徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

秩父山中 花のあとさき

2017-01-22 21:09:14 | 歴史
 今から8年前放送されて感動した「秩父山中 花のあとさき」の後日談が放送される。見逃せない。

◆1月26日(木)午前9時00分(BSプレミアム)
        「プレミアムカフェ 秩父山中 花のあとさき~ムツばあさんのいない春~」


  20年間、山の畑に花を植え続けた故・小林公一、ムツさん夫妻と、二人の思いを受け継ぐ地元の人々の姿を描く

 8年前にアップしたブログ記事を再掲した。

「秩父山中 花のあとさき」2009年8月23日
 柔和な顔に深く刻まれたシワ。思わず心が暖かくなる。今年1月、84歳で亡くなったムツばあちゃんの生前の表情だ。
 先日、NHKで放送されたドキュメンタリー「秩父山中 花のあとさき」は、埼玉県秩父山中の急峻の地に畑を耕し、花を植え続けてきた小林ムツさんを追いかけ続けたシリーズの完結編だった。数年前、最初にこのドキュメンタリーを見た時はまだ、連れ合いの公一さんも健在だった。清冽な水を求めて、先祖が険しい山に分け入り、子々孫々までと願って労苦を厭わず築き上げた石垣の上に開かれた畑。二人はこの畑を守り続けてきた。しかし、2006年9月に公一さんに先立たれ、体力の限界も近いことを感じたムツさんは「畑が荒れ果てていくのはしのびない」と、畑に花を咲かせて山に返すことにした。まるで自分の身代わりにするように花ももの木を植えるムツさんの姿が心を打つ。ムツさんがいなくなった畑には、今年も同じように花が咲き誇っている。日本人とは?日本人の心とは?そんなことも考えさせられる素晴らしいドキュメンタリーだった。
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熊本城復旧工事への疑問

2017-01-21 20:54:20 | 熊本
 週に3、4回は熊本城・北十八間櫓の下を通る。今、石垣復旧工事の真っ最中。足を止めて工事の様子をしばらく眺めることもあるのだが、見る度に、これは大変な工事だという実感が湧いてくる。と同時に疑問も湧いてくる。ここは国指定重要文化財である。従って、引き続き重文指定を受けるためには、施工方法や使用石材などに制約があるという。よくテレビなどでも、崩落した石にナンバリングして、記録されている元の位置に戻さなければならないという話を聞く。実際、工事現場を見ていると、そんなことできるんだろうかという疑問が湧く。また、ただ積み直すだけでなく、次の地震に備える強化も考えなくてはならないだろうから簡単ではないだろう。そこでさらに疑問が湧く。重文再指定にこだわる必要があるのだろうかということだ。熊本城への観光客は、この部分は重文だ、この部分は重文ではないとか分けて見る人などいるのだろうか。一方では大天守にはエレベーターを、なんて話があるくらいだ。ここは一つ、重文再指定にはこだわらず、より安全で強固な石垣を築いていただいて、400年経てばまた重文だ、くらいの大らかな気持でやっていただいてもいいような気がする。


明治時代初期の熊本城・北十八間櫓
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彼女が眠る丘

2017-01-20 17:05:27 | 
 ちょうど10年前の正月、防府時代の同僚の年賀状に悲しい知らせが書かれていた。僕と机を並べていたOさんが、ひと月余り前に亡くなったという知らせだった。まだ48歳、夫と子どもを残し、あまりにも早過ぎる旅立ちだった。肺がんだったという。
 今から41年前の5月、僕は熊本から防府へ転勤し、そこで机を並べたのが高校を卒業したばかりの新入社員Oさんだった。まだ女子高生そのままの雰囲気で初々しかった。明るくて笑顔がチャーミングな娘だった。転勤したばかりで様子がわからない僕に、自分も入社したばかりなのに一生懸命サポートしようとする姿がいじらしかった。僕が東京へ転勤した後、しばらくして寿退社をしたという知らせを聞いた。ご主人も僕が知っている人で、子どももでき幸せな家庭を築いていると思っていた。
 知らせを受けた数ヶ月後、僕は防府へ墓参りに行った。周防灘を望む中浦湾を見下ろす小高い丘の上に彼女は眠っていた。28年ぶりの悲しい再会だった。五十路にもまだ届かぬ歳で愛する家族と別れなければならなかった胸中を察するにあまりあるものがあった。真新しいお墓に花を手向け手を合わせると、会社で机を並べていた頃の、愛らしい顔が微笑んだように思えた。遠くに佐波島がポツンと浮かんでいた。



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サラメシ ~働くオトナの昼ご飯~

2017-01-19 17:46:47 | 
 「ランチをのぞけば人生が見えてくる 働くオトナの昼ご飯それが“サラメシ”」
 これはNHK総合で放送されている、昼食をテーマにしたバラエティ番組「サラメシ」のキャッチコピーである。
 サラリーマンをやめてもう20年経ったが、この番組を見るとサラリーマン時代を思い出す。なかでも、昼食といえば東京勤務時代が一番思い出深い。地方勤務の時は選択肢はなく、だいたい社食を利用していた。東京本社は、東京駅の八重洲口にほど近い京橋1丁目にあり、周辺にはご飯を食べるところはいくらでもあったので、社食も含め、毎日どこで昼飯を食べるのかを選ぶのも楽しみの一つだった。
 ある時、たちの悪い風邪が長引いたことがある。食欲がなく、昼飯もあまり食べる気はしなかったのだが、何も食べないのも午後からの勤務に影響するので、思いついたのが八重洲地下街にあったマクドナルド。肉系はさけてフィレオフィッシュにした。もともと好きではあったが、食欲がなくても結構食べられたので、それから連日昼飯はマックのフィレオフィッシュ。そのうち体調も徐々に回復し、2週間ほど続いたフィレオフィッシュをやめた。だから僕のサラメシの一番の思い出はマックのフィレオフィッシュなのである。

▼くるみさんのサラメシ(特別編)
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姉と弟 10年経ったらこうなった・・・

2017-01-18 23:42:08 | 
 元旦に久留米の次男一家がやって来た。孫の姉弟は元気そのもの。姉のみわは今年中学2年になる。小さい頃からのバレエやクラブ活動に頑張っている。弟のてっぺいは今年10歳、小学4年生になる。産院を退院したのも束の間、新生児黄疸で逆戻りしたのがついこの前のことのようだ。二人ともこれから急激に心身ともに成長していくのだろう。爺婆から徐々に離れていくのはしかたないが、やはりちょっぴり寂しい。


生れて間もないてっぺいをあやす姉のみわ


今年の元日の姉と弟
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「春の小川」 と高野辰之のはなし。

2017-01-17 20:49:30 | 音楽芸能

成道寺川

 「春の小川」は大正元年(1912)尋常小学唱歌として発表された。作詞者の高野辰之は「おぼろ月夜」や「ふるさと」といった作品でも知られているが、当時、豊かな田園が広がっていた今の渋谷区代々木に住んでおり、よく散歩していた河骨川をモチーフにして「春の小川」を作詞したといわれる(諸説あり)。河骨川は渋谷川の支流で、6年ほど前放送された「ブラタモリ渋谷編」では、現在はそのほとんどが暗渠化された渋谷川の痕跡を辿っていたが、河骨川も同様、今は暗渠化され、歌が作られた当時の面影はない。

「春の小川」 作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一

【現代版】
1.春の小川は、さらさら行くよ。
  岸のすみれや、れんげの花に、
  すがたやさしく、色うつくしく
  咲けよ咲けよと、ささやきながら。

2.春の小川は、さらさら行くよ。
  えびやめだかや、小鮒の群れに、
  今日も一日ひなたでおよぎ、
  遊べ遊べと、ささやきながら。

【オリジナル版】
1.春の小川はさらさら流る。
  岸のすみれやれんげの花に、
  匂いめでたく、色うつくしく
  咲けよ咲けよと、ささやく如く。

2.春の小川はさらさら流る。
  蝦やめだかや小鮒の群に、
  今日も一日ひなたに出でて
  遊べ遊べと、ささやく如く。

3.春の小川はさらさら流る。
  歌の上手よ、いとしき子ども、
  声をそろえて小川の歌を
  歌え歌えと、ささやく如く。






▼水量豊かな川だった江戸時代の渋谷川の風景を描いた葛飾北斎の「富嶽三十六景・穏田の水車」


 また、高野辰之は日本の古典芸能や伝統芸能の研究者として、数多くの著書を残しているが、明治時代末期、福岡県瀬高町に伝わる「大江幸若舞」を訪ね、幸若舞が芸能史上特筆すべき古典芸能であることを広くPRしたことが、幸若舞を存続の危機から救い、今日も国内唯一この地に幸若舞が残った大きな要因といわれている。


※今年の幸若舞は・・・
2017年1月20日(金)
開会式:午前11時30分から
上 演:正午から
場 所:大江天満神社幸若舞堂(みやま市瀬高町大江)
    JR瀬高駅より徒歩20分
問い合わせ:みやま市教育委員会社会教育課
平日連絡先:0942(32)9183
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♪ 梅は咲いたか

2017-01-16 17:52:00 | 音楽芸能
 例年この時期になると、わが家の梅の木もつぼみをつけるのだが、今年はまだついていない。5年程前、同じように全然つぼみがつかず、花が咲かなかった年があったが、今年もやはり咲かない年なのだろうか。
 そんなわけで、今日近くの寺社の梅の木を見て回った。往生院や岩立天神の梅の木は一輪、二輪、三輪と数えるほどだが、可愛い花びらを開いていた。連日の冷え込みの中にも確実に春はやって来ているようだ。
 さて、この季節になると決まって聴きたくなるのが端唄の「梅は咲いたか」。それも歌詞ではなく伴奏の「ミミレミミミ ミファミファミミ」という旋律。もう6年ほど前になるが、熊本城本丸御殿の「春の宴」で、5、6本の三味線が、この旋律を繰り返す場面を間近で聴いていて鳥肌がたつような感動を覚えたことがある。それ以来、春の唄といえば「梅は咲いたか」にとどめを刺す。


往生院の境内に咲く白梅



2015年2月11日 高橋稲荷神社・初午大祭  ザ・わらべ
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2月4日は山鹿・日輪寺で「義士まつり」

2017-01-15 19:41:44 | 歴史
 先週の土曜時代劇「忠臣蔵の恋」(NHK総合)は、主君の仇討ちをなし遂げ、肥後熊本藩細川家に預けられていた十七人の赤穂浪士たちが幕府の命により切腹を遂げる話だった。赤穂浪士の実相をうかがい知る貴重な古文書「堀内伝右衛門覚書」を書き残した堀内伝右衛門も登場した。
 十七士の接待役だった伝右衛門は、義士たちを勇士と讃える藩主綱利公の意に従い、切腹までの50日間、義士たちを手厚くもてなし、心をかよわせ、義士からの聞き書きや書簡・詩歌を書き寄せた記録を残した。また伝右衛門は、義士たちの遺髪をもらい受け、郷里山鹿の堀内家の菩提寺・日輪寺に遺髪を葬り、義士たちの冥福を祈った。伝右衛門の死後も、彼の意を汲む人々に受け継がれ、義士たちを供養し続けてきた。戦後一時途絶えたものの、昭和41年に復活した「義士まつり」が毎年、義士たちの命日2月4日にしめやかに行われている。
 今年もその「義士まつり」が間もなくやって来る。


赤穂義士十七士の遺髪塔

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さぬきうどんが全国的な名物になったわけ

2017-01-14 21:23:20 | 
 今夜のブラタモリは、四国・香川県で、テーマは「さぬきうどん」。なぜ香川で独特のうどんが誕生して全国的な名物になったのか?それは香川県の地形や地質が大きく関わっていたことがよくわかった。その理由や歴史がわかると「博多うどん」信奉者のタモリさんも「さぬきうどん」に脱帽せざるをえなかったようだ。
 9年前、家内と二人で四国をドライブ旅行したが、この番組でも紹介されたように高松から「こんぴら街道」を通って「こんぴらさん参り」をしたことを思い出した。「こんぴらさん参り」が旅行のメインイベントだったが、旭社まで登ったところで二人で「やった~!」と喜んだのもつかの間、ちょうど出会った団体さんの案内人から、本宮はもっと上にあることを知らされる。あぶない、あぶない。森の石松と同じ過ちを犯すところだった。おかげで本宮まで登りきり、家内の厄除け祈願も無事にすませた。
 結局、「さぬきうどん」を食べたのはこんぴらさんの門前町で食べた一回きりだったのは残念。その「こんぴらさん」が次回のブラタモリのテーマ。



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歌会始

2017-01-13 17:52:11 | ニュース
 新春恒例の「歌会始」が、今日、皇居で行われた。
 今年の「歌会始」のお題は「野」だったが、天皇陛下を始め、皇族では皇太子妃雅子様と常陸宮妃華子様のお三方の歌に「那須野」が詠われていた。やはり那須御用邸でのご静養が印象深いのだろう。

★天皇陛下
 「邯鄲の 鳴く音聞かむと 那須の野に 集ひし夜を なつかしみ思ふ」

★皇太子妃雅子様
 「那須の野を 親子三人で 歩みつつ 吾子に教ふる 秋の花の名」

★常陸宮妃華子様
 「野を越えて 山道のぼり 見はるかす 那須野ヶ原に 霞たなびく」


 1983年3月から3年余り、僕は黒磯(現在の那須塩原市)に勤務したが、那須湯本の会社保養所管理も仕事の一つで、多い時は週3の頻度で那須湯本へ登った。那須御用邸は会社保養所からほど近い所にあり、もちろん入ることなどはできないが、とても身近に感じていた。保養所管理人の話では、昭和天皇はすぐそばまで散策して来られたことがあるという。
 今の季節はだいぶ雪も降り、那須街道も上の方はチェーン規制が行なわれていると思われるが、在勤時は湯本から少し登ったところにあったスキー場でスキーを楽しんだものだ。歌会始のニュースをテレビで見ながら、そんなことを懐かしく思い出していた。


那須御用邸(天皇陛下のお歌の季節はこんな感じ)


今の季節、那須山は雪に覆われている



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京都にありましたか! ~檜垣嫗像~

2017-01-12 20:21:41 | 歴史
 今朝の熊日新聞に極めて興味深い記事が掲載されていた。
 平安時代の閨秀歌人・檜垣自作の像「檜垣嫗像」が京都で見つかったというのだ。詳しいことは下の記事のとおりだが、本当にホンモノなのだろうか。
 この像について江戸中期に書かれた橘南谿の「西遊記」は読んだことがある。また少し時代を下って、江戸後期に村尾正靖が書いた「嘉陵紀行」の中にも同じ内容が書かれているが、どうも昔の紀行ものはいま一つ信用できない。内容はともかく、紀行文と言っても本当に現地に行ったのだろうか。ただの伝聞を書いているのではないだろうか。そんな気がするのである。
 それはさておき、もし、今回出てきた「檜垣嫗像」がホンモノだとすると、謎に包まれた檜垣嫗の実像が少しでもわかる手がかりになりはしないか、そんなことを期待するのである。





蓮台寺に安置されている檜垣嫗像の模作



後に檜垣嫗が草庵を結んだという岩戸山の麓・山下庵の跡(向う側に見えるのが雲厳禅寺)
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熊本城 と ザ・わらべ

2017-01-11 19:51:48 | 音楽芸能
 一昨日、熊本城二の丸広場で、はつ喜月若(くるみ)さんの成人式写真撮影の時、お母様が傷ついた天守閣の方を眺めながら「くるみは本当にいい時代に育った・・・」と、しみじみとおっしゃった。たしかにおっしゃるとおりで、ザ・わらべのリーダーとして活躍した約10年、熊本城は彼女と仲間たちにとっての大舞台でありOJTの場だった。熊本城は彼女たちにとっての学校だったと言っても過言ではない。もちろんそれはそういう場を提供し続けた中村花誠先生のご尽力によるものなのだが。
 ザ・わらべが初めて熊本城のイベントに登場したのは、足かけ3年にわたって繰り広げられた「熊本城築城400年祭」が終盤にさしかかった2008年1月のことである。「冬絵巻 迎春・華舞台」という舞台に登場している。さらに創作舞台「清正公 新春の言祝ぎ」では大勢のプロの役者などに混じって女芸人として登場した。この時、ザ・わらべの三人は小学5年と4年だった。
 そして、本格的に熊本城のイベントに登場し始めるのが2010年のこと。この年から本丸御殿がイベント会場として使用できることになり、「春の宴」や「秋夜の宴」などが頻繁に行われるようになった。そしてその多くでメインキャストとして成長していったのが、ザ・わらべだった。本丸御殿を始め、二の丸、奉行丸、竹の丸、そして城彩苑など城内の各所で踊りを披露した。
 2013年には舞踊団花童として法人化され、活躍の場も広がる一方だ。しかし、花童の骨格が形成されたのは熊本城内の各舞台で展開された花誠先生一流のOJTであることは間違いない。今、熊本城は熊本地震からの復旧・復興を目指してやっと踏み出したところだが、ザ・わらべが育ったような環境に戻るのはいったい何年先のことだろう。


▼2008年1月 二の丸「熊本城築城400年祭・創作舞台「清正公 新春の言祝ぎ」

※クリック拡大してご覧ください


▼2008年1月 奉行丸「熊本城築城400年祭「冬絵巻 迎春・華舞台」






▼2010年3月 長塀前「熊本城坪井川園遊会」
熊本市議会議員 田尻善裕先生よりお借りしました

▼2011年5月 本丸御殿「春の宴スペシャル」


▼2011年10月 竹の丸「くまもと秋のお城まつりオープニング」



▼2012年10月 奉行丸「秋夜の宴スペシャル」


▼2013年9月 本丸御殿「秋夜の宴」



▼2014年3月 二の丸「城下町くまもと時代絵巻エピローグ」



▼2015年3月 二の丸「くまもと春のお城まつり・くまもとをどり」







▼2012年3月 二の丸「くまもと春のお城まつり・くまもとをどり」


▼2012年5月 本丸御殿「春の宴千秋楽」
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月若さんの成人式

2017-01-09 17:25:32 | 友人・知人
 日本舞踊家・はつ喜月若(元花童くるみ)さんが成人式を迎えました。熊本市の式典に参加した後、熊本城二の丸広場でご家族揃っての記念撮影。お祖母様やご両親も、20年の時の流れの早さを感じながらも喜び一杯の表情を見せておられました。
 中村花誠先生に締めていただいたという「のし帯」が月若さんの美しさを一層際立たせていました。式典会場でも異彩を放っていたらしく、注目の的だったそうです。

 



▼花童卒業公演の月若さん
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東京オリンピックまであと3年・・・

2017-01-08 20:30:08 | スポーツ一般
 年が改まり、二度目の東京オリンピックまであと3年となった。
 下の文章は今から55年前、東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年に西日本新聞に掲載された記事である。
 読んでみると現在とはだいぶ様子が違うようにも見える。いや、根本的には変わっていないこともあるようだ。


 水連内部で最も影が薄いのが水球だ。24年ぶりにローマ・オリンピックのヒノキ舞台に出た日本水球はついに1勝もあげることができず、予選リーグで失格している。もちろん長い球歴をもつ欧米諸国との中で日本水球は当然といっていいほどの力の差かも知れないが、水連ではこの惨敗ぶりから東京大会は細々と6位入賞をめざして選手強化対策に真剣に取り組みはじめた。そのホコ先を向けられるのが、まず高校水球界だ。京都の鴨沂高校、熊本の済々黌。大げさにいえば、この両校は日本の高校水球を二分する名門だ。いってみれば、現在日本水球界の母体を形成しているといっても過言ではあるまい。なかでも九州随一の名門、肥後の済々黌の存在は貴重だ。
 肥後の空にくっきり浮かぶ熊本城を目前にあおぐ済々黌は創立80年。輝かしい歴史と伝統の刻みあとが柱一本、一本にさえ感じられる。校門を通って校舎のすぐ右手に古びたプールがある。オフシーズンのいまは、プールの水面も静かな休息を保っている。済々黌水球部が誕生したのは終戦後の昭和21年、その後幾多の名選手がこのプールから生まれたのだ。「古いプールですが、いろいろと思い出がありますね」と12年間水球一筋に生きてきた平田水球部長は語る。昭和29年、第2回アジア大会には名キーパーとうたわれた古賀選手(早大)と田代選手(早大)の二人が初めて済々黌出身として全国に名を連ねた。翌30年、香港遠征水球チームの主力水垣、田久保、井上、宮村、内田の日大勢はすべて済々黌OBで固めた。このころから〝水球の済々黌〟は文字通り日本水球界の焦点になってきた。32、33年のパリの国際学生大会、第3回アジア大会と済々黌OBの活躍はめざましく、ローマ・オリンピックには宮村(日大OB)藤本(日大)柴田(日大)の三人を送っている。そして昨年藤本、柴田が国際学生大会の選抜メンバーに加わった。
 しかし名門済々黌を語るにはなんといっても過去の輝かしい記録を忘れてはなるまい。高校水球界の二大タイトルといわれる日本高校選手権、国体夏季大会では昨年の全国制覇で通算4回準優勝5回、国体は昨年強敵鴨沂高に惜敗してタイトル独占はできなかったが、優勝1回、準優勝5回の金字塔を築いている。さらに末弘杯高校水球では13年連続優勝と済々黌の独壇場だ。現在、水連が大学、高校40人のオリンピック候補選手をあげているが、この中に済々黌水球部で育った選手が9人いる。なかでも全国4名の高校生の候補選手のうち、済々黌の村山憲三選手は注目されている。1㍍75、73キロの体格は理想的な選手だ。テクニックもスプリントのよくきいた泳ぎも高校生ばなれをしたうまさをもっている。
 「村山君は高校に入って初めてボールを握ったんだが、素質は十分ですね。いま高校界のNO1ではないんですか。テクニックはずば抜けてうまい。オリンピック選手には絶対になりますよ」と同部長は村山選手の大成に太鼓判を押している。この村山選手のほか、オリンピックの候補選手にはならなかったが、高校界のキーパーでピカ一といわれる入江、大型ではないが典型的なスプリンター桑山、来シーズン主力選手の抜けたあとチームのカナメになる堀、坂本、豊永は将来楽しめる選手。
 小堀流踏水術は〝水球済々黌〟の極意という。水球はまず体を浮かすために足の使い方が基礎になるが、これにはバタ足、巻き足の二つの方法がある。巻き足はいまも肥後に伝わる小堀流踏水術に通ずるわけだ。
 済々黌水球部の伝統を一口にいえば、猛練習以外になにもない。これがすべてだ。だからといってスパルタ教育ではない。いやむしろ部員が過去の輝かしい伝統を自覚、猛練習を当然なものとして受け取っている。そしてこの空気の中から名選手が育っていったわけだ。
 「選手は一年中休みなしです。シーズンオフになれば陸上トレーニングで体をつくるし、シーズンのフタがあけば毎日3時から4、5時間の練習です。昨年は11月下旬まで水に入っていました。ことしは早々阿蘇で強化合宿ですよ。練習で一番困るのは、九州に格好の相手がいないことですね。だから夏休みは東京で毎年、大学生相手の合宿です」と同部長はいう。また同水球部の矢賀コーチは「練習はきついのがあたりまえです。私は基礎が第一だと思う。だから済々黌の水球は基礎訓練といっていい。高度の技術は大学にまかせる。だからどんな技術でも受け入れられるだけの基礎が大事だ」と言葉を加えている。日本水球界の底辺をささえる済々黌水球部は大きく脈動している。



昭和36年(1961)の済々黌水球部。この年インターハイ優勝、国体準優勝
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芸者のはなし二つ。

2017-01-07 20:44:41 | 音楽芸能
 今日の「民謡魂 ふるさとの唄」(NHK総合)は鳥取県米子市から。この地方の民謡で最もなじみ深いのは「貝殻節」。それは80年代にNHKで放送された連続ドラマ「夢千代日記」の影響が大きい。このドラマで夢千代ら芸者たちが度々唄い舞う「貝殻節」が一躍全国的に知られる民謡となった。今日の「民謡魂」でもオープニングで唄われたが、偶然、NHKオンラインのサイトで、女優の秋吉久美子さんが、私の思い出番組として「夢千代日記」を紹介しているが、その中で「貝殻節」について「宴席で ♪やさほーえー♪ ってお囃子が耳に残る、貝殻節という山陰地方に伝わる民謡を吉永さんの夢千代と私の金魚と、中村久美さん演じる小夢とで踊るシーンがあるんですけど、なぜだか今もすごく覚えているんです。」と語っている。

 もう一つの話題はなんと“男芸者”つまり「幇間(ほうかん)」のはなし。これまた今日、NHK総合で放送された「目撃!日本列島・選 喜久次と辰次 ~岐阜 幇間物語~」に登場したのが、岐阜市の花柳界で、幇間を目指して修業中の辰次こと橋嶋直人さん22歳。管理栄養士を目指す大学3年生。
 実は熊本地震で大きな被害を受けた御船町の出身。岐阜でたった一人の幇間、喜久次さん46歳に昨年夏に弟子入りし、日本舞踊や三味線、鳴物、茶道など、幇間になるための芸や素養を学んでいる。男であることがハンディになるのが芸者の世界。厳しい世界に立ち向かう辰次さんの覚悟を見極めようとする喜久次さん。幇間の道を模索する師弟の姿を映し出す。はたして管理栄養士の道へ進むのか、それとも幇間の道へ進むのか、まもなく進路を決めなければならない辰次さん。そんな中、郷里熊本から辰次さんを女手一つで育てたお母さんが、幇間の仕事の現場を見にやってくる。
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