古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

2015第一四半期私選10大ニュース

2015-03-31 | 経済と世相
2015第一四半期私撰10ダイニュースです。

1. 名大女子学生殺人事件
「殺してみたかった」というからただ唖然!
2. 白鵬34回V
 相撲はモンゴルの国技?
3. イスラム国で日本人2名殺害
アメリカ追随で日本もテロの対象に。
4. 原油の値下がり
それだけ輸入国の購買力が増加したわけだから、日本経済にとって神風。
5. スカイマーク破綻
アベノミカクスも内需企業には効果がなかった?
6. 西川農相辞任 
何人目かな?政治家にカネの問題はつきもの
7. 「昨年末の総選挙は違憲状態」判決相次ぐ。
選挙が違憲状態で、日本は民主国家なの?
8. GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)株式の運用比率を増加。
株式市場は官製相場?そうまでしないとアベノミクスは効果ありにならない。
9. 沖縄県が 辺野古工事停止命令、農相認めず 県は対抗措置検討
沖縄の究極の対抗措置は「日本から独立」
10. 箱根駅伝に青山大優勝
青山の優勝は驚き!ビッグニュースでした。


世界は分けても分からない

2015-03-30 | 読書
『世界は分けても分からない』(福岡伸一著、講談社現代新書、09年7月刊)という本を読みました。いや、実に面白い本でした。過去1年間に読んだ本の中で一番面白い。著者は、分子生物学者として著名な方ですが、分子生物学で近年判明した事々の中から興味深い話題を取り上げて雑誌「本」に08年6月から1年間連載したものをまとめた本です。どのように面白いか、その中の一つを紹介します。

 【誰が決めたのか、「臓器の移植に関する法律」は、脳死した者の身体は「死体」に含まれるとした。すなわち、脳死を人の死とすることが決められた。以来、10年以上が経過した。脳が死んでも末梢の臓器は生きている。いくつかの臓器がその動きを停止しても、個々の細胞はなお生きながらえる。しかし、人が決める人の死は、生物学的な死から離れて、どんどん前倒しされている。・・・本来、連続して推移する生命の時間をすっぱりと切断する。
 死の対称点は誕生である。人は一体いつ生まれるといえるだろうか。すべての細胞は細胞から生成するのだから、ここにも本来連続性のみが流れている。不連続面はどこにもない。精子は精原細胞が分裂して生成する。卵子は卵原細胞が分裂して生成する。細胞が生きているということからいえば卵子も精子も生きている。しかし、それはまだヒトではない。生物としての人の出発点は選ばれた卵子と精子が合体し、新たな発生のプログラムが開始されるとき、つまり受精卵が誕生したとき、と考えることには自然な納得がある。
しかし、この素朴な考え方はおそらく、近いうちに強力なロジックの前にたじろがざるを得ないだろう。
死の定義が素朴な問題ではなかったように、誕生の定義も全く素朴な問題ではない。今後、立ち上がってくるロジックは・・・
人の死を、脳の死ぬ時点に置くのならば、論理的な対称性と整合性から考えて、脳がその機能を開始する時点となる。つまり「脳始」である。脳始論に立てば、明らかに、受精卵はまだヒトではない。細胞分裂が進み、その中から神経系の初発段階が形成され始めるのは、受精後およそ20日前後のことである。脳の神経回路網が構築され、脳波が現れるのは、さらにずっと後、受精後24~27週のできごとである。いわゆる意識が――それがどのようなものかはあえて深入りしないけれど脳の活動の直接的な産物とするなら――、生まれるのはこのあとまもなくのことだろう。
(余談だが、年齢は満年齢よりも数えで数える方が合理的と私は考える。誕生時点で1年近い時間もう生きているからです。)
脳死がヒトの死を前倒ししたように。「脳始」は定義の仕方によりいくらでもヒトの生の出発点を先送りしうる。
しかし何故そんなことが必要なのか。それは脳死と臓器移植の関係と全く同じである。死んだと定義された身体から、まだ生きている細胞の塊を取り出したい。それと同じ動因が、ヒトの出発点近傍にも存立しうる。受精卵およびそれが細胞分裂してできる胚が、脳始以前の、まだヒトではないものと定義しうるのなら、それは単なる細胞の塊に過ぎないとみなしうる。そうなれば、胚を再生医療などの名目でいくらでも利用しうることになる。
私たちが信奉する最先端科学技術は、私たちの寿命を延ばしているのでは決してない
私たちの生命時間をその両側から切断して縮めているのである。】、
以上は生物にとって。時間の切れ目がないという話ですが、空間の切れ目も判定しがたい。(例えば鼻という臓器の範囲を決めることが難しい。臭覚の神経は脳にまで及んでいる。)「分けて分かろうとしても、そもそも分けられない」というのが書名の意味です。

 以前、友人と話していたとき、「君の本の内容紹介は、実に的確なので、紹介文だけで内容がわかってしまった気がして、その本を読む必要はもうないと思うよ」と言われました。
 この本だけは、入手して読まれて損はないと思いますよ。イチオシです。

小牧をウオーキング

2015-03-28 | 旅行
 3月27日、住宅のシニアクラブで、ウオーキングに出掛けました。行先は小牧城です。
9時半集合。男子3名、女子6名の9人が9時半出発、名城公園駅から地下鉄で平安通り乗り換え名鉄前小牧駅に10時20分着きました。
 駅前で出迎えてくれたのは、名古屋コーチンの像です。

名古屋コーチンは、名古屋でつくられたように思えますが、実は小牧の人が開発し、ここに「名古屋コーチン発祥の地」の記念碑があります。
駅前のきれいな大通りを北へ。西源寺という寺があった。ここで左折。
10日前に下見に来た。小牧城が見えるのでその方向にまっすぐ歩いたら登り道の偉く険しい道に入ってしまった。聞いてみると、南のアピタ側から登るのが大手筋だと言うので南に回り込むことにしたのです。
二筋で県道197号線(小牧・春日井)、右へ回るとメナード美術館があった。度々見に来たことがある。日本が名作展をやっていたが今日はパスした。
http://museum.menard.co.jp/
翁橋をわたると小牧城への入り口だ。道幅は広いが坂道だ。シニアにはきつい坂なので。ゆっくりゆっくり上る。
「Sさんが“きついからここで待ってるとといってるよ」
「お城から反対側に降りるから、ここには戻ってこないよ」
Sさんが来た
「大丈夫?」、「歩きます。木陰に入ってくると歩こうという気がおきてくる」
40分も歩くと、木陰に小牧城の天守が見えた。
 城は「小巻歴史館」になっていて、発掘された土器が陳列してあったり、小牧の歴史の説明が書いてある。4階は展望室になっていて周囲が遠くまでよく見える。
名古屋在住の実業家平松氏(故人)が私費を投じて建設し小牧市に寄贈したもの。鉄筋コンキウリート造、高さ19.3m、4Fの展望室は約14m、(標高100m)。設計は名工大の城戸久教授、昭和43年竣工。
小牧城というと、信長が岐阜に移る前に、美濃攻めの一時的拠点として作られたと考えられていたが、近年の発掘調査によると、石垣の規模は壮大で、とても一時的な構築ではなく、信長は小牧が交通の幼少であることから、本格的な城下町を構築する考えであったらしい・
4Fの展望室からはお天気が良かったので御嶽山がかすんで見られた。
帰りは北東の駐車場側、警察署前に降りることにする。途中タブの樹、この地にはあまりないが、なぜか小牧山には自生しているので「小牧の市の樹」に指定されている。




山麓は公園になっていて、梅がきれいだったが、桜はまだ蕾。桜樹の下に早くも花見の予約の札が置かれていた。
「4月5日、××社」」など
警察署前から北へ。200mほどで、割烹料理の店「錦」があった。みんなでランチを賞味した。

小一時間、おしゃべりと食事。
変えることにする。店の前の道を左に25分ほどで小牧駅に戻る。
名鉄、地下鉄で3時帰宅。隣の教会の桜が咲き誇り、春がすっかり住宅を覆いつくしていました。



名古屋証券取引所から講演会の案内が来た

2015-03-26 | 経済と世相
名古屋証券取引所から講演会の案内が来たので、24日午後、中電ホールに出掛けました。3時15分ごろ会場に着き、開会は3時半。テーマは3題、それぞれ40分で、最初は三菱東京UFJ証券のETFの説明でした。ETFと言うのを、私は不勉強でよくしらなかったのですが、Exchabge Traded Fundの略で、取引場に上場され売買できる投資信託のことで、個別銘柄と同じように、市場で売買されるのだそうです。日銀が何兆円か購入するとかでニュースの話題になりましたが、その実情は初めて聞きました。多くは、例えば日経ダウなどの株式指標に連動するように運用されるのだそうです。
今回、紹介されたETFは、「東海ETF」。東海4県(愛知、岐阜三重、静岡)に本社を置く企業50社を選んで投資している。東証、名証に上場しているとのことでした。
第二は、企業紹介で、豊橋の「サーラ住宅」(東証、名証2部)、注文住宅、分譲住宅のメーカーですが、「外断熱・二重通気工法」の住宅を開発したことに特徴のようです。
 配当政策は、安定配当として10円、または当期利益の30%のいずれか高い額を配当するという。
https://www.sala-house.co.jp/corporate/outline/index.html
 名古屋の住宅展示場に展示しているとのことでした。元勤務先が住宅展示場になっているので、一度見にいってみようかな、と思いました。
 3番目は、沢上投信の会長、沢上篤人氏
「最初に3つのことをお話しし、後の時間はご質問に答えたいと思います」
第一. 私は10数年、この名証の講演会に講師として招かれていますが、終始一貫“買ってください”と申し上げています。今回は特にそう考えます。その理由は株式の需給関係です。今まで個人投資家が買っていないといわれたのですが、その個人投資家の買いが出てきて、売りが少ない。そこに年金基金が株式のポートフォリオを10%から25%に引き上げ、公務員共済なども加わることになった。
第二. 私たちが投資していつ企業のほとんどは利益の7割を海外で得ています。少子高齢化が言われますが、世界では人口が増えています。毎日18万人が人口増加しています。人口が増えれば、必ず需要は増える。その需要増加に答えられるのは日本企業です。
第三. 財政状況、年間の予算が96兆円で税収は51~2兆円で、40兆円もの国債発行(借金)で賄っている。こんな状態がいつまでも続けられるはずがない。国債が暴落し金利が急上昇するときがくる。
しかし、その時にも我々の生活は(飲んだり食べたり出掛けたり)はある。その生活を賄う企業の経済活動は存在する。従って、それらの企業の株主になっていることが絶対安全だ。
質問:「投信の解約者はでていないか?」
「このところ1000億円解約で、頭を悩ませた。解約された方は長年持たれて儲けられているのですが、前述の状況で「継続されていれば儲かるのに」と残念です。
此処が問題と思いますね。買えば儲かると言われても、お金が必要になって売るときに儲かっているかどうか、買ったままで放置しておけるお金であれば、いつかは必ずもうかる。だから、株で儲けられるかどうかは個人の資金繰りと別に考えるわけにいかないということです。
解約者が多かったのは、十分値上がりしたと利益確定の解約だろう。直接株を買う個人投資家は出始めたが、投信を持っている人は今が限界と考えている?
それに講師の講演で。いよいよ判明したのは、国の財政状況と企業の収益状況のかい離です。
「GMに良いことはアメリカ(国家)に良いこと」との言葉は有名ですが、そうでない時代に来ていることを認識しなければならないと思いました。
以上、株式講演会を覘いた感想です。


お彼岸のウオーキング

2015-03-22 | 旅行
お彼岸の3月21日、気象台は「桜開花宣言」、私は駅ちかウーキングに参加しました。9時半、黒川駅の1番出口で地図を貰い歩き始める。北警察署南の交差点で階段を降りて川べりに出ると、散歩道が整備されています。御用水跡街園です。
御用水とは、江戸時代、庄内川の水を名古屋城に導入する水路として掘削された運河です。北東に200mほどで、元D社本社跡です。今は、住宅展示場に姿を変え、昔日の工場の面影はない。


すっかり暖かくなり、桜も咲き始めている。
「この道を歩いて通勤したのは、何年前かな」。昭和40年代の前半、春日井に住み、電車で上飯田駅。そこから会社まで歩いたのがこの道。こんなきれいな道でなかったが、40年以上前の話だ。瑠璃光橋で左へ折れ、辻町の羊神社に向かう。羊を祭神として祀る神社は、全国的に珍しく。ひつじ年の今年の元旦の新聞の話題になっていた。この辺りの地名「辻町」は「ひつじ」の「ひ」が落ちたものだという。

ご用水に戻ると、江戸時代の二本の松が残るという場所があった。

南に歩くと名鉄の上飯田駅。1丁目で東へ曲がり、山田通りへ。途中六所宮という神社があった。更に東へ行くと、駅ちかウオーキングでおなじみの金虎(きんとら)酒造。吟醸酒「名古屋城本丸御殿」と甘酒を試飲させてもらう。大通りを南へ、山田天満宮に参拝。

名鉄大曽根駅前に出て、OZモール(大曽根商店街)を歩いて大曽根南。名鉄瀬戸線沿いに西へ向かうと久国寺に出た。境内に岡本太郎設計の梵鐘があるというお寺です。

ここまで8km。西へ、41号線を横断して名城公園南にでた。ここで、愛知学院大学名城公園キャンパスへ行くと、本日の特別公開で大学のアガルスタワーに入り10階のホールから名古屋城の展望を楽しんだ。

大学を出て南に坂を上ると、名古屋城東門。ここが今日のウオーキングのゴール。12時半、3時間で10㎞強を歩いた。名古屋城以外は北区だから、北区の庄内川以南を大きく回ったことになる。市役所駅に行き地下鉄で帰宅しました。

国家から自立する住宅

2015-03-19 | 読書
 ウオーターブロックに組み付け用の凹凸をつけてウオーターブランチを作るという実験を隈さんは試みている(「小さな建築」)。国家から自立した住宅を狙うのである。
 20世紀のアメリカが「郊外住宅」を発明した。爆発する人口を処理する魔法の装置が「郊外」。「小さな住宅を建てれば幸せになりますよ」という悪魔のささやきで人々は狂ったように郊外住宅を建てはじめた。緑の芝生の上に、真っ白な「自分の城」を立てれば、人生のセキュリテイ。一生分の幸せを獲得できるように人々は錯覚した。
 アメリカ政府はこの「悪魔のささやき」を利用した。郊外に家を持つことで、一生の幸せを獲得できると信じた労働者のための「住宅ローン」というシステムを発明した。1937年に連邦住宅局が設立され、住宅ローン制度がスタートした。「悪魔のささき」は大成功を収めた。「小さな住宅」を手に入れるため、人々は必死に働きはじめた。「小さな住宅」は内需拡大の決定打であった。家の工事費のみならず、内装も家電も必要であった。「小さな住宅」から大都市に通うためには自動車を手に入れる必要があったし、大量のっガソリンも必要だった。「小さな住宅」はエネルギー的には少しも小さくなかった。『小さな住宅』を手に入れた人はささやかな「わが城」を手に入れて満足し、政治的にも保守化していった。まさにアメリカ政府にとって万々歳であった。「住宅ローン」によって、アメリカはヨーロッパを抜き去って、20世紀の覇権を手に入れたともいわれる。第一次大戦後のヨーロッパは「住宅ローン」の代わりに公営住宅を建設し戦後の住宅難を切り抜けようとした。労働者は安い家賃で良質の賃貸住宅を手に入れ働く意欲を失い、内装や家電にカネを使う意欲も盛り上がらなかった。
 20世紀の建築は国家によって用意された資源とエネルギーの大幹線(インフラへの依存を深めていくばかりだった。水は上水インフタから供給されて、下水インフラに排出されたし、電機は電線から供給された。そのようなインフラへの依存を通して、建築と言う存在自体が、国家に代表される上位システムへの依存を強めていった。建築は国家によってコントロールされるものだと、誰もが疑わなくなった。
20世紀以降の建築は、国家によって用意された資源とエネルギーの大幹線(インフラ)への依存を深めていくばかりであった。建築は国家によってコントロールされるものだと、誰も疑わなくなってしまった。
 東日本大震災は、そのようにして自立性を失った建築の脆弱さを、いたましいほどに露呈した。インフラから切断された時、年も建築も巨大なゴミと化した。国家によって与えられたエネルギーに依存していた我々の弱さをつきつけられた。数年ごとに首相が代わり、危機管理という発想すらなかったいい加減な国家に、われわれは声明を含むすべてをゆだねていたのである。
 もし建築が、生物と同じようにインフラから自由になれたとしたら、都市も街も集落も、今とは全く違う姿になりうるのではないか。
 ウオーターブランチは、そんな新しい建築をスタデイするための一つの実験である。たとえば普通の「大きな建築」は国家から供給される上水というインフラを使う。しかし「小さな建築」にもはや上水というインフラはいらない。雨水を溜め、それをウオータ^ブランチでできた壁の中を循環させればいい。
 生物が体を温め、冷やすときには、血管や毛細血管お流量のコントロールが行われるが、同じように、ウオーターブランチを使って、微妙な冷暖房が可能になる。日当たりのよい場所にウオーターブランチで貸与運津温水器を使う。
電気はどうか。ウオーターブランチ辞退光をとうかするから昼間証明は要らない。夜のため、手道の手回しがた簡易発電機を使って必要なだけ体を使って発電すればいい。
というのだが、まことに楽しい発想ではないだろうか。

小さな建築と建築の単位

2015-03-18 | 読書
『小さな建築』(岩波新書、隈研吾著、2013年1月)という面白い本を読みました。以下、同書からの面白い記事の紹介です。
「中銀マンション」という建物をご存知でしょうか。
新幹線で上京すると、東京駅に近づくと右手に銀座のこのビルが見えるようになりました。私の現役時代、出張のたびにこの建物が見えてくると「トーチャク!」と思ったものです。その意味で懐かしい建物、黒川紀章さんが設計したビルです。
この建築について、隈はこう語っていました。
【黒川は1959年にスタートしたメタボリズム運動のリーダーだった。メタボリズムとは新陳代謝のことで、建築もまた一度つくったら最後、古びて腐っていくだけの20世紀的あり方はとても不合理であり、生物のように新陳代謝を繰り返すことで、世の中の激しい変化に対応しようというのが、メタボリズムの基本思想であった。僕が小学生の時、黒川がテレビでメタボリズムについて語っていた姿が目に浮かぶ。彼は、コンクリートの建築をクレーンにつるした鉄球を使って解体する工事現場から、ヘルメットをかぶって颯爽とした姿で語りかけていた。
 黒川が新橋に設計し1972年に竣工した中銀(なかぎん)マンションは、大きな幹の周りに小さな居住用カプセルが無数にとりついたような構成で、時代の変化とともにカプセルだけを取り換えていけばいいというのが、黒川の提案だった。
ところが黒川の思いとは異なり、中銀マンションは一度もカプセルが取り換えられたことはなかった。カプセルそのものが時代遅れになるよりも、中心の太い幹自体の配管配線がダメになる方が早かった。小さいカプセルだけ交換すると黒川はいったが、あれだけの大きさのカプセルをクレーンで取り替えること自体、物理的・経済的に不可能であった。中銀マンションの終わり方は普通のコンクリート建築以上に惨めだった。
 生物学者の福岡伸一とメタボリズムについて話したことがあった。メタボリストたちが代謝の単位と設定したカプセル自体が、新陳代謝の単位としては大きすぎたというのが福岡の説である。カプセルの大きさは、生物で例えれば臓器程度で、臓器が具合悪くなったからと言って臓器を取り換える生物はいない。だから中銀マンションのカプセルは、一度も取り換えずに、朽ちるしかなかった。小さな細胞単位で、日々刻々と新陳代謝を行うことで、生物は環境に対応する。メタボリズムは臓器論、機械論時代のロジックから抜け出せず、「大きさ」に対するセンスが欠けていたという結論に福岡と僕は達した。
 中銀マンションのカプセルが一度も交換されなかったことについて、黒川は自分なりに思うところがあったかどうかどうかはわからない。1980年代以降、彼は建築の新陳代謝を唱えることはなくなり、生物らしさとは曲面形態だと論を展開していった。曲面曲線を多用したやわらかい建築が「生物の時代」の建築というわけだが、新築代謝を本気で唱えていたクレージーな黒川の方が、僕には面白い存在であった。】
「小さな建築」の意味と建築の単位について隈は、こうも述べている。
木造建築は、あらゆる意味において、木材と言う自然素材の制約下にあり、長さ3m前後以上のおのは手に入りにくい。自然という絶対条件が制約になっている。しかしその制約のおかげで、木造建築はヒューマンなスケールを獲得することができた。高さも二階建て以下に自動的に抑えられた。「小さな建築」しか建てられなかった。
 自然は建築を小さくし、人間の知能は建築を大きくしようとする。その自然という制約が、東京と言う都市を世界でもまれな美しい都市としていた。たぐいまれな高密度都市であるにもかかわらず、東京は木のおかげで、美しくあたたかく。やわらかった。木と言う制約が、この都市の美しい暮らしを支えていた。
 20世紀前半の世界はシステムを大きくすることに血眼になっていた。しかし20世紀後半、「大きなシステム」、「大きな建築」が人間を少しも幸せにしないことに人は気づき始めた。
 たとえば情報の世界において、60年代には、メインフレームと呼ばれる高価で大型のコンピュータを、複数の人で共有するのが一般的であった。1970年、「パソコンの父」と呼ばれるアラン・ケイが最初のパソコンと呼ばれる「ダイナブック」を開発、スチーブ・ジョブスはAppule1を販売し大成功、コンピュータを「大きな機械」から「小さな機械」へと完全に転換させた。空間において「小さな機械=小さな建築」とは何か。 大きな建築」をただ縮小しても「小さな建築」にはならない。
「小さな建築」とは「小さな単位」を見つけることだ。全体の小ささでなく、単位の小ささである。単位が大きすぎたり、重すぎると、人間の手に負えない。
 建築の単位の例を建築史に探すと煉瓦がある。 確かにレンガは体がハンドルしやすい大きさであった。しかし、自由に重さを変えられるレンガがあったらどんなに便利か、ある日、道路工事の現場のポリタンクを見てひらめいた。ポリタンクに水を出し入れして重さを調整すれば「重さの変わるレンガ」(ウオーターブロック)になる。
 日本の伝統的建築の基本も、「取り返しのつく」(やり直しができる)ジョイントシステムであった。釘や糊を使わず柱や梁などの部材と部材を組み合わせるジョイントシステムが、日本では高度に発達した。凸と凹を組み合わせたジョイントは印籠と呼ばれた。
 ウオーターブロックにこのジョイントシステムを加えたシステムが、2004年のパシフィコ横浜で登場した。更に2007年ミラノのサローネの仮設ブースにくみ上げられた。その後、ウオーターブロックは高知の山奥竜馬脱藩の街道沿いの檮原に出張し古民家のリフォームに使われた。ウオーターブロックに詰められた水は、檮原の人の自慢。なにしろ仁保日の清流四万十の源流なのだ。

「トヨタ生産方式の逆襲」

2015-03-11 | 読書
「トヨタ生産方式の逆襲」という本が文春新書から出ました。著者は鈴村尚久さん。著者の父・喜久雄氏(故人)は「トヨタ生産方式」の生みの親・大野耐一氏の右[実行部隊町]腕として知られた方です。「高名な鈴村さんのご子息がトヨタ方式をかたっているの?」、早速、本屋で購入してきました。鈴村さんは、トヨタ方式を社内だけでなく、協力企業などに指導する生産調査室主査を最後に定年退職、経営コンサルタントに転じ1999年に鬼籍に入った。
著者は語る。
【大野氏が工場視察をする際、勝手に同行したことが何度もあります。その時、生産ラインを診ては「わからん、わからん」と大きな声でくり返し言うのが口癖で、三河弁丸出しで部長や課長を質問攻めにしていました。
 この「わからん」がトヨタ方式の中では非常に意味のある言葉だと、後になって気づきました。
「どういう製品で、本当に必要なものものを必要なだけ作っているのか?
どのような作業をすればよいのか?
納期はいつか?
生産ラインの状況は正常なのか異常なのか?
これらは、誰が見ても一目瞭然でなければならない。】
[私は1976年にトヨタ自動車に入社し、経理部(工場原価仮担当)に配属されて以来、コンサルタントとして独立した今でもモノづくりの現場にかかわってきました。TPS(トヨタ方式)の歴史や本質については学んでいるつもりです。しかし、トヨタ生産方式という言葉を使うのは好きではありませんし使いたくありません。。何故かと言えば本来の定義が忘れられ、曲解、矮小化されて世間に伝えられているからです。たとえば「在庫を持たない『かんばん方式』という考え方自体が基本的に間違っていると思うからです。
 私は本書で、忘れられようとしているトヨタ生産方式の本質について語っていきたいと思います。】
「『トヨタ生産方式』=在庫を持たない」という先入観が世の中に広まっていることが、嫌いです。顧客のために適正在庫を持つべきです。】
【「かんばん方式」で肝心なことは、「引き取りかんばん」と「仕掛けかんばん」の組み合わせです。「引き取りかんばん」は工程間同士、あるいは企業間同士の情報のやり取りです。その情報に基づいて、各工程は、売れているモノだけを造れるように「仕掛けかんばん」を活用するのです。
一連の工程を川の流れにたとえると、上流部で様々な部材が組み合わされ、加工されることで製品となって、下流へと流れていきます。今、川の河口部分、つまりいちばん最後の工程は「売り場」です。部材なり製品なりという「モノ」が川の上流から河口部まで流れていく一方で、実はこの工程をさかのぼってくるものが生じます。「情報」です。
工場から製品が流れていくための仕組みと、その製品の流れを潤滑にするための情報が遡登っていく仕組み。二つが相互に補完するのが、本来の「かんばん方式」の姿です。】
【「後補充」と「ストア」を導入するもの造りが最も効力を発揮したのは、自動車や家電メーカーではなく、なんと「サラダづくり」の現場だった。
 ストアは4つつくりました。出荷場に材料を盛り付けて完成品にした「物流ストア」(盛り付けたポテトサラダ、卵サラダ、中華サラダなど)、その前工程に混ぜ合わせた半製品ストア(ポテトサラダ、卵サラダ、中華サラダなど)、さらにその前工程に「加工材料ストア」(ゆでたポテト、ゆでた卵、小さく切ったハマなど)、その前に「素材ストア」(ジャガイモ、卵など)を設置した。物流ストアの売れ行きに応じて前工程の各ストアは後工程引取りするのです。この方式でサラダの廃棄量はほぼゼロになりました。】
ホワイトカラーの生産性について、著者はこういう。
【「トヨタ生産方式」の対象は生産現場に限ったことではない。仕事の上流から下流の販売まで一貫した流れの中で仕事への取り組み方を見直したゆまぬ改革をしていくことです。
「お前なぁ、営業と言うのは電離層だぞ」父紀久男の口癖でした。「電離層」とは、ご存じのとおり、地球の大気の上の方でプラズマ状態になっている部分で。遠い海外のラジオ放送が受診できるのは、電波が電離層で何度も跳ね返されて進んでいくからです。父が言わんとしたことは、営業部門が工場と顧客の間に立ちはだかる「情報遮断装置」として悪さをしているというという意味です。
工場と顧客が情報を直接やり取りして話し合えば。解決できるのに、営業がそれを遮断する「電離層」になっているケースがあるというのです。】
【その発注は生産指示か、納入指示か・
モノには汎用品と線用品がある。汎用品とは、メーカーが自分のリスクで在庫を持っている製品のことです(汎用品に生産指示はない)。
私の提案です。納入までに時間がかかる専用品扱いの商品を汎用品同様に即納できる体制を築くことです。
「生産指示」により取引先の下請け協力企業に一定量の生産をさせて在庫を保有してもらい、そこに「納入指示」をかけて必要量を引き取る
以上を読んで、私の所感です。
確かに、トヨタ方式の本質を和あり易く説明しています。トヨタ方式は広義では、設計から製造。販売、使用、廃却に至るすべての工程を合理的に改善するものですが、狭義には「平準化生産を適用することでリードタイム(生産期間)を最小化する仕組みと考えています。このことを理論にこだわらず、豊富な事例でよく説明した本です。
「トヨタ方式」は、「矮小化されている」の言葉に著者の本質へのこだわりを感じました。
「トヨタ生産方式の逆襲」の「逆襲」は矮小化された「トヨタ生産方式」への「逆襲」の意味でしょうか。

女子マラソンの一日

2015-03-09 | マラソン
名古屋の春はウィメンズ・マラソンから始まります。3月8日の、今年初の駅ちかウオーキングは、マラソンを応援するウオーキングでした。9時35分、地下鉄吹上駅の受付で地図を貰い6番出口を出ると、今池――桜山の大通りは、向かい側の南行車線がランナーでいっぱい、マラソンは9:10のスタートだからスタート25分。延々とランナーが続く。我々は北へ向かって歩く。間もなく堀田を折り返してトップ集団が来るだろうと、今池の地下鉄入り口で待った。先頭に黒人選手、一人はペースメーカー?

その後、内山町まで歩き、桜通りを左折。右手に走るランナーを見ながら歩く。今日のウオーキングはマラソン沿いだから信号はすべて青だ。布池で歩道橋を渡る。ここで一つミスをした。小川町で北へ折れて豊田佐助邸や文化の道穜木館を見学するのが正式ルーとでした。マラソンに見とれていてその左折点を見落として直進してしまったのです。久屋大通駅まで来て間違いに気づきました。佐助邸や文化の道穜木館は何度か言っているのでパスしてもいいのですが、地図を見ると、「高丘の早咲桜」や禅隆寺は見ておきたいと戻ることにしました。地下鉄で高丘町まで戻り、高丘から北へ。市内で一番早く桜が見られるという並木道を歩きました。まだ蕾ですね。

禅隆寺は、元和9年創建、禅宗の庭園「山水菩薩庭園」や徳川義直寄進の本尊釈迦如来がある。http://www.aruku88.net/tera/105higashiku/zenryuzi-iida/index.html
紅葉で有名なお寺です。



お寺を参拝後、桜通りに戻りました。ハーフのランナーが先頭はもう通り過ぎていました。地下鉄高岡駅から久屋大通駅まで戻って交差点でウオーキングコースに戻りました。呉服町で歩道橋を渡る。歩道橋の上からランナーを見る。これまた壮観です。


桜通りの南側を歩く。
女子学生が応援のパフォーマンスをしていた。

 伏見通りまで歩いて左折。ハーフは後1㎞でゴールだ。
 フルの中間点の標識がある。歩きだしているランナーもいる。中間点で歩き始めるのでは先が案じられるが、7時間の制限時間だから歩いてもゴールできるかな?ちょっと厳しいのでは。
ハーフのゴールの隣がウオーキングのゴール。完歩の証明印をもらう。12時20分。公園に腰を下ろし、ハーフの完走ランナーと並んで弁当を広げた。昼食を済ませて、地下鉄でなごやドーム、東カルポート(1Fがプール、3Fが図書館)に行く。図書館で雑誌に1.5時間ほど目を通す。その後、プールに行き、日課の水泳を1時間。泳ぎ終えて外に出たら4時だった。地下鉄駅までの通路は、超満員。走り終えたランナーが着替えをして戻ってくるのだ。制限の7時間をフルに使ったランナーたちだ。 精根尽き果てた表情の女の子が多い。「今日一日の貴女の完走への努力は。あなたの人生にきっと意義ある経験になるはずだ」と、心の中でつぶやいてねぎらう。
 帰宅後予約録画しておいた女子マラソンの放映を診ました。前田彩里日本人最高の2時間22分48秒で3位でした。







同級会の旅(2)

2015-03-04 | 旅行
2日目です。、
ロビーからは青空の下、伊良湖岬の景観が望まれ今日は良いお天気に恵まれたようです。
9時、ホテルのバスで港まで送ってもらう。
船着き場に行く前に「恋路が浜」に立ち寄り、運転手が観光解説をしてくれた。

近年になって、「恋路ヶ浜」などと命名されたものではなく、その名の歴史は古く江戸時代の1808年(文化5年)には和歌に 春さめにぬれてひろはんいらご崎 恋路ヶ浦の恋わすれ貝 などと歌われており、伝説では、その昔、高貴な身分の男女が許されぬ恋がゆえに都を追放されこの地に暮らした事にちなむという。ここは「ヤシの実」の舞台でもある。
柳田國男が1898年(明治31年)ここに遊び、拾った椰子の実の話を一緒に来られなかった島崎藤村にしたところ、それから藤村が想像を逞しくして創作したのが「椰子の実」(『落梅集』所収)とされる。
浜の中央に「日本の100選」に選定された記念モニュメントがあった。
10分ほどで、伊勢湾ファリーの船着き場に着く。マイカー持ち込み2名、その他10名で、10名以上で団体割引で1名1400円(150円の値引き)だった。
9時半出港。2階のロビーに上がり、缶ビールを傾ける。

出港すると、直ぐ神島が見える、三島由紀夫の小説の舞台になった島で「島は神島、昔は外観が亀に似ることから亀島と呼ばれました三重県鳥羽市の神島です」」ノアナウンス。もうここは鳥羽市なんだ!神島は地図でみても亀のような形だ。名古屋に住むようになってから60年だが、伊勢湾を船で渡るのは初めてである。
そういえば「Mの顔が見えないな」と聞くと「葬式ができたから早く帰ると、Nの車に同乗して朝豊橋に向かった」という。「そうか、それで、折角の機会に伊勢湾を渡りたいと、昨日船で来たわけか。それなら昨日のうちに言ってくれればよいのに」。
鳥羽港には10時25分着。
マイカーに全員は乗れないので、6人が電車で行くことにする。電車組は私が案内する音にして、港の前の近鉄「中之郷駅」に行く。
ホームには道路のスロープから登れたが、無人駅です。乗車票を各自、引き抜いて、下車時に改札係員に呈示し運賃を支払う仕組み。「五十鈴川環駅は5つ目の駅でした。ワンマンカーが10時53分に来た。
五十鈴川駅につき、駅前のタウシーに3名ずつ分乗内宮に向かいました。タクシーを降りると、丁度、愛カー組gぶらりぶりりとやってきました。宇治橋の前の鳥居をバックに記念撮影。

一同、宇治橋を渡り、内宮に参拝しました。



12時ごろ宇治橋に戻り、おかげ横丁で土産物を調達し、12時半再度集合し、「次回まで元気に生きていよう」とエールを交換し解散することにしました。
 電車組はまたタクシーで五十鈴川駅に戻り、遠くまで帰る人もいるから時間を節約しようと昼飯は電車内で駅弁を買おうと近鉄特急の名古屋行にのりましたが、これが誤算。この特急、社内販売がありませんでした。2時16分に名古屋駅に着いてから名古屋飯(「味噌カツ定食」)を味わうことになりました。
その後3時過ぎ解散し、無事に旅を終えました。