アキノ大統領は2日、米軍によるスービック港(ルソン地方サンバレス州)の利用拡大計画に関連して、米国と日本は「戦略的パートナー」と、両国との関係を重視する考えを示し、同港の利用拡大への支持を表明した。また、計画の実施に当たっては日米両国と「連携した運用が必要だ」と述べた。首都圏ケソン市の国家警察本部で記者団に語った。
@30年前は、今のシナと同じで鬼のような旧日本兵がでてくるアホ映画を一生懸命作っていたフィリピン。スプラトリーを盗られてやっと大東亜戦争の歴史的意義が分かってきたようですね。長い間スペイン・米国の植民地だった植民地根性が染みついて、すべてに於いて刹那的で、朝鮮人と同じように反日丸出しだったフィリピンですが、タガログ語のほかにスペイン語や英語が話せる教養の高さが、シナや朝鮮人と同じように日本人に対するコンプレックスに繋がらなかったと思われます。ただ世間知らずの田舎者に多い中身のないプライドの高さだけは未だにお持ちのようですけどね。
モンテンルパBC級戦犯を救った 歌姫 渡辺はま子 ああモンテンルパの夜は更けて
有難う。植木信吉さん、加賀尾秀忍さん、フィリピン大統領キリノさん、そして、我らが歌姫 渡辺はま子さん。
あなた方は、すべての日本人の誇りです。永遠に・・・・・・・・・・
曲誕生まで
1952年6月、当時鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届いたことから始まる。その封書の中には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。二人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあったニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物であった。
作詞の代田銀太郎は元フィリピン憲兵隊少尉。作曲の伊藤正康は元陸軍将校。
「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されていた日本人111名の望郷の念を込めた曲であった。封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。
『ああモンテンルパの夜は更けて』が大ヒットしていた1952年12月25日、渡辺がニュービリビット刑務所を訪れた。吹き込み以来刑務所慰問の決意を固めていた渡辺が、国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった。渡辺来訪時、作詞の代田銀太郎と作曲の伊藤正康は開演前に対面し、歌を作ってもらった事に対し礼を述べた。慰問のステージは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に『ああモンテンルパの夜は更けて』は披露された。この曲を聞いた100人近くの収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員で大合唱となった。作詞者の代田も、作曲者の伊東も涙を流していた。
その後、この歌のヒットや渡辺はま子をはじめ関係者の努力が、当時のフィリピン当局を動かし、1953年(昭和28年)エルピディオ・キリノ大統領の特赦によって戦犯の帰国が計られた。
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