津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

松寿庵先生 第73講

2013-10-24 10:15:21 | 歴史
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大分合同新聞から

2013-10-23 15:02:55 | 新聞

 10月18日の熊本日日新聞夕刊に掲載された、大分合同新聞からの提供記事である。細川家の小倉藩時代の日帳に書かれた「葡萄酒」つくりの記事を元に、中津で新たなワインのブランドを立ち上げようという話である。
このことは2009年に永青文庫が日帳の中から発見された。私は2007年福岡県史・近世史料編「細川小倉藩」から該当資料を見つけ出してブログでご紹介した。(ちょっと鼻が高い)忠利公の時代まさか「葡萄酒作り」が行われていたことにびっくりしたのだが、それにもまして我が高祖父・上田久兵衛家の初代がこれに関わっていたことを知って驚いたことを思い出す。
時をへて新たな動きがあることは結構なことだし、これは出来上がったら是非とも買い求めたいものだ。

関係記事を再度ご紹介して置く。
          ・細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォー 
          ・memo上田久兵衛家初代周辺
          ・上田久兵衛家、初代の周辺(ニ)
          ・黄飯・鳥めし・ナンハン料理

              

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小倉(細川)藩人畜改帳について 他

2013-10-23 14:37:07 | 論考

小倉藩人畜改帳について

横井小楠の「開国論」と「尭舜三代の道」 - 大学院 | 人間文化創成科学 ..

横井小楠の教育・政治思想(荒川紘) - 愛知東邦大学


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剣術修行の旅日記

2013-10-22 12:55:25 | 書籍・読書
剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む (朝日選書)
 
                   朝日新聞出版

内容紹介

佐賀藩士、牟田文之助は23歳で鉄人流という二刀流の免許皆伝を授けられた剣士である。 
嘉永六年(1853)、24歳の文之助は藩から許可を得て、
2年間にわたる武者修行の旅に出て「諸国廻歴日録」という克明な日記を残す。
この日記を読むと、命がけの武者修行というイメージが覆される。

文之助は各地の藩校道場にこころよく受け入れられて思う存分稽古をし、
稽古後にはその地の藩士と酒を酌み交わし、名所旧跡や温泉にも案内される。
「修行人宿」と呼ばれる旅籠屋に頼めば、町の道場への稽古願いの取り次ぎもしてくれる──。
まるで、現在の運動部の遠征合宿のようだ。

江戸はもちろん、北は秋田から南は九州まで現在の31都府県を踏破した日記から江戸末期の世界がいきいきと蘇る。
千葉周作の玄武館、斎藤弥九郎の練兵館、桃井春蔵の士学館など、
有名道場に対する文之助の評価も必読。

【本書目次】
序 章 牟田文之助の出立
第一章 剣術の稽古の変遷と隆盛
第二章 武者修行の仕組みと手続き
第三章 出発から江戸到着まで
第四章 江戸での交友と体験
第五章 他藩士との旅
第六章 二度目の江戸
第七章 帰国の途へ
第八章 最後の旅
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肥藩落穂集

2013-10-22 08:16:12 | 熊本史談会

 史談会の11月例会で「肥藩落穂集」を取り上げようと思い釈文作りに取り掛かった。手本は上妻文庫である。
この「肥藩落穂集」は別名を「銀臺拾遺」という。つまりは銀台公(細川重賢公)の遺事を集めたものである。著者は高瀬武昭だが、編年は文化戊寅とあるが四月二十二日に改元された文政元年(1818)の事であろう。重賢公没(天明五年十月二十四日・1785)後33年が経過している。

肥後文献叢書(一)に「銀臺拾遺」の釈文が掲載されている。読みあわせをしてみると、随分と異同があることが判った。原本と写本の違いがあろうことは理解できるが、こんなに違っていていいのかと思わせるようなところがある。肥後文献叢書は脇に置き、読めない文字が出たときに見ることにした。

重賢公は名君と云われる方だから、「銀台遺事」「銀台附録」「銀台拾遺」をはじめとして、「聞くまゝの記」そのた多くの記録が残されている。
また、明治四十二年に宇野東風の手により発刊された「細川霊感公」は、これらの文書をベースにした集大成の本である。
「聞くまゝの記」は川口恭子氏の手により、著者・中山市之進の文章に解説を加えながら平易な文章で、重賢公の日常を紹介している。(2008・熊日新書)

約40ページに及ぶ上妻文庫のコピーとにらめっこしながら、約三週間で釈文のタイピングを含め資料作りを完成させなければならない。 

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肥後國天草郡中小西行長與力合戦覚書

2013-10-21 12:53:54 | 熊本史談会

       大矢野家文書から「肥後國天草郡中小西行長與力合戦覚書」

一天正十七年八月朔日、小西摂州行長居城繕普請
   之企ニ家来與力共普請役被申渡、天草郡五人之
   城主申分ニ、秀吉公薩广御進發之刻、筑前ノ
   国秋月江罷出降伏仕、御先手被仰付者、千臺川江
   船押入可忠勤仕旨望申ニ付、本領并一札下賜、
   羽柴陸奥守與力ニ被召加、今度并御先手之與力
   被仰付御朱印頭(頂)戴仕候、天下之御普請御
   陳之節順御下知候、今度之儀は可有御免之由ニ付
   摂州大立腹ニ而異儀様々成、就中志岐鱗泉短
   慮ニ乄テ物毎懸破之男子ニ而頻不受之、摂州

   秀吉公江訴之処、左様ニ六ケ敷好(奴)原可刎頭ヲ旨
   小西ニ被仰下、依之家臣伊地知文太輔為将、其勢
   三千引卒乄テ、九月廿二日志岐ミナト江船共ヲ押
   入ル、従志岐軍兵百五十余押向ケル、鉄炮放懸伊地
   知文大夫下知乄、敵者小勢ソ壱人茂不餘討捕ト
   船共一面ニ押付、陸ニ揚者敵敗散ス、各追往所ニ
   従り所々伏兵ヲ發攻、軍大将討死及敗北、京勢
   不案内ニ而難所江往ツマリ、石弓ニて打大勢討死ス、
   舩子雑人等船頭ハ舩ニ乗迯帰ル、敗軍ノ勢乗残ス
   舩少々有シニ大勢込乗押出所ニ、敵追来勝時聲ヲ

   揚鉄炮放懸者舩共不残乗沉(沈)悉死、志岐城南
   深山、西北侍町江續里其外海也、東深谷下ニ水流
   塀際岩ヲキハキタリ、行長大驚、軍兵不残討死、雑
   人迯帰ハ此度者自身可向ト軍勢ヲ被催シトナリ、
一熊本城主従加藤主計頭清正天草城主江同状
   通文ニ
     一書令啓達候、今度小西摂津守各意違之儀ニ付、既
     及大儀候、就中鱗泉短慮故歟尤各親縁之
     御中と謂雖一同之儀候、其分者乍一候歟、定可為
     一同之御所意候、我等儀以神和平之取噯可申心得ニ而、
     志岐江摂州渡海之節為後詰勢被差越候事
     御無用ニ存候、委細使者柏原左馬之介ニ申含候条
     被召出可有御聞候、猶期後音之時候、恐々謹言

                 加藤主計頭
           九月廿五日                   判
        大矢野民部太輔様 参

 

     貴書致拝見候、然者被仰下候意趣何茂得貴意
   存候、殊ニ柏原左馬之介方江被仰含候委細致承知候、尤
   後詰勢遣申間敷候、旁御梱情至難書中盡候、
     追々可得其意候、恐惶謹言

                 大矢野民部太輔

      九月廿五日            判

        加主計頭様
            貴報

 
   右之通従清正同文ニ而、天草伊豆守江使者近藤四郎左衛門、
   上津浦上総介方へ庄林隼人之介、栖本八郎方へ奥田
   九良右衛門、右三人之返書少々文之違有之候得共利以
   同断成ニ付夫々ニ不書付者也

一摂州催軍勢集、従清正為加勢佐々平左衛門
  為軍将其勢千五百手勢六千五百、都合八千之軍
   勢引卒テ、同十月十三日志岐之城江舩着、袋之津ゟ
   廿町計往通舩ヲ押付、袋之津之山ニ陳取同十八日迄
   五日對陳之處ニ、従り志岐ノ城人数百四五十計干瀉
   はまを寄来、摂州陳際ニテ悪口ヲ呼鉄炮打懸
   引退、一番木戸作右衛門懸摂州打出軍勢引卒乄
   追懸ル、敵難所帰相鉄炮放懸ケ廿壱人討伏
   各追詰十壱人木戸作右衛門ニ討捕ル、其侭摂州
   志岐城江押寄一息ニ可責崩諸軍勢ニ下知乄、
   竹束ヲ付懸来ニ鉄炮軍無謀所ニ、竹内吉兵衛敵
   六人軍数ケ所蒙疵あやうき処ニ、牢人水野六左衛門
   寄相敵ノ追退ケ竹内ヲ助ク、諸方ノ寄手責近
   所々従城中大筒放大石大木落懸寄手大勢
   敗残スル所ニ水野六左衛門為下知佐々平左衛門与ヲ
   一手、木戸作ヱ門一手、摂州一手三段ニ備立乄
   一里計本陳江繰引ス、小西毎度失利ヲ軍
   勢氣疲難儀ノ躰也依之和入暫合戦留ト也

一清正以摂州一手ヲ天草退治成間敷と、従熊本
   舩付川尻迄五十余町之所江軍勢壱万余引
   卒乄出張所ニ、行長飛脚到来乄及合戦難儀
   候間、可有助勢儀就往進、艮時ニ舩共押出
   寺田篠之助ヲ先舩ニ乗曖ニ渡海之也謂觸
   志岐ミなと江舩共押入十月廿九日志岐江着舩
  也、従城中摂州和平出入有り今清正為曖
  来給城中喜悦ヲ成侍十人計命出向、清正   
   志岐ニ押揚城下ニ火ヲ懸一無順ニ責懸ケ、城
   中手詰合戦ニ城下ヲ被焼陸雖難儀成と城ヲ堅固ニ
   持興、清正行長勢手うすしとて斎藤伊豆・
   堤権右衛門・熊野助兵衛ヲ相加へ、十月廿九日之夜ヨリ
   十一月四日迄昼夜竹束ヲ付寄責軍ス

一従り志岐忍者共帰来合戦躰注進ス、各和平
   通之事謀成ト、無他事憶、約ヲ偏ニ見継、
   勢發十一月三日愛岩江取揚、本道之
    左右ニ四陣張

一大矢野手軍兵左之一番備也、内ノ一岩屋
   五郎高正、二沛下源次郎直貞、三軍将
   原田六郎太郎種朝、其勢七百余三立
一栖本八郎手軍兵左之二番備也、内ノ一馬塲
   藤九郎重友、二古江四郎右衛門安守、三軍将
   栖本六之助武経、其勢六百三段立
一天草伊豆守手軍兵右ノ一番備也、内ノ一木山
   大膳勝正、二久玉久太郎守家、三軍将天草
   主水之助種方、其勢七百余三段立

一上津浦上総之佐手軍兵右ノ二番備也、内ノ一
   大浦彦太郎重常、二下津浦六兵衛景春、
   三軍将上津浦四郎種貞、其勢六百三段立

一清正後出之勢愛宕山之高山二一萬計二テ
   扣り、其人数九千五百也、先手岡田善右衛門
   軍勢三千、二陳加藤清兵衛弐千五百、此所難所ニ而
   助軍不成、谷ヲヘダテ岩瀧落来テ可越
   無便、依之搦手廻之所ニ夜明忍寄ベキ様ナク
   遠責ニ乄軍リ、五日夘ノ上刻ニ岡田善右衛門竹束
   付懸責軍、善右衛門三ヶ所手負あよ(や)うき所ニ
   岡田歟僕従伊藤次郎左衛門左之一備ニ懸向、
   主従十騎入乱軍悉討死ス、其上善右衛門
   伊藤小兵衛肩ニ懸ケ引退、従是先陳敗北乄
   本陳崩懸ル友崩ヲス、清正二陳ニ備立先陳江
   庄村隼人軍使遣候處ニ、一番手敗北ト見分乄
   本陳江来委曲申シヲ聞給、馬印ヲ立興扣
   賜所ニ及友崩踏留ニ者庄林隼人・森本儀大夫・
   柏原藤五郎・池田甚四郎・和田竹丸・佐藤
   彦市郎・水谷安之允・弓持善吉・馬印持乙若・
   草履取文吉・草履取壹人
   柏原若黨・大工甚吉壹人
   池田若黨
   大将共十四人扣賜所ニ
   右之分書付有之此先不相知

一肥後國天草郡中小西行長與力合戦覚書
   之終ニ、嗚呼哉謀言目下ニ乱ス直ヲ故家々之
   史書紀ヲ為ル以テ書鏡而己

   天正十八年庚寅年三月日 木山紹宅書之

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御恵贈御礼「急ぎ御文参らせ候」

2013-10-20 15:25:31 | 書籍・読書

 T様から御恵贈いただいた。感謝申し上げる。この本は黒田官兵衛を有岡城から助け出し、次男が官兵衛の養子と成った加藤重徳のご子孫が書かれた小説仕立ての内容である。来年は大河ドラマが「黒田官兵衛」で時を得た出版ともいえる。
正式な名前は「急ぎ御文参らせ候 寶樹院殿秘話哀話」だが、加藤重徳の室・寶樹院を語り部にして筋書きは進行していく。 

加藤家については重徳の妹が細川幽齋の側室だとする言い伝えがある。忠興母等の書き込みが見えるがこれは明らかな間違いなのだが、どうも避けて通れない、あまりにも細川家との関わりが見えるのである。

そんな加藤家のことをまさしく著者の自由奔放な着想で筆が進んでいるが、奇想天外でちょっと読むのに躊躇さえ感じている。
「小説として読む」割り切って読まなければならない。
 

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斎村政広

2013-10-20 07:46:18 | イベント

田邊城を攻めた武将の一人に赤松左兵衛がいる。メジャーな名前ではないと思っていたが、最近の思いがけない「竹田城ブーム」で城主様の名前も脚光を浴びるだろう。赤松左兵衛佐の名乗りで知られるが、齋村政広その人である。藤原 惺窩等との交流があるという文化人だから幽齋との交流もあったと思われるが、田邊城攻撃で相対した。のち東軍に寝返ったが罪を得て切腹させられている。

血統の上では赤松氏本流とされる政広だが、あのように優雅な竹田城に在って文化的交流を楽しみながら過ごしたいという願望があったであろうと思われるが、右か左かの選択を迫られる非常な時代に生きたことが不幸であったと言わざるを得ない。

田邊城攻撃に当たって政広の旗下にあった井門亀右衛門の働きは、籠城側の細川家からも認められるものであった。
政広の死後、細川家の誘いによって亀右衛門は召し出される。忠興の側近として重きをなし、宇土支藩が創立されたのち井門家は家老職を務めることに成る。

いま竹田城が「日本のマチュピチュ」などといわれて注目を浴びているが、誠に優雅な姿がいつまでも保たれるよう願わずにはいられない。

                     竹田城フォトギャラリー(朝来市)
 

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近世史料編・細川小倉藩

2013-10-19 21:37:49 | オークション

                              ■福岡県史 近世史料編 細川小倉藩1■平成2年

                                         ■福岡県史 近世史料編 細川小倉藩1■平成2年

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史談会10月例会

2013-10-19 19:42:05 | 熊本史談会

 本日は史談会10月例会、今回は志岐麟泉と小西・加藤連合とのいわゆる天草合戦を大矢野家文書から勉強する。
天草地方の歴史を考える時、必ず触れられるのがこの大矢野家文書である。
この文書を読んで強く感じるのが、「取噯」の文字の深い意味合いである。は「あつかい」と読むがではない。 
加藤清正は小西軍に任せていても戦が有利に展開出来ないことを感じ、志岐氏に対し「神を以て和平を取噯」として接近し騙し討ちにする。
の文字の持つ意味は「話し合いによる解決」である。歴史民俗用語辞典には「中世近世紛争解決のための仲裁調停。」とある。
仲を取り持つ人があっての、話し合いに期待をした志岐氏であったが、この言葉が謀であったことを知ると徹底抗戦をし小西・加藤連合に反抗する。
加藤清正も手痛い攻撃を受け、周囲に下人を含め僅か十四人となる危険な状態となった。
大矢野家文書は此処までのいきさつに詳しく触れて終わっているが、その後も戦いはつづき天草勢は降伏、小西に服従することに成る。

天草にかんたるキリシタン文化をもたらした人物こそ志岐氏であるが、この戦いを以てその名が消えることに成る。
同じ熊本であるが、現代の車社会における視点がどうしてもあり、熊本市内から2時間以上を必要とする距離をもって遠隔地と理解をしてしまうが、水運の発達していた当時では、平戸・長崎などはすごく近い距離である。キリシタン文化は海上路を伝搬して広がりを見せた。

一日良い勉強ができたと充実感に満ちた一日となった。 



 

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去ん候

2013-10-18 15:15:45 | 徒然

                                   wikipediaから
 肥後六花で有名な「肥後菊」も今頃が見ごろであろうか。

 漱石の俳句に 去ん候これは名もなき菊づくり がある。
どういうスチレーションでこの句が出来たのか知らないが、いかにも謡曲好きの漱石の句である。
「去ん候」とは、「かしこまって肯定の返答をするときに用いる」とされる言葉だが、半藤一利氏は「大した者ではありませんと卑下している」と解説している。

重賢公の時代ある医者が父親が見事に仕立てた菊の花を献上した。公は喜んでこれを受けられたが、「菊を仕立てるには大変手が懸るときくが、こんなに立派に仕立てるには、相当手が懸ったことだろう」と言われ、「そんなことばかりしていると、医者の腕は下手だろう」と言われたという。面目を失ったことは間違いない。


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レファレンス「希首座」

2013-10-18 13:28:11 | 保存

 今日図書館に出かけた折、カウンタに在ったレファレンス「希首座(きしゅそ)」をいただいてきた。
こういう事に興味を以て尋ねられる方が居られるし、ちゃんと回答がなされていることに嬉しくなった。
大方の事は承知しているが、「大坂プロレス所属の政宗の技「希首座」は、この悲劇を名の由来にしています」という説明には驚いてしまった。
世の中いろいろある。 

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お安く読む・幻冬舎新書「旧かなづかひで書く日本語」

2013-10-17 12:58:33 | 書籍・読書

 


      旧かなづかひで書く日本語 (幻冬舎新書)
 
              幻冬舎


内容(「BOOK」データベースより)
私たちが日頃使う「新かなづかい」は、ほんの六十年ほど前に制定されました。それまで日本人に使われてきたのは「旧かなづかい」。歴史の中で長い時間をかけて洗練された旧かなは、合理的で美しい。また語源や意味も正確に伝わり、実は新かなよりはるかに使い勝手がいい表記法です。「このあひだはありがたう」「では七時に会ひませう」「きのふから雨が降つてゐる」―ふだんの手紙や日記を旧かなで書いて、あなたも日本語の美しさを味わってみませんか。言葉が心にしみ入ります。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
萩野/貞樹
昭和14年秋田県生まれ。一橋大学卒業。元産能大学教授。専門の国語学のほか、和歌論、神話論、日本語系統論など幅広い分野で執筆活動を行う。敬語の用法を独自の視点で分析した「ハギノ式敬語論」は、「正しい敬語がすぐ使えるようになる」と高く評価されている。
 
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徒然草第百八十九段

2013-10-17 07:50:24 | 徒然

 なんとなくあわただしく過ごして、今日一日何をしていたのだろうとふと思う事がある。
実は何の成果もなく過ごすことが多くなってきて、余生を考えると2020年一区切りと考えているスケジュールさえ達成できるのかしらと不安に成ったりする。
徒然草をよんでいたら189段がふと目に飛び込んできた。 

                   今日はそのことをなさむと思へど、あらぬいそぎ先づ出て来てまぎれくらし、待つ人はさはりありて、
                   たのめぬ人は来り、たのみたる方のことはたがひて、思ひよらぬ道ばかりはかなひぬ。わづらはし
                   かりつることはことなくて、やすかるべきことは、いと心ぐるし。日々に過ぎ行くさま、かねて思ひつ
                                  る
には似ず。一年の中もかくの如し。一生の間も、またしかり。 

                   今日こそそのことをしようと思っていても 、意外な急用がまず出て来て、取り紛れて暮らし、こちらが待っている人にも差支えが
                        できて、こちらが當てにしない人がやって来たり、期待していたことははづれて、思ひもよらないことばかりがうまく行ってしまふ。
                        めんどうだと考へていたことはすらすらと運んで、容易に行くはずだと思っていたことが案外に心を苦しめる。日々経過して行くさ
                        まは、予期していたこととは似
もつかない。一年中のこともこれと同様だし、一生涯もまた同じことだ。


 まことにその通りである。そのようにして時は流れ、齢を重ねていくのだろう。いつの時代にも思いは同じであることが面白い。 

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群読能劇「草枕賛歌」

2013-10-16 12:43:38 | 熊本

 肥後金春流中村家の当主・中村勝氏が構成された「群読能劇--草枕賛歌」が、夏目漱石生誕150年を記念してのプレイベントとして公演される。わずか40名ばかりが入れる小さなギャラリーでの初演である。

群読能劇とは聞きなれない言葉だがこれは中村氏の造語であろう。 「群読」とは提唱した木下順二氏の言葉を借りれば、”複数の読み手による朗読”(「古典を訳す」福音館書店)と定義する。群読能劇とあるから能とクロスオーバーしたものなのであろう。
主題を夏目漱石の「草枕」とされたことは、小説「草枕」がまさに能仕立てによって構成されているという、熊本における能の継承者としての氏の卓見によるものである。「草枕と道成寺」「能と草枕考」「夏目漱石謡曲俳句」など、漱石と能・謡曲とのかかわりについての熱い思いを吐露されている。

まずは小手調べの初演であるが、次の手は多くの人に見ていただけるような舞台への進出であり、あわよくば東京へも駆け上ろうという氏の熱気である。
 

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