津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

苓北町史から「三宅藤兵衛」

2013-10-02 23:18:47 | 講演会

 苓北町とは天草本島の最北端にある町だが、大合併にソッポを向いて一人我が道を歩んでいる。その故は火力発電所を立地しているためである。
この町にかって富岡城があった。天草島原の乱の発端ともなったところである。天草五人衆が加藤・小西連合軍の元に降伏したのち、天草は寺沢広高の統治する処と成り、富岡には番代として三宅藤兵衛が入った。しかしながら天草の乱に於いて戦死をすることに成る。
そんな藤兵衛について苓北町史は次のように記している。

 三宅藤兵衛は明智光秀の外孫という。『源姓三宅氏中興家伝』によると光秀の姉の子に光慶(始弥平治、後左馬助)なる者がいたが、彼は光秀の娘を妻にして一子をもうけた。その子が後の三宅藤兵衛だという。本能寺の変の時わずか二歳の幼児であったが、彼の母は乳母に黄金五十両をそえてのがれさせた。彼は鞍馬寺にあずけられ後家臣の三宅六郎大夫に育てられたため、その姓を称することになった。幼名を師後・後与平次、俗名を重利と言った。
 細川忠興室ガラシャ夫人は叔母にあたるため、一時丹後に招かれてその恩顧をうけたが、光慶の家臣守田作兵衛が寺沢広高に仕えていたので、そのつてによって広高に仕え三千五百石を授けられた。元和七年(1621)から天草の富岡番代になった。彼には長男藤右衛門(重元)、次男徳助(重信・吉田家を継ぐ)、三男加右衛門(重豊)、、四男新兵衛(重行)の四子があったが徳助を除いた三人はともにこの乱に参加した。乱後、藤右衛門と新兵衛は再び父祖の縁によって細川家に仕えた。
 乱に当たって三角の河喜多九大夫が「三宅藤兵衛殿は殿様(忠利)とは、御のがれ成らざれる御間・隠れなき儀に御座候」(綿考輯録)と言っているのは、前述のよう事情をさして言ったものであろう。

この稿の担当は花岡興輝先生であろうと思われる。 

 

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授幼難字訓

2013-10-02 16:26:33 | 書籍・読書

                                  
久しぶりに図書館に出かける。コピーやらデジカメ撮影をした後、新刊本の棚を見ると真新しい「江戸時代庶民文庫」成る本が10冊ほど並んでいるのが目に入った。
その中に「語彙」というくくりの本が二冊(13・14)目に入ったので何気なく見ていると、肥後隈本・井澤長秀編輯とある。
「授幼難字訓」上・中・下巻が、(p130~265)にわたって、難しい熟語と共にその読みが書かれている。これは読まずばなるまいと思い、二冊借りこんで来た。秋の夜長の読書としては、いささか難しすぎて眠りを誘うかもしれないが、面白そうである。

                        井澤蟠龍 
             名は長秀、通称十郎左衛門、亨斎又蟠龍子と号す。元禄十年家を継ぎ撃剣、
抜刀、柔術をも能くす、好んで長さ三尺三寸
             も長刀を帯び、質性朴実にして
邊幅を飾らず、江戸にある日神道に志し、山崎垂加流の奥秘を究め、神道に関する著作少
             からず、平居手に巻を廃てず常に学に通じ通邑大都に就かざる
を以て憾みとす、然れども当時博学多識を以て聞ゆ、著述
             極めて多し
             俗説部辨正十五巻・廣益俗説辨四十六巻・菊池佐々軍記七巻・肥後地誌略十巻・本朝俚言六巻・武士訓五巻・肥後記三巻・
             漢字和訓二巻・男子訓・日本勇士傳・日本五雑俎・日本博物志・亨齋随筆・肥後事蹟孝其他人を益す著書尠からず。
             享保十五年十二月三日歿す、年六十三、市内宗岳寺に葬る。

 

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