津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御恵贈御礼「急ぎ御文参らせ候」

2013-10-20 15:25:31 | 書籍・読書

 T様から御恵贈いただいた。感謝申し上げる。この本は黒田官兵衛を有岡城から助け出し、次男が官兵衛の養子と成った加藤重徳のご子孫が書かれた小説仕立ての内容である。来年は大河ドラマが「黒田官兵衛」で時を得た出版ともいえる。
正式な名前は「急ぎ御文参らせ候 寶樹院殿秘話哀話」だが、加藤重徳の室・寶樹院を語り部にして筋書きは進行していく。 

加藤家については重徳の妹が細川幽齋の側室だとする言い伝えがある。忠興母等の書き込みが見えるがこれは明らかな間違いなのだが、どうも避けて通れない、あまりにも細川家との関わりが見えるのである。

そんな加藤家のことをまさしく著者の自由奔放な着想で筆が進んでいるが、奇想天外でちょっと読むのに躊躇さえ感じている。
「小説として読む」割り切って読まなければならない。
 

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斎村政広

2013-10-20 07:46:18 | イベント

田邊城を攻めた武将の一人に赤松左兵衛がいる。メジャーな名前ではないと思っていたが、最近の思いがけない「竹田城ブーム」で城主様の名前も脚光を浴びるだろう。赤松左兵衛佐の名乗りで知られるが、齋村政広その人である。藤原 惺窩等との交流があるという文化人だから幽齋との交流もあったと思われるが、田邊城攻撃で相対した。のち東軍に寝返ったが罪を得て切腹させられている。

血統の上では赤松氏本流とされる政広だが、あのように優雅な竹田城に在って文化的交流を楽しみながら過ごしたいという願望があったであろうと思われるが、右か左かの選択を迫られる非常な時代に生きたことが不幸であったと言わざるを得ない。

田邊城攻撃に当たって政広の旗下にあった井門亀右衛門の働きは、籠城側の細川家からも認められるものであった。
政広の死後、細川家の誘いによって亀右衛門は召し出される。忠興の側近として重きをなし、宇土支藩が創立されたのち井門家は家老職を務めることに成る。

いま竹田城が「日本のマチュピチュ」などといわれて注目を浴びているが、誠に優雅な姿がいつまでも保たれるよう願わずにはいられない。

                     竹田城フォトギャラリー(朝来市)
 

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