラソン当日の交通規制看板

2014-02-02 | マラソン
早くも1月が終わって2月です。
小生のジョギングコースに名古屋女子マラソン当日の交通規制看板が建ちました。
3月の第二日曜(9日)ですが、早々と立ち並んでいます。
例年、この看板が立つと名古屋の春も近いと感ずるのですが、
今年の寒さに、「春よ早く来い」と、例年より早く立てたみたいです。
名古屋城西北の隅櫓(清洲櫓)と名城公園東通りの愛知学院大学を背景に看板を写してみました。
愛知学院大は4月から開設の予定で(最近、大学キャンパスの都心帰りが多いようです)、
春からは、この辺り学生の姿が多くなると思います。