津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「熊本・反乱の系譜」という本

2013-10-11 10:15:06 | 書籍・読書

 血圧のせいで余り気分良好とはいかないのだが、連日熊本市歴史文書資料室や熊本県立図書館に足を運んでいる。
あらかじめ見たい資料を書き出して出かけるのだが、的外れが多くてくさっている。必要な史料に出会えばデジカメ撮影する。最近はコピーをする元気がない故である。

本を借りるにも駐車場までの距離が結構あるので、最近は一二冊に留めているのだが昨日借りてきた本は「大当たり」だった。
1990年7月から二年ほど西日本新聞社の熊本総局長を勤めたという山本巌氏のブックレット「熊本・反乱の系譜」である。

                                              著者・山本巌氏
1941年生まれとあるから私より一年先輩に当たられる。
「モッコスの住む街で」では22編のエッセイ風の短文がある。あとは「神風連--反近代の源流を見る」「殉死--浪漫主義者・蓮田善明の死」「告発--近代市民社会への叛逆」など、それぞれ30頁ほどを使って、熊本の近代を「反乱の系譜」という概念でとらえている。
読んでいて大変心地がよい。一つだけ取り上げるとすれば・・・・

「告発--近代市民社会への叛逆」に於いては、水俣病が公害として認められた(昭和43年10月)直後の44年4月17日、渡辺京二が石牟礼道生(道子の長男)など三人がチッソ水俣工場の正門前で座り込みを初めたことが冒頭に書かれている。ここで、長くいまだに解決されない水俣病問題が緒に就いた。そして石牟礼道子「苦海浄土」が発刊された。私が渡辺氏を尊敬する所以は、口先ばかりのジャーナリストではない行動の人であったからである。以来現在にいたる渡辺氏と石牟礼氏の交友振りを紹介しながら水俣病問題に触れている。

                                         

これ等の事は著者・山本巌氏が熊本県人ではなく客観的自由な立場で書かれたことが、心を動かされる要因に成っているようにかんじられる。
「熊本の言論人も頑張ってほしいものだ」 と申上げておきたい。

 

              (このブックレットを手元に置きたいと思い日本の古本屋で探してみたら一冊だけ確認できた。早速注文した) 

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第18回「草枕」国際俳句大会

2013-10-11 09:10:12 | イベント

                                                                                         http://kusamakura-haiku.jp/

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木下韡村、時習館教授拝命の事実なし

2013-10-11 07:22:10 | 史料




                       木下韡村御奉公之覚 (熊本県立図書館蔵・木下家文書所収)
 

 過日「木下韡村の生涯とその魅力」で触れた、韡村が嘉永六年に時習館の教授になったという下記の記述について検証したいと思い、いろんな文書をチェックしてみた。
                  嘉永六年(1853)六月 時習館教授拝命。官塾を構築する。世話係を拝命する 
 


        ■時習館教官名禄 全56頁 (熊本県立図書館蔵) 侯爵細川家編纂事務所用箋に「明治八年七月写 長瀬氏ヨリ借 武藤」 とある。
              (頭注・教授局詰) 嘉永二年訓導助勤当分被仰付、同四年本役被仰付候 

        ■木下韡村日記(熊本市歴史文書資料室蔵)
              ・嘉永二年十月廿五日       時習館助教被仰付候
              ・嘉永六年六月朔日御奉公覚  私儀時習館訓導被仰付候 

        ■木下韡村御奉公之覚 全10頁 (熊本県立図書館蔵・木下家文書) 上記写真4~5頁
              ・同(嘉永)二年十月時習館訓導助勤當分被仰付
              ・同四年三月訓導本役被仰付
              ・同六年二月助教と助両助教家塾生世話仕候

        ■先祖附
               (嘉永)元年十月講堂並居寮へ日々罷出、詩文の世話致會讀も相誘候様、・・・・・・・同年(嘉永二年)十月時習館訓導當分
               四年本役、・・・・・六年助教を助、両教家塾生之儀世話有之・・・・・・
               安政六年・・・・教授局へ相詰助教之助をも相勤候様被仰付置候處右勤稜御免

               慶應元年六月時習館訓導・・・・・ 


 これ等の資料からして嘉永六年に教授を拝命したという事実は認められない。これにて一件落着としたいところだが、木野主計氏の見解を伺いたいところである。

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