魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

終始一貫

2016年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

イスラム過激派のテロに、イスラム教徒が怒っている。
「イスラム教は平和の宗教で、彼らは間違っている」と口をそろえ、実際にイスラム教徒は平和的に暮らしている。一人一人のイスラム教徒に接すると、皆、親切で優しい。

どんな宗教であれ、それが広まり生活の中に浸透すれば、そこに暮らす人はほとんど同じように、平和を望み、平穏に暮らしている。宗教の儀式は日常化され、時にはそれが宗教儀式であったことさえ忘れている。
日本人が仏教徒であることを意識するのは、葬式の時ぐらいだろうが、盆正月お彼岸も重要な宗教儀式であり、家に仏壇を置き、どこの城下町にも寺町があるのも仏教国の風景だ。また、お化けが怖くなったら慌てて念仏を唱える。

日頃、宗教と日常生活は一体化し、さほど意識していないが、他の宗教から見れば、宗教的色合いが歴然と見える。それは、慣習文化と同じで、内側では当たり前のことが、異文化の人が見れば奇妙キテレツな空気がある。
同じように、仏教徒の日本人から見れば、イスラム教のヒジャブやハラール&ハラーム、礼拝やラマダンなど、多くのしきたりは不気味なほど異様に見えるが、その中に暮らしているイスラム教徒にとっては、日本人が家に仏壇を置いている程度のことでしかない。

浸透した宗教を意識せず暮らしていると、その始まりがどんなものだったかは関係なく、どの宗教も、人間本来の平和を願うささえと解釈するようになる。
しかし、宗教が起こる時はどの宗教も革命として始まる。それまでの常識を破ることで、新しい生き方に人々を巻き込んでいく。常識の中での悩みや不満の解決方法を提示することで、賛同者を得ていく。問題はその提案と方法だ。

今日、様々な宗教が存在するが、残された多くの言葉の解釈方法は様々で、同じ言葉が、真反対の意味にも理解されるのは、今のイスラムの混乱に見られる通りであり、仏教でも、同じ宗派の中でさえ、解釈が異なる。
宗教の方向性は時代に応じ人に応じ様々に変化するが、大きな方向性は、始まりに決定づけられる。

数多ある宗教は、どんな装い、印象であろうと、それが起こった時の存在理由を、どこかに保ち続けている。それが起こらざるを得なかった時代背景と、当時における現状打開の方法が本質的な教理になっている。当然、それを説いた人物の人格が強く影響し、後々までも、その宗教のカラーとして展開していく。

現在、世界宗教となっているような宗教は、どれも平和的で穏やかで優しい。出発がどうであろうと、人の求めるものは同じだと言うことだろうが、その中から、常に様々な異端が生まれる。その異端の形もまた様々だが、なぜ、そのようなものが生まれてくるかを知るには、結局、その宗教の発端の歴史を知るしかない。
イスラム過激派が理解できない人は、マホメットの人生を知れば、理解できるかも知れない。


疑心暗鬼

2016年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

東シナ海上空で、航空自衛隊と中国軍機とのトラブルがあったことで、中国軍は日本が仕掛けてきたと主張した。
もう、本当に、いい加減にして欲しい。どちらがどうと言うことではない。まさに、昭和初期のきな臭い時代の再来だ。

相手のせいにするのは、軍事衝突の定番だ。中国政府のプロパガンダが効いて、中国人の多くは日本が今にも戦争を仕掛けてくると信じている。当然、日本が仕掛けてきたと言えば、自国の政府を疑う前に、日本に対して憤るだろう。70年反省し続けた日本人にしてみれば、本当に、途方もないことだ。

習近平の語る、「中国の夢」とは、過去の栄光を再現することだが、2000年前のことを持ち出して南シナ海の所有権を主張するぐらいだから、当然、日本に対する仕返しも含まれている。「仇を討つ」ことは中華思想の一つでもある。

易経の卦「蠱」は、皿の上に虫が盛られている。見かけは立派でも内側が腐っている果実を表すが、この「腐った」状態を処理するのに、様々な敵討ちに例えて解説する。
つまり何事も、過去の名誉挽回が動機の国であり、2000年前まで取り返そうとすることは逆に、事実上の侵略精神だ。
裏を返せば、腐敗の挽回が行動理由になる国は、腐敗の蔓延する内部からから崩壊することを意味している。

外側が立派であればあるほど、中が腐敗する国。それを何とかしようとすれば、敵討ち論を持ち出す国。1世紀前、日本は軍部を統制できなくなっていたが、中国の内側は今、軍部が皮を食い破る瞬間ではないのか、あるいは元々、軍が皮を被っていただけの国で、「韜光養晦」(臥薪嘗胆、能ある鷹は爪を隠す)が、ついに成就したと思い込んでいるのかも知れない。

ゾンビがここまで出てきたら、もう、内部崩壊して貰うしかないようだ。しかし、それは北朝鮮と同じで、国民が先か政権が先かで、他国は手の下しようがない。そして、世界が躊躇しているうちに、北は核を持ってしまった。
ただし、中国は日本や朝鮮とは違い、国民が極めて現金だ。今のように、経済的に美味しい思いをした後なら、アメリカの好きな経済制裁も効果があるかも知れない。かといって、表立ってやると政権の思うつぼで、外敵を強調して国民を結束させ、逆効果だ。

「オアズケ」戦法
何か気に入らないことがあると、彼らがすぐ始める、相手の源泉を断つことをやれば良い。自分がそれで困るから、相手も困るだろうと考えるのだから、恐らくそれがもっとも効果的なのだろう。
公式会見に、席を立って「メンツ」をつぶそうとする。これは中韓の伝統で、序列や儀式の外見が力そのものを表す原始秩序の、いわゆる「まつりごと」だ。儀式での扱いが取引の武器となる。

しかし、もっと効果的なのは、輸入制限や輸出制限で、生活の原資を断つことだ。
レアメタルの禁輸を仕掛けて、今やそれが、自らの首を絞めることになっているが、この短絡思考は、日本には効かなかったが、中国には効くと言うことだ。
彼らが強みとしている製造の原資は、世界中の精密部品や特殊素材だ。もっと言えば、他人のノウハウそのものだ。

本当にゾンビをつぶそうと思えば、何気ない顔をしてこれらの原資を断つ。禁止令などに拠らず、輸出業者の関心を外に誘えばいい。チャイナリスクの強調も良いが、これは中国自らが膨らませている。
軍事や産業にしても、盗みまくっているが、これには、防御より、わざとガサネタを掴ませるのが良い。近頃の、害虫駆除は、害虫が毒餌を巣に持ち帰って、全滅させる方式がとられている。持ち出し情報によるパクリ生産は、逆に言えば、すべてネタ割れしているのだから、始めから対策を考えた情報をわざと盗んで貰うのだ。
そもそも、新製品の発表には、価格や次期製品に関する腹案が盛り込まれていなければならない。

信じること疑うこと
新幹線にしても、これまで、日本人はあまりに善人過ぎた。善人であることは良い事のように思えるが、これは「信頼という甘え」でもあることを、知らなければならないだろう。相手を信頼した行動を取る時は、必ず、信頼が破れた時の保護ネットを張っておかなければならない。

そうでなければ、信頼した相手が例え善意であっても、失敗によって、泣いて馬謖を斬る様なことになる。ましてや、相手に魂胆がある場合の対応策は、争いしか残らない。
新幹線はそのもっとも顕著な例だ。今更、世界での販売合戦に巻き込まれている。
お人好しJRが、注意深く中国と契約したつもりで、アッサリ約束を破られたが、中国の新聞は騙して技術を手に入れたと得意げに書いていた。

騙して手に入れるのは才覚と考えるのは、東洋の常識で、韓国でも、如何に日本から家電の技術を手に入れたかが、苦労談として新聞の立志伝を飾る。
日本でも、12世紀の吉備大臣入唐絵巻など、だまし合いに勝利した話を英雄談として描いている。フィクションではあるが、当時の価値観だ。近代でも、日本は宣戦布告をしない国として知られている。

相手に与えて、後で原資を断つ中国流だから、中国人観光客ラッシュを懸念していたら、案の定、日本の東南アジア観光客の発掘努力に、中国の新聞が、「日本は浮気している」と言いだした。つまり、日本に大量の中国客を送り込んで、後で意のままに断とうと思っていた計算が、狂ってしまうことに焦っているわけだ。
あきれるほど解りやすい。陰陽、二者択一の伝統だ。