古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

国家って何だろう?

2006-01-17 | 経済と世相
 週刊朝日の1/20号を見ていたら、田原総一郎さんが面白いことを述べていました。
【東大教授の御厨貴さんに、「国家について説明を請いたい。東大で国家学をやっている学者を紹介してほしい」と頼んだ。すると御厨さんは、「残念ながら一人もいない」と答えた。「憲法を専攻している教授たちは、いささかなりとも国家論に取り組んでいないのか」と問うと、「彼らのほとんどは人権論などを扱っている」と苦笑しながら話した。】

 私は、国家を近代国家に限定するなら、
近代戦争を可能にする組織として発明されたのが国家ではなかったか?
(それはナポレオン以後に始まった)という仮説を持っています。
国民を兵隊に動員したのはナポレオンのフランスが最初だったと思うのです。
(ですから、「普通の国」とは「戦争が出きる国」を意味します。)

 九州旅行の新幹線の中で『東条英機と天皇の時代』に読みふけりました。以下、
その感想ですが、私が、関心を持ったのは「何故、戦前の日本は、軍部が占領した
ような国になってしまったのか?」という疑問でした。
 ご承知のように、明治憲法では「統帥権の独立」ということで、軍は内閣の管理
外、天皇直轄という組織になっていました。でも、天皇から軍にどうこうせよと言う指示がある訳ではありません。だから軍部は、自分で軍のあり方を考えることになります。そして組織自体の保全が組織の目的になります。
 第一次世界大戦は、軍事力が国家の経済力と結びついていることを証明しました。
戦争に備えて軍事力を強化しておくのが軍の仕事ですから、軍部は、国家の経済力の強化を意識せざるを得ません。そのとき、軍部が内閣の管轄内になければ、軍の方が内閣(国政)をコントロールしようとすることになりす。
 こうして、軍部が日本を占領することになったのが、戦前の日本でした。
しかし、軍部が国政を壟断するようになったとしても、なぜ全世界を相手にするような戦争を始めたのか?
 山県有朋も、自分の考えた「統帥権の独立」を用いて、日本の軍人が全世界と戦争したと聞いたら仰天するでしょう。
 指導者の視野が狭かった。何故、戦前の日本は、もう少し視野の広い指導者を選ぶことが出来なかったか?
 人間というものは、どんな偉い人であっても、自分の体験したことしか、本当は理解出来ないのではないか。というのが、私の第二の仮説です。
 この仮説が正しいとするなら、優れた指導者を選ぶには、色々な経験を積んだ人が指導者になるシステムを工夫する必要があります。
 東条英機を初め戦前の軍出身の指導者は、学校を出た後、軍という世界しか体験していませんでした。
 以上、保阪正康さんの『東条英機論』を読んだ私の独断の論です。
 
 いずれにしても、「国家とは何ぞや」という「国家論」の研究が必要であると、私も田原さん同様、痛感しています。
 
 


日本西南端の温泉とビジネスホテル

2006-01-16 | マラソン
 水仙の里を見に行きましょうと、近くの公園に。例年だと、水仙1000万本が咲きそろう景色が見られるのだが、今年は雪害で全く水仙が開いていないという。水仙が咲かないというのに、駐車場は車が混雑している。祝日(成人の日)の所為かな?
 祝日は水仙の花束がプレゼントされるそうで、奥様が土産物など物色している間に大師匠と、その水仙の植え付けられている小山に登ってみた。
 昨日の膝のトラブルで、朝ホテルを出る時は、まだ階段を下りる時、膝に痛みを感じたが、この時は全然痛みを感じなかった。もう治っている。レース後24時間で回復しているから、まだ身体は若い。
 野母崎・海の健康村という所へ行く。今度は、軍艦島の見える温泉に入ろうというわけ。時分時だから先に昼食を取ろうとレストランに入った。キダコ(うつぼ)の刺身と燻製があるというので、試食してみた。たべられる味にはなっている。
 温泉は、陽の岬温泉という。入浴料金は¥400(それにタオル代¥100)。
民間の営業にしては安いから多分町営?(最近長崎市に合併したらしいから市営)
のんびり湯に浸かって昨日の疲れを取る。よくぞ、こんな日本の西南端までくる機会があったもの。大師匠に深謝!

 夕刻、駅前のホテル迄送ってもらった。
 部屋に入ると、薄型の液晶TVが置いてあったから、最近出来たホテルだろう。ここも色々な工夫をしている。ルームキーがカード型(紙製)で、お持ち帰りくださいと言う。会員ナンバーが付されていて、一度宿泊すると、このホテルの会員になりますという仕組み。次回の宿泊や予約で優遇されるというシステムで、顧客の囲い込みを図っているようだ。パソコンをお持ちでない方には、23ヶ国語に対応するWin搭載のノートパソコンを貸し出すという。そう言えば昨日の博多のホテルも一階にPCコーナーがあったが、部屋に貸し出しまではなかった。

 夕食は大師匠が寿司屋に案内してくれた。雑談の折、寿司屋の主人が、D社のH社長の名を口にしたので「えっ、H社長はここに来たの?」と聞くと、来てはいないが、主人、株に熱心で会社をいろいろ調査して知ったということ。
「(調査しても)良い会社の株が値上がりするわけでなく、良いと思われる会社の株が上がるのだから、難しい。これは経済学の問題でなく心理学の問題!」と小生。ご主人肯いていた。

 明くる朝の朝食は、バイキングだったが、感心したのはコーヒーが6種類あって、選択できることだった。これで宿泊費¥6300、相当勉強した価格。
それだけ競争が激しい?
 7時半の「かもめ」で博多にでて新幹線で名古屋。pm2時ごろ駅に着き2時半帰宅できた。4時から愛知県体育館での、水泳クラブの初練習に参加できました。
 


ビジネスホテルと大うなぎ

2006-01-15 | マラソン
 8日夜、ホテルは博多駅筑紫口を出て左に行った所にあった。到着は7時を過ぎるしあくる日も朝早く出るから寝るだけなので安い部屋で良い、と下流社会市民としての私は考え、インターネットで探して¥4500で一泊朝食無料サービスというホテルを見つけ、予約したのだった。
 フロントに人がいないのでベルで呼ぶと、出てきた男性がカードを呉れた。
「カードをそこの支払機に入れて、お支払いをしますと、そのカードがルームキーになって戻ってきます」と言う。
 カードを入れると、機械のデイスプレイに予約内容と「現金またはクレジットカードを入れて下さい」の表示が出た。一寸考え、クレジットはデータが盗まれるとヤバイな」と1000円札を一枚づつ入れた。5枚投入し、画面のOKにさわると、お釣とカードが出てきた。
 この種のホテルを経験するのは初めて。現役を引退すると、こういう体験が少なくなって、世の変化が分かりにくくなる。世の中、変わってるんだ!と思った。
 部屋に入ると、少し寒い。暖房がまだ入っていないのだ。自分で暖房をいれて暖めなさいというわけ。暖房スウィッチを入れて、部屋内を点検。ハミガキセットだけはあったが、髭剃りはない。徹底的に余分なところは、金をかけないというやり方だ。
 翌朝、7時に朝食券に記入してあった地下のパン屋に行く。パン、卵、ジュース、珈琲の食事。セルフサービスだから、パンもコーヒーも好きなだけ持ってこられるから、量が不足と言うことはないが、味もそっけもない。まあ、無料と言うことだから文句は言えない。

 7時半の特急「かもめ」に乗車して長崎に向かう。今日は大師匠(友人の仇名)と一年ぶりに久闊を恕す予定だ。
 10時前、長崎駅に着いて大師匠に電話したら、直ぐ迎えに来てくれた。「今日はのもへ行きましょう」「のも?」。地図のコピーを見せてくれる。野母崎、長崎半島の先端です。大師匠のマンションの近く、一年ぶりだが、¥100ショップのダイソウがオープンしている。「こんな所にも¥100ショップがある!」と感嘆!堺屋太一さんが著書に「ブランドと100円ショップ」の書名を付けたわけだ。
 停車して、大師匠の奥様が乗ってこられた。ご夫妻で歓迎して頂けるのは恐縮
(この際、奥様孝行も済ませておこうという大師匠の魂胆かも?)。
一時間余走って、「軍艦島が見えますよ」と言う。名前だけは聞いていたが、実際に見たのは初めて。成る程、外観が軍艦そっくりである。正式名は「端島」だが、
軍艦島の名で知られている。旧三菱の石炭鉱で、昭和49年閉山したが、明治の初めから良質の石炭を八幡製鉄に供給し続けたようだ。
 「先に大ウナギを見に行きます」と車はその先の樺島に向かった。灯台を過ぎて駐車場があった。車を降りて少し歩くと「大ウナギ」の看板が立っている。
 立て看板によると、胴回りが最大で45センチにもなると言う。熱帯の動物らしいが、この野母崎が、大ウナギの生息する最北端の地で、文部省指定の天然記念だという。水槽を覗いたら、45センチはなさそうだが胴回り30センチぐらいはありそう。
こんな希代な生きものは初めて見た。(続く)

壱岐マラソン

2006-01-13 | マラソン
 ハーフの部は10時スタート。10分前、スタート地点に行く。招待選手の森下広一選手(バルセロナ・オリンピックの銀メダリスト、九州トヨタ陸上部監督)が、最前列中央に並んだ。
 10時、号砲。225名のランナーがスタート。このコースは5kを過ぎたところで、約600mで30m駆け上がる急坂がある。そこまではマイペース、坂を登るスタミナを残しておこうと走り出した。急坂はなんなく駆け上がれた。前半が10Km弱の周回コースで後半が左京鼻という半島の突端で折り返すコースだ。前半順調だ。10Kmの通過が一時間1分。このペースだとゴールは2時間9分と想定した。昨年は2時間5分をきったと思うが、やはり年々遅くなるのは止むを得ない。
 11Kmで先頭ランナーが折り返してきた。森下ではない。トヨタの若い部員を連れて来ているから、そのメンバーかな?12Km手前で森下が来た。すれ違う時、彼が大声で叫んだ。「頑張ってください!」
 紛れもなく、小生への激励だった。この辺りに来ると、ランナーの間隔が離れて、前も後も距離が開いて小生だけがはしっていたから。
 右手を挙げて、激励に謝意を表した。
 清石浜(くいしはま)の海水浴場を左にみて海岸を走る。14Km左京鼻の半島に入る入口で、応援の人々が屯していたが、一人が「頑張って!尊敬してます」と、小生に向かって最敬礼。尊敬って、どういう意味だろう。
 左京鼻でほぼ15.5Km、折り返すと少し風が出てきた。半島入口に戻ると、先ほどの人が「尊敬してます!」と、又最敬礼!
 ああそうか!と分かった。この日、帽子をかぶらず走っていた。雨も雪もなさそうだ。それに日差しもそんなに強くないから帽子なしでいい、と思ったからです。だから、白髪が分かる。「そのお年で走るなんて尊敬します」の意味だ。森下も、この白髪に激励していたわけだ。
 ゼッケン3番が来た。84歳の最高齢者。この人こそ、尊敬しなくちゃいけない。 18Kmまで来た時、アクシデント。突然、右足の膝頭に痛みが走った。膝頭に力が入らなくなった。ふんばろうとしても右肩が沈んでしまう。俗に言う「膝が笑う」。
 フルを走ると出ることがあるが、20Km以内の距離でこれが出たことは、この
20年間なかった。これは練習不足!
やはり!先月は雪などで月間90Kmしか走っていない。
 「こんな走りでは尊敬されないな」と思いつつ、右足を引き摺るようにして、1Kmぐらい走ると、幸い、傷みが消えてきた。後わずかだから無理しないようにとゆっくり走る。
ゴールは2時間13分28秒。膝のトラブルで、想定タイムより4分遅れた。
やはり、歳をとると無理が利かない!70でマラソンを走ると言うことはたいへんなんだ!

 完走証を貰い、ぜんざいとブタ汁を馳走になった後、5Kmの連中は既に引き上げているので、民宿に電話して迎えに来てもらい宿に帰った。
入浴、皆さんと昼食懇談後、港に送ってもらい4時のフェリーに乗船しました。(続く)


壱岐紀行

2006-01-13 | マラソン
 7日朝、天気予報は豪雪を伝え、米原を過ぎるまで、新幹線の車窓からの雪景色
は、日本中が雪に埋もれたかと思わせるほどだった。九州も雪かな?下手をすると雪でマラソンは中止にならないかと心配だったが、京都に入るトンネルを過ぎると、あっという間に雪が見えなくなった。
 12時40分博多に着いて、駅前のバス停で埠頭行きのバスを待つ。
11番のバスが来た。「これは港に行かないですね」と傍にいた青年に聞くと、
「ええ47,48番のはずです。どちらまで?」「壱岐に行くのです、マラソンで」「私もマラソンです」という。
 「どちらから見えました?」と聞くと、「茨木からです」。
 「新幹線できたの?」「いえ、飛行機です。去年も来ました」
 彼も壱岐ファンらしい。(翌日、大会参加者名簿で見たら19歳の若者だった。)

 13時45分のフェリーに乗船し、芦辺港に着いたのは4時。「大平荘」と書かれたミニバスは直ぐ見つかった。車の傍に着いたばかりのランナー達が、多勢いたので「コンニチワ、私も乗せてください」と声をかけた。振り返った一人が「アア、名古屋の方!どうぞどうぞ」と言う。去年同宿した福岡県穂波の走友会のメンバーだ。
 宿に着いてご主人と、久闊を恕す。今年は、穂波走友会の10名と小生の11人の泊まりのようだ。彼らは、この大会が新年宴会を兼ねているらしい。
「明日は何キロを走るんですか」と聞くと、全員5Kmだと言う。宴会の方がメイン行事らしい。
「おたくは?」「ハーフ」と答えると、「良く走りますねー」

 6時、宴会が始まり、小生も参加。寒ブリの刺身が美味しい。カラオケ大会もあって盛り上がった。
 例年、顔を見せるお手伝いさんのお嬢さんが顔を見せないので聞くと「ウチのお嬢さんは高校生になって、アルバイトをやっているんで、今夜はこれないんです」と言う。「でも、明日のマラソン大会には、二人とも出場するんですよ」とのことだった。

 翌朝、7時朝食。民宿のミニバスを借りてメンバーの一人が運転し、会場に行く。素晴らしい晴天、風もなく絶好のマラソン日和になった。気温も4~5度だから、昔だったら「今日はベスト記録が出るぞ!」と、張り切るところだが・・・
 ゼッケン37番をもらう。昨年までは年齢順にゼッケン番号が付いたが、今年からそれは止めにしたらしい。50歳以上は二ケタ以下のナンバーだが、申し込み順のようだ。
 昨年まで布であったのが紙に代っているゼッケンに、トルソータグと称する電子タグが付けられている。(続く)
 


平成17年の10冊

2006-01-05 | 読書
平成17年に読んだ本の中で印象に残った10冊をリストアップしました。

超簡単!ブログ入門     増田真樹著        角川ワンテーマ
   ブログのHPをはじめたのが、小生のこの年のニュースのトップです。そのキッカケになった本

考える脳、考えるコンピュータ             ランダムハウス講談社
   脳とコンピュータの相違を考えさせられました。
虎の城           火坂 雅志著       祥伝社
   藤堂高虎なる武将の生涯を知りました。
司馬遼太郎短編集第8巻                文芸春秋社
   小説の面白さを満喫。著者の油の乗り切ったころの小説集。
ブランドと¥100ショップ 堺屋太一著        朝日新聞
   週刊朝日連載のエッセイ。時評を書くセンスはさすが!
考えないヒト        正高信男著        中公新書
   サル学研究者が見た人間の人間たる所以。
公会計革命         桜内文城著        講談社新書
   国家財政に企業会計の手法を適用。
海馬            池谷裕二・糸井重里著   新潮文庫
   脳の話には、ついつりこまれてしまいます。
牛は食べても安全か     福岡伸一著        文春新書
   「BSEとは、どういう病気か」よく理解できます。
あの戦争は何だったか    保阪正康著        新潮新書
   保阪正康という昭和史研究家を発見しました。

 

「キレる」原因

2006-01-05 | 読書
先日、紹介しました正高先生の新聞寄稿を読んで、先生の考えをもう少し知りたくなり、図書館で『考えないヒト』(中公新書)を借りてきました。
 近年、少年たちの理解に苦しむ犯罪が目立っていますが、この「キレる」現象を
語っていました。

 最初に人間の記憶のワーキングメモリーについて述べます。
【(人間の)メモリーというと短期的なもの(短期記憶)と長期的なもの(長期記
憶)に二分できるという考え方が普及している。・・・・ところが、この二種とは別のタイプの記憶があると考えられるようになってきた。例えば、Aさんに電話をかける必要が生じたとしよう。相手の番号を覚えていない。けれども、そばにいるBさんは知っていたとする。そこで尋ねて、教えてもらった。聞いて、諳んじたままプッシュフォンのボタンを押す・・・。
 電話をかける間だけ、番号を心の中に記憶として貯えておくことができる。記憶することを求められる作業が終了するや、きれいさっぱり忘れてしまう。これがワーキングメモリー(という記憶)である。
 耳から入る情報だけではない。眼からの入力に関しても、同様なこと(メモ)が
私たちにはできる。
 目的とする作業の遂行の間に限り、耳からの情報を反芻するループがある。
その中で音がグルグルと繰り返し回ると考えてよい。・・・】
(つまり、ワーキングメモリーには、音のループと画像のメモがあると言うのです。)
 (ループの)貯えておく情報は、必ずしも耳から入ったものに限らないことも明らかになってきている。
・・・私たちは、外からの言語情報を受動的に感知するばかりではなく、現実の声を出さないまでも日常的に、心の中で声にして発することで、思考・判断・意志決定を実行している。その「心の中の声」もやはり、同じようにループに貯蔵されることが、わかってきたのである。】
(つまり、ことばはループの中を、循環している)

【耳から入った刺激を心の中で(ループで)めぐらすことができるのと同様に、眼から入った刺激も心にしばらく焼き付けることもできる・・・しかし実は、音が響き続ける時間と、イメージを焼き付けておくことのできる時間には、圧倒的にひらきがある。
 だから、イメージに基づく決定は、おのずと瞬時になされることとなる。・・逆に言語に基づく決断は時間を要する。ついつい繰り返し、内容を検討してしまうためである。つまり、ループからの情報による判断は逡巡的であるのに対し、メモからのものは衝動的という特徴をもつ。】
【判断がメモからのものに一方的に偏ると、往々にして(それに基づく作業)行動はとてつもなく瞬間的、すなわちあと先を考えない側面を見せるようになる。
それが・・「キレる」】
【「キレ」やすい人間の行動決定というものを見た場合、・・極端に視覚的イメージ(メモ)に依拠して実行されている】と筆者は言うのです。
『少年たちの心の闇』という表現が良く使われるが、
 【・・・衝動的な行動と「心の闇」は似て非なるものどころか、まったく水と油の関係にある。】
 【ことばには、文法構造が含まれている。これは一種の時間順序に関する厳密な規則である。・・・また文と文とが連なって、意味を持つ整合性のあるメッセージを作るには、いわば起承転結のある構成が求められる。】
 【・・・現実に、ことばを繰る程度には個人差が存在するのだ。端的に自分の身にふりかかってくる出来事を、心の中で言語的に再構築する傾向の高い人間と、そうでない者がいる。その後者にあたる、しかも著しく言語操作を行わない例として、「キレ」やすい人間を位置付けることができるのである。】 筆者はこう述べていました。

正高先生の怒り

2006-01-05 | 経済と世相
 京大霊長類研の正高先生が、またまた過激なご意見を21日の中日夕刊に寄稿していました。
【日本の教育を、このようにまで荒廃させた一つの要因として大学の教員養成課程の授業内容の、お粗末さがあると思う。・・・ 教師になって役に立つことは何一つ学ばず4年間を過ごすと書いても誇張ではない。しかもやっかいにも、そこで給料をもらっている人々は今日の状況に至ったことに何の責任もないと信じ込んでいるらしい。
大学改革も、どこふく風というようである。
 ならばいっそ、関係する部局をすべて無しにしてしまえばいいのではと、私などは考えてしまう。「そんなことをすれば、教師の資格を望む学生が困るではないか」という声が、あるかもしれない。しかし、希望者のための教員免許取得センターを各大学に設置すれば事足りるはずである。】
 このくだりを読んで、私は、先日呼んだ『東条英機と天皇の時代』(保阪正康著)を思い出した。東条の青年時代のエピソードです。
【東条英機の東京陸軍幼年学校での成績は、それほど良くなかった。いや下位のほうだった。だが・・・中央幼年学校に入ると、生来の負けず嫌いな性格も手伝って、急速に成績を上昇させた。彼は好成績を得る秘訣を知ったのだ。教科書をそらんじるほど暗記してしまうのである。すると充分な点数が獲得でき、順位があがるのだ。
 ・・・人間の差異は暗記する努力の時間をもつか否かにある。彼はこの考えを終世の友とした。40年後、首相になったときに、秘書官に正直に告白している。
「幼年学校時代に、いちど習ったところを徹底的に暗記してみた。すると成績はあ
がった。努力とはそういうものだと思った。」】
 
 教育には、目的がある。日本の明治以後の発展期に必要な人材は、いち早く先進文明を導入することができる人材だった。理屈抜きで先進文明のあり方を暗記して、それを実行できる能力が求められ、その場合、暗記能力は重要な能力だった。しかし、暗記能力だけでは、すでに東条の時代に、間に合わないことが証明されていた。にも拘わらず、戦後の教育は、いかなる人材の養成を目的とすべきかを、考えてこなかった。
 したがって、教員養成課程において、どのような教師像を目的にするかが、明らかでなかった。そのカリキュラムは退屈なものにならざるを得ない。

 私は、大学の教員養成課程の現状はよく分かりませんが、ここに、正高先生の怒りの原因があるのではないかと、愚考しました。
 

人間の寿命

2006-01-05 | Weblog・人生・その他
 私の好きな昔話。ハンガリーの寓話だそうです。
『昔、神様が動物の寿命を決めた。何故か、人間は20年、馬と犬は40年。
すると、馬が苦情を言った。
「人間のために40年も働くのは結構です。20年にして下さい」。
犬もクレームをつけた。「人間のために40年も吼え続けるのは嫌です」。
そこで、神様は犬と馬の寿命を20年に改め、それぞれの余った20年の寿命を人間につけ加えた。
 以来、人間が人間らしく生きるのは、最初の20年で、それを過ぎると
馬車馬の如く働かされる20年があり、さらにその後、
犬のごとく世に不平を吠えて過ごす20年が待っている。』
 この話をどこで聞いたか、記憶が定かでなかったが、
5日の朝日朝刊の「天声人語」に紹介されていた。
 南方熊楠の書に、ルーマニアの伝説として記載されているそうです。
 私の記憶だと、ハンガリーだったが、ルーマニアとなっており、「天声人語」では、最初の人間の寿命が30年になっているが、出は同じ話なのでしょう。

 最近の晩婚の風潮からすると、人間の最初の寿命は30歳にしておくのが合っていますね。