イスラム過激派のテロに、イスラム教徒が怒っている。
「イスラム教は平和の宗教で、彼らは間違っている」と口をそろえ、実際にイスラム教徒は平和的に暮らしている。一人一人のイスラム教徒に接すると、皆、親切で優しい。
どんな宗教であれ、それが広まり生活の中に浸透すれば、そこに暮らす人はほとんど同じように、平和を望み、平穏に暮らしている。宗教の儀式は日常化され、時にはそれが宗教儀式であったことさえ忘れている。
日本人が仏教徒であることを意識するのは、葬式の時ぐらいだろうが、盆正月お彼岸も重要な宗教儀式であり、家に仏壇を置き、どこの城下町にも寺町があるのも仏教国の風景だ。また、お化けが怖くなったら慌てて念仏を唱える。
日頃、宗教と日常生活は一体化し、さほど意識していないが、他の宗教から見れば、宗教的色合いが歴然と見える。それは、慣習文化と同じで、内側では当たり前のことが、異文化の人が見れば奇妙キテレツな空気がある。
同じように、仏教徒の日本人から見れば、イスラム教のヒジャブやハラール&ハラーム、礼拝やラマダンなど、多くのしきたりは不気味なほど異様に見えるが、その中に暮らしているイスラム教徒にとっては、日本人が家に仏壇を置いている程度のことでしかない。
浸透した宗教を意識せず暮らしていると、その始まりがどんなものだったかは関係なく、どの宗教も、人間本来の平和を願うささえと解釈するようになる。
しかし、宗教が起こる時はどの宗教も革命として始まる。それまでの常識を破ることで、新しい生き方に人々を巻き込んでいく。常識の中での悩みや不満の解決方法を提示することで、賛同者を得ていく。問題はその提案と方法だ。
今日、様々な宗教が存在するが、残された多くの言葉の解釈方法は様々で、同じ言葉が、真反対の意味にも理解されるのは、今のイスラムの混乱に見られる通りであり、仏教でも、同じ宗派の中でさえ、解釈が異なる。
宗教の方向性は時代に応じ人に応じ様々に変化するが、大きな方向性は、始まりに決定づけられる。
数多ある宗教は、どんな装い、印象であろうと、それが起こった時の存在理由を、どこかに保ち続けている。それが起こらざるを得なかった時代背景と、当時における現状打開の方法が本質的な教理になっている。当然、それを説いた人物の人格が強く影響し、後々までも、その宗教のカラーとして展開していく。
現在、世界宗教となっているような宗教は、どれも平和的で穏やかで優しい。出発がどうであろうと、人の求めるものは同じだと言うことだろうが、その中から、常に様々な異端が生まれる。その異端の形もまた様々だが、なぜ、そのようなものが生まれてくるかを知るには、結局、その宗教の発端の歴史を知るしかない。
イスラム過激派が理解できない人は、マホメットの人生を知れば、理解できるかも知れない。