津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

遠坂越後、借米返済の顛末・・その他

2013-10-15 20:31:38 | 史料

 寛永八年十二月廿七日書状(細川家史料・四 p161)に次のようにある。忠利宛て三齋書状

    大局むすめニ、遠坂(越後)借米不残取立御やり候て請取給候、無残相済満足申候、
    彼女一世ノ身上すみ申候事 付、遠坂借状返シ申候事 

文章から取立は忠利が行ったことが判る。20石を借り、途中で7石を返し残りが168石在ったというが、「不残取立」とあるから、168石返済されたという事であろう。「四わり」とあるのは年利であろうが、とんでもない高利である。せいぜい六年ほどの間の事であろう。

一方この書状には次のようにも有る。
    飛鳥井殿(雅章)ニ御入候御姫之金小判貮千両、誰ニ成ともかし度由候、家中之者共
    ニ成とも御か
し候は、京にて渡可申候、利ハ惣様之借候なみたるへく候、御返事ニより、
    明日便宜在之間
可申遣事

この飛鳥井殿に嫁いだ御姫とは三齋の愛娘・万(烏丸)の姫であろう。貮千両とは驚きであるが、もともとは細川家から出たものであろう。
借金の取り立てをする一方で、貸金の斡旋をするというなかなかタフなご老人ではある。
もっとも春日局なども細川家での財産運用をたのみこんでいるから、貧乏所帯の細川家は狙い撃ちされているのかもしれない。 

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年未詳➜寛永八年

2013-10-15 14:14:19 | 史料

 これは年未詳とされる東大史料編纂所の、大日本近世史料「細川家史料七」に掲載されている史料である。
沢村大学及び遠坂越後が借金をし返済しないので三齋が中に入って返済交渉に乗り出している。
後記の遠坂越後については同様内容のものが、寛永八年九月廿三日の書状(細川家史料・911)に存在していた。

     我々御ち(乳母)大つほねむすめ一人小倉ニ居候、其ものニ大つほねはて候砌、銀子少残候を、彼
     むすめニ遣置候處、其銀子にて米をかい持申候を、遠坂越後借度由申ニ付、貮十石分四わりニかし
     候シ、其借状ニ、とゝこほり候ハゝ、公儀御借米之切手わけニいたし可返辨とかゝせ借状取置、其後
     度々申候へ共、一圓承引不申ニ付、野田小左衛門・豊岡甚丞を以越後へ届候へ共、一切無返辨、寛
     永三年之春たて物にて七石やう/\濟し、残ハ其まゝ在之手、寛永七年之暮まてニ残米百六十八石
     餘在之由候、加様之ふひんの、やう/\のたくはへをかり、高知行取身にて打なくり置候事、不届と存
     候、我々はて候跡ニは、中/\返申間敷候、左様ヘハ餘の不便さにて候間、當年皆済仕候様ニ被申
     付可給か、若又惣家中之きつかけニ成と被存、被申付にくゝ候ハゝ、其方ハ不存分にて可被居候、我
     々ゟ知行所へ人を遣、納とらせ可申候事
                           (後略)
          九月二十三日                               三齋
                                                    宗立(ローマ字印)
               越中殿
                  進之候

沢村大学にしろ遠坂越後にしろ、金銭感覚が欠落している。三齋の手をわずらわせてのようようの解決であるが、どうやら他にもこのような事例があるのだろうことが、文章の中に見え隠れしている。 

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