津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

説明資料として・・・・(2)

2013-10-31 07:22:04 | イベント

「肥藩落穂集=銀台遺事拾遺」には幾人もの人物が登場する。主だった人を眺めてみる。

■高瀬武昭
    肥藩落穂集の著者である。その序文によればこの著は武昭自身が、常に高瀬文平翁の膝下にあって聞いた事柄の記録であるとしている。
    源太と称していたらしいが、先祖附等で確認することはできない。一族に人であろうことは想像に難くない。
■高瀬文平
    六代の文平であろう。職禄千石・側用人。養子であり不破新右衛門昌命の二男である。生母は松野七蔵妹。
    肥後人名辞典は次のように紹介している。

    高瀬遊山 名は勝正、通称文平、晩に遊山と称す。藩に仕へ食禄百石、御付目付、郡代、御側取次組脇、用人等を勤む。頗る才気ありて一世に秀
           でたる人なりしが、後譴を蒙りて禄を褫はる。天保五年正月没す。享年八十七。墓は本妙寺中龍淵院。
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■宇土侯(月翁様)
    宇土支藩六代目藩主の細川興文公である。名君の誉れ高い方で、一時期幕閣に登用する動きがあったらしい。
    重賢公と時代を同じくする方であり、立場としては微妙であったろう。自ら身を引かれたのか・・・・
    しかしながら重賢公との仲は良かったらしく、その情景をみる一文が載せられている。
    あの球磨川改修の立役者・稲津彌右衛門をたたえる唄「稲津彌右衛門様は佛か神か、死ぬる命を助けさす」を月翁公が歌われたというのである。
    いかにも重賢公らしいのは「様」をつけるのは如何かといわれたそうだが、「様」をつけないと歌いにくいといわれ大笑いされたという。

    重賢公の継嗣・治年公の室が興文公女・埴姫(遥臺院)であり、その跡をついだのは興文公の嫡男・齊茲公(宇土家七代・立禮公)である。

■陸奥様
    人物の特定はできないが、伊達宗村公であろうと思われる。
    内容には触れないが、二人で馬に関しての話が及んだ時の逸話があった。
    宗村公は重賢公の兄・宗孝公とは相聟、共にその室は紀伊大納言家の姫様である。
    宗孝公が江戸城中で不慮の事件に遭遇された時、宗村公の機転を利かせた一言により、いち早く城中からお連れして藩邸に御身を移すことが出来た。
    また宗村公の御生母は公家・久我通誠の養女だとされるが、重賢公の正室・由婦姫(有隣院)は久我通兄女である。
    通兄は通誠の孫・父は右大臣久我惟通。母は細川綱利(重賢の祖父)の養女(細川利重の娘)であり、久我家を通じてもごく近い関係があり、親しい交友があったのだろう。

秋山儀右衛門
    藩校時習館設の初代教授である。ここで取り上げられている、「爾(汝)は国家の大工とのしゃか(大工殿じゃが)、外に頼む事とてはなし、我がまつほりの若き者共
    導きくれるには(後略)」の逸話はつとに有名な話である。

■蒲池喜左衛門
    宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門の元にあって、共に活躍した人物である。のち中老まで上り詰めた。

    蒲池崑山 名は正定、通称喜左衛門、崑山と号す。人と為り厳正、人に異る志操あり、而して性遅鈍、少しも利発なる事なく、言語も即時に出兼る程の人なりしが、
    器識ありて大事を処するの才あり、奉行職となり、後には大奉行を兼ね政務の難局に當り、即座に決し難き事は一夜思案して翌日出仕して陳述するに、必ず奇
    計妙策にして同僚同意心服せざる事なしと云ふ。時に三間梯子の称あり、尢名誉ある人なり。
    食禄九百石、宝暦改正に力を致して功績大なり。寛政五年十二月十八日易簀、年六十六。墓は内坪井流長院。 

■その他藩士、岡田喜平・中西格助、内山又助・木原惣兵衛、鳥井銀平などの名前が登場している。名誉なことではある。
    
     

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川上哲治氏逝く

2013-10-30 18:14:38 | 徒然

川上哲治氏が亡くなられた。打撃の神様と呼ばれ、巨人軍の日本シリーズ九連覇の遺業を成し遂げた球史に残るスーパースターである。

この写真は細川護立侯の二女・寺島雅子様(徳川家当主・徳川恒孝氏夫人の母)の御著「梅鉢草--思いつくまま--」に掲載されている、昭和16年21歳の頃の写真である。
細川家で行われた園遊会に出席したときのものだとされる。左から吉原・楠そして川上氏である。

さかのぼって昭和12年の秋には、ピッチャー川上を擁する熊工は、第九回明治神宮体育大会で中京(中京商業か)と対戦して優勝している。
雅子様も応援に出かけられ、皆と一緒に「ぼした~、ぼした」の掛け声をあげて応援されたとある。その後細川家に関係者一同が参上したが、川上投手は肘を痛め治療の為出席しておらず、雅子様は少なからずがっかりされたようだ。

その後の活躍は余りにも有名であり、名選手は名監督となり名実ともに日本一の野球人として名を残された。
まさに熊本が生んだ偉人である。深く哀悼の意を表したい。合掌。 

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大分・竹田の岡城

2013-10-30 15:56:26 | 徒然

                                        西中仕切から見た石垣(春) 竹田市のサイトから

「春高楼の花の宴・・・」で始まる「荒城の月」は、作詞家の土井晩翠が仙台出身であり、作曲家の滝廉太郎が大分出身でさてその御城はどちらか・・・仙台の青葉城跡とも、大分県竹田氏市の岡城跡ともいうが、なんとも云い難いところではある。
竹田の岡城はまことに歌詞にぴったりの御城で、隣県の人間としてはなんとなく応援したくなる。
この岡城、竹田にあるからついつい竹田城と呼んでしまう。最近では朝来市の竹田城がつとに有名だが、岡城も中々の風情がある。
にょっきりと雲海に浮かぶ風景は展望する場所がないのかあまり報道もされないが、どなたか素晴らしい写真を撮って発表されないものかと期待している。

               岡城跡  http://www.city.taketa.oita.jp/okajou/walk/

もともとは大伴一族の志賀氏が築いた山城だが、文禄3年(1594)2月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が入部した。
面白いことに、朝来竹田城の斎村政広同様、慶長五年細川幽齋が籠城する田邊城を攻撃している。後、東軍に加担して明治に至った。
随分以前だが、ご厚誼をいただいている佐久間一族のご子孫の御話から、佐久間盛政のお墓が竹田市の英雄寺にあることを知った。
中川秀成室・虎姫が盛政女であることによる。その五男・内記が佐久間氏を名乗り現在に至っている。
盛政が朝鮮出兵の折持ち帰ったという「牡丹の花」が有名である。http://www.youtube.com/watch?v=BC7em0dTKGM

大分へ所用があって何度かでかけたが、通り道の竹田は通り過ぎてしまう。機会を経て「牡丹の花」を拝見したいものだと思っている。 

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説明資料として・・・・(1)

2013-10-29 10:56:18 | 徒然

 11月の史談会の資料として「肥藩落穂集」(33頁)の釈文のタイピングを終了した。後は配布資料としての体裁を整わせなければいけないが、これは二三日も有れば出来る事なので、先ずは一安心である。

処がこの内容を詳細に説明しようとなると、語句の説明など一苦労を要する。
この史料は「銀臺遺事拾遺」という別名がある。
先ずは「銀臺=ぎんだい」についてである。これは細川重賢公の尊称だが、細川家下屋敷が「銀臺」つまり「しろがねだい」にあったことによる。
代々の当主が住まいされたから一人重賢公をして「銀臺公」と申上げるのも不思議な話ではあるが、当時の幕閣や大名衆が「銀台の細川侯」と親しみをこめて呼ばれたのではなかろうか。
通称は「霊感公」、法名の霊感院殿中大夫前羽林次将兼越州太守徹岩宗印大居士による。中大夫(なかのだいふ)は従四位下の唐名、羽林次将(うりんじしょう)も同じく唐名で近衛権少将である。越州はもちろん官名越中守を表している。

ところでこの「銀臺」は「しろがねだい」と呼んでいるが、これについては作家・谷潤一郎の面白い話がある。
     作家今東光は、谷崎潤一郎と話していて、うっかり「芝のしろがね町の……」と発言したために、「芝はしろかね。白金と書いてしろかねと言うんだ」
    「牛込のはしろがね。白銀と書いてしろがねと発音するんだ。明治になってから、田舎っぺが東京へ来るようになって、地名の発音が次第に滅茶苦
     茶になってきたな」
しかし、もともとは「銀=しろがね」であったらしく、それが「白銀」になり「白金=しろかね」になったらしいが、本当の所はどうなのだろうか。 

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文章を読み進めていくうちに在ることを思いだした。
「被遊候(あそばされそうろう)」とある語句は、もともとは「被成候(なされそうろう)」としていたらしいが、重賢公就封後このように改める様公ご自身の指示があったとされる。
言葉には随分厳格なご性分らしく次のような一文がある。
「或時御取次に何某、御安否を奉伺由申上る時、御安否(あんぴ)とは安否(あんふ)とこそ云へき筈の字音なれ共と被仰き」とある。 

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54万石の太守なれども、「吾は弐拾万石の大名と思ふ故、其心得を次て諸事を取斗ふへし」と仰せられて、その生活ぶりは大変慎ましやかであったらしい。御部屋の敷居がさがって唐紙(襖)が倒れることが度々あったが、繕うことも許可されなかったというし、タタミも痛み老女が嘆くと「古いものはいかぬか、ならば古く奉公の其の方も捨てようか」と冗談を言われたという。
我々が幼いころ、敷居を踏むのは親の顔をふむようなものと教わり、特に人様の家にお邪魔した時には敷居や畳の縁は絶対踏まないようにと言われたものだ。                             

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「肥藩落穂集」は教訓めいた話が多く、川口恭子先生が「重賢公逸話」で取り上げられた「聞くままの記」の方が、ざっくばらんな逸話が多いような気がする。

                                              
                                    http://www.kumanichi-jb.co.jp/books/ind/new34.html

こちらは川口先生の、」NHKの古文書口座で史料に使われているというから、あまり踏み込まないようにしなければならない。
                                    http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_438081.html 

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失われる藩政時の姿

2013-10-29 08:46:06 | 熊本

ブログ「徒然なか話」の昨日の話に、「消えゆく城下町の面影」があった。黄色いラインが引かれているのが京町の大通り、かっての国道3号線である。
家老・小笠原民部の屋敷と勢屯は、現在の京陵中学・熊大付属中・小学校となっている。同じく家老の有吉家下屋敷は住宅地に成っているようだが、その裏手に堀の跡が残されていたのだそうだが、これが埋め立てられたという。埋め立て前に撮影された写真が往時を伝える貴重な記録となった。
勢屯には番所が設けられ、有吉・小笠原という有力家臣の屋敷を配して豊前街道の出入りを固めていたことが判る。
この絵図には、宇土小路(しゅうじ)、柳川小路等と記載されているし、俳優(コメディアン)財津一郎氏の生家などもみえて眺めているだけで楽しいものだ。 

 

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本結之事

2013-10-28 08:08:05 | 熊本

 前回、髻(もとどり)の事を書いたので、ついでながら元(本)結いの話、「番太日記」から御紹介する。

本ゆは享保の比まては皆肥前より来る、金平本結※程あり(※は長四角の形が書かれているが1.5㎜×3.0㎜程である)。十二通にて四文、是は子供の本ゆひなり。中本結はせし(世事)通也。きんか本ゆひ当時通用の本ゆひ程あり。然処に下職人町御鉄炮屋のとなりに勘七、市兵衛といふ人、となり同士本ゆひ仕出し大はん昌にて、夫より肥前よりは来らす。夫より又はしり屋敷に三軒本ゆひ出来る。極々職人ようしてはしり屋敷といふて大はん昌なり。山崎小路に久助とゆふ人の本ゆひは又はしり屋敷よりも極上也。山崎山東杢右衛門様御長屋に茂吉とゆふ人、是はきんか本結の上手なり。其比迄は本ゆひうりは細き皮子に入、本ゆひははかり売に出る也。宝暦の中比よりちくご柳川本結多く来り殊の外よりしきゆへ、地本結買ひ人もなくおとろへ申候処に新一丁目生島屋庄助殿、柳河より本結作りを呼寄、彼方にて柳川同前に出来する故柳河よりきたらす御国計になる。新鳥屋町もとひ出来、此人壱人にて川尻より八代迄壱人にてうり申され候。今は中職人町布屋はん昌。

 

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変な欲望

2013-10-27 18:24:38 | 徒然

 先に全国のフアンに親しまれた大相撲の高見盛関が断髪した。大銀杏に鋏を入れるわけだが、いわゆる髷を切りおとす訳だ。きりりと結い上げられた大銀杏の根本で切る訳だから、切った後は相当短くなっているわけで整髪後もいささかその髪型が気になって仕様がない。

最近とみに実力を付け、人気者となりつつある遠藤は出世が早すぎて、髪が伸びずに斬ばら髪を鬢付け油でまとめているが、大銀杏を結えるのにはどのくらいかかるのだろうか。

こんなことを書いていると、映画「切腹」を思い出す。髷を切られた人物が髷が結えるようになるまで仮病を使う話があるが、相当長期間の重病という事に成る。
一度髷を切られた斬ばら状態がどの様になっているのかみてみたいという、変な欲望がある。 

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言葉に厳し

2013-10-27 08:50:17 | 徒然

 加藤清正の菩提寺・本妙寺の大本堂前から廟所までの間に胸付き雁木と呼ばれる急な石段がある。雁木とは階段の意である。
川口恭子氏の著書「重賢公逸話」を読んでいたら、次のような文章に出くわした。この話は、清成八十郎の「聞くまゝ乃記」からの引用である。
参勤の途中で、遥か向こうの山にお宮があるのにお気づきになり、「あれは如何なるお宮であるか」とお尋ねになったので「あの高い雁木のあるお宮でございますか」と申上げたところ、「このように石で付けた段は石段というのである。木で付けたのを雁木というのだぞ」と仰せられた。 

雁木とはぎざぎざの状態を云うのだそうだが、文字の中に木があるから、なるほど公が仰るのもよく判るが、そうなると地元・本妙寺の石段はどうなるのか・・・ 実はいろいろ調べてみても公が仰るような解釈に出くわさないのだ。さて如何に

 

史談会の資料にと思い読み下しをしている、「肥藩落穂集」にも重賢公の言葉に対する厳しさが伺える逸話があった。 
或時御取次に何某、御安否を奉伺由申上る時、御安否(あんぴ)とは安否(あんふ)とこそ云へき筈の字音なれ共と被仰き 

 

ん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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最近の関心事「川尻御船手」

2013-10-26 10:44:05 | 徒然

                                  

 熊本における御船手は川尻にあった。川尻御茶屋があり、奉行所があり、25万俵の米を集積する米蔵があった。
米の上げ下ろしをする船着きは現在でもその面影を残している。  http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=189

さて150艘ともいわれる召船や軍船などを含めた船の係留地や、船頭以下の人達の居住地はいったいどこだったのだろうか。

天正17年の加藤清正の天草(志岐)攻め、寛永15年の天草・島原の乱、正保4年の長崎ポルトガル船の入港警備など 膨大な人たち(10,000人~)がここから海路出陣していった。
熊本市中心部から国道3号線を南下、河尻地区を過ぎ富合に至るその間の杉島地区は緑川・加勢川の中瀬にあって、いまでこそいくつかの橋で繋がれていて気づかないが、地図で眺めると今でもまさに中瀬である。この区画に数百人の船頭衆や水主(加子)たちが住んでいたらしい。
川尻地区には御船手渡し、杉島地区へは杉島渡し、そして曹洞宗の古刹・大慈禅寺の近所に中之島渡しがあって行き来がなされていた。
ここから加勢川を上ると江津湖へ至る。緑川は甲佐・御船・砥用方面への軍事的・経済的に重要な水運水路であった。
二つの川が川尻で合流するとすぐに不知火海へとそそぐが、右岸側は旧天明町の川口・海路口(うじぐち)といかにも河口らしい町名が残されている。
対岸は宇土の走潟(はしりがた)・住吉地区で宇土細川家の領するところとなる。 

薩摩街道も富合地区で川に阻まれ、渡しを利用して肥後府中へ向かったという事だろう。

永青文庫には資料が多くあるのだろうが、意外と公になっているものが少ない。
どなたか調べられた方が居られないだろうかといろいろ調べているが、よく判らない。
御存知の方が居られたら、ご教示いただきたい。

夢に出てきそうな最近の関心事である。 

 

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天皇・皇后両陛下御来熊

2013-10-25 17:19:13 | 熊本

                                           

 明日から二泊三日のご予定で天皇・皇后両陛下が来熊される。27日水俣市で行われる「第33回全国豊かな海づくり大会」御臨席が主な目的である。
水俣病患者などとも御逢いになる御予定らしい。http://kumanichi.com/news/local/main/20131025002.shtml

きょうは午前中所用で市役所などに出かけたのだが、警察の物々しい車が何台も走っていた。台風27号の影響が心配されたが、昼過ぎには雨も上がり鉛色のどんよりした雲間から夕方には夕日が差すこともあった。明日は台風一過の秋晴れのよい天気に成る事であろう。
御来熊は14年ぶりだというが、よい旅であられることを念じてやまない。

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