津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

最近の関心事「川尻御船手」

2013-10-26 10:44:05 | 徒然

                                  

 熊本における御船手は川尻にあった。川尻御茶屋があり、奉行所があり、25万俵の米を集積する米蔵があった。
米の上げ下ろしをする船着きは現在でもその面影を残している。  http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?type=A&id=189

さて150艘ともいわれる召船や軍船などを含めた船の係留地や、船頭以下の人達の居住地はいったいどこだったのだろうか。

天正17年の加藤清正の天草(志岐)攻め、寛永15年の天草・島原の乱、正保4年の長崎ポルトガル船の入港警備など 膨大な人たち(10,000人~)がここから海路出陣していった。
熊本市中心部から国道3号線を南下、河尻地区を過ぎ富合に至るその間の杉島地区は緑川・加勢川の中瀬にあって、いまでこそいくつかの橋で繋がれていて気づかないが、地図で眺めると今でもまさに中瀬である。この区画に数百人の船頭衆や水主(加子)たちが住んでいたらしい。
川尻地区には御船手渡し、杉島地区へは杉島渡し、そして曹洞宗の古刹・大慈禅寺の近所に中之島渡しがあって行き来がなされていた。
ここから加勢川を上ると江津湖へ至る。緑川は甲佐・御船・砥用方面への軍事的・経済的に重要な水運水路であった。
二つの川が川尻で合流するとすぐに不知火海へとそそぐが、右岸側は旧天明町の川口・海路口(うじぐち)といかにも河口らしい町名が残されている。
対岸は宇土の走潟(はしりがた)・住吉地区で宇土細川家の領するところとなる。 

薩摩街道も富合地区で川に阻まれ、渡しを利用して肥後府中へ向かったという事だろう。

永青文庫には資料が多くあるのだろうが、意外と公になっているものが少ない。
どなたか調べられた方が居られないだろうかといろいろ調べているが、よく判らない。
御存知の方が居られたら、ご教示いただきたい。

夢に出てきそうな最近の関心事である。 

 

コメント
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