正保二年十二月二日、忠興は八代城内で亡くなる。御年八十三。
綿考輯録は、三齋逝去後の八代御侍衆の動向を、次のように記している。
『三齋君之御家老長岡河内・一色杢・志方半兵衛 半兵衛ハ他国ニは御出し不被成、後ニ子共被召出候 何も御暇相願候間、願之通被仰付候、佐方与左衛門・福知平右衛門・井門文三郎・芦田十左衛門・魚住平左衛門等は宮松殿ニつかへ、其外宮松殿江も有之、御暇申候も有之、熊本江被召候も有之候、八代江は長岡勘解由延之・丹羽亀之允・伊丹半弥等被差越候間、御城引渡思ひ/\に立去り申候』
この中にある丹羽亀之允が、八代御侍衆の動向について委しい報告書を藩庁に提出している。「丹羽亀之允言上之覚」と名付けられたものだが、御暇を願い出ている長岡(村上)河内をはじめとする、八代御侍衆についてのいろいろな情報が書き出されている。「上妻文庫」から何とか訓下して、数回にわたってご紹介しようと思っている。思いがけない親族関係が記されていたりして興味が尽きない。
綿考輯録は、三齋逝去後の八代御侍衆の動向を、次のように記している。
『三齋君之御家老長岡河内・一色杢・志方半兵衛 半兵衛ハ他国ニは御出し不被成、後ニ子共被召出候 何も御暇相願候間、願之通被仰付候、佐方与左衛門・福知平右衛門・井門文三郎・芦田十左衛門・魚住平左衛門等は宮松殿ニつかへ、其外宮松殿江も有之、御暇申候も有之、熊本江被召候も有之候、八代江は長岡勘解由延之・丹羽亀之允・伊丹半弥等被差越候間、御城引渡思ひ/\に立去り申候』
この中にある丹羽亀之允が、八代御侍衆の動向について委しい報告書を藩庁に提出している。「丹羽亀之允言上之覚」と名付けられたものだが、御暇を願い出ている長岡(村上)河内をはじめとする、八代御侍衆についてのいろいろな情報が書き出されている。「上妻文庫」から何とか訓下して、数回にわたってご紹介しようと思っている。思いがけない親族関係が記されていたりして興味が尽きない。
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