津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■西遊日記・肥後見聞録から「左義長」のこと

2021-01-07 07:21:01 | 史料

 慶応元年、松江藩士・桃節山が七月に松江を発し熊本・阿蘇・長崎などをおとずれ「西遊日記」を書き残している。
その中に特に「肥後見聞録」昭和51年に発刊され、幕末期の熊本を窺い知ることができる。
節山は下記の如く熊本の「左吉兆(左義長)」にも触れているが、残念ながらこれは聞き書きであり、実際に見物することはなかった。師走の十四日には松江に帰国しているからである。

       (左義長)
一、左吉兆之式有之、世俗どんどと申候、正月十四日神飾を卸し、處々ニ積置、火を懸候事、御國(松江)左吉兆と同様
  ニ御座候、されとも眞木倒れ候を切りにして火の中へ乗込、火を乗越候事以下ニも烈しきものゝ由、馬數ハ六七百よ
  り千餘茂有之、いつれも犬追物ニ達し候者を見分ヶて被申付候。然處此時ハ我勝と豪風を競ひ、髪ニ而も火ニしゞれ
  候を自慢と仕候位之事ニ而甚混雑之もの之由、其節ハ馬を打合へ抔色々といさかひなども有之ニ付、犬追物之験見役
  を左吉兆之制役と相立、其印ニ黒塗鞭を持候故これを黒鞭と穪し候、兼而内密婦女を弄被候とか、何そ陰事之心底ニ
  懸り候様之事有之候得は、必左吉兆之節一同申合せ馬を以責付候、四方より馬を以打當て馬より落し候事之由、これ
  をアテルと唱へ罷在候。此儀ハ少しも御構へ無之存分氣を張らせ候御仕向と申事ニ御座候。只馬にて當て候のみにて、
  手を懸候儀ハ堅く制禁ニ御座候、此等之為黒鞭始終見廻り候事ニ御座候、爾し甚敷相成候得共、中々以黒鞭之制も及
  兼候位之事と相聞へ候、私熊本滞留中田嶋富之介儀と申候ハ當時阿蘇在宅郷士共之柔術劍術師範仕居候由此者若き時
             〃〃〃〃〃〃先年〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
  劍術の儀ニ付論談之出来候儀有之、左吉兆之節ニ三十人申合せ、例之アテを仕候處、四方ゟ包まれ段々取合候得共、
  此節御馬を拝借致し居馬之よき故落馬も仕らさりしニ、遂ニ一人之者組付、組たる儘落馬仕、其一人素手指ニ手を懸
  候處へ黒鞭来て制し候故物分れと相成候、危かりし事ニ御座候と相語り候。扨右様之次第ニハ御座候得共、これを強
  而止むる時は、又士風軟弱ニなるの弊ありとて深くハ不被制趣ニ相聞へ候。

又、熊本城顕彰会の季刊誌「熊本城」に、村田眞理氏が十二回に亘り書かれた「熊本年中行事圖絵」にみる熊本城下町の年中行事でこの左義長についてもふれておられる。二ノ丸御門前の勢屯あたりで行われたらしく、侍だけではなく多くの人達が百間石垣前・二ノ丸御門から勢屯あたりに集まり見物している様がこの圖絵に描かれている。
お正月の一大イベントであった。
村田氏の解説によると次の様にある。

  左義長正月十四日、其ノ際ニ至レバ家中の子弟良馬を求め競テ荒乗シ武ヲ試ム 武士之家風ナレバ婦女子に至迄後ルゝ
  事ヲ恥ツ 馬数多キ時ハ三四百ニ及所謂古の馬揃ナリ 此事兼而他邦江も聞エ其日ニナレバ自他見物拝衆垣ヲ成シ誠ニ
  天下の壮観ナリシガ 近年ニ止ミテ今纔ニ遠在郷士の左義長共残ルトいへ共其聴ルナシ

今年はコロナ禍のなかで、あちこちの「どんどや」が中止になった。
左義長には「疫病退散」の思いも込められたと思われるが、こんな時期だからこそ密をさけて行われるべきだと思うのだが如何・・・

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