2017年10月7日(土)
カントリーウオークグループの第247回例会に参加した。集合地はJR武蔵野線の新
座(にいざ)駅。
前夜からの雨が心配されたが、スタート時にはほぼ止んだ。4組に分かれ、10時07
分に大きな水車の回る南口をスタートした。
== 野火止緑道から本多緑道へ ==
野火止(のびどめ)用水からの分流が流れ、植え込みの続く「ふるさと小道」と呼ぶ遊
歩道を700m余り進み、「ふるさと新座館」に立ち寄る。
地元産の野菜などが数多くみな安い。買いたいが、重くなるので見るだけに止めた。
東側の通りを南西へ、すぐ先の国道254号・川越街道を歩道橋で越えて、そばの野火
止公園へ。かなり古びた「野火止用水」の説明板があった。
公園の横を流れる細い野火止用水沿いに、野火止緑道が続いている。車を気にせずに進
めるので安心だ。緑道の反対側には「野火止緑道憩いの森」もある。
野火止用水は、承応4(1655)年に川越藩主松代伊豆守信綱(まつだいらいずのか
みのぶつな)により、野火止台地開拓のために必要な生活用水確保を目的として造られた
用水路。東京都小平市の玉川上水から分水して、全長は約24㎞という。
工事は家臣の安松金右衛門らにより、約40日で完成したとか。その後、平林寺堀、陣
屋堀などの支流が作られ、豊かな水を得た土地の人々は殿様に感謝し、野火止用水を「伊
豆殿堀(いずどのぼり)」とも呼んだという。
野火止緑道はこもれび通りを横断して、広大な敷地に豊富な境内林の広がる平林寺の西
側を進む。手前には畑やミカン畑もあり、ミカンは色づき始めていた。
緑がいっぱいの平林寺境内林は、コナラ、アカマツ、クリ、クヌギなどからなり、広い
面積にわたり自然の残る貴重なものとして、境内を中心とした約56㏊が国の天然記念物
に指定されている。
流れの北側に、地元町内会がボランティアでホタルを飼育している「野火止ホタルの里」
があり、「ホタルのお宿」の看板の下がる建物がある。
今日久しぶりに参加のAさんは、自宅で飼育したホタルの幼虫をここに提供しているよ
うだが、来たのは初めてとか。
西側の畑に花の咲くウドが望まれ、用水沿いには太いシラカシに根元を包まれるように
ヤマザクラとケヤキが立っていた。
伊豆殿橋で野火止緑道を離れて陣屋通りを東へ、橋の傍らに古いお地蔵さんあった。
送電線の下辺りから、平林寺に流れ込む平林寺堀沿いの細い遊歩道に入る
枯れそうな木の幹にたくさんのキノコが生え、太い幹に縦縞のあるモミ木の木などが目
に付く。東側の林には、たくさんギンナンの落ちた太いイチョウが立っていた。
西屋敷通りに出ると、通りの両側に野菜を販売する無人小屋があった。東側の小屋には
30品近い野菜が並び、そばの家からご主人が補充に来られた。
家族全員で従事されているようだが、種類が多いので管理は大変だという。
すぐ先の隅屋敷橋で関越自動車道の上を横断する。平林寺堀も水路橋で関越道を越えて
いた。
関越道の側道沿いにある、新座市民総合体育館でトイレを借りる。
体育館の東側も野火止用水の流れが続き、流れ沿いには本多(ほんだ)緑道が延びてい
る。
体育館の南側は「本多の森」と呼ぶ平地林で、緑道にはソメイヨシノの桜並木が500m
ほど続いていた。本多緑道を次の車道まで進んで緑道を離れる。
すぐの西陣屋通りを左折して折り返すように戻り、右左折を繰り返して神社のあるT字
路に出た。
新座市の排水用マンホールふた
コンクリート製円筒タンクの立つ西堀浄水場横を通過し、2本の送電線に挟まれた小緑
地につくられた、昼食地の本多公園に12時14分に入った。
== 平林寺を拝観して新座駅へ ==
昼食後ミーティングをして、13時13分に本多公園を出た。南側の水道道路を北東に
すぐ、本多交番の横で産業道路を横断する。少し進んで旧道を東へ、関越自動車道を歩道
橋で横断して馬場四丁目の畑作地帯を進む。
右手に新興住宅地、左手に畑作地帯↑の間の真っ直ぐな道を500mほどで左折して北
西へ。馬場一丁目を北西に抜けて陣屋通りに出る。
陣屋小前を西進して平林寺前交差点を右折し、平林寺の総門前に14時に着いた。ここ
で15時までの1時間、平林寺境内を参観することにした(拝観料500円)。
平林寺は関東でも名高い古刹(こさつ)のひとつ。開山当時は現在のさいたま市岩槻区
にあり、寛文3(1663)年に川越藩主松平伊豆守信綱の遺志を継ぎ、その子輝綱(て
るつな)によりここ野火止に移されたとか。
寺域は広く境内林は約43㏊あり、前述の通り国の天然記念物に指定され、とりわけ紅
葉が有名で、毎年秋が深まる頃には各地から観光客が訪れるという。
かやぶき屋根の総門横から入り、平林寺のシンボルである山門を背に記念撮影をして、
時間まで各自自由行動とする。
境内にたくさんあるモミジの中には、紅葉の始まったものもある。
山門の両側に立つ仁王像は、明治から昭和にかけて日本の電力事業の基盤を築いた実業
家・松永安左エ門(まつながやすざえもん)の寄進という。
山門を入った正面は仏殿で、手前にある左右一対の石灯ろうは、ずっしりとした形から
座禅灯ろうとも呼ばれているようだ。右手背後には鐘楼がある。
背後の中門↑を入り本堂に参拝する。江戸末期に火災で焼出した本堂は、明治13
(1880)年に旧堂に近いかたちで再建されたという。
中門を出て左手(南)に回る。「片割れ地蔵」と呼ぶ独特の姿のお地蔵さんがあった。
片割れのもう一つは、岩槻の平林寺にあるらしい。
そばの放生池(ほうしょういけ)にはたくさんのヒゴイガ泳いでいる。
緑に覆われた境内林内の散策路を北に進むと、島原の乱供養塔があった。寛永14~15
(1637~38)年、肥後国天草の農民がキリシタン信者と起こした大反乱を、松平伊
豆守信綱が収めたことに由来する供養塔のようだ。
近くには増田長盛(ましだながもり)の墓↑と、武田信玄の娘である見性院(けんしょ
ういん)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)↓がある。増田長盛の墓には説明板があるが、
字がかすれて読めない。
小さな流れの平林寺堀を渡った先には、安松金右衛門(やすまつきんうえもん)と小畠
助左衛門(おばたすけざえもん)の墓が並んでいる。
2人は松平信綱の重臣で、玉川上水や野火止用水の開削に貢献した人のよう。
その背後が大河内松平家廟所(びょうしよ)で、墓域は約3,000坪あるという。
大河内松平家は、第5代川越藩主として優れた治世で「知恵伊豆」と称された松平伊豆
守信綱により興され、信綱ほか多くの老中を輩出しており、墓域には一族合わせて160
基余りの墓石があるという。中央前部にある松平信綱夫妻の墓は、県の指定史跡である。
松平信綱の墓
墓域から南西へ、さらに右手に回り込んで墓域の背後、西側の境内林内の散策路を北へ
向かい、散策路を一巡することにした。
コナラやクヌギなどの林の中を進み、アカマツが多くなった辺りには、「野火止塚」と
呼ぶ小さな円墳のような盛土があった。
散策路の北端まで進み、V字状に折り返す。
緩やかに下る途中に「歴代塔所(れきだいたっしょ)」と呼ぶ墓域があり、寺の歴代の
住職と思われる墓が並んでいた。
さらにモミジの多い一角を通過し、大八車の車輪などが保存された作業小屋らしいとこ
ろに出た。
近くの鐘楼の前を通って仏殿前に戻る。そばにコウヤマキの老木↓が立ち、その下には
島根県出雲の仏教山産というさざれ石がある。
総門のそばに15時近くに戻った。
総門を出て、道路を隔てて斜向かいにある「睡足軒(すいそくけん)の森」に入る。現
在は平林寺の境内林だが、もとは「日本の電力王」と呼ばれ茶道にも造詣の深かった松永
安左エ門の屋敷地だったところ。
面積は9,379㎡あり、クヌギやコナラなど武蔵野の雑木林を象徴する樹種など650
本を超える樹木があるとか。
敷地内にある睡足軒は国の重要文化財で、以前は室内が見られたのだが今日は入れなか
った。
平林寺境内に沿って北へ、市役所際の交差点を左折し、こもれび通りを少しで右折して
北側の国道254号に回る。野火止緑道の跨道橋で国道を越え、スタート直後に通過した
ふるさと小道を戻り、15時43分に新座駅に着いた。
(参加 15人、天気 小雨後晴、距離 10㎞(+平林寺境内一周2㎞)、
地図(1/2.5万) 志木、歩行地 新座市、歩数 23,200)
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カントリーウオークグループの第247回例会に参加した。集合地はJR武蔵野線の新
座(にいざ)駅。
前夜からの雨が心配されたが、スタート時にはほぼ止んだ。4組に分かれ、10時07
分に大きな水車の回る南口をスタートした。
== 野火止緑道から本多緑道へ ==
野火止(のびどめ)用水からの分流が流れ、植え込みの続く「ふるさと小道」と呼ぶ遊
歩道を700m余り進み、「ふるさと新座館」に立ち寄る。
地元産の野菜などが数多くみな安い。買いたいが、重くなるので見るだけに止めた。
東側の通りを南西へ、すぐ先の国道254号・川越街道を歩道橋で越えて、そばの野火
止公園へ。かなり古びた「野火止用水」の説明板があった。
公園の横を流れる細い野火止用水沿いに、野火止緑道が続いている。車を気にせずに進
めるので安心だ。緑道の反対側には「野火止緑道憩いの森」もある。
野火止用水は、承応4(1655)年に川越藩主松代伊豆守信綱(まつだいらいずのか
みのぶつな)により、野火止台地開拓のために必要な生活用水確保を目的として造られた
用水路。東京都小平市の玉川上水から分水して、全長は約24㎞という。
工事は家臣の安松金右衛門らにより、約40日で完成したとか。その後、平林寺堀、陣
屋堀などの支流が作られ、豊かな水を得た土地の人々は殿様に感謝し、野火止用水を「伊
豆殿堀(いずどのぼり)」とも呼んだという。
野火止緑道はこもれび通りを横断して、広大な敷地に豊富な境内林の広がる平林寺の西
側を進む。手前には畑やミカン畑もあり、ミカンは色づき始めていた。
緑がいっぱいの平林寺境内林は、コナラ、アカマツ、クリ、クヌギなどからなり、広い
面積にわたり自然の残る貴重なものとして、境内を中心とした約56㏊が国の天然記念物
に指定されている。
流れの北側に、地元町内会がボランティアでホタルを飼育している「野火止ホタルの里」
があり、「ホタルのお宿」の看板の下がる建物がある。
今日久しぶりに参加のAさんは、自宅で飼育したホタルの幼虫をここに提供しているよ
うだが、来たのは初めてとか。
西側の畑に花の咲くウドが望まれ、用水沿いには太いシラカシに根元を包まれるように
ヤマザクラとケヤキが立っていた。
伊豆殿橋で野火止緑道を離れて陣屋通りを東へ、橋の傍らに古いお地蔵さんあった。
送電線の下辺りから、平林寺に流れ込む平林寺堀沿いの細い遊歩道に入る
枯れそうな木の幹にたくさんのキノコが生え、太い幹に縦縞のあるモミ木の木などが目
に付く。東側の林には、たくさんギンナンの落ちた太いイチョウが立っていた。
西屋敷通りに出ると、通りの両側に野菜を販売する無人小屋があった。東側の小屋には
30品近い野菜が並び、そばの家からご主人が補充に来られた。
家族全員で従事されているようだが、種類が多いので管理は大変だという。
すぐ先の隅屋敷橋で関越自動車道の上を横断する。平林寺堀も水路橋で関越道を越えて
いた。
関越道の側道沿いにある、新座市民総合体育館でトイレを借りる。
体育館の東側も野火止用水の流れが続き、流れ沿いには本多(ほんだ)緑道が延びてい
る。
体育館の南側は「本多の森」と呼ぶ平地林で、緑道にはソメイヨシノの桜並木が500m
ほど続いていた。本多緑道を次の車道まで進んで緑道を離れる。
すぐの西陣屋通りを左折して折り返すように戻り、右左折を繰り返して神社のあるT字
路に出た。
新座市の排水用マンホールふた
コンクリート製円筒タンクの立つ西堀浄水場横を通過し、2本の送電線に挟まれた小緑
地につくられた、昼食地の本多公園に12時14分に入った。
== 平林寺を拝観して新座駅へ ==
昼食後ミーティングをして、13時13分に本多公園を出た。南側の水道道路を北東に
すぐ、本多交番の横で産業道路を横断する。少し進んで旧道を東へ、関越自動車道を歩道
橋で横断して馬場四丁目の畑作地帯を進む。
右手に新興住宅地、左手に畑作地帯↑の間の真っ直ぐな道を500mほどで左折して北
西へ。馬場一丁目を北西に抜けて陣屋通りに出る。
陣屋小前を西進して平林寺前交差点を右折し、平林寺の総門前に14時に着いた。ここ
で15時までの1時間、平林寺境内を参観することにした(拝観料500円)。
平林寺は関東でも名高い古刹(こさつ)のひとつ。開山当時は現在のさいたま市岩槻区
にあり、寛文3(1663)年に川越藩主松平伊豆守信綱の遺志を継ぎ、その子輝綱(て
るつな)によりここ野火止に移されたとか。
寺域は広く境内林は約43㏊あり、前述の通り国の天然記念物に指定され、とりわけ紅
葉が有名で、毎年秋が深まる頃には各地から観光客が訪れるという。
かやぶき屋根の総門横から入り、平林寺のシンボルである山門を背に記念撮影をして、
時間まで各自自由行動とする。
境内にたくさんあるモミジの中には、紅葉の始まったものもある。
山門の両側に立つ仁王像は、明治から昭和にかけて日本の電力事業の基盤を築いた実業
家・松永安左エ門(まつながやすざえもん)の寄進という。
山門を入った正面は仏殿で、手前にある左右一対の石灯ろうは、ずっしりとした形から
座禅灯ろうとも呼ばれているようだ。右手背後には鐘楼がある。
背後の中門↑を入り本堂に参拝する。江戸末期に火災で焼出した本堂は、明治13
(1880)年に旧堂に近いかたちで再建されたという。
中門を出て左手(南)に回る。「片割れ地蔵」と呼ぶ独特の姿のお地蔵さんがあった。
片割れのもう一つは、岩槻の平林寺にあるらしい。
そばの放生池(ほうしょういけ)にはたくさんのヒゴイガ泳いでいる。
緑に覆われた境内林内の散策路を北に進むと、島原の乱供養塔があった。寛永14~15
(1637~38)年、肥後国天草の農民がキリシタン信者と起こした大反乱を、松平伊
豆守信綱が収めたことに由来する供養塔のようだ。
近くには増田長盛(ましだながもり)の墓↑と、武田信玄の娘である見性院(けんしょ
ういん)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)↓がある。増田長盛の墓には説明板があるが、
字がかすれて読めない。
小さな流れの平林寺堀を渡った先には、安松金右衛門(やすまつきんうえもん)と小畠
助左衛門(おばたすけざえもん)の墓が並んでいる。
2人は松平信綱の重臣で、玉川上水や野火止用水の開削に貢献した人のよう。
その背後が大河内松平家廟所(びょうしよ)で、墓域は約3,000坪あるという。
大河内松平家は、第5代川越藩主として優れた治世で「知恵伊豆」と称された松平伊豆
守信綱により興され、信綱ほか多くの老中を輩出しており、墓域には一族合わせて160
基余りの墓石があるという。中央前部にある松平信綱夫妻の墓は、県の指定史跡である。
松平信綱の墓
墓域から南西へ、さらに右手に回り込んで墓域の背後、西側の境内林内の散策路を北へ
向かい、散策路を一巡することにした。
コナラやクヌギなどの林の中を進み、アカマツが多くなった辺りには、「野火止塚」と
呼ぶ小さな円墳のような盛土があった。
散策路の北端まで進み、V字状に折り返す。
緩やかに下る途中に「歴代塔所(れきだいたっしょ)」と呼ぶ墓域があり、寺の歴代の
住職と思われる墓が並んでいた。
さらにモミジの多い一角を通過し、大八車の車輪などが保存された作業小屋らしいとこ
ろに出た。
近くの鐘楼の前を通って仏殿前に戻る。そばにコウヤマキの老木↓が立ち、その下には
島根県出雲の仏教山産というさざれ石がある。
総門のそばに15時近くに戻った。
総門を出て、道路を隔てて斜向かいにある「睡足軒(すいそくけん)の森」に入る。現
在は平林寺の境内林だが、もとは「日本の電力王」と呼ばれ茶道にも造詣の深かった松永
安左エ門の屋敷地だったところ。
面積は9,379㎡あり、クヌギやコナラなど武蔵野の雑木林を象徴する樹種など650
本を超える樹木があるとか。
敷地内にある睡足軒は国の重要文化財で、以前は室内が見られたのだが今日は入れなか
った。
平林寺境内に沿って北へ、市役所際の交差点を左折し、こもれび通りを少しで右折して
北側の国道254号に回る。野火止緑道の跨道橋で国道を越え、スタート直後に通過した
ふるさと小道を戻り、15時43分に新座駅に着いた。
(参加 15人、天気 小雨後晴、距離 10㎞(+平林寺境内一周2㎞)、
地図(1/2.5万) 志木、歩行地 新座市、歩数 23,200)
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