古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

非自発的雇用

2012-11-26 | 経済と世相
  前便で触れた「非自発的失業」と「非自発的雇用」について(独断と偏見の論ですが)補足です。

「雇用」というと、「失業問題」と考えますが、日本の失業率は、欧米諸国と比し特に悪いことはない。

問題は「雇用」の質です。極端な低収入の雇用が増えています。

先日のNHK(クローズアップ現代)では、学校の先生まで契約社員になっていると報道されました。



立命館大学の高橋伸彰教授は、『1929年の世界大恐慌に際し『一般理論』を著し、

働きたくても働く機会を得られない「非自発的失業」の原因は経済全体の需要不足である、とした。

しかし、今、日本で問題視されるべきは「非自発的雇用」である。

「非自発的雇用」とは、働いて得られる賃金よりも働くことに伴う苦痛のほうが大きいにも係らず、

本人の意思に反して働かざるを得ない雇用及び雇用状態をいう。』と述べる。

http://d.hatena.ne.jp/snozue/20121119

非自発的雇用」が生まれた背景については、ここで述べています。

デフレの脱却には良質な「雇用の創出」が必要です。

かつてケインズは、民間の需要が落ちているときは、政府が公共投資などで、需要を造るべきだと説きました。

私は、同じ意味で民間の「雇用」が落ちているときは、政府が「雇用」を作るべきだと思います。

(ですから、役所の採用を減らすなど、逆効果になります)

オマエは「大きな政府」論者か、といわれるかもしれませんね。違います。

景気が悪くて「雇用」が落ち込んだら、大きな政府とし、景気が過熱してきたら、

政府の事業を民間に譲って小さな政府にすると言う、弾力的な政府のあり方を工夫したいのです。

例えば、高齢者の介護を専門とする機関を作る。

介護職員の給与が低いことが話題になりますが、標準並みの給与を払う。

資金が足らなければ、それこそ日銀引き受けの国債を発行してもいい。

景気がよくなったら、この機関を民営化する。ついでながら、年金受給者で健康な人はここで働いてもらう。

その分、いくらかは年金を辞退してもらう(年金は必ずしもお金で払う必要はない。雇用で給付してもいいのです)。

2417でも述べましたが、「非自発的雇用」がなくなれば、国民の購買力が増えて、

経済のサイクルが廻るようになり、金融政策も有効になると考えます。





時評:安倍新総裁はハッスルするが・・

2012-11-23 | 経済と世相
安倍新総裁がハッスルしている。
インフレ目標を2~3%に設定し、目標に達するまでは金融緩和を続ける。建設国債を日銀に引き受けさせ、公共投資を拡大せよという。最近「インフレターゲット論」を勉強されたらしい。
「デフレ」を脱却するには、金融の緩和(低金利と量的拡大)と公共投資が標準の処方箋で、日本経済が「デフレ」を脱却できないのは、日銀の金融緩和が不徹底のためだ、というのです。
要するに、「デフレ」というのは、需要が不足している。つまり国民がカネを使わないからであり、国民がカネを使わないときは政府がカネを使わなければならない。だから公共投資で政府がカネを使い、一方、金利を下げて企業家の設備投資意欲を盛り上げよう、そうすれば、企業は投資にカネを使い、公共投資のカネが国民に廻って国民もカネを使うようになるから、デフレ脱却が出来るというわけです。
つまり、公共投資と金融緩和が「景気の呼び水」になると考えるのです。
本当にそうなるのか?例えば、株価を考えてみましょう。株価は株を買う人が多くなれば上昇し、誰も買わなくなれば下落します。株価の上昇を図るため、金融を緩和する。その時、確かに投資家は資金を調達しやすくなる。しかし、カネを持っているからといって直ちに投資家は株を買うわけではない。株の上昇が見込めるときに買うわけです。株価が下がると思えば、カネをもう少し手元において、「もっと安くなったときに買おう」と考えるでしょう。
企業家にしてもそうです。企業家は、金利が下がるから投資をするわけではない。設備投資で生産増する製品が売れると考えた時、設備投資に踏み切る。金利が安くなっても、売り上げが増える見込みがない時は、新規投資の必要はなく、従来の設備で生産していればいいのです。
国民もそうです。公共投資で雇用された労働者が得た収入を消費に回してくれれば、景気は良くなるが、「将来が不安だから、おカネは使わず貯金しておこう」となれば、消費はもりあがりません。
「呼び水」は、井戸に水はあるのだが、一時的に水が出なくなった場合に有効です。井戸の水が枯れてしまった場合には、「呼び水」を入れても水は出てこない。
「景気の呼び水」も同じで、井戸の水が枯れていないか、チェックしないと有効性を保証できないと思います。「井戸の水が枯れていない」とは、どういう状態か?
資本主義社会とは、企業家が資金を調達して、原材料を購入し、労働者を雇用して製品を生産する。その製品を販売して得られたお金が最初に調達した資金を上回るときにそれが利潤になる。その利潤が新たに投資され、企業家が生産を増やすというサイクルが廻ることで経済を成長させる。
このサイクルに不具合が発生しているのが、井戸に水のこない、つまり水が枯れた状態と、私は考えます。
今、日本の経済は、生産する商品を国民の購買力では消化できない状態です。かろうじて、外国に輸出することで、資本主義経済を回している。だから、中国の景気が少しダウンすると、直ちに景気は下向くし、EUが不景気になれば、日本も不況に。リーマンショックが起これば、日本で発生した金融不安ではないのに、当事者の国よりも打撃が大きくなる。
では、何故国民の購買力が落ちてしまったか?「経済のグローバル化」に対応を誤ったからだと思います。経済がグローバル化すれば、人件費比率の高い商品は、新興国にかないません。したがって、そういう商品は新興国に譲って、「どうすれば付加価値率の高い商品を生産し、販売できるか」を追及しなければなりません。それが直ちには出来ないなら、グローバル化のテンポを遅くして時間を稼がねばならなかった。
それをやらずに人件費比率を下げることで、対応しようとした(製造業の派遣の自由化)。その結果、年収200万円以下の労働者が3割にも達する状況になった。これでは、国民の購買力が落ちて当然です。
国内だけのモノ、カネの動きで資本主義のサイクルが上手く廻らない状態で、金融だけ緩和しても「デフレ」脱却が可能とは思えないのです。第一、経済がグローバル化した今日、緩和したカネが日本国内に廻るという保障はないのです。

佐藤優さんのTPP論

2012-11-18 | 経済と世相
佐藤優さん(元外務省主任分析官)の「TPPと帝国主義」と題する寄稿が16日の中日朝刊に載りました。

『野田首相はTPPを解散・総選挙の焦点にしようとしている。

筆者は何故このような選択の余地がない事項が争点になるのか、さっぱり理解できない。(*1)

 そもそもTPPを自由貿易と考えるのが間違いだ。

自由貿易は普遍的原理だ。アジヤ太平洋地域のみ自由貿易を導入することは、

それ以外の地域に対して障壁を作ることに他ならない。

TPPは自由貿易の名をかたる保護主義で歴史的にはブロック経済と親和的な発想だ。(*2)

 TPPに反対する人々の議論は、

国際政治と安全保障の現実を無視するロマン主義のように筆者には見える。

現在、国際秩序は帝国主義的な転換を遂げつつある。

急速に経済、軍事面で発展する中国が自己主張を強め、国際社会のゲームのルールを

一方的に変更しようとしている。尖閣諸島をめぐる日中関係の緊迫はその一例だ。(*3)

 中国の帝国主義的拡大を防ぐために、日本は米国との軍事同盟に加え、

TPPで軍事産業を含む経済的連携を米国、オーストラリヤと強化するというのがTPPの本質だ。

ロシヤが主導するユーラシヤ同盟も、TPPと協力関係をもつようになるだろう。

日本、米国、オーストラリヤは太平洋地域における広域帝国主義の枢軸国だ。

TPPに参加しないという選択肢はあらかじめ排除されている。(*4)』と言う。

 この小論、大事な論点を含んでいます。以下は、小生の考察です。



 (*1)私も野田首相がTPPを総選挙の焦点にするという理由がさっぱり分らない。

選挙の焦点にするには、TPPの実態をすべて国民に開示しなければならない。

現在、その内容がほとんで開示されていないのだ。

こういう中で選挙の焦点にしようがない。首相は何を考えているのだろう。

 (*2)私も同感です。

 (*3)補足が必要です。

米国がこの地域で、警察官の役目を果たそうとすると、米国は現在の軍事力を維持できなければならない。

そのためには、経済力が必要だが、その経済力が刻々と落ちている。

そこで、米国の経済にてこ入れが必要で、そのためにTPPが必要になっている。

下世話に言うと、米国に儲けさせるためにTPPが必要なのだ。

 (*4)この点には、小生反対です。TPPに参加しないという選択肢を、日本は検討すべきです。

つまり、日本の防衛を今後も従来どおり米国に頼ると、

実質的には、日本の防衛費が高くつくことになると思うからです。

いずれにしても、TPPは経済問題と言うよりは、防衛問題である点では、

筆者と小生の意見は一致しています。


現代(ヒュンダイ)がトヨタを越えるとき

2012-11-13 | 読書
『現代(ヒュンダイ)がトヨタを越えるとき』(小林・金著、ちくま新書、12年9月刊)という本を読みました。
 現役時代は自動車関連企業に勤めていたのですが、退職してからもう16年以上過ぎて、最近の自動車産業の状況はすっかり分らなくなっています。この本で、自動車の現状を知ろうと思いました。
 印象に残った記述は、以下です。
『韓国は日本のものづくりを後追いしているのではないか。・・表面的にいるとそう見えなくもないが、少し立ち入ってみると、いくつもの違いに気がつく。
 一つは、韓国の工場の方がはるかにコンピュータ化されていることである。同じシステムでも日本の工場の場合は、過去の成功体験から、まだアナログ色が色濃く残っている。・・・(例えば)韓国企業は世界各地の生産拠点を含む全生産拠点をビデオネットワークで結んでトラブルへの対応に備えている。
 1980年代後半から韓国政府やサムソンに代表される企業は、次世代の主要な産業はIT産業だと決断して、国家をあげてこの産業の育成に力を挙げた。台湾も同じだ。日本も気付かなかったわけではないが、韓国や台湾のほうがはるかに熱心だった。』
次に、
『ある研究会でわれわれは、報告を行った際、その会社の部長が発した最初の質問は「いつから現代自動車は日本企業への追随を止めたのか」というものだった。
確かに1960年代に現代自動車が産声をあげてから、現代自動車のみならず韓国自動車業界は、日本企業の支援を受けて発展してきた。だから、日本を手本に韓国企業が学習してきた、と考えるのはごく自然なことであろう。しかし、ある時点で韓国企業は、日本企業の生産システムを前提にしつつも独自の道を歩み始めたのである。
先の部長の「いつから現代自動車は日本企業への追随を止めたのか」という質問に答えるとしたら、「アジヤ通貨危機以後だ」と回答しよう。』

 『2009年、トヨタの渡辺社長は、「現代自動車の人気車である「ジェネシス」をリバースしてみたが、われわれはあの原価であれほどの品質の車を造ることは到底できない」と述べて、「これからは現代自動車がうちの最大のライバルになる」と述べたという。

 しかし現代自動車も多くの問題点を抱えている。・・・残酷なまでの部品企業に対する原価低減の要求とその見返りの少なさ。この点に関して、われわれはK氏から次のようなインタヴューの回答を得た。
問「現代自動車は原価低減の果実を部品企業に還元してくれるのですか?」
答「否です。一般に日本のトヨタであれば、原価低減の成果は、次の契約のとき考慮されてその成果が戻されます。それはトヨタの場合には比較的きちんとルール化されていますから、部品メーカーは安心して原価低減の提案をすることができます。現代の場合には一応そうしたルールはあるようですが、守られていません。結局は、現代がその利益の大半を吸収します。ですから有効な原価低減の提案は、現代にはせずに自社の中にしまいこみます。」』
 要するに、韓国企業は通貨危機後、グローバル化に徹した。雇用は非正規社員の賃金切り下げて人件費を下げ、下請け企業の収益を収奪し、利益の追求に専念している事例が縷々と語られる。そして・・・・
2010年、BRICs4カ国における販売シェアを見ると、GM,VWに続き現代が3位175万台(シェア6.5%)、5位がルノー・日産107万台(4%)、トヨタ6位105万台(3.9%)とこれから発展する新興国では、現代はトヨタを凌駕しているとか。ウオン安とFTAの波に乗って、輸出立国に邁進している(2010年の韓国の自動車産業輸出額は544億ドルで前年比46.5%増)。

 最後に筆者は『トヨタは、円高と内需の縮小のなかで、いかにグローバル経済に対応するかという点で、日本社会が当面している課題を全面的に体現しているし、現代は、また極度にグローバル対応を推し進めた韓国経済の長所と短所を体現しているといえる。したがって、トヨタは今後いかにグローバル経済に対応して自己変革できるかにその将来の浮沈の鍵が横たわっている・・現代の場合には韓国国民の犠牲をいかに減少して、財閥企業の収益を他の階層に分かち与えるか、が大きな鍵となろう。』と語る。
 私の考えるところでは、『現代は徹底的にグローバル化した企業になった。それに対しトヨタは日本の伝統社会のあり方を残しつつグローバル化に対応した。このことで、現代はトヨタとの差をつめつつある。しかし、現在のグローバル経済がどこまで続くか、米国経済やEU経済の現状を見るとき疑問であり、経済システムの変換がやってくるのでは、と思われる。そのとき、現代は再びトヨタに差をつけられるのではないだろうか。』
 そんなことを考えさせられた本でした。

開いた口がふさがらない!

2012-11-05 | 経済と世相
30日まで4~5日旅行に出かけていて、帰宅後、たまったメールや新聞類を見ていたら、とんでもない記事を見出した。
『復興予算で原発輸出調査』という29日中日朝刊の一面の記事です。
【東日本大震災の復興予算が被災地再建と関係ない事業に使われている問題で、2011年度第3次補正予算に盛り込まれた復興予算のうち5億円を、経済産業省がベトナムへの原発輸出に関する調査事業費として支出していたことが、本紙の取材で分った。海外の原発推進事業にまで流用されていたことで、復興予算の使途決定のずさんさが改めて浮き彫りになった。】
「開いた口がふさがらない!」話だ。
原発輸出の調査費を復興予算から計上するこは、被災者の心情を逆なですると、経産省のお役人は考えなかったであろうか!
最後に本件について中日春秋子のコメント。
http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2012103102000080.html



女医さんはマラソンランナー

2012-11-04 | マラソン
 「スポーツ医事相談」に出かけました。11月2日夜6時30分、会場は日本ガイシスポーツプラザです。 この診断、年1回、もう10年以上継続しています。
部屋に入ると、担当医の椅子に若い?女性が坐っていました。「女医さんは初めてだ!」。
 身体能力を測定してもらい、そのデータを基にスポーツ医と、スポーツ・アドバイザーからスポーツ実施のアドバイスを受けます。
相談室入り口で料金(¥500)を払い、問診表に記入して、開始を待ちます。最初に尿の検査。続いて身長・体重・血圧や肺活量の測定と進み、脚伸展パワーの測定です。
これは、シートベルトで体を座席に固定し、両足でペダルを蹴飛ばし、その時の力をワット数に換算して表示する検査です。結果は、421Wで、昨年(482W)より落ちている。
その後、ベッドに横たわり、心電図をとり、最後は自転車エルゴメーター。これは、自転車をこぎながら心電図をとり一定の時間間隔で血圧、脈拍を測るものです。脚にかかる負荷(ワット数で表示)は徐々に増加させていきます。
測定は、11分37秒、血圧が230に達した時点(最高負荷130W)で負荷終了、後3分間はダウンでペダルをゆっくり回して終了です。
女医さんと懇談しました。
「予測最大酸素摂取量が良いですね」。58.8ml/kg/min.(昨年52.9)でした。
この方、スポーツやって見える?と思いました。マラソンの能力を一番よく代表する指標なので、私が一番気にしている指標に、最初にふれました。今までの先生で、私が聞かないうちに、最大酸素摂取量に触れた先生はいなかった。
「負荷中の脈拍・血圧の反応良好。負荷終了後の脈拍・血圧の回復も正常です。昨年よりも改善傾向になっていますね。運動耐用能力は十分あります。」
との診断です。
次にスポーツ・アドバイザーとの面談。
「昨年度の体力が維持されています。・・体調の管理をしながら、運動内容を考慮し、安全に続けてください。」と言った後、「今日の女医さんは、“さくら道ウルトラマラソン”を32時間で完走された方です」
「えっ、そうなんですか!」と仰天した。
名古屋城から金澤兼六園までの250km、それも平坦なコースではない。中部山岳地帯を乗り越えての250kmだ。一見したところ、やさしい女性に見えて、年齢も私の孫娘にちかい?と思われるくらい(因みに診断書のサインをみたら、孫娘と同じ名前でした)、
まことに、人は見かけによらない。
 というわけで、今年のスポーツ医事診断を終えました。まだ一年くらいはマラソンが走れそうです。

平山美術館と富士五湖の旅

2012-11-03 | 旅行
気のあった友人3人と一緒に車の旅、甲州の「平山郁夫シルクロード美術館」と富士五湖に出かけました。10月29日、9時半に多治見駅表口に集合。直ぐ多治見ICから中央道にのりました。12時前に諏訪湖SA、湖面を眺めながら昼食休憩。その後、またドライブで1時前、小淵沢ICで高速を降りました。ここまで多治見から180km余です。
道の駅があったので、美術館までの道を聞き、くねくね曲がって美術館に着きました。美術館の道路標識が不備なのが残念です。
八ヶ岳南麓に04年、平山画伯夫人の平山美知子さんが開設した美術館です。
画伯がシルクロードで収集した美術品と画伯の作品を展示しています。
http://www.silkroad-museum.jp/message/index.html
 入館すると直ぐ、7世紀の中国仏像が目を惹きます。
「仏の道を求めて  回想 平山郁夫――前編――」と題する企画展をやっていました。
「平山郁夫は、シルクロードとその周辺の国々に140回を超える取材旅行を行い、創作活動続けた・・・・本展では、平山郁夫の画家としての軌跡を前編と後編に分けて紹介します。前編では画家の死後アトリエからから発見された膨大なスケッチや下図のなかから貴重な作品を中心に、幼少期から青年期を経てシルクロードと出会うまでの足跡を・・」
と言うことでした。
 平日でしたが、割と来館者が多く、平山夫人が自ら作品の説明などして見えました。

 2時間近く見学した後、再び車の旅。長坂ICで中央道に乗り、30分ほどで甲府南IC。R358に降りて一路南下。精進湖を経て4時ごろ本栖湖に到着しました。
 快晴です。Jさんが「こんなに富士が綺麗に見える日はめったにない。写真を撮りに行きましょう。千円札の写真を写した場所を紹介します」、というわけで、快晴の富士と本栖湖を撮りに行きました。 カメラを手にした観光客が大勢居ました。
写真を添付しますから、千円札の写真と比べてください。
 40分ほど景色を楽しんだ。標高が高い所為か少し寒くなったので、切り上げて今宵の宿「ペンシヨンもとす」にむかい、5時到着しました。
 ご夫婦二人だけで経営しているペンシヨンで、以前Jさんが泊まったことがあり、「サービスが良かったから富士五湖に行くなら此処に泊まろう」ということで、予約した宿です。
http://motosu.net/
 他に客はなく、我々だけで借りきりのようでした。
フロントで、露天風呂の予約を聞かれた。屋内の風呂でいいと言うと“ラジウムが入った温泉で、屋内とは泉質が違います”、と薦められたので“では直ぐ入ります”。
 確かに体の温まる露天風呂でした。
 牛フィレのステーキをメインにする夕食を甲州ワインとともに楽しみました。
夕食後は、カラオケを一時間ほど楽しんだあと、部屋で10時過ぎまで時事放談でした。
 
 明くる日は8時から窓から野鳥を眺めながらの朝食。リスもちらほらしていました。
 帰り時、ママさんが「写真をぶろぐに載せさせてください」と言うので、写真を撮ってもらう。
 (少し写真が小さいのですが、以下のサイトに載りました。「笑顔大好き10月30日」)
http://motosu.net/diary.html
そこで、「私もぶろぐ、公開していますからよろしければご覧ください」と「古稀の青春」を宣伝しておきました。

 天気予報では、午前は曇りとのことだったが、青空が出てきて富士の頂が見える。
まず、西湖に向かう。次に河口湖。富士山の写真を沢山写せました。河口湖では、「河口湖美術館」に立ち寄りました。ここは、富士山の写真や絵を集めた美術館ですが、この日は「現代日本画名品展」という企画展が、天童市(山形県)美術館から作品を借り受けて、展示されていました。
 見学後、喫茶室で湖面を眺めながら、珈琲を楽しみ、12時前に帰途につきました。

 富士五湖道に乗り、富士吉田ICから須走ICまで。さらに御殿場ICで東名に。直ぐ御殿場JCから新東名を走りました。
Sさんが「舗装材が違うから音が静かだ」と言う。水はけも良いので、ハネが上がらないそうです。
駿河湾sAで桜海老のかき揚げとソバの昼食を頂く。
浜松SAでSさんを降ろし、新東名は三ケ日まで、ジャンクションから東名。豊田が近づくと車が混んでくる。「第二東名はこの辺を先に造るべきだった」とJさん。確かに新東名は空いていた。
 名鉄小牧駅に4時に着き、今回の中部山岳を大きく回った4人旅は終了、解散しました。

おんたけ湖マラソン(2)

2012-11-02 | マラソン
 9時のスタート時間が来たので、選手の列に並ぶ。神主さんが来て、無事を祈念するお払い、祝詞を挙げる。「御嶽山の方向を向いてください。2拝2拍1拝をしてください」
帽子を取り、2回拝礼、2回かしわ手、1回拝礼した。
スターターは王滝村長。号砲が鳴った。男女577名のランナーがスタートした。曇ってはいるが雨はなかった。王滝川にそって4kmほど走ると、湖が左手に見えてくる。この湖は愛知用水の水源の池です。愛知用水50周年を記念してこのマラソン大会が昨年から始まった。7kmの手前まで来たとき、もう先頭ランアーが戻ってきた。何分かな?時計を短パンのポケットから出してみた。48分です。
実は、昨夜、同室のOさんが言った。「ストップウオッチは持たないほうがいい。年を取ったら、タイムを気にしない。走り出したら、ほぼ同じスピードのランナーがいるから彼についていけばいい。“5分で1km走らねば”、などと思ったらどうしても無理してしまう。」
 私も真似してみようと、スタートのボタンを押した後、ポケットにしまって走っていたのです。
 「1km7分のペースで走っているんだ」。牧尾ダムが折り返し点の手前で見えてきた。
折り返してからは、今のスピードを落とさないことだけ、心がけて粘った。
 18.5kmぐらいまで戻ってきたら、向こうから民宿で同室のSさんが歩いてきた。5km出場だからレースを終えて民宿に戻るところだ。「頑張って!」と激励してくれた。右手を振って挨拶。19km辺りでポツリポツリと雨が降り出した。ゴールの公園が見えてくる。公園の外側をぐるっと廻ってから公園に入るコースだ。公園に入っていくと、場内放送が、ゴールする一人ひとりのランナーの名前を読み上げて完走をたたえていた。第三コーナーを廻って最後の直線。「ゼッケン255、NOZUE SUSUMUさん、ゴールです」と放送。放送を聞いたのか、Kさんがゴールで迎えてくれた。
 ゴールの横手にパソコンとプリンターが置かれ、ランナーのゼッケンを見て完走証を印刷してくれた。「記録2時間34分29秒、418位」とプリントされていた。
着替えをして、靴下を脱ぐと、右足第二指に大きなマメが出来ていた。サービスのトン汁を頂く。
「バス停へ行くシャトルバスは1時に出ます」とKさんが言う。一緒に帰ることにした。
 1時、バスに乗ると、バス停まで10数分だったが、木曾福島行きのバスの出るのが2時半という。バス停のベンチにに腰を下ろしてKさんと雑談。
 「2時間半で完走できなければもう引退と思ってたんです」。と小生。
 「タイムは遅くても走れるうちは走ればいいでしょう」とKさん。
 「四捨五入すれば2時間半で走ったことになるから、もう一度走ることにします。それにしても遅くなりました。65歳までは2時間を切っていたのに。
 名城公園で、朝ジョギングしてると、若いジョガーが追い抜いて行くのですよ。そのスピードを見ると、そんなに早くないのですが、その早くないランナーにぐんぐん離されるので、自分がいかに遅いかわかります」
 
Sさんが来た。民宿で風呂を入浴してきたようだ。「6位に入賞した(60歳以上)」と言う。80歳を越えて元気なものだ。
「あなたの後、歩いているランナーが沢山来た」という。
「私が走り続けたランナーで一番遅かったの。私の後ろは、途中で歩いた選手と言うことです。」
2時半のバスで木曽福島に3時過ぎ着いたが、中津川行きは3時45分。標高が高い所為か寒い。お腹もすいたので、駅前の蕎麦屋に入って暖かいラーメンを食べた。
帰りもワンマンカーで、1時間余、中津川では直ぐ名古屋行きの快速に乗り換えできた。
6時、大曽根駅。ここでKさんと「またどこかで会いましょう」と別れ、6時半帰宅しました。

おんたけ湖マラソン(1)

2012-11-01 | マラソン
おんたけ湖ハーフマラソンを走りました。27日午後家を出て、中央線の大曽根駅から快速中津川行きに乗車、2時前に中津川。次の電車は2:32です。駅前の物産品売り場を冷やかして時間をつぶし、中津川発松本行きに乗りましたが、ワンマンカーです。木曽福島駅に着くまでの駅々は皆無人駅でした。
1時間5分で木曽福島。駅前から王滝行きのバスに。どこまで乗っても200円の町営バスでした。30分余で終点の王滝です。
駅前で「マラソン会場の松原公園はどちらへ行けばいいですか?」と聞くと、「歩くとかなりある。私も行くから乗せてあげる」と地元の人が軽四に載せてくれました。
松原公園の受付で、出場の手続きをして、「民宿ふるさとに予約したのだけど、どちらの方向?」と聞くと地図をくれて「この道を川沿いに行って赤い橋の手前」と教えてくれた。
歩き出したが、なかなか民宿に着かない。コンビニでもあったら、聞いてみようと思うがコンビニもない。5時を過ぎると「秋の陽はつるべ落とし」で暗くなってきて、心細くなった。「予約の電話で聞いたときは公園から直ぐだ、と言っていたが」。そうか!宿の人の「直ぐ」は車で直ぐだの意味だったと気付く。
3km以上歩いたと思うが、暗い中、前方に明かりのついた家が見えてきたので「あの家に入って聞いてみよう」と足を速めた、その家が目的の民宿だった。
風呂に入った後、受付で貰った選手名簿をチェック。
「ハーフでは多分小生が最高齢?」。ところが上には上がいる。78歳が二人いた。

4人の相部屋でした。三重県から来たOさん、東郷町からのMさん、お二人は68歳でハーフに挑戦。もう一人の人、浜松からのSさんは、80歳で5kmに出場とのこと。
4人の平均年齢は73歳。元気人たちだが、まぁ、80歳で国会に出てあわよくば総理をねらうという人もいる世だから、70台でマラソン挑戦は不思議でない。

Oさん、生まれは名古屋の北区だという。
「北区はどのあたり?」と聞くと「柳原」(私の家の近くだ)。「じゃぁ近くに昔、民成紡という会社の工場があったこと知ってる?」。「あぁ知ってる。あの辺でよく遊んだ」。
「その工場の跡地に40年前、高層住宅が建って、その住宅に私が住んでいます」。
Mさんが、「民成紡って豊田紡織じゃない?」と言う。よく知ってるな!まぁ68歳なら知ってて当然か。そのMさん、東海北陸自動車道の開通記念のフルマラソン(多分19年ほど前)で、美濃市から美並村まで往復マラソンを走ったという。「あのマラソンは酷かった!」、「42kmを走った後、ゴールから更衣場まで1km以上歩かされた!」と言う。
「あの時、私も走りました」と小生。
話が弾んだ夕べでした。

明くる28日、起床すると霧雨がふっている。天気予報は昼ごろから雨だったが・・
8時過ぎ宿を出る頃には雨は上がっていた。Oさんの車に乗せてもらい会場へ。真ん中の広場には薪が赤々と燃やされていた。標高が1000m近い。それにお天気が良くないので寒い。焚き火は有難かった。焚き火の近くで、見覚えのある人が来た。
万面に笑みを浮かべて「久しぶりだねぇ」と言う。名古屋北区のKさんだった。お互いハイタッチ!20年ぐらい前、長崎県の対馬マラソンを走りに行ったら、名簿を見て、「同じ北区の人がいる!」とゼッケン番号で探して声をかけて以来の付き合いだ。
最近、あまり大会に出場していないので、「ホントニ久しぶりだ!」
「今日はハーフ?」、「いや10kmです」。「もぅ77になった?」と聞くと「いや76だ」、「「じゃ、私と一緒だ」
白髭をたらしたゼッケン290番の選手が来た。290番は名簿では78歳だ。「ハーフの最高齢の方ですね」と声をかけたら「いや、名簿はミスプリント。68歳です」(続く)